そうだ。私には研究がある。
明日からはもっと研究に没頭しよう。
それでいいじゃないか。
地上に出ると、夏の夜空が出迎えてくれた。火照った肌に夜の風が心地よい。
私は幾分落ち着きを取り戻すことができた。
そうだ、明日になればもっと落ち着けるだろう。自分の心を整理して、対処法を見つけることができるだろう。
今までそうしてきたのだし……これからもそうするだろう。
……本当に?
私は地面にうずくまった。
胸の辺りが苦しい。
これまで築き上げてきたものが、全て剥ぎ取られてしまったかのように。
酷く頼りない。
歩くことも、立ち上がることさえできない。
顔を上げ、周囲を見回す。
しかし、私の周りにあるのはただのコンクリートと鉄筋の塊だった。
「アヤナ!」
健児の声がした。
扉が開き、階段を駆け上がる音が近づいてきた。
厚く垂れ込めていた雲の隙間から、淡く輝く月が覗く。
アスファルトは月の光を浴びて銀色に輝き、街を淡い光が流れる水辺に変える。
暗闇の中、その光は彼の暖かな表情を映し出した。
「健児」
私は健児を見つめた。
「私……どうしたらいいんだろう?」
「それは僕にもわからないよ。でも、僕は君の力になりたい。さあ、一緒に帰ろう」
「何処へ?」
私は呟いた。
「君の家へ」
「……私の家?」
「そう、君の家だ」
健児は私の手を取って立ち上がらせた。不思議なことに、私の身体は彼の手にだけは拒絶反応を示さなかった。
彼の手が私を傷つけることはない。
私は健児の手の感触を確かめながら呟いた。
「私の家って何処のこと?」
「君が今住んでいる所だよ」
「あそこは別の人のものよ。私のものじゃない」
「……それじゃあ、故郷のあの家は?」
「あんな所、家じゃない」
健児が当惑した表情で訊ねる。
「それじゃあ、君は何処に帰るんだい?」
……私は何処に帰るのだろう……?
「健児、その女から離れて」
顔を上げると、真珠が私を睨んでいた。彼女は足早に近づくと、私の体を突き飛ばした。
「真珠。どうしたんだ?」
「離れて、この女から離れてよ」
車道に投げ出された私は、その場に座り込んだまま立ち上がることもできず、二人が言い争っている様子を呆然と見つめた。
私のせいだ。
健児は真摯な態度で過ちを省み、過去と向き合おうとしたのに。私は過去に甘え、思い出にすがり……私がはっきりとした態度をとらなかったからだ。
今は九年前じゃない。
そう思うと、悲しくて涙が零れた。
「大丈夫かい?」
健児が駆け寄ってきた。彼のすぐ後ろには真珠がいて、殺意すら漂う眼差しで私を睨んでいる。それでも、健児は穏やかな表情で私に手を差し伸べてくれた。
「不安定な気分の時は誰にでもあるよ。でも……何て言うのかな? 大丈夫だよ、何とかなるよ。僕にできることがあれば何でもするし、君は少し休んだほうがいい。ずっと研究に根を詰めてたんだろう? 休めばきっと気分も良くなる。そうすれば大抵のことはうまくいくよ」
私は手を伸ばし、健児の手を握った。
彼の手は大きく、暖かかった。
震える私の手が優しく包み込まれる。嬉しいのか、それとも悲しいのか……よくわからない感情が胸の奥から湧き上がり、また涙が溢れ出た。
「健児。貴方に聞いてほしいことがあるの……真珠ちゃんにもね」
「何だい?」
健児は私を見つめ、真珠は私を睨んだ。私はここから関係を始めなければならない。
私は言葉を選んだ。
今なら正しい言葉が選べそうな気がする。私は口を開いた。
その時。
二人を追って出てきたタカハラが、何かに気づいて叫んだ。
「健児!」
強い光が射し、エンジン音が響く。
健児が叫ぶ。私の手を離れ、彼の体が遠ざかる。
彼は真珠を突き飛ばした。
それが私の見た彼の最後の姿。
次の瞬間、目の前を鋼鉄の塊が貫いた。
私達目がけて突っ込んできた車はガードレールを跳ね飛ばし、健児の体を引きずったまま三階建てのビルに突っ込んだ。