森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

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2008年10月04日 | レポート

 すべては夢の中の出来事に思えた。
 ヨナ・ホエールで開かれたパーティー。
 サオリのこと。
 健児と出会ったこと。
 そして、その後に起きたこと。
 記憶には霞がかかり、現実感を欠いていた。
 だが、実際の所、私にはわかっていた。それらは全て現実に起きたことであり、私自身が体験した事実だということを。そして、正常な精神でその記憶に触れれば、それだけで私は崩壊してしまうということを。
 私は今、深い穴の前に立っている。
 願わくは、目前の危機から目を背ける怠惰な精神を。
 例えこの穴の存在が、消え去ることはないとしても……。

   /

 目を覚ますと、私は自分が狭い部屋の中にいることに気がついた。旧式の木造建築で、のっぺりとした壁に囲まれた部屋に粗末な家具が並んでいる。窓は二つ、どちらにも緑色のカーテンが掛かっている。涼しい風と共にカーテンの隙間から光が射し込み、私は朝が訪れたことを知った。 
 私の隣にはあの男が寝ていた。清潔とは言えない薄い布団から上半身をはみ出させ、呼吸の度に厚い胸板が上下している。窓から射し込んだ光が筋となって左胸から右の鎖骨にかけて伸びている。私は指を伸ばしてその筋を辿り、男に体を寄せた。私達の体は初めからそうしていたかのように、隙間なく合わさり、離れなかった。
 光の筋は左胸の端で途切れ、私は手のひらを男の肌に乗せた。男の肌は固く滑らかで、驚くほどに暖かかった。目を閉じて彼の体に顔を寄せると、熱く焼けた土の匂いがした。何処までも続いてゆく、陽の光を受けて輝く荒野が見えた。
 私は昨夜、この温もりに抱かれながら、シャワー室から運ばれたことを思い出した。
 窓から風が吹き込んでカーテンが翻り、輝くような青空が見えた。こんな風に空を見るのは久しぶりだ。昔はよく眺めていたような気がするが、最近は地上のものばかりに目を向けていたような気がする。もう少し、空を見ていたいと思った。だけどここが一体何処なのかも気になる。まさか、世界の果てということはないだろうが。
 昨日、誰かに、ここは世界の果てだと言われたような気がする。一体誰に言われたのだろうか? 記憶がぼんやりとしておぼつかない。これ以上踏み込むと何か嫌なことを思い出してしまうような気がして、私は考えるのをやめにした。 
 布団の外にクシャクシャになった白いシーツがあった。私はシーツをつかむと身体に巻きつけて布団を抜け出した。眠ったままの男の手が私を求めるように動く。些細なことなのに、私はその仕草を見て、胸が少し痛くなった。
 大丈夫、そんなに離れるわけじゃない。
 私は男の手に軽く触れて布団の中に戻してから、自分が奇妙なことをしていると思った。
 部屋は本当に狭く、ほんの二、三歩で私は窓に辿り着いた。カーテンを揺らし、外の空気が流れ込む。私は片手でカーテンをつかむと、ゆっくりと開け放った。
 ある意味、外の世界に対する私の想像は当たっていた。何故なら、カーテンの向こうに広がっていたのは、私が今まで暮らしていた『世界』ではなかったからだ。アパートの前に広がっていたのは、無人の建造物が立ち並んだ……何と言えばいいのだろう? まさに世界の果てのような光景だった。
 この部屋は二階にあるらしい。
 物音に気づいて振り向くと、男が布団から起き上がっていた。自分が何も身につけていないことに気がつき、きょろきょろと辺りを見回している。
「ズボンならここよ」
 私は足元に転がっていたズボンと下着を拾って男の方に投げた。男は恥ずかしそうな顔でそれらを受け取ると、自らを隠すように急いで履き始めた。その酷く子供っぽい仕草とは裏腹に、覗き見えた彼の下半身は成熟し、とても逞しかった。私はそんな彼の姿を見ながら昨夜の行為を思い出していた。
 昨夜、私が彼の優位に立てたのは最初のほんの数分だったと思う。彼は驚異的なスピードで行為を理解し、自分のものにしていった。私は行為を始めてすぐに、自分が坂の上で止まっていた大きな石を動かしてしまったことを理解した。彼の肉体は不安定な精神のコントロールを離れ、本来持っている機能を存分に発揮し、目的に向かって動き始めたのだ。
 私も考えることをやめ、流れに身を任せた。
 降り注いでいた雨はいつしか大きな濁流となり、私を飲み込んでいった。
 だが、一晩明けた後の彼は、元の様子に戻っていた。彼は着替え終わると、私の方に近づいてきた。酷く申し訳なさそうな顔で、怒られるのを怖がっているように見える。
「……ゴメン」
 彼はうつむいたまま呟いた。
「何が?」
「なんて言うか……」
 そう言ったきり、彼は更に顔をうつむかせた。
「大丈夫、怒ってなんかないわ」
 私は彼の頭を撫でて囁いた。
「怒ってなんかない。怒ってなんかないわ」
 彼を前にすると、自然と口調が優しくなってくる。
「……本当に?」
「本当に、本当よ」
 やっと顔を上げた彼の頬に手を当てて、私は微笑んだ。
「昨日はとっても良かった。貴方って凄いわ」
 昨日の行為を思い出したのだろう。彼が戸惑って余計に顔を緊張させる。
「本当に?」
「本当に、本当に、本当よ」
 私は彼を抱き寄せると、頬にキスをした。途端、彼の体が反応した。昨日あれだけしたのに元気なことだ。私はあまりに彼が窮屈そうなので可哀想になった。
「ズボン、脱いじゃったら?」
「でも」
「別に構わないでしょう? 誰もいないんだから」
「……うん」
 彼はズボンのチャックに手をかけた。彼も窮屈に思っていたらしい。が、ふと手を止めると、妙に真面目な顔で呟いた。
「せっかく履いたのになあ」
「……本当ね」
 私は可笑しくなって、相槌を打つと声に出して笑ってしまった。
 自分の姿を笑われていると思ったのか、男が恥ずかしそうに顔を背ける。
「貴方、名前は?」
 彼はズボンを脱ぐ為に屈みながら答えた。

「……ケンジ」

 不思議なことに、私はあまり驚かなかった。   


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