森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

第三話「カカシとセルロイドの美女とライオンがメリーゴーラウンドの中で踊る話」 4

2007年12月11日 | 僕達の惑星へようこそ

「君がこの国に戻っているとは知らなかったよ」
 大音響の中、カウボーイはドロシーの耳に口を寄せて囁いた。
「ところでさっきの子は誰だい? ……君の新しい恋人かい?」
「そんなところね。どう評価する? バート」
「悪くはないね。でも今のままじゃダメだ。ものにはならないよ」
「昔の貴方に似てるわ」
「おいおい、冗談だろ?」
 カウボーイは勘弁してくれといった顔をしたが、すぐに笑って言った。
「個人的には、あの可愛い子猫ちゃんの方が気に入ったな。あれは大物だ」
「カナのこと? ……ま、それは認めるけど。バート、貴方の趣味も変わらないわね」
「わかってないね、引っ掻かれるくらいがいいんだよ」
「……パールの様子はどう?」
 ドロシーの問いに、カウボーイの顔から笑みが消えた。
「……良いとは言えないね。相変わらず境界線を彷徨ってる」
「そう……」
 ドロシーは悲しげに目を伏せた。
「踊ろうか? せっかく『K』もいるんだから」
 カウボーイが元気づけるように言った。

「リョウ……盛り上がってるな、フロア」
 リョウとフロアを交互に見つめながら、ジンは呟いた。
「行きたいんだったら勝手に行けよ」
 リョウは誰もいなくなったカウンターで椅子に腰かけていた。フロアに人が移動したので、ウェイターさえいない。
「何だよ、あいつらも根性ねえよな?」 
 ジンは大袈裟に手を振って言った。リョウのそばにはジン以外に仲間はおらず、皆フロアで踊っている。ジンは更に大袈裟に喚いていたが、リョウが無関心なので少し離れた席に座った。
「言いたくはねえけど、今日のリョウ、少しおかしいぜ?」
「……黙っていろ」
 ジンはこれ以上の刺激は危険だと思い、飲み物を探しにカウンターの中に入った。
 リョウは取り出したナイフを手の中で弄んでいたが、何かの弾みで留め金が外れ、飛び出した刃に指が少し傷ついた。
「…………絶対に許さねえ」
 リョウは指の血を舐めると、ナイフをカウンターに突き立てた。

「くだらない……」
「何がくだらないんです? えっと……」
「……パール」
 セルロイドの美女は、下から睨むようにして僕を見つめた。
 顔にかかった青い髪が白い肌に影を落とし、大きな瞳は金色のアイシャドウに囲まれている。遠くから見た時はわからなかったが、左目には緑色のカラーコンタクトが填められており、何となくワニの瞳のような印象を僕に与えた。
「名前はパールよ。ここではね」
 セルロイドの美女……いやパールは、少し掠れた小さな声で呟いた。
「パール……さん、何がくだらないんです?」
 僕は彼女の言わんとすることを何もつかめないまま尋ねた。
「貴方のすべての行動がよ。何もかもね」
 パールはフロアの方に目をやった。
「別にあんな男を庇うことはないのよ」
「カウボーイのこと?」
 僕は彼女の目線を追いながら尋ねた。
「そうよ。あの男は最悪よ、いつも偉そうなことばかり言って……実際には、そんなこと何も信じちゃいないのに……くだらない」
 パールは何処からか取り出した小さな容器を軽く振り、中身を手のひらの上に出した。それは大量の星形の錠剤だった。
 これについては少し知っている。最近頻繁に出回っているドラッグの一つだ。
 ドラッグと言っても、これは依存性や中毒性の低い、あくまでも一夜を楽しく過ごす為のものだ。僕も試しに飲んだことがあるが、ほとんど効果がなく、次の朝に頭が痛くなっただけだった。きっと体質が合わなかったんだろう。
 何にしても、まともな健康状態なら個人差はあるが特に悪い効果は起こらない……はずだ、正しい使用法を守ってさえいれば。
 しかしパールの手にある錠剤の数は、通常の使用量を遥かに越えていた。
「……それは多過ぎないか? へたをすれば死んでしまうよ?」
 パールはワニの方の目で僕を見ると唇を歪めて笑った。
「何を言ってるの? 死にたいから飲むのよ」
 僕は反射的にパールの手から錠剤を奪おうとした。しかし彼女が防ごうとしたので、錠剤は全て床に落ちてしまった。
「何をするのよ! あれがないと……!」
 パールは床に散らばった錠剤を信じられない物のように見つめ、もう一度錠剤の容器を取り出した。考えるよりも早く僕の手が動き、容器を弾く。容器は床に落ち、残っていた錠剤が散乱した。
「……どうして……どうしてよ!?」
 パールは怯えるような目で僕を見た。その視線は焦点が定まっておらず、不規則にゆらゆらと揺れている。いきなり体を屈めると、パールは錠剤を拾おうとした。
「ダメだったら!」
 僕は足下の錠剤を靴で踏みつけた。しかしパールは服が汚れるのも気にせず僕の靴に指をかけ、引き剥がそうとする。
「あ、あれがないと……せっかく彼の目を盗んで隠したのに! 何で……何でよ!」
 泣きじゃくるような声は最後には金切り声となった。僕は錠剤の屑を後向けに蹴り飛ばすと、床に屈んで彼女の両腕をつかんだ。
「君の物を取ったのは悪かった。でも冷静に……」
「うるさい!」
 パールは僕に腕をつかまれたまま大きく体を動かした。彼女の力は予想外に強く……更に困ったことに、彼女の細腕は自分の力にも耐えられそうになかった。僕は何とかして余計な力を入れずにすむ場所を探そうとした。
 ……その時、彼女の両手首に幾筋もの傷跡が見えた。
 僕が手首の傷に気を取られた隙に、パールは少し離れた場所に錠剤が二つ落ちていることに気づいて体をひねった。
 僕が我に返った時には、彼女は僕の手を振り解いていた。
「ダメだ!」
 僕は後ろからのしかかる形で彼女を止めようとした。
 後から考えると、僕は彼女の体に触りまくっていたわけだが、その時の僕は彼女のことを一人の成熟した女性とは考えていなかった。
 ただ、我侭で感情的な……壊れやすい子供のようだった。
 パールは僕が両手を床に押さえつけても錠剤を取ろうとした。そしてついに床に顔を擦りつけながら舌を伸ばし、床を舐めながら錠剤を舌ですくいとった。
「……何てことを……」
「え……えへへへ……へへ」
 パールは僕が上から退いたので体を起こして床に座り込んだ。そして口元を腕で拭うと顎を上げてゆっくりと錠剤を飲み込んだ。
「ハハハ……ハ……ハハ……ハハハハハ」
 パールは体を折り畳んで更に笑い続けた……それはいつしか泣き声のようになった。
「ねえ、どうしてそこまでして飲むの?」
 僕も床に座り込んで呟いた。元々そんなに効果のない薬だ、二錠くらいなら大丈夫だろう……問題なのは彼女の精神が薬に依存してしまっていることだ。彼女にとっては『薬を飲む』という行為自体が必要なのだ。敬虔な信者が毎日神に祈りを捧げるように……。
 痙攣が治まった後、パールは静かに顔を上げた。
「……それでも死ねないからよ」
 僕は涙で化粧が流れてしまった彼女の顔を眺めながら、彼女が人間であることを理解した。

 PM.10:46

「……くだらない……」
 パールは服の汚れを払いながら呟いた。
「何が?」
 僕は床に座ったまま尋ねた。
「…………何もかもよ」
 そう言った時の彼女の瞳には、元の冷めた色が戻っていた。顔は更に青ざめ、とても薬が効いているようには見えない。
「そう思うんだったら、今度からは誰もいない所で飲むことにしたら?」
 僕が呟くと、パールは冷たい目で僕を見下ろして言った。
「調子に乗るんじゃないわよ」
 そして彼女は歩いて行った。

 フロアに足を踏み入れた僕に気づいて、カナは今まで一緒に踊っていたミンク達と別れて僕の方に近づいて来た。
「先輩、遅いですよ!」
 口に手を添えて叫ぶように言う。それでも、フロアに響く音が大き過ぎ、カナの声はなかなか聞き取れなかった。
「ごめん、今日は色々あり過ぎてね。なかなか前に進めないんだよ」
 僕もありったけの声を振り絞って叫んだ。
「……いろ……ですって?」
 カナが耳に手を当てて尋ね返してくる。全部は聞き取れなかったらしい。
「リョウに殴られて、宇宙人に殺されそうになった。妙な夢を見て、人助けしたら怒られたよ」
 僕は笑いながら言い、それから小さく呟いた。
「おまけに生まれて初めて告白したらものの見事にふられたよ」
「……ドロシーさんですか?」
 それまで聞きにくそうにしていたカナが、最後の言葉に反応して僕を見つめた。
 ……何でそこだけ聞き取る?
 僕は仕方なく肩をすくめるジェスチャーをした。
「へ~え、そうなんですか! 先輩、可哀想ですね!」
 カナが明るい声で言う。僕はカナの柔らかい体に手を回し、そっと抱き寄せた。
「……どうしたんですか?」
 右の後頭部の辺りから、カナが呟くのが聞こえた。
 僕の腕の中で、暖かい物が小さく震えた。光も音も振動も、彼女を感じようとする以外のすべての感覚が鈍くなったように感じられる。
 僕は生まれて初めて、人生を楽しんでもいいのかもしれないと思った。もしかしたら、誰かを恐れる必要などないのかもしれないと。
 誰かに自分の心を全てさらけ出してもいいのかもしれない。誰かを求めてもいいのかもしれない。僕は初めてそう思った。
 僕はカナの髪に鼻先を埋めて呟いた。
「カナちゃん。僕は今、思ったんだけど……君って本当に可愛いね」
 カナは僕の体を引き離すと、不思議そうな顔をして微笑んだ。
「……やっとわかってくれたんですか?」
 僕はカナの耳元で囁いた。
「ごめんね。バカなもので」
「許しません」
 カナは僕の胸を軽く叩くと、フロアの中央に進み、振り返ってついてくるように手招きした。
「……バカだよなあ……」
 僕は指で頬を掻きながら呟いた。
「本当に……何でこんなことがわからなかったんだろ?」

「……何がいけなかったんだろ?」
 カナは人込みの中を進みながら呟いた。
「今更『可愛い』? 男ってもう少し下半身で動くものだと思ってたのに……」
 カナは後ろから彼がやってくるのを確認して呟いた。
「ま、結果オーライってやつかな?」

 PM.10:51

「踊るのは苦手だよ」
「何言ってるんです! ここまで来て!」
 カナは僕の手をつかんで言った。
「それに……みんな変ですよ?」
 確かに……みんな変だった。
 僕らの近くには例の女装集団がいて、妙なダンスを踊っていた。特にミンクは、大きな体を震わせて酸欠の金魚みたいに手足をばたつかせ、甲高い叫び声を上げていた。
「フォッ! フォッ! フォッ! フォッ! ……ハ~イ! カナちゃん! フォッ!」
 いつの間にか、僕らはミンク達に取り囲まれていた。服装の派手さもあいまって、巨大な熱帯魚の群の中に放り込まれたようだ。
「ほら、先輩踊りましょうよ」
 カナが軽くリズムを刻みながら僕を急かす。
 踊るという行為は好きじゃない。僕が考えるに、踊るというのは人間の体が音楽に同調することだと思う。
 昔とあるミュージシャンが、世界は小さな粒子の振動によって構成されていると言っていた。『木』と『人間』の違いは物質的なものではなく、固有振動周波が違うだけだと。
 だとすれば、人間の体がリズムに合わせて踊る時、人間の体は人間とは違う『何か』へと変化しているのだろうか? 同じ音楽に合わせて別の人間が踊る時、人々のリズムは近くなり、同じ存在に……世界のリズムに近づくのだろうか?
 だが、僕は踊るのが嫌いだ。僕のリズムは世界のリズムと同調できない。僕は世界から切り離されているし、その波に乗ることもできない。
 まるで大きな海の前に立たされた、泳げない子供のように。
「ほら、難しく考えないで体を動かせばいいんですよ。ほら、その調子!」
「あ、ああ……」
 僕はとりあえず、おっかなびっくり体を動かし始めた。
「何だ、先輩うまいじゃないですか!」
 揺れる髪の向こう側で、カナが悪戯っぽく微笑む。
「フォッ、フォッ、フォッ、フォ~ッ!」
「ミンクさん、ぶつからないで下さい!」
「いいじゃない~! みんなで楽しんでんだから~!」
 僕は、カナとミンクが互いを押し退け合う間に挟まれながら、いつの間にか大きな声で笑っていた。確かに僕は、世界のリズムとは交信できないかもしれない。それでも、この奇妙で歪な者達のリズムは感じ取ることができる。
 いつしか僕は、ミンクやカナ達と一緒に踊っていた。多分、僕の踊りは下手で奇妙に見えるだろうが……そんなこと知ったことか。
 と、不意にかかっていた曲のリズムが変動し、金属質のギターのリフが高らかにフロアに響き渡った。エコーのかかった高速のラップとドラムンベースが続く。
 『K』のテクニックによって圧倒的な存在感を得たビートがフロアを更に盛り上げ、皆が一斉に踏み鳴らした地響きによって、本当にスケアクロウが揺れた。
 人が流れ、僕らはDJブースの方に押し流された。
 そこにはドロシーとカウボーイの姿があった。ドロシーは相変わらずのジプシーのようなダンスを披露しており、カウボーイはどう見ても、モンキーダンスかサタデーナイトフィーバーを三~四倍速で再現しているように見える。
 二人の動きはまったく接点がないように見えた。しかし二人の動きは完全にリズムを捉えており、不思議と息が合っていた。
 ドロシーは僕達に気づくと、手を振って来るように誘った。
 僕とカナ……そしてミンク達はドロシーの所に雪崩れ込み、後は様々にパートナーを交代して踊り続けた。

 Q.何故一人でも踊れるのにパートナーが必要なのか?
 A.決まってる。二人で踊った方が楽しいからだ。

「楽しんでる?」
 ドロシーが僕の耳元で囁いた。久し振りに彼女の体温を感じた気がする。
「ああ。そうだ、さっきパールと話したよ」
 ドロシーが驚いた顔をした。
「やっぱり知り合いなんだ」
「……昔、色々あってね」
「とても寂しそうな目をしていたよ」
 僕が言うと、ドロシーは少しだけ笑った。
「彼女は人生を楽しむのを怖がってるのよ……幸福になるのをね」
「それは多分、彼女だけじゃないな……」
「……そうかもね」
 ドロシーは目を細めた。
 振動と光が回転し、僕は大きな流れに飲み込まれていくような感覚に襲われた。
 二枚のレコードの回転と共に、フロア全体が回転していく。
 手を伸ばすと、ドロシーは指先を握ってくれた。

第三話「カカシとセルロイドの美女とライオンがメリーゴーラウンドの中で踊る話」 3

2007年12月10日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.10:37

 それは変わった集団だった。
 ……いや、『とても』変わった集団だった。
 最初にオカダにつき添われてやってきたのは、まるで格闘家のような立派な体格の男だ。はち切れそうな肉体をシンプルなTシャツとジーンズで包み、首には大きなヘッドホンをかけている。顔つきは精悍で黒く太い眉の下に獲物を狙う鷹のような眼が光り、両手には大きな鉄製のカバンを持っていた。
 彼はこの界隈では有名なDJで、通称『K』と呼ばれている。本名は知らないが、そのテクニックと腕っ節の強さを知らない者はここにはいないはずだ。数ヶ月前に何かいざこざを起こして刑務所に入れられたらしいが、最近になって出所したんだろう。
 次に現れたのは数人のけばけばしい服装の女……いや、女装した男達だった。ラメや羽飾りで派手に飾りつけた服を纏い、顔からはみ出るんじゃないかってほど化粧を塗りたくった顔で、けたたましく笑いながら話をしている。最も痩せた男が入り口の方に振り返り、羽飾りをはためかせて誰かを呼んだ。
 呼ばれてやってきたのは、思わず息を呑むほどに美しい女だった。
 年は二十代前半といったところだろうか。しかし、童顔とも言える顔に年相応の表情はなく、まるで人生に疲れた熟年の女性のような疲労と倦怠に満ちている。
 身長は高くもなく、低くもない。胸から腰にかけてのラインは信じられないほど豊かでなめらかな曲線を描き、濃い青に染められた髪は短く切り揃えられ、幾つもの小さなカールを作りながら顔にかかっている。肌は本当に血が通っているのか疑問なほどに白い。大きな青い瞳が、鏡のようにフロアの電飾を映し込んでいる。
 彼女は背中や胸元が大きく開いた黒いシンプルなナイトドレスで着飾っており、純白の羽飾りを肩にかけていた。ドレスの丈はかなり短く、逆に床まで届きそうな羽飾りが、細く白い脚を中途半端に隠している。
 何故、僕が女装の男の中に混じった彼女を女性だと判断したかについては、僕自身はっきりとした根拠が思いつかない。男の勘というやつだろうか? とにかく、極めて優れた芸術作品が見る者に訴えかける何かを持つように、彼女の美しさには迫力があった。
 初めてドロシーを見た時にもその美しさに心奪われたが、彼女の持つ美しさはドロシーのそれとはまったく異なるものだった。ドロシーには野生の獣のようなしなやかさと存在感、そして危険な香りがあるが、彼女は繊細な硝子細工のような細やかさと透明感、そして今にも壊れてしまいそうな儚さに満ちている。
 僕は彼女が人間ではなく、精巧なセルロイドのマネキンだと言われていれば信じたかもしれない。実際一目見た瞬間には、彼女が男か女かということよりも、果たして本当に生きている人間なのかどうかの方が判断できなかったのだから。それほどに、彼女からは生きている人間の雰囲気がしなかった。
 彼女は形の良い細い眉をひそめて隣の男と何かを話している。表情から察するに、ここに来たくはなかったようだ。やがて彼女は隣の男では話にならないと判断したらしく、男に軽く手を振って最後尾へと移動した。
「……あ、カウボーイだ」
 とカナが呟いた。

 最後尾にいた男……カウボーイは壮年の外国人で、白が混じりつつある灰色の髪にエメラルド色の瞳をしている。背はかなり高く、痩せた体に白い花崗岩を刻んだような筋肉が張りついている。
 最初に外国人と言ったが、実際には日本人とアメリカ人との間に生まれた混血で、ごく自然に日本語を話しているのを聞いたことがある。職業は実業家でアメリカに本社を持ち、世界各国に支社を抱える国際的な会社の社長なのだそうだ。リョウの父親の会社もそうだが、具体的に何をしているのかは知らない。
 勿論日本にも支社がある。それは隣の町にあるそうだが、彼はこの町の方が気に入っているらしい。

