森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

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2008年09月30日 | レポート

 そうだ。私には研究がある。
 明日からはもっと研究に没頭しよう。
 それでいいじゃないか。

 地上に出ると、夏の夜空が出迎えてくれた。火照った肌に夜の風が心地よい。
 私は幾分落ち着きを取り戻すことができた。
 そうだ、明日になればもっと落ち着けるだろう。自分の心を整理して、対処法を見つけることができるだろう。
 今までそうしてきたのだし……これからもそうするだろう。

 ……本当に?

 私は地面にうずくまった。
 胸の辺りが苦しい。
 これまで築き上げてきたものが、全て剥ぎ取られてしまったかのように。
 酷く頼りない。
 歩くことも、立ち上がることさえできない。
 顔を上げ、周囲を見回す。
 しかし、私の周りにあるのはただのコンクリートと鉄筋の塊だった。
「アヤナ!」
 健児の声がした。
 扉が開き、階段を駆け上がる音が近づいてきた。

 厚く垂れ込めていた雲の隙間から、淡く輝く月が覗く。
 アスファルトは月の光を浴びて銀色に輝き、街を淡い光が流れる水辺に変える。
 暗闇の中、その光は彼の暖かな表情を映し出した。
「健児」
 私は健児を見つめた。
「私……どうしたらいいんだろう?」
「それは僕にもわからないよ。でも、僕は君の力になりたい。さあ、一緒に帰ろう」
「何処へ?」
 私は呟いた。
「君の家へ」
「……私の家?」
「そう、君の家だ」
 健児は私の手を取って立ち上がらせた。不思議なことに、私の身体は彼の手にだけは拒絶反応を示さなかった。
 彼の手が私を傷つけることはない。
 私は健児の手の感触を確かめながら呟いた。
「私の家って何処のこと?」
「君が今住んでいる所だよ」
「あそこは別の人のものよ。私のものじゃない」
「……それじゃあ、故郷のあの家は?」
「あんな所、家じゃない」
 健児が当惑した表情で訊ねる。
「それじゃあ、君は何処に帰るんだい?」

 ……私は何処に帰るのだろう……?

「健児、その女から離れて」
 顔を上げると、真珠が私を睨んでいた。彼女は足早に近づくと、私の体を突き飛ばした。
「真珠。どうしたんだ?」
「離れて、この女から離れてよ」
 車道に投げ出された私は、その場に座り込んだまま立ち上がることもできず、二人が言い争っている様子を呆然と見つめた。
 私のせいだ。
 健児は真摯な態度で過ちを省み、過去と向き合おうとしたのに。私は過去に甘え、思い出にすがり……私がはっきりとした態度をとらなかったからだ。
 今は九年前じゃない。
 そう思うと、悲しくて涙が零れた。
「大丈夫かい?」
 健児が駆け寄ってきた。彼のすぐ後ろには真珠がいて、殺意すら漂う眼差しで私を睨んでいる。それでも、健児は穏やかな表情で私に手を差し伸べてくれた。
「不安定な気分の時は誰にでもあるよ。でも……何て言うのかな? 大丈夫だよ、何とかなるよ。僕にできることがあれば何でもするし、君は少し休んだほうがいい。ずっと研究に根を詰めてたんだろう? 休めばきっと気分も良くなる。そうすれば大抵のことはうまくいくよ」

 私は手を伸ばし、健児の手を握った。
 彼の手は大きく、暖かかった。
 震える私の手が優しく包み込まれる。嬉しいのか、それとも悲しいのか……よくわからない感情が胸の奥から湧き上がり、また涙が溢れ出た。
「健児。貴方に聞いてほしいことがあるの……真珠ちゃんにもね」
「何だい?」
 健児は私を見つめ、真珠は私を睨んだ。私はここから関係を始めなければならない。
 私は言葉を選んだ。
 今なら正しい言葉が選べそうな気がする。私は口を開いた。

 その時。
 二人を追って出てきたタカハラが、何かに気づいて叫んだ。

「健児!」

 強い光が射し、エンジン音が響く。
 健児が叫ぶ。私の手を離れ、彼の体が遠ざかる。
 彼は真珠を突き飛ばした。
 それが私の見た彼の最後の姿。
 次の瞬間、目の前を鋼鉄の塊が貫いた。

 私達目がけて突っ込んできた車はガードレールを跳ね飛ばし、健児の体を引きずったまま三階建てのビルに突っ込んだ。


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