 Q.ところで彼は何故『カウボーイ』と呼ばれているのか?
 A.それは彼がいつもカウボーイの服装をしているから。

 カウボーイは被っていた大きなカウボーイハットを指でずらすと、少し腰を屈めてまっすぐに彼女の目を覗き込みながら話を始めた。
 二人はしばらく話をしていたが、どうやらカウボーイが説得に成功したらしい。女は不機嫌そうにカウボーイの胸を叩き、女装集団に加わった。カウボーイは苦笑いを浮かべると、西部劇そのままの飾りのついた上着を整え、僕達の方へ歩いてきた。
 女装集団とセルロイドの美女が通過し、カウボーイも僕らの前を通り過ぎる……と思ったら、彼はドロシーの前で足を止めた。
「何でしょうね、先輩」
 いつの間にか僕の背後に隠れたカナが囁く。
「さあ……」
 僕がカウボーイを見るのはこれが初めてではない。先程も言ったが彼はこの町が気に入っているらしく、アメリカにいるよりもこの町にいることの方が多く知人も多い。ここスケアクロウでも何度か見たことがある。もっとも、リョウが彼を毛嫌いしているので、僕は話をしたことも近寄ったこともない。
「これはこれは。こんな所で同類に会えるなんてね」
 カウボーイは流暢に喋りながら帽子を脱いだ。ドロシーに向かって優雅に一礼し、腰を曲げたまま顔を上げる。
「踊ってくれないかい? カウガール」
 間近で見るカウボーイの瞳は、本当に深いエメラルド色をしていた。細かい皺の刻まれた精悍な顔の上で、宝石のように輝いている。
「うーん、どうしようかなあ?」
 ドロシーは焦らすように言い、僕の方を見た。
「連れもいるしなあ」
「それは残念だな……でも踊るだけならいいんじゃないかな?」
 カウボーイはドロシーの視線を追って僕の方に目を向けた。
 その瞬間、僕の体がわずかに震えた。恐かったのではない、彼の瞳に吸い込まれるような感じがしたのだ。僕は彼の視線から逃れようとした。しかし僕が目を逸らすよりも先に、カウボーイの視線からは力が消えていた。
「それに彼には、もう一人美しいパートナーがいるじゃないか。一人占めはよくないな。君が僕と来てもかまわないだろ? ……そうは思わないかな?」
 カウボーイが肩をすくめながら僕とカナに尋ねる。僕が戸惑っている間に、カナが後ろから顔を出した。
「いいですよ。ドロシーさんはその人と踊って下さい。私は先輩と踊りますから」
 カナは『美しい』の一言で警戒を解いたらしい。
 ……意外とわかりやすい性格かもしれない。
 確かにカウボーイには人を惹きつける不思議な魅力がある。もっとも、それは彼の個性の強さからくるものであり、彼が一般的な社交術に長けているからではない。おそらく、彼の個性が理解できる者以外には嫌われやすいタイプだろう。
 それにしても、別に上流階級のパーティーで社交ダンスをするわけじゃないんだから、男女のペアで踊る必要が何処にあるんだ?
「そうね……でもどうせだったら、もっと大勢で踊った方が楽しいかな?」
 僕の心を見透かしたかのように、ドロシーがカウボーイを待っている女装集団に目を向ける。それに気づいたのか、先程セルロイドの美女の隣にいた男が近くまでやってきた。
「ハーイ。アタシはミンクよ。よろしくね」
 飴玉を舐めるような猫撫で声で『彼女』は自己紹介をした。喋る時に口と目が淡水魚に似た動きをするのが印象的だ。背は高く、カウボーイと比べても見劣りしていない。百九十近くはあるんじゃないだろうか?
 ……さっきから僕の方を見つめているように見えるのは、きっと気のせいだろう。
「先輩、見つめられてますね」
「…………気のせいだよ」
 周囲の者は皆、怯えたように遠巻きにこちらを眺めている。多分、こっちの方が正しい反応なのだろうが……カナはすっかり慣れたらしく(それでも僕の背中に張りついたままだけど)、興味津々カウボーイ達を眺めている。
 何だか違う世界に迷い込んでしまったようだ。

「ここに来るなと言っただろうが!」
 不意に音楽が止まり、大きな声が放たれた。
 見ればリョウがこちらを睨みつけている。リョウは瞳を怒りに燃やしながら、僕らの……いやカウボーイ達の方に近づいてきた。
 以前、カウボーイとリョウはここで対立したことがある。僕はその場にいなかったので詳しいことは知らないが、以来リョウはカウボーイ達のことを必要以上に嫌っている。カウボーイとその仲間は、この街で彼の思い通りにならない唯一の存在なのだ。
「何だ君か。しかし来るなと言われてもねえ」
 カウボーイが動じた様子もなく目を細める。リョウは僕を一瞥すると短く舌を鳴らし、再びカウボーイを睨みつけた。
「黙れ! ここはお前達のような奴等が来る所じゃない!」
「しかしねえ……」
 カウボーイは大袈裟に肩をすくめてみせた。
「私達は全員金を払ってチケットを買っている。だからここにいる権利があるはずだ。それに今日は『K』の復帰を祝いに来たんだ。大目に見てくれないかな?」
 どうも音楽が止まったのはDJの入れ替えをする為だったらしい。どうやら交代があることを知らせていなかったらしく、『K』はオカダと共にDJブースから前のDJを追い出そうとしていたが、リョウとカウボーイが揉めていることに気づいて僕らの方に目を向けた。
「君は手を出すな」
 カウボーイは『K』に手を振り、リョウに向かって言った。
「彼とは長いつき合いだ……今日は騒ぎを起こしたくないんだよ」
「そうよ、リョウちゃん。一緒に踊りましょうよ?」
 ミンクが隣から声をかける。
「気安く名前を呼ぶな!」
 リョウは激怒してミンクを睨みつけた。
「俺はお前達のような気持ち悪い奴らが一番嫌いなんだ。ここから出て行け! 一緒にいるだけで気分が悪くなる!」
「何ですって!?」
 ミンクが口を大きく開きながらリョウに詰め寄った。
「何が気持ち悪いって言うのよ? アタシ達の何が悪いって言うの!」
「近寄るな!」
 リョウがミンクに向かって手を振り上げる。しかしその手はカウボーイによってつかみ取られた。
「まったく、年寄りに無理をさせるね君は!」
 リョウとカウボーイの腕力が拮抗し、二本の腕が小刻みに震え始める。二人が睨み合っている隙に、ミンクは悲鳴を上げながら仲間の影に隠れた。
「キャ~ッ、キャ~ッ、恐かったわ~!」
 ……さっきまでの威勢の良さは何処に行ったんだ?
 理解に苦しむ僕の横には、いつの間にかセルロイドの美女がいた。彼女は冷めた目でカウボーイとリョウを眺めていたが、
「……くだらない……」
 吐き捨てるように呟いた。

「この野郎……!」
 リョウは腕力を振り絞ってカウボーイの手を振り解いた。
「なめた真似をしやがって!」
「リョウ! ここで騒ぎを起こすんじゃない!」
 リョウが殺気立っているのを見て、オカダが慌てて駆け寄ってきた。フロアは静まり返り、皆が僕達の方を見つめている。
「リョウさんやめて下さい! ここで誰が踊ろうとかまわないじゃないですか!」
 いつの間に僕の後ろからいなくなったのか、カナがリョウの前に立って叫んだ。
「……若松か……お前はそいつらの味方をするのか?」
 リョウは虚ろな声で言った。リョウはカナの売春を知っても態度を変えなかった数少ない人間の一人だ。それどころかカナのことを気に入っているようでもあった。もしかしたら、カナならリョウと対等に話せるかもしれない。僕の心に楽観的な考えが浮かんだ。
 しかし、その考えはやはり甘かった。
 リョウは無表情にカナを突き飛ばし、カナは背中から床に倒れた。
「リョウ、女の子に何てことをするんだ!」
「…………退けよ」
 カナとリョウの間に割って入った僕に、リョウはひどく疲れたような口調で呟いた。
「退けよ……もうこれ以上、俺を怒らせるな」
「リョウ、ここは踊る為の場所だ。僕達だけのルールが通用する場所じゃ……」
「お前は黙ってろ!」
 リョウは僕を乱暴に押し退けた。
「それ以上言ったらお前もこいつらと同じだ。ただではすまないぞ!」
「なあ、もうこいつは俺達を裏切ってるんだから同罪だよ?」
 ジンが小さく呟く。しかしリョウはジンの話など聞いていなかった。
「君はどうして私達を目の敵にする?」
「お前達がここにいるだけで……地球上に存在するだけで俺の世界を汚してるんだ。だから俺はお前達が許せないんだ」
 カウボーイは小さく笑った。
「成程、君はこの星の王様か。だが私にも私の世界がある。私の友人達にもね。そしてそれは他人の思い通りにはならない世界だ……特に君みたいなガキにはな。君が私達の世界を認めないと言うのなら私にも考えがある」
 カウボーイは拳を手の平に打ちつけた。
「まったく、年寄りは大切にしろと最近の家庭では教えないかな? 手がかかって困るよ」
「ちょっと待て二人とも、店の中で騒ぎを起こすな! おい『K』、黙ってないで何とか言ってくれ!」
 オカダが髪を掻き毟って叫ぶ。『K』は騒ぎに目もくれずに機材をチェックしていたが、やれやれとため息をつくと低い声で言った。
「さっきの奴が言った通り、ここは踊る為の場所だ。喧嘩をするなら外でやれ」
 言いながら、二つのカバンを同時に開く。中から二枚のレコードを引き抜くと、ガンマンが銃を扱うように両手の指でクルリと回し、プレイヤーに置いて針を乗せた。

 最初に心臓をつかむような低い重低音が響き、不意に音が消えた。一瞬の静寂の後、つんざくような高速のブレイクビーツがフロアの沈黙を撃ち破った。
 さっきと同じ機材を使っているはずなのに、まるで音が違う。何重にも重ねられたビートが複雑な音の空間を造り出し、リョウ達の騒ぎに気を取られていた人々がたちまちのうちに反応した。
 フロアにいた全員がブースの近くに押しかけ、一斉に足を踏み鳴らす。それはスケアクロウ全体が揺れるような光景だった。
「……やるねえ」
 カウボーイは呟き、リョウに言った。
「すっかり場の主役を奪われたね。これ以上私達が揉めても無意味なんじゃないかな?」
 リョウはフロアの様子を見て口元を歪めると、踵を返して立ち去った。

「いいか、お前もDJだったら何があろうとレコードを回すのをやめるんじゃねえ」
 『K』はレコードを回しながら、ブースの隣で不機嫌そうな顔をしている自分が追い出したDJに言った。
「DJってのは、絶対に音を止めちゃいけないんだ。例え客が一人しかいなくても、それこそフロアで銃撃戦が起こってもな」
 そして『K』は次のレコードの音をチェックし始めた。
 音が止まったのはアンタがいきなり後ろから引きずり下ろしたからじゃないか。まだ若いDJは思ったが、『K』が恐そうなので言うのをやめた。

「大丈夫かい?」
「ええ、少し突き飛ばされただけですから……」
 カウボーイに尋ねられ、僕はリョウの後ろ姿を眺めながら呟いた。カナは例の女装集団に混じって話をしている。さっき突き飛ばされた時に助けられたらしい。
「……ドロシー?」
 僕はドロシーの姿を探した。ドロシーは少し離れた所で僕とは違う方向を眺めていた。その視線の先には、あのセルロイドの美女がいてドロシーを見つめ返していた。
 女は表情を変えることなくドロシーを見つめていたが、不意に視線を逸らした。
「踊ろうか?」
「……そうね……」
 女の姿を目で追っていたドロシーが、カウボーイに尋ねられてこちらを振り向く。その瞳は、僕が見たことがないほど悲しげだった。
 ドロシーは僕の前に立つと軽く僕の肩を叩いて微笑んだ。
「貴方も一緒に踊ろうよ。リョウって子もこれ以上は手を出せないわ」
 そしてドロシーは、カウボーイの差し出した手を取りフロアの方に歩いていった。
 あの女とドロシーは顔見知りなのだろうか? カウボーイとも初対面には見えない。
「世の中には僕の知らない世界があるんだな……」
 時の流れは一つではない。僕から見えない世界にも様々な人達がいて、様々なことを考え、行動している。それはとても当たり前のことだけど、つい忘れてしまうことだ。
 そして僕は、そのすべてを知ることはできない。
 ……悲しいことだ。
「先輩、私は先に行ってますね!」
 カナはすっかり打ち解けた女装の男達と腕を組んで歩いて行った。
「変わった子だな……」
 僕はカナを見て微笑んだ。今までの僕は、何とかして『普通』に近づこうとしていたけれど……今は心から、目の前にいる変わった……でも魅力的な存在のことを、もっと知りたいと思う。
 その時、僕の隣で声がした。
「貴方……あの女には気をつけた方がいいわよ」
 青い髪をかき上げながら呟いたのは、あのセルロイドの美女だった。

第三話「カカシとセルロイドの美女とライオンがメリーゴーラウンドの中で踊る話」 2

2007年12月09日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.10:05

「えっと、ドロシーさん……でしたよね」
 柱にもたれたまま目を閉じていたドロシーは、声をかけられて目を開けた。
「……ああ、カナちゃんね」
「先輩は何処ですか? オカダさんに、リョウさんと先輩が喧嘩してるって聞いて……」
 ドロシーがトイレの方を指差すと、カナの顔色がサッと変わった。
「まずいですよ。先輩、殺されちゃいます!」
 カナの真剣な台詞に、ドロシーは軽く笑った。
「どうして笑うんです? リョウさんは恐い人ですよ!」
「それはどうかな? まあ、おとなしくここで待ってましょうよ」
 カナはドロシーの楽しげな瞳を睨みながら呟いた。
「……貴女、本当に先輩の何なんです? 先輩のこと心配してないんですか?」
「どうでしょうね?」
 ドロシーは呟き、そうだ、と手を叩いた。
「何か飲み物でも買ってきてくれない? 喉が乾いちゃった」
「……どうして私が?」
「いいじゃない」
 カナは不機嫌な顔でドロシーを睨んでいたが、小さくため息をついてドロシーから金を受け取り、ふと鼻を触って呟いた。
「石鹸、安物使ってますね。三流のラブホテルの物みたいですよ……まあ、どうでもいいですけど!」
 そしてカナは精一杯嫌味な響きを込めて言った。
「先輩と寝たからっていい気にならないで下さいね、おばさん!」
 声をかけてきた男を突き飛ばしながらカウンターの方に向かうカナを見送りながら、ドロシーはしばらく呆気に取られていたが、やがて可笑しさを堪えるように笑い出した。
「面白い子ね」
 それからドロシーはトイレの方を振り向いた。
「さて、こっちはどうなるかな?」

「悪いな、ついカッとなっちまった。顔は大丈夫か?」
「ああ……大したことはないよ」
 僕達は男子トイレの中にいた。スケアクロウのトイレはクラブのものとしては清潔で、主要な駅のトイレくらいの大きさがあった。
 僕は一対一の決闘に臨むガンマンのような気持ちでトイレの中に入ったのだが、僕と二人っきりになった途端、リョウは態度を変えた。
「周りの奴らのこともあるしな……まあ許せよ」
 リョウは洗面台で蛇口から直接水を飲みながら言った。
「ビールって、あんまり美味くないよな。いつも気分が悪くなる。どうしてあんなものが売れるんだろうな? ワインは好きなんだけどなあ」
「さあね……僕はアルコールは苦手だから」
 僕は警戒を解くことなく、リョウの隣の洗面台に少しずつ近寄った。
 確かにリョウの立場上、彼がああするのは当然だ。仮に彼が、本当に怒っていなかったとしても……説明としては筋が通ってる。
「そんなに警戒するなよ。怒ってなんかいないって」
 リョウはついでに洗った顔を拭いながら言った。
「確かに、お前が生意気なことを言った時にはカッとなったよ。でも、今はお前のことは怒ってない。本当だって。それどころかお前のことは見直したよ。俺に面と向かって言い返す奴なんて滅多にいないからな」
「……そうかな?」
 僕は、もしかしたら本当にリョウが怒っていないのかもしれないと思い、少し緊張を解いて洗面台の鏡を見つめた。左の頬から顎にかけて、どす黒く腫れ上がってしまっている。水で冷やした方がいいかもしれない。
「ところで、あの女は誰だ? 昼間はいなかったような……」
「昼間?」
「いや、こっちの話だ」
 リョウはそれ以上は何も言わなかった。誰か知り合いにでも見られたのだろうか?
「それにしても、いい女じゃないか。もう寝たのか?」
「…………」
 リョウは僕の無言から、まだ何もしていないと判断したらしい。僕のいる洗面台に近寄ると、鏡を覗き込んで衣服を整え始めた。
「なあ、あの女のこと好きなんだろ? ……ほら言ってみろよ」
 リョウが悪戯っぽく笑い、からかうように言う。僕の強張っていた顔の筋肉が緩み、自然と笑みを形作ったのが鏡の中で見えた。
「そうだね……彼女のことは好きだよ。彼女の前じゃ、ちょっと格好をつけたくなるくらいにね」
 僕は手を洗いながら、リョウに立ち向かえたのはドロシーの前でこれ以上格好の悪い所を見せたくなかったからだということに改めて気づいた。僕も所詮はそこらの男と同じように意地っ張りだということだろうか?
 僕は無性に可笑しくなった。そして、それによってリョウと対等に話せるようになったのなら悪くないとも思った。
 だけどこの時の僕は、まだリョウのことをまったく理解していなかった。

「お前は大した奴だよ」
 リョウは言った。
「他の奴みたいに能無しでもないし、物事をちゃんと自分の頭で考えてる。それに結構、やる時はやるしな……勇気があるよ」
 リョウは手を伸ばすと僕の即頭部の髪をかき上げた。
「正直、大した奴だと思うよ……ただなあ」
「……何だい? 『ただ』って」
 リョウの手が僕の耳の所で止まった。リョウの手は冷たかった。
「ただ……その方向は間違ってるな」
 次の瞬間、視界が下方に九十度回転し、僕の頭は洗面台の中に押し込まれた。
「お前は何もわかっていない」
 リョウは顔を上げようともがく僕の頭を信じがたい腕力で押さえつけると、水を溜める為のコックを引き上げ蛇口の栓を全開にした。
「お前は何もわかってないんだ」
 僕は洗面台に頭を打ちつけられた衝撃も忘れて必死に抵抗したが、リョウの手はがっちりと僕の頭を押さえこんでいてびくともしない。しかも親指の爪が肌に食い込み、破れた所から血が流れ始めた。
「血が出てるな……水が赤くなっちまってる」
 ひどく遠くの方からリョウの声が響いてくる。僕は無我夢中でリョウを蹴り飛ばして何とか水面上に顔を上げ、激しく咳き込んだ。
 途端、リョウが僕の後ろ襟をつかみ、一気に床に引き倒した。昏倒している間もなく、今度は強引に立たせられる。
 一瞬激しい貧血を起こし、頭の中が真っ白になった。
 気がつくと、リョウは僕を自分の体で壁に押しつけるようにして立っていた。
「……俺はお前のことを、高く評価してるんだぜ?」
 リョウはポケットからナイフを取り出すと、刃を出して僕の目の前にちらつかせた。
「だが、お前は能力を間違った方向に使ってしまっている……わかるか?」
 リョウの顔は青ざめ、目だけが爛々と光っている。
「俺には力がある。誰にも負けない力がな……俺は年寄りや女とは違う。あいつらは無力で何もできない。だから俺が支配する……簡単な理屈だろ? 俺が年寄りを殺して何が悪い? あいつらには若さも力もない、あるのはせいぜい金くらいだ。くだらないとは思わないか? あいつらがこのくだらない国を更にくだらなくしているんだ。俺達にはこの国を良くする義務ってのがあるんだろ? だったら、あいつらを殺して金を取って何が悪い。少しはこの国が良くなるってもんだろ!」
 リョウは僕の髪をつかんで顔を持ち上げると、喉にナイフを突きつけた。
「女だって同じだ。あいつらは恋だの愛だのと言ってすぐに男を責める。だが、あいつらが本当にそんなものを信じてるのか? あいつらは自分さえ良ければ他人がどうなってもいいんだ。あいつらは恋だの愛だのと言って発情して子供を生む、それだけだ。少しでも金に困れば、自分の子供だって売り飛ばすかもな……何処かの金持ちにでもな!」
 そこまで一気に喋ると、リョウはナイフを退けて僕の肩に額を当てた。リョウの左手は僕の体を抱きかかえ、力なく垂れ下がった右手のナイフが壁に当たって音をたてる。
「……誰かみたいにな……」
 リョウは僕の肩から顔を上げることなく話し始めた。
「お前だってわかるだろ? 女なんかくだらないんだ……アユミの時にわかったろ?」
「……アユミ?」
 どうしてこんな時にアユミの話が出てくるんだ?
「あれは……君が仕組んだんだろう? 確かに……うまくはいかなかったけど」
 僕は今まで、アユミについてリョウと話をすることを避けていた。だが、彼女について聞きたいことは沢山ある。
 と、リョウが不意に顔を上げて笑い出した。
「うまくいく? そんなわけないだろ? あいつとお前がうまくいったら奇跡だよ」
「ならどうしてあんなことを言ったんだよ? 僕と寝たら抱いてやるなんて……」
「あいつはプライドが高いからな。お前と衝突することはわかってた……頭いいだろ?」
 リョウは僕から離れると悪戯っぽく笑った。僕は壁から一歩も動けなかった。
「……それじゃあ、まるで……」
「授業の一環さ。あれでわかっただろう。女ってのは自分の欲望の為なら誰とでも寝ることができるんだよ」
 リョウは悲しげに肩をすくめたが、すぐに狂ったように笑い出した。僕は体の中に何か冷たいものが凝り固まっていく気がした。
「彼女とは……約束通り、寝たのかい?」
「そんなわけないだろう」
 僕が何とか吐き出した質問に対するリョウの回答は、あまりにも残酷なものだった。
「俺は女どもとは違うんだ、自分の寝る相手は自分で決める。しつこいから二、三発殴ったらおとなしく帰ったよ。それからすぐだったかな? あいつが学校で問題を起こしたのは。まったくバカな奴だよな」
「……リョウ!」
 僕はリョウに向かって拳を振り上げた。しかし僕が拳を振り下ろすよりも早く、僕の喉元には再度ナイフが突きつけられていた。
「お前が俺に勝てると思ってるのか? いい加減、利口になれよ」
 リョウはナイフを持っていない左手で僕の髪をかき上げ、剥き出しになった耳に口を寄せた。
「俺に従え。それが生きる道だぜ?」

 僕らは凍りついたように動かなかった。
 髪から流れ落ちる冷たい雫が、汗と混じり合って下着を肌にへばりつかせる。
 僕の体の内側を、恐怖とも怒りとも判断のつかない嫌な感じが這い回っていた。
 リョウはしばらく何の感情もない目で僕を眺めていたが、不意にナイフを退けた。
「そんなに固くなるなよ。夜は長いんだ、楽しもうぜ?」
 そして小さく微笑むと、ナイフの刃を戻してトイレの出口に向かった。
 ……僕は負けたのだろうか? 僕は考えた。僕はここに、リョウと一騎討ちをするつもりでやってきたはずだ。まるで映画のヒーローみたいに。
 客観的に見れば、僕はリョウに何一つできず、散々痛めつけられたのだから、やはり負けたということになるのだろう。
 だけど何かが違う。リョウも完全に勝ったわけじゃない気がする。まるで違うルールのゲームを二人でやっていたようだ。
 ヒーローは正しいから勝つのだと誰かが言っていた。強いから勝つのだとも。
 でも、正しいとか強いってのが、一つじゃなかったらどうするのだろう?

「カッコイイわよ、だいぶ派手にやったみたいね」
 トイレを出ると、すぐそこの壁にもたれてドロシーが立っていた。
「いいや、やられっぱなしだよ」
 僕はドロシーの横まで行って壁に軽く後頭部を当てた。壁を通してフロアの振動が頭蓋骨に伝わってくる。首をひねるとリョウ達が見えた。ジンと数人の者が僕を見てリョウに何か言っている……どうも僕が無事に動いているのが気に食わないらしい。やがてリョウがフロアに出たので、ジン達は僕の方を忌々しげに見つめながらもそれに続いた。
「昔、正義っていうのは一つだと思ってた。何か一つの大きな真実があるんだって」
 僕は壁にもたれながら呟いた。ドロシーは何も言わずにフロアの方を眺めている。
「僕は小さい頃から、他の子とは親しめなかった。でも、それは自分が変なんだと思っていたんだ。普通の子供じゃない自分が変なんだってね」
 リョウは黒いコートを脱ぎ捨てると、フロアの中央に進み踊り始めた。速いビートのテクノミュージックに合わせて、リョウの体が回転する。
「だから小さい頃の僕は、他人に合わせようと必死だった。いわゆる『良い子』になろうとしてたんだ。宇宙人が地球人に成りすまそうとするようにね……でも、僕は普通の子供にはなれなかった。僕は未だに変な子供のままだ」
 僕は大きく息を吐き出した。
「……小さい頃は、たった一つの真実があるんだって思ってた。誰もがそれを目指しているんだと……でも、真実は一つじゃなかった。僕が今まで信じていた真実は、僕を救ってはくれなかった。僕は何をすればいいんだ? 何処に行けばいい? ……何を信じればいいんだろう?」
 リョウは降り注ぐ色とりどりの光を浴びて踊っていた。彼の肉体が主の意志に忠実に従い、美しい動きを作り続けている。彼の周りには、その動きに魅せられたように大勢の者が集まり、一緒になって踊っていた。
「違うから面白いんじゃないの?」
 不意に、それまで黙っていたドロシーが呟いた。
「……何だって?」
 僕が尋ね返すと、ドロシーは顔を動かさずに続けた。
「普通普通って言うけどさあ、この世の中に『普通』なんてないよ。みんな何かを抱えてる。あの男だってね」
 ドロシーの視線の指し示す先には、踊るリョウの姿があった。僕は先程垣間見たリョウの激情を思い出した。
「アタシのことは変わってるから好きなんでしょ? あんなこと言われたのは初めてよ。ちょっと傷ついたなあ」
 ドロシーは微笑み、僕の左頬に優しく手を寄せた。
「アタシも、貴方のことは変わってるから好きよ」
 左頬は少し痛かった。

「先輩、大丈夫ですか?」
 不意に後ろから声がかかり、右頬に冷たい物が押し当てられた。振り向くと、カナが缶ジュースを持って僕を見上げていた。
「ああ、カナちゃんか……吃驚したよ」
「お取り込み中でしたか?」
 からかうような口調で言い、カナは悪戯っぽく微笑んだ。
 カナは昼間の制服姿とは違って、体に合った黒いセーターを着ていた。透き通るような白い肌が更に強調され、目元に薄く施されたメイクがモルフォ蝶の鱗粉のようで美しい。
「心配したんですよ。先輩がリョウさんと喧嘩したって聞いたから……」
 カナは体を密着させるようにして近づいてきた。タイトなセーターは却って体の線を感じさせる。僕はカナが結構メリハリのあるスタイルをしていることに気がついた。
 こんなに可愛い子が売春をするのは良くない。僕が金だけはある中年のオヤジだったらどんな大金を要求されても絶対に買うだろうな、ってことも含めて本当に良くない。僕はカナの折れるんじゃないかってほど華奢な肩をつかみ、優しく押し返して微笑んだ。
「ありがとう、大丈夫だよ。ちょっと殴られたけどね」
 僕は頬に手を当てた。ドロシーの前でもそうだが、カナの前でも少し格好をつけてみたくなる。後ろでドロシーが笑ってるんじゃないかとも思うが。
「カッコイイですよ、先輩。リョウさんとやり合うなんて」
 ……カッコイイか。僕は少し可笑しくなった。
「全然カッコよくなんかないね。とんだ茶番だよ」
 苦笑交じりに呟いた途端、僕を見つめるカナの視線が戸惑ったようなものになる。しかし僕がどうしたのだろうと思った時には、カナは元の表情に戻っていた。
「そんなことないですよ」
 カナはもう一度ニッコリと笑うと、後ろで僕らを眺めていたドロシーを(やっぱり笑ってた)引っ張って少し離れた所に連れて行った。
「……何か嫌がられるようなことを言ったかな?」
 僕は少し不安になった。

「どうしちゃったんですか、先輩は? 昼間より数倍はカッコイイじゃないですか」
「そうかなあ?」
 ドロシーが意地悪く微笑む。カナは微かに眉根を寄せ、ドロシーを睨みつけた。
「まさか、貴女のせいだとか言わないで下さいね!」
「別にあいつが誰と寝てもかまわないんじゃなかったの?」
 ドロシーの問いに、カナは一瞬詰まってから答えた。
「……あの人が誰と寝たってかまいませんよ。別に自分だけのものにしたいってわけじゃないですから……でも」
 カナは小さく息を吐き、独り言のように呟いた。
「……あんな変わった人を好きになるのは、私くらいだと思ってたのに……」
「その台詞、あいつに聞かせてやりたいわ。何て言うかな?」
 可笑しそうにクスクスと笑われ、カナは少し声を荒げた。
「悪いですか!? 私は優しいだけで何も面白い所がないよりは変わってるくらいの方が好きです! すぐに底が見える人なんて何が面白いんです!?」
「確かにね。でも色々言ってるけど、本当にあいつのことが好きなのかどうか」
「……経済的に興味ある素材だと思ってるんですよ。長い投資をしてもいいって思うくらいにね」
 カナは自分がからかわれていることを悟り、意識的に落ち着いた声で答えた。
「私は人生はビジネスだと思います。恋愛だってそうです。どうせ恋をするなら自分にとってプラスになる人の方がいいじゃないですか。先輩はとても興味深い存在です。私はあの人のことを『買って』るんですよ」
 カナの答えに、ドロシーは満足げに微笑んでカナの肩を叩いた。
「貴女みたいな人がいるなら、この国の将来も明るいわね」
 それから声を低くして呟いた。
「彼に目をつけてるのは私たちだけじゃないから気をつけなさいよ」
 カナはしばらくドロシーを見つめていたが、やがて表情を和らげた。
「貴女も変わった人ですね……何者なんです?」
 ドロシーはカナの額に軽く口づけると、笑って言った。
「実は魔女なのよ」
「へえ……私、本物の魔女さんに会うのは初めてです」
 カナも額を触りながら微笑んだ。

 僕はドロシーとカナが話をしているのを眺めていた。
 何か言われてるんじゃないだろうか? ドロシーには色々と情けないところを見られてるからなあ。
「まあいいか……本当のことだからなあ……」
 僕は半分諦めて呟いた。
 その時、二人が僕の所に戻ってきた。
「先輩、せっかくスケアクロウに来たんですから踊りましょうよ。ほら!」
 カナが僕の手を取り、強引にフロアに連れていこうとする。
「ちょっと待ってよ、今日はもう帰るつもりなんだ。これ以上ここにいたら、また騒ぎになるかもしれないし……」
「何言ってるんですか。そんなこと気にしなくていいですよ」
「気にするなって言われても」
 カナは僕の言葉に耳を貸さず、やけに楽しげに僕の手を引っ張っていく。ドロシーまで僕を後ろから押し始めた。
「モテるわね、色男さん。夜は長いのよ、楽しまなくっちゃ」
「……わかったよ。だから手を放してくれ」
 僕は乱暴にならないよう二人の手から逃れようとした。
 ……と、その時。スケアクロウの入り口の方で何か騒ぎが起こった。
「何だろ?」
「誰か来たみたいですね」
 見たところ喧嘩という雰囲気ではないし、カナが言った通りのようだ。オカダの言っていたメインのDJだろうか?
「面白いのが来たわね」
 ドロシーが呟いた。

「リョウ!」
「何だよ、邪魔するな」
「今日のメインのDJって知らされてないだろ? どうも『K』らしいんだよ!」
 リョウは踊りを続けながら呟いた。
「へえ、あいつか……刑務所に入ってたんじゃなかったのか?」
「昨日出所したらしいんだ。それで受付が呼んだんだよ。あいつら仲がいいから……」
「成程ねえ。で、それだけか?」
 鬱陶しそうに仲間を睨む。
「そ、それだけじゃないんだよ。あいつらも来るらしいんだ、『カウボーイ』達が……」
 リョウは今度は明らかな不快感を顔に出した。
「あのジジイか……!」

 その時、スケアクロウに数人の者が入ってきた。

第三話「カカシとセルロイドの美女とライオンがメリーゴーラウンドの中で踊る話」 1

2007年12月08日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.9:40

 扉を開くと、光と音の洪水が溢れ出してきた。
 パイプや電線が剥き出しのコンクリートの壁には色鮮やかなグラフィックアートが描かれ、床には空き缶やスナック類のゴミが散乱している。
 受付の奥の壁には、ここスケアクロウの名前の由来である大きなワラ人形が、殉教したキリストのように磔にされている。絶え間なく続く重低音のビートと点滅する照明のせいで、建物全体が脈動しているようだ。
 僕は壁のワラ人形が、僕に向かって手を伸ばす感覚に襲われた。
「ようこそ、スケアクロウへ。素敵な夜をお過ごし下さい」
「あ……ああ、ありがとう」
 気がつくと、受付にいた男が僕のチケットをちぎっていた。
 タキシードを着崩した格好のこの男、名をオカダという。僕の数少ない顔見知りの一人で、ここスケアクロウの経営者だ。昔は売れないミュージシャンだったらしいが、奥さんを貰ってからは真面目にクラブを経営している。
 経営者と言っても、自分から積極的に受付に出て一人一人の客を歓迎するほどに親しみやすい人物だ。
 と、彼の顔から接客用の表情が消え、見る間に険しいものになった。
「いいのか? リョウ達がお前を待ってるぞ、殺されに行くようなものだ」
「……男には行かなきゃいけない時がある、って誰かが言ってたよ」
「誰が?」
「『にこにこプン』のポロリ……かな?」
「『母を訪ねて三千里』だろ? お前もいい加減あいつらとは別れた方がいいぞ」
 その後、オカダは僕の隣にいるドロシーが料金を払おうとしているのを見て手にキスをするんじゃないかってくらい感激していた。
 僕はため息をついて奥へと進んだ。
 スケアクロウはこの類のクラブとしてはかなり大きく、ダンスの為のフロアとDJブース、カウンターと休憩用の席が、それぞれ別々に区画されている。
 まだ時間が早いせいかフロアで踊る者は少なく、色タイルで床に大きく描かれたミケランジェロの『アダムの創造』を見分けることができた。
 このクラブは昔、ある気狂いの芸術家のアトリエで、床の絵はその頃の名残らしい、というもっともそうな話を聞いたことがある。
 僕はその絵を見る度に、遠い昔に思いを馳せる。もしかしたら人と人とが深く関係を持ち、人間が世界と結びついていたかもしれない時代を……。
 だが現代の僕達は、世界との繋がりを確かめる術を持たない。僕は時々、自分の指先にプラスチックが埋まっているような感覚を抱くことがある。僕は世界と結びついてはいないのだろうか。
 僕がフロアで踊る者達を見つめていると、いきなり誰かが僕の襟元をつかみ、引き寄せた。視界が回転し、僕は壁に叩きつけられた。
「よくも救急車なんか呼びやがったな!」
 衝撃で閉じていた目を開けると、ジンの大きく開かれた口が見えた。
「オイ! 聞いてるのか!?」
「……うるさいな。リョウに会えばいいんだろ?」
 僕はジンの手を振り払った。今までジンが苛立つのを見るのは恐かったが、今日は不思議と恐怖を感じない。何と言うか、ジンの怒りがひどく薄っぺらいものに思えたのだ。まるで鎖につながれた飼い犬が、無理をして吠えているように。
 ジンはしばらく僕を睨んでいたが、不意に目を逸らすとこう言った。
「……向こうの席にいる。ついてこいよ」
 僕は今まで何を恐れていたんだろう? 僕はジンの猫背な背中を見つめながら考えた。
「やるじゃない」
 後ろに立っていたドロシーが、僕の肩を軽く叩いて微笑む。
「君に鍛えられたせいかな?」
 僕は小さく笑って答えた。

「よお、いい女を連れてるじゃないか」
 リョウは長い椅子の中央にだらしなく座っていた。彼の両側には年下の女の子が座っており、リョウの御機嫌取りをしている。
「ようこそ、ならず者のたまり場へ……お姫様」
 ドロシーが無反応なのを見ると、リョウはフンと鼻で笑って視線を僕に移した。
「お前があのオヤジを助けた件だがな。俺はどうでもいいと思うんだが、こいつらがうるさくてな」
「リョウはこいつに甘過ぎるんだ!」
 ジンが腹立たしげに言った。僕に向かってくるでもなく、リョウの椅子の向こうから僕を睨みつけている。
 僕とドロシーの周囲をグループのメンバーが取り囲んだ。皆、無言で僕らを見つめている。どうやら僕は目立ち過ぎたらしい。
「お前もついてないよな。あんなオヤジを助けたばっかりに、こんな目に遭うなんて……まったくバカなことをしたよな?」
 リョウはビールの缶を持ったまま、右手の人さし指を伸ばした。その先にはドロシーの姿がある。
「いい女だ……貸してくれないかな?」
 リョウの言葉と共に、周囲の男達がざわめいた。どうやら皆、ドロシーには目をつけていたらしい。
「断る」
 僕の言葉に、ざわめきが更に大きくなった。
「彼女は僕の所有物じゃない。誘いたかったら直接彼女に言ってくれ」
「嫌よ。ろくな男がいないじゃない。貴方の方がいいわ」
 ドロシーはゆっくりと周囲を見回すと、僕の肩にもたれかかった。ざわめきがどよめきへと変化する。
 ……正直、少し嬉しい。
「それじゃあ、自分の体で払ってもらおうか?」
 リョウは立ち上がり、僕の前に立った。僕はドロシーを背に庇ってリョウを見つめた。
「俺の足元にひざまずいて、靴を舐めたら許してやってもいいぜ?」
「断るって言ったら?」
「う~ん……どうしようかな?」
 リョウは小さい子供に我侭を言われたように眉をひそめ、僕の顔を覗き込んだ。視界の端で、リョウの拳が握り締められるのが見えた。
 次の瞬間、視界が乱れ、物音が消えた。
 僕は数歩後退し、かろうじて倒れることなく持ちこたえたが、そこで膝が砕け、足元に片手をついた。
 視界が正常に戻り、コンクリートの床が見えた。口の中に鉄の味が広がり、床に赤い雫が落ちる。意識が混濁し、体全体が冷たくなったが、痛みはそれほど感じなかった。痛過ぎて感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
 その時、リョウが手を伸ばし、僕の襟をつかんで引き上げた。軽く貧血でも起こしたのか、天井の照明がやけに明るく感じられる。
「へぇ、驚いたな……気絶させないように手加減したのは確かだが、倒れもしないとは思わなかった」
 聴覚も戻ってきた。周りの奴らが騒ぎ立てる中、リョウの顔が間近にある。
「何か言うことがあるだろう?」
 ゆっくりと、聞き分けの悪い子供を諭すように、リョウが尋ねる。
「……リョウ……」
「何かな?」
 僕は必死で頭を働かせた。このままリョウに謝罪した方が得策だろう。今までの僕ならまず間違いなくそうしたはずだ……でも、今日はドロシーがいる。
 僕は口元を拳で拭い、言った。
「リョウ、僕は自分が間違ったことをしたとは思ってないよ」
 周囲の男達が信じられないといった顔をする。
「リョウ! そんな奴は仲間じゃねえ、殺しちまえ!」
 ジンが椅子の背を乗り越えそうな勢いで叫んだ。
 最も意外な反応をしたのはリョウだった。僕の答えを聞いた途端、目を大きく見開いて動かなくなったのだ。
「……なあ。まさか、それは本気で言ってないよな?」
「…………本気だよ」
 リョウの瞳から感情の灯が消えた……そして次の瞬間、大きく燃え上がった。
「殺すぞ! てめえ!」
 ほとんど金切り声に近い声でリョウが叫ぶ。僕の襟をつかむ力が信じられないくらいに強くなった、その時。
「ちょっと待った!」
 オカダが僕らの席に入り込んできた。
「店内での騒ぎはやめてくれ! ここでのルールは守ってもらわなきゃ困る!」
 周りの男達がオカダを排除しようとしたが、彼はかまわずリョウに近寄った。
「リョウ、俺はお前達がやってることくらい知ってるんだからな。もし何かあれば、即刻警察に突き出すぞ!」
「……わかったよ」
 リョウは僕をつかむ手を放したが、それはオカダの言葉に従ったわけではなく、興奮が多少鎮まったからであるらしい。
 リョウはもう、いつもの不敵な笑みを取り戻していた。
「だが、俺はこいつに話があるんだ。話をするくらいならいいだろ?」
「揉め事とはチェックするからな?」
「わかってるよ、話すだけだ……いいな?」
 二人は同時に僕の方を見た。オカダの視線が「やめておけ」と言っている。
 僕は衣服を整えると、横目でドロシーを探した。見れば座席とフロアの境目の柱に寄りかかり、静かに僕の方を見つめている。
「……わかったよ、リョウ」
 彼女の態度に少し落胆しながらも、僕はリョウの申し出を受けた。
「じゃあ、こっちに来いよ」
 リョウは指で方向を示した。
「何度も言うが、揉め事は……」
「わかってるよ。それより、メインのDJはいつになったら来るんだ? これじゃあ俺が回した方がまだマシだぜ?」
 リョウはがら空きのフロアの方を指差した。ただでさえ踊っている人数が少なかったのに、僕らの騒ぎで皆がこちらに集まって来ている。
「もうすぐ来るよ……色々とね」
 オカダは自分がこれ以上は干渉できないことを悟ると、妙な台詞を残して引き下がった。
「さて……二人っきりで話をしようか?」
「ああ……わかったよ」
 僕達は人垣を割って移動し始めた。
 正直言うと、まだ口の中が痛い。これから先は本当に危ないかもしれない。しかし、ここまで来た以上、退けない。
 僕がドロシーの隣を通り過ぎる時、ドロシーは二本の指を唇に当てると、その指を銃身に見たてて僕に向けて撃つ真似をした。
 僕は歩きながら軽く心臓を押さえて片目を閉じた。僕らにはそれで十分だった。
 これは後から知ったことだが、僕の後ろを歩いていたリョウはドロシーの身ぶりを眺めていた。
 その時、ドロシーはリョウを見て不思議な笑みを浮かべたそうだ。
 まるですべてを見通しているかのような目で、彼を見返していたらしい。
「いいか、その女には手を出すな! わかったな?」
 ドロシーの横を通り過ぎた後、リョウは振り返って皆に言った。不満そうな声を上げる者もいたが、反論する者はいなかった。

第二話「黄色い煉瓦で造られた交差点の話」 5

2007年12月07日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.7:45

「久し振りに泣いたせいかな? 何かすっきりした気分だよ」
 僕は大きく背を伸ばし、深呼吸をした。
「……何もしなかったのに?」
 ドロシーが呆れたように言う。
「やっぱり、貴方何処かおかしいんじゃない?」
「実はね、僕は宇宙人なんだよ」
 僕が軽く受け流すと、ドロシーはバカにされたような顔をしたが、すぐに吹き出した。
「ハハハ、宇宙人と魔女の組み合わせか……悪くないね」
 僕らは無断で近くのマンションの屋上に上がり込み、缶入りの紅茶で宴会を開いた。街を通り抜ける風は強く、気温は低かったが、これはこれでそれなりに洒落たお茶会だ。時計を持ったウサギがいないのが残念だが……あれ、気狂いの帽子屋とお茶を飲むのはドロシーじゃなかったっけ?
「夜景が綺麗ね。まるで星の海みたい」
 ドロシーが紅茶の缶を片手に呟く。
 周囲に高い建物のない十二階建てのマンションの屋上からは、近くのラブホテル街から繁華街の明かりまでよく見えた。昼に斉藤と揉めた歩道橋はどの辺りだろう? こうして上から眺めていると、何もかもが小さく見える。
「……僕には遊園地に見える。バカ騒ぎの繰り返しだよ」
「見解の違いってやつね」
 ドロシーは手すりに腰かけると、風に乱れる長い髪を手で押さえつけて振り返った。
「そうだね。昔から、遊園地って言葉をよく連想するんだ……どうしてかな?」
「昔、迷子にでもなったんじゃない?」
「そうかもしれない。何て言うか、いつも何処かに閉じ込められているような気がするんだ。メリーゴーラウンドみたいにグルグル回っているんだよ」
「アタシもメリーゴーラウンドは嫌いよ。だって何処にも行けないんだもの」
 僕はドロシーの隣に腰かけた。
「君は何処か行くところがあるのかい?」
 ドロシーは僕の方を見ると、何処か含みのある微笑みを見せた。
「アタシは海へ。それからその向こう、朝開きの海の彼方へ……」
「……何なんだい、それは?」
「トップシークレットよ。お楽しみがなくなるわ」
 僕はドロシーの奇妙な言動にはとっくに慣れていたので、特に気にすることもなく話を続けた。
「目的があるっていうのはいいことだね。僕は何処にも行けないよ。僕の時間は止まっているんだ。ここからは抜け出せない」
「時間と友達じゃないのね」
「僕は魔法が使えないからね」
 冗談めかして言うと、ドロシーはクスクスと笑って僕の胸に顔を寄せてきた。
 僕はドロシーの肩を抱き、引き寄せて抱き締めた。すぐ近くに彼女の心臓の鼓動を感じる。このまま抱き締めていれば、いつか僕らの心臓は一つになることができるだろうか?
「何が見える?」
 僕はドロシーの耳元に口を寄せて囁いた。
「ビルの上に綺麗な星が見える。オレンジ色の小さな星」
 ドロシーは僕に抵抗することもなく体を委ねていた。僕の問いに答える時に、胸の中を空気が移動するのが感じ取れた。
「僕は違う所を見てた。不思議だね、こんなに近くにいるのに別の所を見ているなんて」
「貴方とアタシは違う人間だから……」
 落ち着いた声でドロシーは言った。
「そうだね、違う人間だから違うものを見るんだね……でも、少し悲しい」
「どうして?」
「……昔、恋をすれば一つになれると思っていたから。恋をすれば、その人と一つになれるって……そうすればもう寂しくない」
「それは無理よ。他人は他人、貴方は貴方よ」
「……そうだよね」
 ドロシーは軽く息を吐くとこう言った。
「他人が何を見ているかはわからないわ。でもそれを聞くことはできる。聞いてよく考えれば理解もできる。決して一つにはなってくれないけど、そうすれば世界は広がるわ」
 僕はドロシーの肩に額を当てて目を閉じていたが、顔を上げると本当に街の明かりが星のように見えた。

 世界は一つではない。住む星が同じでも、それを眺める者の数だけ異なる世界が存在する。そして世界は、眺める者の立ち位置によってもその姿を様々に変える。
 その者の考え方、信仰する宗教、社会的地位、脳の構造、その時の感情……複雑な条件に応じて世界は様々に姿を変える。僕が美しいと思うこの世界は、アナタにとっては吐き気を催すものであるかもしれない。
 僕は地上に降り注いだ数多くの星を見つめた。あの星の中では、僕と何の関係もない人達が生活しているのだろう。家族で夕食の途中だろうか? 一日の話をしているのだろうか? テレビを見ているのだろうか? あるいは夜空の星を眺めているかもしれない。
 そして僕は離れたところからそれらを眺めている。多分、誰も僕のことに気づきはしないだろう。そして僕もあの星の住人達のことを何も知らない。それでも僕は星を眺め、彼等は生活を続けている。
 幼い頃、僕は自分が世界の中心にいると思っていた。
 自分から見えない所で人が動いていることを自覚していなかったのだ。
 しかし世界は一つではない。僕もアナタも一つずつ世界を持っている。それが重なることも衝突することもないかもしれない。アナタは僕とは何の関係もなく人生を終えるかもしれない……そしてアナタは、世界を酷い所だと思っているかもしれない。
 それでも僕は、この世界はそれほど悪くないと思っている。僕にはそう見えるのだ。
 アナタには世界はどう見えるのだろうか?

「そろそろ行こうか?」
 永久に続くかと思われた時間は、ドロシーの言葉によって終わりを告げた。
「行くって……何処へ?」
「九時から約束があるんでしょう?」
「スケアクロウでの集まりのこと?」
 僕は不機嫌に呟きながらドロシーの体を求めた。
「別に行く必要はないよ。あいつらとの関係はうまくいってないし、会いたくない奴も多いし……」
 それにしても、ドロシーはどうしてスケアクロウでのことを知っているのだろう? カナとの話を聞いていたのだろうか?
「正直、行きたくはないんだ。君は知らないだろうけど、あそこには僕の良くない仲間がいる。僕はそいつらとはもうつき合いたくないんだ」
「……そうなの」
 僕はドロシーの肩を両手でつかみ、少し体を離して彼女の瞳を見つめた。月の光に照らされて、ドロシーの瞳は美しく輝いている。
 人の目をまっすぐに覗き込んで話をするなんて、生まれて初めてかもしれない。
「僕は君のことが好きだ」
 自分でも意外なほどに流暢に、想いが言葉となって流れ出た。
 言ってしまえば後は楽だった。ただし自分の声が自分のものでないような気がしたが。
「僕は君といると……何て言うか、気取らなくてすむし、とても楽なんだ。君はとても変わっているけど……そこが魅力的なんだ」
 変わっている、という言葉を愛の告白に使ってもいいのだろうか? 少し疑問に思ったが、それでも僕は言葉を続けた。
「僕は君といれば変われそうな気がする。まだ出会ってから丸一日もたってないけど、僕には君が必要なんだ」
「……それは……」
 ドロシーは、彼女には珍しく言葉を詰まらせると目を伏せた。
 僕の勘違いでなければ、彼女の瞳は悲しげだった。しかし数秒の沈黙の後、再び僕を見つめた瞳には、いつもの悪戯っぽい光が宿っていた。
「ダ~メ、アタシは行くところがあるんだから」
 ドロシーは屈託なく微笑むと、踊るようにして僕の手を振りほどき、後方に逃れた。
「どうしてだ? ……どうして僕じゃダメなんだ!?」
 僕は叫ぶようにドロシーの背中に呼びかけた。
 ドロシーは僕に背を向けたまま階段への歩みを止めた。ビルの谷間を吹き抜けた一陣の風が僕達の間の空気を押し流し、ドロシーの長い髪が音をたててはためく。
「……ほら、パーティーに遅れるわよ」
 風がやんだ時、ドロシーは笑顔で言った。

 PM.8:00

「知ってる? 自分の声って耳の骨に響くから、自分では少し低く感じるんだって。ってことはさぁ、私の声は自分で感じてるより高いってことよね……ねえ、クミ。私の声って高いかな?」
 雑誌を読んでいたカナは、小さなコラムに目を止めて隣にいるクミに話しかけた。
「知らないわよ、そんなこと。私は貴女の頭の中に潜り込んだことはないから、貴女が自分の声をどれくらいの高さに感じているのかなんてわかりっこないわ。個人的な感想としては、貴女の声はバカみたいに高くはないと思う。ただしデリケートな作業を行っている時にはかなり神経に障るけど!」
 リズミカルにキーボードを叩きながら、クミは少し怒ったように答えた。
 江藤久美はカナと同い年の少女だ。かなり背が高く、長い髪を無造作に後ろで束ね、厚めの黒縁の眼鏡をかけている。服装は大きめの白いブラウスと、くすんだ色合いのロングスカートだ。
「それはゴメンね、クミ。それにしてもクミは面白いこと考えるね。人の頭に潜り込んだことはない……か。そうだね、一度、人の頭の中に潜り込んでみたいね。男とかがどんなこと考えてるのか気になるよね。特に私を抱いてる時なんて、男はどんなこと考えてるのかな?」
 カナは机に肘をついて考え込んだ。こちらは制服から着替え、体にぴったり合った黒のセーターと短めのチェックのスカートを身につけている。薄らと目元に施された青色の化粧が、カナの瞳に更に光を与えている。
 そばにはティーカップが置かれ、白い湯気を立ち昇らせていた。上品に顎に添えられた指はなめらかな曲線を描き、黒い睫と瞳は濡れたように深い色をしている。
「やっぱり、射精する時は大したことを考えてなさそうだよね」
 カナは髪をかき上げて笑った。
「……私は貴女の発想の不謹慎さの方が不思議だわ」
 クミはキーボードから指を離し、背もたれに身体を預けた。
「ほら、これで貴女が朝に会った男が何か言ってきても大丈夫よ。携帯からの操作一つでインターネットを通じて警察と会社に売春のことが伝わるようにしてあるから……勿論、貴女の名前や存在は一切出ないけどね」
「流石はクミね」
 カナが褒めると、クミは少し頬を赤らめてそっぽを向いた。
 二人がいるのは狭い単身者用マンションの一室だった。隙間なく並べられたパソコン等の機材と専門書によって、一層狭くなっている。
 クミはカナの中学生時代からの友人だ。彼女はカナと同じ中学校に通っていたが、三年生の春から不登校を始め高校には進学していない。今は親の名義で借りているこの部屋で一人暮らしをしており、カナ以外は誰もこの部屋にやってくることはない。もっとも、少し前に大きな地震があってからしばらくの間は、カナもこの部屋には寄りつかなかったが。
 そしてまた、ここは若松加奈と江藤久美によって経営されるデートショップ『K&K』の事務所でもある……いや、あった。
「大体、カナには援助交際なんて無理だと思ってたわ」
「そうかな? 一番効率のいい仕事だと思ったんだけどなあ」
「カナ。貴女は結局、自分が一番可愛いと思ってる。そんなタイプは援助交際なんてしない方がいいわよ」
「クミは自分が嫌いなのね」
 カナが呟くと、クミはため息をついてキーを叩いた。
「貴女は結局、自分しか愛していないのよ。みんなが自分を愛してくれると思ってる……貴女は他人を利用しているだけよ」
「……何かあったの? クミ。機嫌が悪いけど」
 クミはモニターから顔を遠ざけると、夕食用のハンバーガーを口にした。
「別に。ただ前から言いたかったのよ……今日は色々あったしね」
 カナはクミが不機嫌なことには慣れているので、慎重に穏やかな口調で話を続けた。
「確かに私は自分を中心に考えるけど、それを悪いと思ったことはないよ。自分を傷つけるほど他人に奉仕するのは間違ってると思うしね」
「悪かったわね、どうせ私はろくでもない男に騙されたわよ」
 カナは眉をひそめた。
「別にそんなことは言ってないよ」

 クミが恋をしたのは中学二年の冬のことだ。
 普段のクミは落ち着いた雰囲気の近寄りがたい優等生に見えるが、実はそれは本当の彼女ではないということを、カナはその時に知った。
 彼女の他人への距離の取り方は極端だった。必要以上に遠ざけるか、自分をなくすほどに近づくか。その二つしかない。
 彼女は学内では本当の自分を出していなかった。勿論、成績が良いのは誰もが知る事実だったが、まるで他人が自分の私生活を知れば自分が死んでしまうと信じてでもいるかのように、自分の考えや意見を口に出すことがなかった。
 実際、少女漫画やアイドルグループに憧れる内気な少女であることは、学校でもカナしか知らないことだったのだ。
 自分とは対照的なカナに、どうしてクミが自分の内面を曝け出したのかはわからない。カナがその時点から学校の外の世界を眺めていて、同じく学校と距離を取っていたクミがそれに憧れたのかもしれないし、お互いに親とはうまくいっていなかったからかもしれない。対照的な二人だが、根元の部分で繋がるところがあったのだろう。
 しかし恋愛の仕方はかなり違った。
 クミが恋をしたのは年上の男だった。カナから見ると偉そうなことを言うだけの何の実力もない高校中退のフリーターだったが、クミは彼に異常なまでに心酔していた。
 確かに、内気なクミが明るくなったのはカナもいいことだと思っていた。しかし問題なのはその関係だった。
 男は会う度にクミに金を要求した。計画的で無駄使いをしないクミは、中学生としてはかなりの額の貯金を持っていたし、またクミの親も子供には金さえ与えておけばいいと思っているタイプだったので、クミが男に渡した金額はかなりの額になった。
 しかし、所詮は中学生だ。自由にできる額には限りがある。クミは次第に男に金を渡すのが困難になっていった。
 クミが男と別れた……いや、捨てられた時、彼女の心と体は既にボロボロになっていた。カナはクミが男と別れたことに安心していたが、事態は更に厄介な方向に進んだ。
 クミは男にどんなに酷い目にあわされても男を恨むことはしなかった。それどころか自分に責任があるように思い込む傾向があった。そしてまた、クミはその年頃の少女としては大柄でしっかりとした体格だったが、本人は女らしくないと気にしていた。この二つに失恋が拍車をかけたのだ。
 クミは食事の量を極端に減らし、無理なダイエットを始めた。同時に、学校を休むようになった。毎日のようにクミの家に通ってダイエットをやめさせようとしていたカナは、ついにクミから話を聞き出した。
「だって……彼の隣に別の女がいたの……私より綺麗で、痩せてる女が……それで彼が私のことを、太ってて嫌な女だって……だから、私はもっと痩せなきゃ……そうしないと彼が会ってくれないもの……」
 そう言って、骨と皮のみの体となっていたクミは飲んだばかりの牛乳を吐き出した。
 カナはその時に思ったのだ。自分が彼女についていてあげなければ、と。
 クミの男への想いを断ち切らなければならない。実の娘のことにも無関心なクミの親はあてにならない。
 カナは自分の手でクミを立ち直らせると決意した。

「何度も言うようだけどさ、私は恋愛でも自分を第一に考えるべきだと思うよ。誰かの為に自分を捧げるっていうのは、それはそれで凄いことだと思うけどさ。それでも私は自分の意見を持つべきだと思う。恋愛はビジネスと同じだよ。お互いの利益にならないなら別れるべきだよ。私達は男の奴隷じゃないわ、人生の取引相手よ」
「それはね、カナは可愛いから。カナだったら男は幾らでも寄ってくるもの。楽しかった? 汚いオヤジ達にちやほやされて」
「クミ!」
 カナの鋭い声に、クミはビクリと体を震わせた。
「……ごめん、カナ……言い過ぎた……」
 呟いて、憑き物が落ちたようにうなだれる。
「何か……あったの? クミ?」
 明らかにいつもと違うクミの様子に、カナは真剣な表情で尋ねた。
「……あの男に会ったの。さっき夕食の買い出しに行った時に……」
「あの男って、まさか」
「そう。あの中学の時の奴よ」
 クミは拳を握り締めて呟いた。
「また別の女の子を連れてた。それも昔の私と同じ、中学生くらいの子を……」
「何て奴……!」
 カナは険しい表情で拳を握り締めた。
「私……あの男の姿を見てね、物陰に隠れたの……私は何も悪くないってわかってるのに……それでも、まだあの男と向き合うことはできないの」

 中学三年生の時、クミはカナと話し合って親元を離れることにした。学校をやめる必要はないとカナは言ったが、クミは今までのすべての関係を断ち切りたがっていた。
 クミの親はもっと大きな部屋を用意できると言ったが、クミは断った。そしてその代わりに、クミは最新のパソコン設備を手に入れた。
 クミはデスクトップに表示されている自分に送られてきたメールを見つめた。
「カナには悪いけど、この世界はまだ外見が大きな判断材料なのよ。それなら、私はそんな世界はいらないわ」
 クミはパソコンのケースを撫でながら呟いた。
「この中は私にとっての天国よ。ここは『外見』のまったくない世界。自分の考えと知識を直接やり取りできる世界……昔、何処かの評論家が言ってたわ。表現した物こそが、その人の真実だって……私もそう思う。この中での私は痩せっぽちで大柄な女じゃない。一人の表現者なのよ」
 最近、クミはネット上で様々なアイドルや漫画・アニメ・ゲーム関係の評論や、それについての表現活動を行っている。今ではかなりの有名人らしい。もっとも、クミは決して現実の場に姿を現すことはなかったが。
「でもそれじゃ、誰がクミを抱き締めてくれるの?」
 カナが言うと、クミは寂しげに微笑んだ。
「現実の世界では誰かと話をすることもできないのよ……私はね」
「クミは自分で自分の価値を見限ってるんだよ。私はクミって凄い人だと思う。あんな男とは比べ物にならないくらいにね」
 そう言って、カナは立ち上がると、クミを背後から抱き締めた。
「……ありがとう。貴女には世話になりっぱなしなのに、酷いことを言ってしまって」
 クミはカナの胸に頬を寄せた。
「気にしない気にしない。私は自分勝手な女だって言ったでしょう? 私は、何の面白みも実力もない、自分にプラスにならない人間と関係を持つのは時間の無駄だと思ってる。でも、そんな私がクミとはうまくいってるんだよ? つまり私はクミの能力を、とても買ってるってこと。クミは私の有能なパートナーだよ。私達は無敵のコンビなんだから……あ、こんなこと言うとまた人を利用してるって言われるかな?」
 クミは顔を上げて微笑んだ。
「そんなことないわ、私も貴女から沢山のものを貰ってるから……私達の間には、公平なビジネスが成り立ってるわ」

 PM.8:45

「どうする? 私はこれからスケアクロウに行こうと思ってたけど、やっぱり一緒にいようか?」
 カナは平静を取り戻したクミに尋ねた。
「ううん、いいわ。もう落ち着いたから……」
 クミは大きく深呼吸すると、さっぱりとした顔つきで微笑んだ。
「スケアクロウに行くんだったら、リョウさんの写真でも撮ってきてくれない? 壁紙にでもしようかと思ってるの」
「クミ、貴女って本当に男を見る目がないわね」
 カナの台詞に、クミは少し拗ねたように言い返した。
「カナだって男が目的なんでしょう? 貴女の趣味だって悪いわよ」
 カナは意味深な微笑みを浮かべながら、う~ん、と背伸びをした。
「クミの悪いところは自分の経済的価値を低く見積もり過ぎることだよ。やっぱり才能ある人間は有効利用しなくちゃね」
「その男もそんな人間なの?」
 カナは楽しげに答えた。
「それはわからない。でも何か気になるのよね。女の勘ってやつかな?」
 そしてカナは何を思ったのか、クミに近づくと彼女の頬に軽くキスをした。
「今度、一緒に遊びに行こうね。アミとかマコトも誘ってさ。人生は楽しまないとね」
 クミは真っ赤になった頬を誤魔化すように、乱暴にカナを振りほどいた。
「行くんだったらさっさと行きなさいよ! まったく、貴女はわけがわからないわ!」
 クミが怒鳴るのも気にせず、カナは笑いながら玄関のドアを開けた。
「じゃあね、行ってくるわ。そうだ、アメリカ行きの話は考えといてね!」
 カナはドアの隙間から手を振ると、あっという間に走り去った。
「何なんだか、まったく……」
 クミはしばらく怒ったふりを続けていたが、やがて堪えきれずに吹き出した。
「……何なんだか、まったく」
 今度は笑いながら同じ台詞を呟いたクミは、久し振りに幸せを感じている自分に気がついていた。
 それから、あることを思いついた。

 一時間後。
 クミの目前のモニターには、パソコンを使って『あの男』を社会的に破滅させる完璧なプランが表示されていた。
「今まで何で思いつかなかったんだろ。そうよ、何も直接会わなくたってあの男一人破滅させるくらいわけないじゃない」
 クミは早速作業にとりかかった。
 やがてお腹が減ってきたので、クミは夜食用に取っておくつもりだったハンバーガーも食べることにした。
「……また買い出しに行かきゃ」

 PM.9:38

「快楽とは部分的に肉体を抜け出すことであり、小規模な蘇生である。そして死とは恐らく彼岸へと続く痙攣であろう。ちょうど赤ん坊の泣き声が、快楽の頂点における叫びと似ているように」
「それって誰の言葉?」
 ドロシーが尋ねる。
「え……っと、マルコム、ド……シャザル……かな?」
 僕は壁の落書きの続きを読んだ。
 辺りは暗く、中途半端な電灯の光がその暗さを余計に際立たせていたが、その小さな落書きは、他の落書きの中で不思議と僕の目を引いた。
「それってどういう意味?」
 ドロシーが僕の腕を取って囁く。
「さあね、よくわからないな。何となくわかるような気もするんだけど」
「まあ、落書きってのはそんなものね」
 ドロシーが小さく笑ったのが聞こえた。
 クラブ『スケアクロウ』はオフィス街の一角、とあるビルの地下にあった。狭い螺旋階段を降りるに従って、壁を突き抜けて聞こえてくる重低音が大きくなってゆく。
「実はね。さっき屋上にいた時、君を後ろから襲って犯してやろうかと思ったよ」
「へえ?」
「言い方は悪いけど、それくらい好きだってことだよ。ここまで人を好きになったのは初めてだよ」
「物は言いようね。でも、そこまで好きになってくれたのなら、どうしてそうしなかったの?」
 僕の体にもたれながら、からかうような口調で尋ねてくる。
「……それができないくらいに君のことが好きになったんだよ」
 僕が言うと、ドロシーはクスクスと笑って僕の瞳を覗き込んできた。
「本当?」
「……本当だよ」
 僕はドロシーの瞳を正面から見つめ返した。
 ……もう、恐怖は感じない。
 やがて螺旋階段が終わり、僕達は分厚い扉を開け放ってスケアクロウの中に入った。

第二話「黄色い煉瓦で造られた交差点の話」 4

2007年12月06日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.5:45

 優雅な金属の破片が肌の上を滑っていく。その後を追うように、赤い血の筋が歪な十字を描いた。
「いいか? この世の中で安心して生きていく方法は二つある。一つは誰にも邪魔されない力を得ること。もう一つは力ある者に従うことだ……何も恥ずかしいことじゃない。昔から国家っていうのはそうやってできてきたんだ。お前の親父も俺の親父もそうやって生きてきたんだ。ただ違うのは、その順番くらいだ。俺の親父だって負け犬の一人だよ。だけどお前の親父は更に下の負け犬だ……聞いてるか?」
 リョウはナイフの腹で地面に倒れた男の頬を何度も叩いた。よく詰まった脂肪が金属を弾き、薄っぺらな音をたてる。男は何とか目を開いて反応しようとしているらしいが、意識が混濁しているのだろう、微かに頭を動かすのみだった。この様子では自分の額に逆十字の傷がつけられたことにも気づいていないかもしれない。
 商店街はそろそろ買い物客で混雑し始める頃だが、リョウのいる細い路地に人通りはない。その代わりと言っては不足かもしれないが、地面に敷き詰められた灰色のタイルの上には赤い血が点々と飛び散っていた。
 その時、ジンが戻ってきた。顔を上気させ首筋に汗をかいている。
「あの二人は逃げてったぜ、リョウ、やっぱりすげぇなあ! 何てったって三人相手だぜ?」
 ジンは興奮冷めやらぬ様子で話し続けた。表情が柔らかいせいか、いつもより童顔に見える。
「なあ、そいつはどうするんだ? ……殺すのか?」
 ジンの質問にリョウが悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうだな、殺すのも悪くない……」
 そう呟くと、リョウは逃走を試みて地面を這っていた男の尻を蹴り上げた。男がやけに高い悲鳴を上げて路上を転げ回る。リョウは蹴った反動で崩れた姿勢を戯けた身振りで立て直すと、地面に這いつくばっている男の前方に回った。
 苦痛に耐える男の眼前、タイルの隙間にナイフを突き立てる。
「男の子だもんねえ、喧嘩もしたくなるよな? 自分が一番強いって思いたくなるよな? ……え? それで女の子にもてたいって?」
 リョウは薄笑いを浮かべて一人で喋り続けた。
「よ~くわかるよ、その気持ち! だって男の子だもんねえ。強くなって世の中のおいしいところを楽しんで、沢山の女の子を犯すんだ……きっと楽しいよねえ」
 リョウは男の耳元に口を近づけた。男の顔には、明らかに先程までとは異なる汗が流れている。額の逆十字から汗と共に血が流れ、鼻筋を通って地面に落ちた。
「……だが、お前は負けた」
 リョウが甘い声で囁く。
「お前は負け犬だ。負け犬だ、負け犬だ、負け犬だ、負け犬だ、負け犬だ、負けい……」
 執拗に繰り返される嘲りの言葉に、逆上した男が拳を突き出した。しかし一瞬早くリョウが地面のナイフを抜き、男の喉元に突きつけた。
 ナイフは男の喉を突き破る直前で止まり、汗の量が更に増える。このまま顔が萎んでしまうのではないかと思われるほどに。
「……わかったな? お前は負け犬だ」
 リョウの言葉に、男がぎこちなく頷く。喉のナイフを意識しながらの動きだったので、喉の筋肉が必要以上に緊張し、ぶるぶると震えている。
「負け犬に待っているのは服従か死だ。どっちがいい?」
 リョウは男の瞳の中に服従の色を感じ取りながら、ナイフを再びタイルの隙間に刺した。
「ナイフが汚れている……お前達の血だ。汚いと思うよな?」
 男がもう一度頷く。リョウはニッコリと微笑むと、
「舐めろ」
 短く命令した。リョウの目は冷たく……最早人間を見る目をしていなかった。
 一瞬の沈黙の後、男が舌を伸ばしてナイフの刃を舐め始めた。
「情けないなあ、こいつ……」
 ジンはリョウのそばに寄って話しかけた。
 リョウは男の舐めているナイフを足で押さえつけていた。男は舌を傷だらけにしながらもナイフの刃を舐め続けている。
「……何か言ったか?」
 男を見下ろしていたリョウが不意にジンの方を見た。
 ジンは妙な違和感を覚えた。まるで出来の悪いロボットが、いきなり首を動かしたように不自然で急な動きだったのだ。
 リョウの目からはまったく感情が読み取れず、まるでカメラのレンズのようだった。
「……いいや、何でもない」
 ジンは自分が実験用の動物になったような感覚に襲われて言葉を濁した。
「おい、いつまでやっているんだ」
 リョウは抑揚のない声で呟くと、地面からナイフを抜いた。その拍子に唇の端を切られた男が悲鳴を上げて上体を起こす。
「いいか、このことは警察には話すな。もし言ったら殺す……わかったな?」
 リョウの言葉に、既に意識があるのかどうか、虚ろな目をした男が頷く。
 男の口からはジンが気持ち悪くなるほどの血が流れていたが、本人はあまり痛みを感じていないようだ。
「ちっ……却って汚れちまった……」
 短く舌打ちし、男の服でナイフの刃を拭う。
 次の瞬間、リョウは男を蹴り飛ばし、男は頭を地面に打ちつけて気絶した。
「……ジン」
 リョウがジンの名を呼ぶ。ジンが緊張しながら返事をすると、リョウは魔法が解けたようにいつもの雰囲気を取り戻していた。
「パーティーに行こうか? そろそろみんな集まってきているはずだ」
 リョウはナイフをしまうと、男には目もくれずに歩き出した。
 慌てて後を追おうとしたジンは、自分が大量の汗をかいていることに気がついた。

 PM.6:38

 アユミという女がいた。
 彼女は高校二年生で、リョウの仲間の一人だった。
 身長は百五十過ぎ、脱色した髪に日焼けした浅黒い顔をしていた。体つきは全体的に脂肪がつき、かなり逞しかったが……本人はダイエットを生き甲斐にしていたらしい。
 彼女は中学から大学までエレベーター式に進学できる私立学園に通っていたので、浪人生の僕をバカにした態度をとることが多かった。小学生の頃の彼女がどれほど成績優秀で、どんなに苦労して難関の中学に入ったかということを、僕は何度聞かされたことだろう? 実際、僕は彼女が入学試験中三教科目にお腹が痛くなったことだって知っているくらいだ。
 まぁ……確かに当時の彼女は成績が良かったのだろう。学校のレベルから考えると納得のいく話だ。
 しかし、今現在の彼女が小学生時代のボキャブラリーの半分でも持っているかどうかについては甚だ疑問だ。先程紹介したような自慢話を除けば、僕は彼女がテレビドラマと化粧品と男以外のことを話しているのをほとんど聞いたことがない。音楽は聴くようだが、彼女が聴く音楽には頻繁にテレビで放送されるか、最低でもヒットチャートの上位に入るという条件が必要であり、彼女はテレビで名前を見ない、もしくは彼女が興味を持っていないアーティストは全てくだらないものだとの考えを持っているようだった。
 個人的には、彼女の知識と見識の狭さと、自分の考えへの頑固さについては賞賛を贈りたいほどだ。一度、僕が彼女に些細な間違いの指摘……天動説を説いたのはニュートンではなくコペルニクスだということ……をしたら、逆に怒られたことがある。彼女が言うには、そんなことを知っていることの方が変なのだそうだ。
 アユミという女について僕が話すことはこれくらいだ。つけ加えるなら、彼女はリョウに抱かれたがっていた。しかし彼女とリョウとが最終的にどのような関係に至ったのか、僕は知らない。
 ここまで話してきた内容から、僕が彼女に好意を持っていないことはわかってもらえただろう。実際、彼女は僕が苦手とするタイプの女性の一人だっだし、向こうにしても僕のことは異性としての対象外だったはずだ。
 しかし世の中というのは不思議なものだ。
 例を挙げるとすれば、それは僕が彼女と寝たということだろうか。

 PM.6:38

 玄関のベルが鳴った。
 何をするでもなく壁の時計を眺めていた僕は、反射的に椅子から立ち上がると玄関へと急いだ。
 ドアの前に立ち、身なりを整えると、僕は一気にドアを開けた。
 そこには制服姿のアユミが立っていた。アユミはベルを鳴らすことに集中していたが、ドアが開いたのに気づくと手を止めて僕を見た。
 アユミは肩から白い鞄を下げており、鞄には小さな人形が数体ぶら下がっていた。怪我をしたのか右膝に大きな絆創膏を貼って上から医療用のテープでとめている。
「……待ってたよ」
 僕はアユミの機嫌の悪さを感じながらも無理に笑顔を作った。
「今、何時?」
 アユミは僕を押しやるように中に入った。
「六時三十八分だよ……もしかしたら三十九分かもしれないけど」
 アユミは軽く鼻で返事をすると勝手に上がり込んで部屋を眺めた。怪我のせいか右膝を軽く引きずっている。
「変な部屋。何もないんだ」
「……約束は五時のはずだろ? ……何かあったのかい?」
「別に何も。友達とカラオケに行ってただけ。だから喉が乾いちゃったわ、何か飲み物ある?」
 僕が冷蔵庫に牛乳があると言うとアユミは機嫌を悪くした。
「アタシが牛乳嫌いなの知ってるでしょ? 飲むとお腹痛くなるんだから! アンタとは違ってアタシは繊細なの、わかる!?」
 アユミは冷蔵庫を開けて中から飲みかけのウーロン茶のボトルを取り出した。ろくな物がないわね、と呟く。
「……それなら外に食べに行かないか?」
 僕が必死に不快感を抑えながら尋ねると、アユミはいかにも面倒臭そうに断った。
「やりたいんでしょ? だったら、さっさと始めなさいよ」
 アユミが空になったウーロン茶のボトルを捨てる。そして口の周りを拭うとベッドの方に歩き出した。
「誘ったのは君の方じゃないか……」
 僕は服を脱ぎ始めたアユミから目を背けて呟いた。こんな言い方は言い訳っぽくて嫌いだ。自分でも情けないと思う。今にも彼女は怒り出し、帰ってしまうかもしれない。
 しかし次のアユミの言葉は、完全に僕の予想を裏切るものだった。
「アタシだってリョウに言われたんじゃなきゃ、アンタなんか誘わないわよ」
「……何だって? 何て言った?」
 僕は彼女の言ったことが理解できなかった。
 アユミはカッターシャツのボタンを外す途中の手を止めて叫んだ。
「リョウに言われたのよ! アンタと寝たら俺も抱いてやるって! あいつは女を知らないから教えてやれって……そうじゃなきゃ、誰がアンタみたいな浪人男を誘うっていうのよ! どうしてこのアタシが!」
 僕の中で、もしかしたらアユミが僕に好意を持っているのかもという希望が音をたてて崩れた。誘われて以来、僕が今日という日にどれだけの期待と不安を抱いていたか。
 いや、アユミに僕の心情の理解を求めるのは酷というものだ。彼女は常に自分の感覚や価値観のみで物事を考える。そしてそこから導き出される解答、それに続く行動は非常に純粋なものだ。好きな男に抱かれる為に、嫌いな男を誘うくらいに……僕は本当に彼女のことを尊敬すらしている。
 ……しかし、どうしてリョウはアユミにそんなことを言ったんだ?
 椅子に力なく座り込んだ僕の前にアユミが立った。
 彼女は制服を脱ぎ捨て、下着とだぶついた靴下のみを身につけていた。右膝の絆創膏が痛々しい。
「どうするの? するの? ……しないの?」
 アユミの表情は険しく剥き出しの敵意が現れていた。妙な話だが、僕はこの時初めてアユミのことを綺麗だと思った。
 冷静に考えれば答えは一つだろう。アユミとはこのまま何もせず、リョウにはアユミと寝たと嘘をつく。そうすればアユミはリョウと想いを遂げ、僕らの関係にも傷はつかない。もしかしたらアユミは僕に感謝して好意すら持ってくれるかもしれない。
 勿論、寝たりはしないだろうが、いい友達にはなれるかもしれない。
 だがそれは、あくまでも冷静に考えれば……だ。
 その頃の僕は受験に失敗し、浪人生活にも行き詰まっていた。リョウ達の他に特に知り合いと呼べる者もなく、一日に誰とも会話しない日が多かった僕は、人との親密な交流に飢えていた。それが女性とのものであれば尚更だ。
 当時の僕を満たしていたのは果てしない挫折感と孤独感、それに抑えがたい性欲だった。
 僕は人の温もりを必要としていた。
「……約束は守れよ……リョウに言うよ……」
 僕は床に視線を落としたまま呟いた。アユミがあからさまな蔑みのため息をもらす。
「アンタさあ、最低だよね」
 ……僕だってそう思う。

「それで? どうなったの?」
「……別に……やったんだよ」
 微かにドロシーが息を吐くのが聞こえ、ベッドのスプリングが軋んだ。
「よくは覚えていないんだよ……初めてだったし、頭の中が真っ白になって、緊張して……いや、これは違うな。僕の場合そうじゃないんだ。逆に頭は妙に冷静だったよ。緊張はしたけどね。何て言うか、もう一人僕がいて、それが慌てている僕を眺めているような感じだった……そうだ、昔小学校の体育の時にもそんな感じがしたな。僕はクラスで一番運動が苦手だったから、何をやってもうまくいかないんだ。野球とかやってて思うんだよ、どうしてバットを球に当てることくらいできないんだろうってね……あんまり関係ないかな?」
 僕は少し手を伸ばした。ドロシーが近くにいると思ったが、手は何にも触れなかった。
「……まあ、別に慌てたり迷ったりするほど、僕がやらなければならないことはなかったんだ。彼女はもう服を脱いでいたし、ベッドにも寝ていた。少しだけど明かりもついてたから彼女が何処にいるのかもわかった。日焼けしてない部分で、彼女が実は色白だってこともわかったよ。それと彼女が本当に僕のことを嫌悪しているのもわかったね」

 バッターボックスには強い風が吹いていた。さっきまで砂をいじっていたベンチの裏とはかなり違う。
 僕の前にはピッチャーの大柄なクラスメイトがいて、僕をバカにした目で見ていた。ベンチには同じチームの男子と数人の女子、それと担任の女の先生がいて、数人の者が声を出していた。多分、「やればできる」とか「がんばれば打てる」とか言っているのだ。そして僕は、同じベンチに座っている数人の男子が僕の方を諦めたような顔で見ていることに気がついていた。
 運動が得意な彼等はクラスの中心的な存在で、その栄光は教室よりもグラウンドで多く示された。実際、この授業は彼等の栄光を高める為だけにやっていると言ってもそれほど間違いではない。僕は彼等の大半が僕と同じチームにいるので、今日は僕のチームが勝つだろうと考えた。
 彼等は次の打者のことを相談していた。
 その時、僕は自分が打てないということを確信した。
 ……実際にそうなったんだけど。

 アユミはキスをすることを許可しなかった。僕が行為を終えるまでの時間を少しでも引き延ばすことを許可しなかったのだ。
 僕のするべき行為は二つのみとなった。つまり、『入れて』『出す』のだ。例え二人の間に何の愛情も信頼も快楽もなくても、『入れて』『出す』だけで行為は終了を迎える。
 手続きというものは幾らでも簡略化できるものだ。

 初球はストレートだった。ボールは山なりの軌道を描きながら僕の前を通過した。僕はバットを振ったが、かなり振り遅れた。
 ベンチの方から「よく見て打て」と声がかかる。担任の高い声が一番耳に障った。
 僕は自分がやらなければならないことを考えた。ボールを『よく見て』『打つ』のだ。
 二球目は、バットが遥かにボールと違う軌道を通った。
「30cmはずれてたかな?」
 僕はそう判断した。頭の大部分は恥ずかしさとやり場のない怒りで混乱していたが、何故か片隅の方では、そんな自分の醜態を冷静に観察していた。
 ただ残念なことに、この冷静さはボールを『打つ』ことには何も役立たなかった。
 三球目はバットを振る前にボールがミットに到着した。多分、『よく見る』ことに集中し過ぎたのだろう。
 僕はどんな表情でベンチに戻ろうかと考え始めた。

 アユミの体は締まりなく柔らかかったが、包み込むような暖かさがあった。僕は少し安心した。思ったよりもアユミの肌が心地よかったからだ。
 その時、僕はアユミに見つめられていることに気がついた。
 部屋は暗かったので、アユミが本当に目を開けていたのかどうかはわからない。しかし僕には彼女の視線がはっきりと感じられた。そしてその視線には何の感情もこもっておらず、まるで理解の及ばない未知の生物を見つめているようだった。
「目を閉じてくれないか? 見つめられてると何もできない」
「……じゃあ、これでいい?」
 アユミは僕に背を向けると四つん這いになった。
 僕が何も言えずにいると、アユミは急に可笑しそうに笑い出した。声を上げてケタケタと……多分、本当に可笑しかったのだろう。

 野球の試合は、予想通り僕のチームの勝利に終わった。
 お前がいなければ、もっと点が取れてたんだからな、とチームの一人が言った。
 それを聞いていた担任が彼を怒ったが、僕は実際にその通りだと思っていたから別に嬉しくなかった。
 小学校における僕の体育以外の成績は良く、僕は担任のお気に入りだったようだ。しかし僕は担任のことがあまり好きではなかった。彼女は成績で人を判断したし……僕は彼女の丸い顔に張りついたような笑顔が恐かった。

「それでしたわけ? ……どうしてそこまで?」
「知らないよ。DNAに聞いてくれ」
 僕はドロシーの体を探しながら呟いた。
「初めてだったしね……その頃はセックスをすれば何かが変わると思ってたんだ。何かがね」
 確かに気配はあるのに、ドロシーの位置がわからない。その時、僕は彼女が自分のことを魔女だと言っていたのを思い出した。
「……でもね。結局何も変わらなかった……希望がなくなった分、前より酷くなったくらいだ。あっという間に終わったしね。彼女はすぐに帰ったよ。気分が悪くなったって言ってた。本当に何もいいことはなかったんだ。でもね、僕はまだ彼女の体温を覚えているんだ。そして落ち込んだ時にはあの温もりを思い出す……こんなことを言っても彼女は気持ち悪く思うだけだろうけど……それが僕を支えてるんだよ」
 あれからすぐにアユミは学校で問題を起こして退学になり、この町から消えた。聞いた話では地方の親戚の店で働いているらしい。
 彼女は確かに良い生徒とは言えなかっただろうが、問題を起こすような要領の悪い性格でもなかった。何故、彼女がそんなへまをやらかしたのかはわからないが、彼女が幸せに過ごしていればいいと本当に思う。
「笑っちゃう話だよ。リョウなら何て言うかな?」
 その時、僕は不意にドロシーが本当に部屋にいるのか不安になった。
「ドロシー? ……ねえ、聞いてる? 本当にここにいる? ……ドロシー?」
 僕は飛び起きてベッドの上を探した。その時、部屋の窓が開けられた。壁の一部が四角く切り取られ、群青の夜空と入れ代わる。そしてそこには、夜空に背を向けて立つドロシーのシルエットがあった。
「ちゃんと聞いてるよ。アタシはここにいる……心配しないで」
「……そうか、良かった……本当に」
 僕はやわらかな枕に頭を埋めて呟いた。
 その時、何故か涙が自然に零れ出た。
 頬を伝った涙は、自分のものとは思えないほどに暖かかった。

第二話「黄色い煉瓦で造られた交差点の話」 3

2007年12月05日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.5:27

「俺の家に裏庭があってさあ、小さい頃、いつも遊んでたんだ。庭は広くて周りには高い塀があった。木も何本も生えていてさ、俺はそれに登って外の景色を眺めるのが好きだったよ。小さい頃は人見知りの激しい性格でな、いつも一人で遊んでた……変なガキだったかもな。
 それが不思議だよな。俺が大きくなるのに従って、庭が小さくなっていくんだ。本当だぜ、だんだん小さくなっていくんだ。昔は塀まで走ってもなかなか着かないような気がしたけど、今じゃほんの数歩で辿り着いちまう。昔は大きく見えた木も池も、すっかり縮んじまってる……こないだ久し振りに帰ってみて驚いたよ。あの塀ってこんなに低かったんだな、ってさ。
 お袋は相変わらず木に水をやっていた。……何となく、お袋も縮んだような気がする。親父もそうだ、昔はもっと大きかったような気がするのに……どうしてなのかな?」
 リョウはタバコの煙を吐き出した。煙は白い布のように空中にたなびき、目に見えない微細な繊維が風に吹かれて解けてゆく。
「それってさあ、やっぱり土地の値段が上がったからじゃないか?」
 リョウの隣で話を聞いていたジンは、タバコの箱を開きながら言った。
「俺の親も家を買い替えたいけど金がないって言ってたな。とにかく狭くってさ、いつも雨漏りするんだ。まったく貧乏臭くって嫌になるよな。いつまでも汚い家に住みやがって……リョウ、聞いてる?」
「……聞いてるよ」
 リョウは道路の脇に止めてあるマスタングにもたれた。吐き出されたタバコの煙が風に乗ってジンの顔にかかる。ジンが咳き込むと、リョウは顔を背けたまま軽く笑った。
「リョウ、今日はどうしたんだよ。女を連れてくるって言ってたのに連れてこないし、妙に不機嫌だし……何か嫌なことでもあったのかよ」
 途端、リョウの雰囲気が変わった。
 相変わらず道路の方を向いているので表情は見えないが、リョウの無言の圧力を感じ取り、ジンはそれ以上話すのをやめて取り出したタバコを箱の中に戻した。
 その時、二人の前に三人の男が現れた。年頃はリョウ達と同程度で、いずれも髪を派手な色に染めている。男達は車の周りを取り囲み、二人を睨みつけていた。
「……誰だっけ、こいつら?」
 リョウの問いに、ジンが慌てて返事をする。
「知らないのか? こいつらが俺達の縄張りを荒らしてる奴らだよ。この前言ったじゃないか!」
「……そうだっけか?」
 リョウはジンの説明を聞きながら男達を眺めた。
 すると、三人の中から体格のいい男が歩み出てリョウの近くにやってきた。
 男はリョウよりも背が低く、よく鍛えられて引き締まった体をしていた。典型的なラップグループのような服装に身を包み、絶えず薄く開かれた厚い唇の間から、金色の犬歯が覗いている。
「いい車だな、神野?」
 男はマスタングの車体を軽く叩いた。男の拳には銀色の大きなナックルが填められており、表面に『POWER,ORDER』と彫られている。
 男は拳を車体に押しつけ、そのまま横に滑らせた。ナックルと車体が嫌な音をたてる。男は厚い唇に薄笑いを浮かべて話し始めた。
「お前がこの街のリーダーなんだってな? だがそれも今日までだ。これからは俺達、Killer-Beeがこの街を仕切る。わかった……ギャッ!?」
「おっと、悪い悪い。もしかしたらその顎が燃えるんじゃないかと思ってな……確か、脂肪って燃えるんだろ?」
 リョウは面白そうに笑うと、顎を押さえて呻いている男の前にタバコの吸い殻を投げ捨てた。
「て……っめぇっ!」
 男が血走った目でリョウを睨みつけ、残りの二人も左右に別れて身構える。
「ジン。お前の言う通り、土地の値上がりが原因かもしれないな」
 リョウは右耳のピアスを指で弾き鳴らした。

 PM.???

 夢を見た。
 夢の中で、僕は大きな車の後部座席に座っていた。
 車内は薄暗く、小さな室内灯に照らされて、シートの赤い色がかろうじて見分けられる。
 外には雨が降っており、窓についた水滴が光を閉じ込めながら次々とガラスを横切っていく。水滴の角度から考えるとかなりのスピードで走っているはずなのに、エンジンの振動はほとんど感じない。
 窓ガラスに側頭部を押しつけると、表面についた水滴が髪に染み込み、ひんやりとした感触が伝わってきた。
「……この車は何処に行くんだろう?」
 僕は外を眺めながら呟いた。
 すると、窓の外に遊園地の風景が現れた。美しくライトアップされたアトラクションの数々が、雨の夜空の下で騒がしく動いている。
「何処にも行きはしないよ」
 突然の声に振り返ると、僕の他には誰も乗っていないと思っていた後部座席に一人の男が座っていた。
 夢の中だからだろうか? 男の位置がひどく遠くに見える。顔も服装もよく見えないが、体格は僕と同じくらいだろうか。
「……どういうことだ?」
 僕は体を起こして声をかけた。
「簡単な話さ」
 男は話し始めた。この声……何処かで聞いたような気がする。
「この車には運転手がいない。それにハンドルは少し左にきったままで固定してある。だからいつまでも同じ所をグルグルと回っているだけだ。この車は何処にも行かない……いや、行けないのさ。簡単な理屈だろ?」
「危なくないのか? 運転手がいないなんて」
 どうも落ち着かない。相手の表情が見えないせいか?
「危ないことなんか何もない。この車は誰ともぶつからない、誰も乗せることはない、誰に傷つけられることもない……そして何処にも着かない。いい車だ」
 男は笑ったようだった。声はしないが、シルエットが少し揺れている。
「本当にいい車だ。ここは居心地がいい……一生こうしているのも悪くはないな」
「……冗談じゃない、これから下ろしてくれ」
 男の不自然に陽気な態度が僕の不安を増長させる。男は嘲るような口調で言った。
「そんなこと少しも思っちゃいないくせに……」
 途端、車の速度がいきなり上がり、僕は反動で姿勢を崩した。凄い速さで窓の外の景色が回転し、ミキサーにかけられた果物のように各々の輪郭を失ってゆく。
 男の姿が、遊園地の景色が、すべてが闇に溶け込むようにして消えてゆく。
「お前は誰なんだ!?」
 僕が叫ぶと、地の底から響いてくるような声が車全体を揺らした。

「ここから出たくないんだろう?」

 ……そして目が覚めた。

 PM.5:45

 目を覚ますと、一人の男の姿が見えた。
 男は白いシーツの上に人形のように横たわり、僕を見つめていた。
 痩せた体で手足が細長く、藁人形のような体型だ。
 安っぽい服装は、何処か体に合っていない。
 顔はまあ端正と言っていい方だったが、ひどく虚ろな目と生気のない表情が、男の全体的な評価を落としている。
 まるで地球で迷子になった宇宙人みたいだ、と僕は思った。
 そう、確かにその男は、何処か人間になりきれていない感じがした。
 数秒の混乱の後、僕はそれが鏡の天井に映った自分の姿であることを確認した。

 バスルームの扉が開き、バスタオルを体に巻きつけたドロシーが出てきた。
「……あ、目を覚ましたの? 良かった、やっぱり殴って気絶させたのは悪かったかなって思ってさあ」
 ドロシーは長い髪を拭きながらベッドの横を通り過ぎた。僕はドロシーの姿を眺めてからもう一度目を閉じた。
 ドロシーへの怒りはもうない。それよりも自分に対する嫌悪の方が心を満たしていた。
「……ここは何処だ? どうして僕たちはここにいるんだ?」
「なかなか哲学的な質問ね」
 ドロシーは部屋にあった小型の冷蔵庫を開けながら僕の質問を混ぜっ返した。
 僕は痛む頭を押さえながら起き上がった。少し考えて、ここが何処かはすぐにわかった。多分ラブホテルの一つだろう……確かあの本屋の近くにはこの類のホテルが多い。
 部屋はかなり広く、妙に大きい円形のベッドと、古いテレビと冷蔵庫がある。
 ベッドの脇には小型の机があり、僕の鞄が置かれていた。
「……哲学には果てしなく遠そうな所だね」
 汚れた床を見回して、僕は呟いた。薄暗い照明で誤魔化しているつもりなのだろうが、掃除が行き届いていないのが簡単に見て取れる。天井の鏡は大きなヒビ入りだ。
「そうでもないわよ」
 ドロシーはベッドの端に腰かけた。手には冷蔵庫から出したジュースの缶を持っている。
「だって、この上なら少しは人生を楽しめるもの」
「……それは確かに哲学的だね」
 ドロシーは目を細めるとジュースを飲み始めた。
 湯上がりの肌は薄く色づき、ほのかに湯気が立ち昇っている。黒い髪は流れるように肌の上を這い、小さな水滴が肩口に透明な飾りを作っている。
 ドロシーがジュースを飲む度に、形の良い胸が上下した。
「どうやってここに僕を入れたんだ? 受付で怪しまれなかった?」
 僕はベッドに横たわって呟いた。
「新手のSMだって言ったら納得したみたいよ」
「…………」
 ドロシーはクスクスと笑いながら僕の隣に横になり、腕を伸ばしてジュースの缶をベッドの脇に置いた。
 体を伸ばしたせいで、バスタオルがずれそうになっている。ドロシーの均整のとれた美しい肉体は、野生の動物のように力に満ち、存在感があった。
 鏡の中のドロシーを眺めていた僕は、その隣の僕自身の存在に気づいて目を背けた。
「……ねえ、これ何かな?」
 ベッドの脇を探っていたドロシーが、何かに気づいて声をかける。
 途端、僕の下で金属音がすると、かなりの振動と共にベッドが回転し始め、周りにけばけばしいライトがついた。
「な、何だ!?」
 不意を突かれて混乱したが、間もなく僕はベッドが回転する機能を持っているのだと気がついた。それにしても……随分と昔にテレビや映画なんかでは見たことあるが、こんな物が本当に実在するとは知らなかった。しかも自分が乗ることになるとは……。
「ハハハ、楽しいね。まるでメリーゴーラウンドに乗ってるみたいだ」
 吃驚して飛び起きた僕とは違って、ドロシーは楽しそうに笑っている。
 僕を見つめる瞳が、誘うような光を帯びた。
「……メリーゴーラウンドは嫌いだよ」
 僕は投げやりな動作で体をドロシーの方に向けると、彼女の肩をそっと抱いた。ドロシーの手が僕の背中に伸び、暖かな濡れた感覚が背中に伝わってくる。
 ベッドは僕の頭の芯に鈍い振動を与えつつゆっくりと回転し続ける……何だか意識に霞がかかっているようだ。このベッドにはこんな効果もあるのだろうか? 何となくデパートの展示台の上に乗っているような気もするが……。
 ドロシーの手が僕の背中をまさぐり、首筋へと移動した。僕とドロシーの距離はほとんどなくなり、彼女の匂いや体温まで感じとれる。僕はドロシーの頬に手をかけ、唇を近づけた。
 その時、僕の脳裏に嵐の中で回転するメリーゴーラウンドの映像が爆発的に広がった。滝のように降り注ぐ雨の中、狂ったように回転を続けるメリーゴーラウンド……赤や黄色やオレンジのライトが嵐を切り裂いて光り輝いている。
「……何? どうしたの?」
 僕は頭を抱えてうずくまっていた。心臓の底が抜けたような虚脱感と敗北感が全身を支配している。
「大丈夫? 体の調子が悪いの?」
 ドロシーが再度心配そうに尋ねてくる。
「ダメなんだ……」
「……何が?」
「何もかもだよ、こんなことできない」
 僕の言葉にドロシーは機嫌を悪くしたようだった。
「まあ、勝手にホテルに連れ込んで悪かったわよ、誘うようなこともしたしね。でも、アタシも殴ったのは悪いと思ってるし……貴方のことは結構気に入ってる。アタシってそんなに魅力ない?」
 最後の台詞に妙に力を入れてドロシーが尋ねる。
「君は綺麗だよ。とても魅力的だ。でも僕に君を抱くだけの価値はないんだ」
「何それ。もしかして病気持ち? それとも身体上の欠陥か何か?」
「……昔から何かが違うような気がするんだ。自分が普通の人間じゃないような気が……僕は人間じゃない、人間以下の何かだよ……だから君やカナちゃんに愛される価値もないんだ」
 僕は自分でもよくわからないことを呟き続けた。両目から涙が流れているのがわかる。
「人を愛するのが恐いの?」
 ドロシーは僕の前に横たわって言った。
「……恐いよ。何もかも恐いんだ、君もカナちゃんも……全て」
 僕は目を開けて天井を見上げた。天井の鏡にはライトに照らされて歪んだ僕とドロシーが映り、ベッドの外の景色がゆっくりと回転している。
「まるでメリーゴーラウンドの中にいるみたいだ」
 呟き、僕は天井を見つめ続けた。
 天井の僕も僕のことを見つめている。そしてあの瞳の中には僕の姿が映っているはずだ。そして、やはり僕の瞳の中にも……。
 その時、部屋の電気が消され、周囲のけばけばしいライトも消えた。ベッドの回転が緩やかになり、横でドロシーが起き上がった気配がする。
「……まったく」
 ドロシーは呟くと、バスタオルを外して僕を抱き寄せた。
「バカな男にはつき合いきれないわ」
 ドロシーの肌は少し湿りけを帯びていた。二つのやわらかなふくらみの向こう側から、心臓の鼓動が伝わってくる。
 完全な闇の中だというのに、そこはとても暖かい、心休まる空間だった。
「気にしない方がいいわ」
 不意にドロシーが呟き、僕の顔に彼女の息がかかった。
「そんなことは気にしない方がいい。何も怖がる必要もない……貴方の恐れるものは貴方を傷つけることはできても、貴方を殺す力はない。戦わなければならないものは、もっと別のところにあるのよ」
 僕にはドロシーの言っていることがよく理解できなかったが、不思議と不安が取り除かれたような気がした。
 ドロシーは僕の背を軽く叩き、歌を歌い始めた。それは聞いたこともない言葉の、奇妙な歌い方の歌だった。しかし、その不思議な歌には何処か懐かしい響きがあった。
「……カッコ悪いなあ、僕はさ……」
 呟き、僕はドロシーの体に顔を寄せた。
 歌声が少し止まり、ドロシーの体が微かに揺れる。
 僕は少し笑って目を閉じた。
 再び流れ出した歌声を耳に、ドロシーの体温と動きを肌に感じながら、僕は瞼の裏を眺め続けた。
 果てしなく続く暗闇の中で、世界がゆっくりと回っていた。
 僕も世界の中心で胎児のように体を丸めながら、ゆっくりと回っていた。

第二話「黄色い煉瓦で造られた交差点の話」 2

2007年12月04日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.3:13

 銀色のレバーをサードに入れて、リョウはアクセルを踏み込んだ。
 マスタングのメタリックボディが咆哮を上げ、命令に忠実に加速する。血のような深紅の車体は夕陽を浴びて更に毒々しく輝き、マスタングは制限速度も振り切って前を走る標的達に襲いかかる。
「すごーい、カッコイイ!」
 交差点に差しかかっていたマスタングが流れるような動きで前を走っていたBMWを追い越したのを見て、後部座席の右側に座っていた女が感嘆の声を上げた。
「本当! さっきのBMW、交差点でおたおたしてるよ。下手なのにあんなの乗り回すからだよね」
「言えてるー! それに見た? 助手席に座ってた女、センス悪かったよねえ。ねえ、リョウもそう思うでしょ?」
 左側に座っていた女が相槌を打ち、運転席のリョウに尋ねる。
「……ああ、お前達の方が上だよ」
 リョウは少しスピードを落とすと、バックミラーに映った二人の女の姿を見た。
 リョウは昨夜と同じ黒いコートを纏い、耳には逆十字のピアスをつけていた。車内が暑いせいかコートの襟元は大きく開かれ、窓の隙間から吹き込む風を受けて銀のピアスと共に揺れている。
 後部座席に座っている女達の名前はアリカとアイカと言って、リョウが大学で声をかけた二人だ。あまり大学に行かないリョウが二人に目をつけたのは、二人が大学内でもかなり目立つ存在だったからだ。
 ハンドルを軽く叩きながら、リョウは二人に尋ねた。
「……ところでさあ、前から聞こうと思ってたんだけど、どうして二人は同じ格好をしてるんだ?」
 二人の服装はまったく同じだった。
 二人はまったく同じタイトなTシャツと厚手のジャケット、ピンクのジーンズを身につけ、同じ派手な赤のスニーカーを履いていた。襟元と袖に黒いラインの入っている白のTシャツの胸部にはまったく同じ『A』の文字がプリントされ、胸の形まで……おそらくは最新の下着の効果によって……同じだった。
 髪型も二人は同じように髪を括り上げ、同じように染めていた。
 元々顔立ちが似ているせいもあるのだろうが、二人の顔は精巧な化粧法によって見分けがつかないほどに似通っていた。
 数少ない相違点はアリカが右側の耳にハート型のピアスをつけ、アイカが左の耳にダイヤ型のピアスをつけていることと、アリカの方が若干丸顔なくらいだろうか? 正直、昨夜共に過ごしたリョウにだって二人の違いを五つ以上見分けることは不可能だった。
「それはね、リョウ」
 アリカがリョウの質問に答えようとすると、アイカがアリカの頬に自分の頬をすり寄せた。
「「私達が親友だからだよ」」
 二人の声が重なり、そして同時に笑い出した。
「私ね、初めてアリカちゃんに大学で会った時、すっごく自分とそっくりで吃驚したの。そうしたらアイカちゃんも同じことを考えてたのね」
「それに二人で話してみるとね、趣味とか好きな物とかも同じだったのよね」
「勿論、男の子の趣味もね」
「そうそう、でね、私達は思ったわけよ。私達は親友になる為に生まれてきて、そして出会ったんだって」
「だから私達は同じ格好をして同じことを体験することにしたの」
「……同じ体験?」
 リョウが尋ねると、アイカとアリカは交互に喋り始めた。まるで二羽の鳥がさえずっているようだ。
「そう、同じ体験。私達は同じ服を着て同じ部屋に住むの」
「そして同じ景色を見て同じ物を食べるのよ」
「勿論バイトも一緒、講義も一緒」
「ノートなんか半分書けばいいのよ」
「そう、そして男とつき合う時も一緒よ」
「やっぱりいい男は共有しなきゃ、一人占めは良くないわ」
「そうすれば男を取り合うこともないしね」
「男は困らないのか?」
 リョウの問いに二人はクスクス笑って答えた。
「確かに最初はみんな戸惑うみたいね、でも結局みんな嫌な顔はしないわ」
「だって二人の女の子と何の問題もなくつき合うなんて滅多にできることじゃないもの」
「二人の女の子と同時にやれるなんて尚更よ」
「ただしデート代も二倍かかるけどね……あ、でもリョウは別よ」
「そうそう、私達リョウの為なら何でもするからね」
「……それは嬉しいな」
 リョウはハンドルで軽くリズムをとりながら笑った。
「でもさあ、まったく同じなんて疲れないか? 幾ら友達でもさ」
「「そんなことないよ~」」
 二人は言った。
「私達は友達なのよ、同じ物を共有するのは当然よ。私達は完全に平等なの、だから他の友達みたいに出し抜かれることも裏切られることも喧嘩することもないわ」
「私達は本当の友達なのよ」
 アリカとアイカは手を握り合って顔を寄せている。リョウは二人の様子をバックミラーで眺めていたが、不意に口元を歪ませた。
「……でも俺としてはアイカちゃんの方が好みだな」
 リョウの言葉に、アリカは瞬時にアイカの手を突き放した。
 しかしアイカはアリカにかまうことなくリョウに問いただしていた。
「ねえリョウ、それ本当?」
「ああ本当だ、アイカちゃんの方が可愛いよ」
「やった~!」
「アイカ! 貴女私を裏切る気!?」
 アリカが悔しそうに叫ぶ。しかしアイカは平然と答えた。
「いいじゃないアリカ、これはリョウが言ってることなのよ。それに私知ってるんだからね、アリカがバイトの客と寝たの。あれ私だって狙ってたんだから!」
「それとこれは話が別よ!」
「それにこの前の試験はアリカの方が成績良かったじゃない!」
「あれは当てずっぽうで書いたものがたまたま正解だったのよ! 同じ答案なんてできるわけないでしょ!?」
「知らないわ、そんなこと。おかげで来年もう一度取らなきゃいけなくなったじゃない。どうしてくれるのよ!」
「友達ねえ……」
 リョウは呟き、夕陽に照らされて金色に輝く窓辺の日よけを動かしながら考えた。
「そうか、あっちがアイカだったのか……見分けがつくのはいいことだな」
 リョウは後部座席で口論を続ける二人を無視して車を走らせた。洪水のように降り注ぐ西日の中を紅のマスタングが突き抜けてゆく。
「……友達……か……」
 リョウはもう一度呟いた。
 その瞳は何処か遠くを見つめていた。

 PM.3:30

「ねえ、あれ若松じゃない? ……ほら」
 信号で停車した時に、突然アイカが窓の外を指差した。
 しばらく冷戦状態で黙りこくっていたアリカも、アイカにつられて窓の外を見た。
 確かに、道路の向こう側にカナがいる。
「ホントだ、若松だ」
「……若松って、若松加奈か?」
 赤信号に苛立っていたリョウは振り返らずに言った。
「そう、体売りまくってる高校生。知ってる? あいつヤクザの愛人だって噂だよ。それでヤクを買う為に金を稼いでるんだって」
「そうそう、でもって病気持ちなんだって」
「へえ、それは凄いな」
 リョウはいつの間にか口を合わせてカナの悪口を言ってる二人にうんざりしながら呟いた。実際のところ、リョウは二人よりもカナについてよく知っているし……実は数少ない気に入っている者の一人でもあった。
 ……確か、あいつと仲が良かったよな?
「若松ってさあ、ちょっと可愛いからって調子に乗り過ぎなんだよね。何かこっちを見下してるような態度とるしさあ」
「そうそう、自分は汚いオヤジ達と寝てるくせにね」
「でも今日は若い人連れてるね。私達と同い年くらいかな。私だったら売春してる奴となんか絶対つき合わないなあ。リョウもそう思うでしょ?」
「あ、でもあれって確かリョウの……」
 リョウは何気なくカナの方を見、そしてその隣の人物に気づいた。
「あいつ……」
「あの人、確かリョウの仲間でしょ? 言っといた方がいいよ、あんな女とはつき合わない方がいいって」
「そうよ、あんな性格の女は最悪よ」
「…………お前達のほうがよっぽど最悪だと思うけどな」
「え? リョウ、何て言ったの?」
 リョウは前方に顔を戻すと、冷ややかに言った。
「降りろ、お前達」
「降りろって……ここで?」
「嘘でしょ? 今日は一緒にスケアクロウに行くって……」
 二人は必死にリョウの機嫌を直そうとしたが、リョウの態度は変わらなかった。
「用事を思い出した。それからお前達はスケアクロウに来るな」
「「な、何で~!?」」
 アリカとアイカが声を揃えて悲鳴を上げる。しかしそれがリョウの神経を逆撫でした。
 リョウは振り返ると殺気立った目で二人を睨んだ。
「降りろと言ったら降りるんだ!」

「何なの?」
「どうして?」
 道路に取り残された二人は、走り去ってゆくマスタングを見送りながら呆然と立ち尽くした。向こうを見るとカナが男と別れて歩いていく。
「あいつのせいだ」
「そうだよ絶対。だってリョウはあいつの話をしたら急に怒り出したんだもの」
「…………」
「どうしてやろうか?」
 アイカの言葉に、アリカは近くに落ちていた空き缶を拾った。

 PM.3:36

 リョウはアクセルを踏んだ。
 更なる力を得たマスタングは加速し続け、街はその形を留めることなく後方へと消え去った。
 制限速度の標識も、道路案内の掲示も信号も、周囲の車も全て消えていく。
「……畜生、何処なんだここは……」

 PM.4:46

『生物の種と言うと常に不変的な物であるように思われるかもしれないが、実は生物を分類するということはなかなかに難しいことなのである。
 第一に生物とは何かと考えると、生物とは自分の固有の情報(例えばDNA,RNAなど)を持ち、それを分裂や生殖などの方法によって永久に残していこうとする物質の化合物であり、この点で他の唯一の元素からなる鉱物などの物質とは異なるのである。
 つまり生物とは、どういうわけかは知らないが、地球上に誕生した科学物質の結合したものが自分を永遠の存在としようと思い立ったものなのである。であるから生物の特徴とは動くことでも知能を持つことでもなく、自分の情報を残そうとすることなのである。
 この考え方を用いれば、動物、植物、細菌、更にはタンパク質のかけらとRNAしか持たないウイルスでさえ同じ『生物』という仲間と言える。更に地球上の生物は一つの大きな系統樹にそって結びつけることができ、その構造も多少の違い……例えばDNA等の情報物質が核によって包まれていないとか、酸素呼吸をしないとか……はあれ、基本的に自身の情報を伝える器官とその情報に従って体を構築・維持する組織で構成される点では変わりがない。もっともウイルスは情報のみの存在であり、体を作る器官を持たない点で異常だが、これはウイルスがある種の生物のDNA等が他の器官から分離した後に独自に活動し始めた物であると考えればよいだろう』

「あの子……カナちゃんだっけ? 可愛い子だったじゃない。どうして拒絶するの?」
「別にいいだろ、そんなこと……それに、どうして君は踊ってるんだよ?」
 カナと別れてから、僕らは近くの本屋に入った。特に理由があったわけじゃないが、僕は目についた生物についての本を読んでいた。
 店内には軽快なファンクギターとビートが響いている。暇だったのか、ドロシーはラジオから流れている曲のリズムに合わせて踊っていた。
「いいじゃない、踊りたいから踊ってるのよ。それにパティ・スミスは本屋で踊って親友のレニー・ケイと出会ったのよ。知ってる?」
「……知らないよ(誰だよそれは……)」
「こっちの質問にも答えなさいよ。あの子はいい子じゃない、しかもどういうわけか貴方に好意まで持ってる。アタシが貴方だったら即ホテルに連れ込むわよ? あ、これ全米フェミニスト団体には内緒ね。脱退させられちゃうわ」
「…………(入ってるのか?)」
 僕はドロシーの質問を無視して本の続きを読み始めた。

『一般的には生物においての種とは互いに交配可能な生物の集団である。原始の海で誕生して以来、生物は様々な形態(植物、動物、菌類etc...それはつまり生物の情報のバリエーションである)をとってきたが、種とは同じ情報を伝える為の仲間であり、その団結は仲間内から突然変異、もしくは他の要因によって交配不可能な個体が誕生するまで続くことになる。
 しかし、ここに別の意味の『種』を持つ動物がいる。それは人間による文化的な『種』である。例を挙げてみると、黒人と白人は肌のメラニン色素量の差に代表されるわずかな差しか違いのない、同一の『ヒト』と言う種である。大袈裟に言っても互いに地方種の一つであり、交配も可能である。しかし長い期間、白人と黒人は同じ人間種であると思われていなかった。これは何故か?
 もう一つ例を挙げると、同じ人種であり外見上の違いがまったくない二つのグループでも、例えば一方がキリスト教のグループであり、もう一方がイスラム教のグループである場合、互いをまるで人間でないように扱うことがある。この場合、互いを同じ人間だと思わない理由は内包する情報物質の違いではなく、互いの持つ文化の違いである。
 人間は地球上で初めて知能を持ち、文化を持った生物である。そして人間はまた、地球上で初めて遺伝情報以外の要因による種の分類をした極めて珍しい生物なのだ。
 その場合の分類要因は個体群の持つ文化や生活習慣であり、つまり異なる文化を持つ個体群は互いをまるで別種の生物のように考えるのである。冷静に考えてみたまえ、頭に羽飾りをしていて色が黒くて生で魚を食べているからと言って殺す必要が何処にある?
 最後に私がフリーセックス主義者でもヒッピーでもないことを言っておいてこの章を締めくくりたいと思う』

 僕は本を本棚に戻した。
 読みながら考えたことがある。人間の分類は宗教や言語などの大きな文化の違いだけではなく、ほんの些細な違いによっても起こるのではないかと。例えば好きな野球チームの違いや服の好みの違いによっても、人はまるで別の生物のように扱われることがある。
 特にこの国では、些細な嗜好の違いによって小さなグループが形成される。そしてそのようにして形成されたグループは、残念ながら相容れないことが多いようだ。偏差値の違いによっても人間は分類されるし、運動能力の違いによっても、体格の違いによっても分類は起こる。ファッションの知識、会話の巧みさ、女性におけるほんのわずかな頭部の形や体脂肪率の差……最後のことに関しては僕も反省すべきだ。
 当然、僕自身も社会的に分類されてしまっている。さしずめ僕の社会的分類は『浪人生、しかもやる気なし』そして街での分類は『リョウのグループのメンバー』だ。それ以外の何者でもない……その分類からは逃れられない。
 いつの間にか、僕の後ろではドロシーが踊りながら歌詞を口ずさんでいた。スタイルの良さと動作の派手さが相まって、まるでシプシーの踊り子のようだ。
「何で無反応なのよ、人がせっかく踊ってるのに」
 ドロシーは何故か慌てて拍手を始めた近くのサラリーマンの方に手を振ると、次に流れ始めた曲に合わせてリズムをとりながら僕のそばに来た。
「じゃあ、踊らなくたっていいだろ?」
「それじゃあ生きてて面白くないじゃない。人生は楽しまなきゃ」
「それは嫌味かい?」
「勿論」
 僕がため息をついて視線を反らすと、ドロシーはステップを踏みながら呟いた。
「まあ、別にアタシが口出しすることじゃないとは思うけどさあ……何て言うか、貴方は妙なことで心を閉ざしてるような気がするから……あ、気に触ったらごめんね」
 相変わらずこの女は嫌なところばかり突いてくる。僕は本棚に額を当てると横目でドロシーを見た。……我ながら情けない目をしていると思う。
「僕は誰かを愛したりなんかしないよ……」
「本当?」
 ドロシーは僕の目を見ながら尋ねた。僕は彼女の瞳を避けるように視線をずらした。
「そうだよ、僕には誰かなんて必要ない……僕は一人で生きていける。僕に恋愛なんて必要ないよ」
「……それって本当?」
「しつこいなあ!」
 僕は乱暴な動作で向き直るとドロシーを睨みつけた。背にした鞄が反動で本棚に当たる。ドロシーは僕の態度に動じたようには見えなかったが、踊るのをやめて静かに僕を見つめた。
「……そういう視線はやめてくれ……僕のことを変な奴だと思ってるのか?」
「別に。ただ……」
「何だよ」
 ドロシーは軽く息を吐くと呟いた。
「……そういうことは泣きそうな目をして言わない方がいいわよ」
 僕は全身の血が沸騰したような感覚に襲われた。

 その後のことはよく覚えていない。僕の両手がドロシーの首をつかんだと思った瞬間、鳩尾の辺りに衝撃を受けて目の前が真っ暗になった。
 最後に見たものは、ルビーのように色鮮やかなサンダルだった。
 整理して考えると、僕はドロシーに鳩尾を殴られて気絶したらしい。そして彼女は、一人で僕を本屋から運び出したのだ。これでも五十五キロは体重があるのに。
 ちなみにこれは後から聞いた話だが、一連の様子を見ていた本屋の店員は、
「……失礼ですが、店内で大声を上げないでいただけますか?」
 と言ったらしい。
 テレビの評論家ではないが、僕はそれではこの国はダメだと思う。

第二話「黄色い煉瓦で造られた交差点の話」 1

2007年12月03日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.2:37

 昼時を過ぎたせいか、ファミリーレストランの中に人は少なかった。
 適当な席を探そうと店内をざっと見回した僕の耳に、ラジオの洋楽番組の音に混じって、不意に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ええっと、sinの二乗足すcosの二乗は1であって……」
 見ると、窓際の四人がけの席に一人の少女が座っていた。陽の光に背を向ける形で頬杖をつきながら参考書を読んでおり、短めに揃えられた黒い髪が濃紺のブレザーの上に影を落としている。テーブルの上には何冊かの参考書とコーヒーカップが置いてあった。
 少女は僕の視線に気づいたのか、少し吊り目っぽい大きな目をこちらに向けた。
「あっ、ウソ、先輩じゃないですか!」
「やあ……カナちゃん、久し振り」
 僕は女子高生……若松加奈に手を振った。
 カナは僕と同じ予備校に通っている、名門私立女子高校の三年生だ。彼女は通っている高校の名前と、それにつり合うだけの容姿で有名だった。
 実際、彼女の容姿はテレビなんかで見る同じ年頃のアイドルやタレントと比べても見劣りしないほどで、色白の肌にかかるストレートの黒い髪と控えめな宝石のような瞳……それと薄桃色の小さな唇がとても魅力的な少女だ。
 彼女に誘われ、僕はドロシーの同意を得て三人で同席することになった。
「すごーい、美人! ねえ先輩、この人先輩の彼女ですか?」
 カナはドロシーを見て歓声を上げた。
「違うよ、こいつは宇宙人で僕の命を狙ってるんだ」
 僕は着席しながら真面目な顔で言った。
「アハハハハ、そうなんですか?」
 戸惑うかと思ったが、カナは笑い出した。普段は落ち着いた子だが、今日は妙にはしゃいでいる。
「そんなところね。よろしく、地球人さん」
 ドロシーも席に座ってカナに微笑んだ。もっとも彼女の場合、先にメニューの方に手が伸びていたが。
「宇宙人っていうと、何処から来たんですか? バルカン?」
「多分、クリンゴンだ」
「……それ、酷いですよ」
 僕とカナが交わした会話の響きから、ドロシーは自分がからかわれていることに気づいたらしい。少し怪訝そうな表情でメニューから目線を上げた。
「ああ、クリンゴンっていうのは映画に出てくる宇宙人なんです。怪物みたいな戦闘民族の……」
 カナの説明を聞いて、ドロシーが僕を睨みつける。僕はウェイトレスが運んできたコップに手を伸ばすと、誤魔化すように音をたてて飲んだ。
「……すいません、何か気まずい雰囲気ですね。先輩は私につき合ってくれただけなんですよ」
 カナは僕らの様子を見て心配そうに言った。
「私、トレッキーなんです。ああ、トレッキーっていうのはスタートレックのファンのことなんですけどね、でもなかなか詳しい人がいなくて。それで先輩とはよくスタートレックについて話すんですよ」
 しばらく説明を続けた後、カナは照れたように笑ってつけ加えた。
「個人的にはDS9のシリーズが好きで……あ、シスコ艦長は理想のタイプなんです」

 カナに興味を抱く男は多かったが、カナの方は一向にそんな連中には興味を示さなかった。彼女は本当に気に入った相手にしか心を開かないタイプだったからだ。まあ、その態度が却って彼女の人気を高めているのだから美少女とは得な生き物だと思う。
 しかし、多くの人は彼女が良家の子女だからこのような態度をとるのだと思っているようだが実際には少し違う。これは僕を含めて数人の人間しか知らないことだが、彼女は非常に変わった……いやユニークな思考回路を持っているのだ。
「数学の先生がですね……あ、そいつタコみたいなおじさんなんですけどね。明日いきなりテストをするって言うんですよ。しかも三角数の! 私達は文系なのに、まったく何を考えてるんでしょうね? あの先生、禿げてて夏なんか頭から湯気出してるんですよ。いっつも『暑い、暑い』って、こっちが暑苦しくなっちゃいますよ。それに細かいことばかり注意してネチネチ苛めるんです。私のクラスに髪の毛染めてる人がいるんですけどね、その人なんか可哀想ですよ。あの人未だに髪の毛染めてる奴は不良だーなんて思ってるんですね」
 カナはそこまで一息に喋ると冷めたコーヒーを飲み干した。口調は悪いが、それほど悪意のこもっていない喋り方で、話すことを楽しんでいる感じだ。
「髪の色とか服装とかで、人間が悪いかどうかなんてわかるわけないじゃないですか。ねえ、そう思いません?」
「まったくだよ」
 僕はカナに解答を頼まれた数学の問題に目を通していた。問題自体は簡単なものだったが、僕は参考書を見つめながら別のことを考えていた。
「……で、どうなの? 仕事の方はうまくいってる?」
 僕の言葉に、カナの目がスッと細くなった。
「……ま、ボチボチですね」
 僕達の雰囲気が変わったので、ドロシーが不思議そうな顔をしてカナと僕を見つめた。
 カナは小悪魔のような目でドロシーを見ると、隣の椅子に置いてあった鞄を持ち上げてテーブルの上に置いた。
 一見すると普通の通学用鞄だが、よく見てみれば素人目にも相当に高価なものだということがわかる。カナは鞄の蓋を開けると、表紙に『K&K』と書かれた分厚いファイルを取り出した。
 ファイルには、よく集めたなと思うくらいにスタートレックのシールが貼られており、中にはびっしりと細かい文字が並んでいた。
「今週は月曜日と水曜日に一人ずつ、木曜日にがんばって三人……この日は学校が創立記念でお休みだったんですよ。それから何と今日の午前中に一人! 私って本当によく働いてますよね」
「……大したものだよ」
 僕が思ったままに呟くと、
「そんなこと言ってくれるのは先輩だけですよ……」
 カナはファイルを眺めながら呟いた。
 ドロシーは横からファイルを眺めていたが、どうやらその内容に気づいたらしい。
「……売春……か」
 カナはファイルを閉じると、花がほころぶように微笑んだ。
「ビジネスです」

 PM.2:45

「最近は法律ができちゃって、仕事がしにくいんですよ。おじさん達も怖がってるんですよね……それで友達に頼んでネットでお客さんを探してるんです。まあ、その分お金の払いはいいから、こっちは楽なんですけどね」
 料理が運ばれて来たので一時中断した話はカナによって再開された。カナは僕達と一緒に頼んだケーキをフォークで壊しながら話を続けた。先程の彼女の台詞ではないが、その口調は有能な実業家のようだ。
「知り合いには大きな組織に後ろ楯をしてもらって集団でやってる子もいるんですけど。やっぱり恐いですからね、そういうの。でも、個人でやるのも大変なんです」
「何か企業努力でもしてるのかい?」
 僕は運ばれてきた定食を申し訳程度に口に運びながら尋ねた。今日は朝食も抜いたし運動もしたので珍しく空腹だったのだが、カナの話を聞いていると食欲がなくなってくる。
 僕の隣では同じ定食を二つ注文したドロシーが平然と食べている。多分、このペースでいけば僕より早く食べ終わるだろう。
 ……一体どういう胃袋をしてるんだか。
「そうですね。やっぱり、他よりサービスがいいんじゃないですか? 色々と……ね。でも、同じ相手とは何回もしません。愛人とかそういうのは嫌いなんです。あ、そうだ先輩、この制服どうですか? 専門店で買って来たんですけど、やっぱり男の人の意見も聞かなきゃいけないと思うんですよ。おじさん達は可愛いって言ってくれたんですけど、あんまりアテになりませんからね」
 道理でいつもと制服が違うと思った。
「そうだな……うん」
 僕は返事に困って何気なく呟いた。
「君は凄いね……いつもそう思うよ。でも」
「でも。何ですか?」
 瞳を覗き込むように尋ねられ、僕は自分でもよくわからない返事をした。
「……僕は、女の子は砂糖とスパイスでできてると思ってたよ」
 えっと、これは何だったっけ?
 ……そうだ、確かマザーグースの歌の一節だったような気がする。まずいな、嫌味だと思われるかもしれない。
 しかしどういうわけか、カナは虚ろな目をして呟いた。
「……私も、そう思ってました。やっぱり先輩も、売春なんかしてる子は変な子だと思いますか?」
「いや、別にそうは思ってないよ。ただ、一歩間違うと危険な仕事だし……君の体のことも気をつけないと」
「体にはちゃんと気をつけてます! 避妊だって完璧だし、エイズだって、ちゃんとチェックしてます!」
 カナは強い口調で反論した。大きな目が更に見開かれ、色白の肌に赤みがさす。カナは一瞬息を止めると白い糸きり歯を噛み合わせた。
「私の体は私の物です。どうしようと私の勝手じゃないですか!」
 カナの声がどんどん大きくなる。まるでこらえていた感情が爆発したように。今までのカナがとても明るい態度だったので、僕は余計に驚いた。
「それとも何ですか? 将来の結婚相手の為に綺麗な体でいろって言うんですか? 俺はお前を愛しているから他の男と寝るのは許さない? それって変だと思いません? 愛っていうのは恋人の体を所有することですか? それは私の体を買うのとどう違うんです? 私の体は私の物です、親の物でも恋人の物でもありません。どう使おうと勝手じゃないですか!」
 カナは凄まじい勢いで捲し立てると、力尽きたようにうなだれた。店内の他の客や従業員が、僕らの方を盗み見ながら何事か囁きあっている。
「……何かあったのかい?」
 僕は可能な限り穏やかに尋ねた。普段の彼女はこんなに感情を表に出す方ではない、どちらかと言うと感情を隠す方だ……こんな彼女は初めて見る。
 カナは不意に顔を持ち上げると唇を歪めた。
「今朝の客がですね、こう言ったんですよ。身体を売るなんて最低だ、お前みたいな奴がいるからこの国は悪くなったんだ、って……お前なんか死んじまえって」
 カナはしばらく口を噤んだ後、再び唇を歪めて笑顔を作り、強い口調で吐き捨てた。
「こんな朝早くから女子高生を買ってる奴に言われたくはないですよね!」
 それからカナは僕の隣に視線を向け、ドロシーに尋ねた。
「……ねえ、貴女はどう思いますか?」
 ドロシーは一旦食事の手を休め、箸を口元に寄せてこんなことを言った。
「貴女はどうして売春をしているの?」
「……お金……かな?」
 少し考えてから、カナが答える。ドロシーは納得したような表情を見せると、再び定食に箸を伸ばした。
「金儲けの為だったら、客に何を言われても我慢しなさい。それがビジネスってものよ。もっとも、自分には売春婦としてのプライドがあるって言うんだったら話は別だけどね」
 カナは少し口籠ったが、しばらくして微笑んだ。
「……そうですね、私も甘いこと言ってましたね」
 カナはため息混じりに呟いた。
「でもね、お金だけじゃないんです。私、夢があるんですよ」
「初めて聞くなあ。何なの?」
 僕の問いに、カナはいつもの笑顔に戻って答えた。
「笑わないで下さいね、私、エンタープライス号に乗りたいんですよ」
 カナは不覚にも少し笑い声をもらしてしまった僕を軽く睨むと、テーブルの上の参考書を指で叩いた。
「人生で大切なことって何だと思いますか? 数学の問題を解くこと? いい学校に進むこと? それとも結婚して家庭に入って専業主婦になって、子供を生んでオバサンになって夫の我侭に耐えること? 冗談じゃないですよ」
 カナはしっかりとした口調で続けた。
「私、思うんですよ。折角の人生なんだから、自分の好きなように生きてみたいって。女だからとかそういうんじゃなくて、自分の能力で何処まで行けるか試してみたいじゃないですか。私、高校を卒業したら家を出て、貯めたお金で海外に行こうと思ってるんです。それで今、英語を勉強してるんです」
「それは凄いなあ」
 僕は本心から呟いた。
 カナは薄く微笑むと遠い目をして呟いた。
「でもやっぱり、理想の職場はエンタープライス号だな。だって、地球の危機が救えるんですよ? あーあ、あれに乗れるなら私、物理だって勉強するのに」
 二つ目の定食をほぼ食べ終わったドロシーは、そんなカナを見て微笑んだ。
「いい夢を持ってるわね。でも、それだったら売春はやめておきなさい」
「どうしてですか?」
「女を買うようなバカと一緒にいるとせっかくの夢が汚れるわ。大丈夫、急がなくても貴女はちゃんと成長できる。バカな男の金なんか貴女の夢には必要ないわ……そうでしょ?」
「……そうでしょうか?」
 カナは少し考え込んでいたが、やがて瞳を輝かせて言った。
「そうですね!」

 PM.3:28

「……さっき言いかけたことだけどさ……」
「何でしたっけ? さっきの話って?」
 カナは僕のそばに寄ると首をかしげた。
 僕達は遅い昼食を終えてレストランを出ていた。ドロシーは少し離れたガードレールの上に座っている。
「ほら、さっき、君が変だと思うか? って聞いて僕が答えた時のことだよ」
「……ああ、体に気をつけろってやつですか? あの時はすいません、私、ついカッとなって……」
「いや、それはいいんだ。で、あの時言おうとしたのは健康のことじゃなくてさ、君自身のことなんだよ」
「……私自身のこと?」
「そう、君のこと。僕はさ、君のことは本当に強いし頭もいい子だと思うよ。社会に出ても絶対に成功すると思う……だからこそ、売春はやめた方がいいと思うんだ。だって勿体ないじゃないか。もし何かあったらどうする? 君が今朝会ったっていう男もそうだけど、世の中には君が考えている以上に変な男がいっぱいいるんだ。 そういった連中は、君が体を売っているバカな女だと思って何をしてもいいと考えてるんだよ。もし殺されでもしたら取り返しのつかないことになる。だから、悪いことは言わない、今は安全な仕事をした方がいいよ」
 カナは途切れ途切れに呟いた僕の言葉を真剣に聞いていたが、ふとこう尋ねた。
「私……ちゃんと立派な大人になれるかな?」
「どうしてなれないって思うんだい?」
「…………」
「大丈夫、僕がカーク船長だったら絶対に君をスカウトするよ」
 カナは僕の言葉に微笑み、それから少し悲しそうな瞳で僕を見つめた。
「先輩の言葉はアテになりません。私、先輩がリョウさん達としていること知ってるんですよ」
「…………」
 カナは体を寄せてきた。彼女の黒髪が僕の胸に当たり、暖かな体温が伝わってくる。
「……私、先輩のこと心配です。先輩は人には優しいけど、自分のことを何かで縛っているようで……私、さっきの先輩の言葉は先輩自身に一番必要なことだと思います。何て言うか……先輩はもっと我侭になってもいいと思うんです」
 そう言うと、カナはパッと僕から離れて微笑んだ。
「御忠告ありがとうございます、先輩! 私、もう売春はやめます!」
 カナは『売春』という言葉が誰かに聞かれてはいないかと慌てて周りを見回す僕を見て、本当に可笑しそうに笑った。
「ねえ先輩? 私がもしエンタープライス号に乗ることになったら、先輩も一緒に来てくれますか?」
 僕の心の中に甘いピンク色の光が射した。……彼女と僕が一緒に行くって?
 だが僕の答えは、最初から決まっていた。
「……僕にそんな資格はないよ……」
 カナは一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐに元の表情に戻った。
「先輩、今日はスケアクロウでパーティーがあるんですよね。私も行きますから待ってて下さいね」
 そう言うと、カナは用事があるとかで去っていった。

 PM.3:36

「……うん……そうなの、やめるの……ここら辺が引き際かなって思ってさ。うん……ありがと、いきなり言ってごめんね。……ううん、そんなことないよ。ねえ、今度遊びに行こうね、クミも部屋に閉じ籠ってちゃダメだよ。……そうだ、さっき先輩に会ったよ。ほら予備校でいつも窓際に座ってる人……そうそう、結構カッコイイ人……えっ? リョウさんって……やめときなさいよ、クミはヤバい男ばっかり好きになるんだから。だから拒食症になんかなるんだよ。……アハハ、ゴメンゴメン……でもさあ、今思ったんだけど、リョウさんと先輩って似てるよね。……うーん、そうだなあ」
 歩道を歩きながら携帯電話をかけていたカナは、足を止めて空を見上げた。おぼろげにオレンジがかり、薄く雲がたなびいている。
「……うん、目が似てるかな? 二人とも寂しそうな目をしてるね。まるで檻に閉じ込められた野生の獣みたいに……」
 その時、カナの背後から金属音が響き、赤い空き缶がすぐ脇を転がっていった。
 振り返ると、少し離れた所に二人の女がいた。二人はカナを睨んでいたようだったが、やがて走り去った。
「…………何、あれ?」
 カナはしばし携帯からのクミの声に答えるのも忘れて立ち尽くした。
 そしてそれから、全然関係ないがスケアクロウにはこの前買ったセーターを着て行こうと思った。

第一話「彼女の銃と僕のビデオカメラの話」 5

2007年12月02日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.2:07

「人を殺したいと思ったことはあるかい?」
 歩きながら、僕はドロシーに尋ねた。
「殺したこと、じゃなくて?」
 ドロシーの返事は、僕の予想を遥かに上回っていた。
 週末のせいか人通りは多い。とは言っても、気をつけてさえいれば、まず人にぶつかることはなかっただろう。
 しかしドロシーの返事に戸惑っていた僕は、正面から歩いてきたサラリーマン風の中年の男とまともにぶつかってしまった。
「あっ、すいません」
「バカ野郎、気をつけろ!」
 反射的に謝った僕に対し、中年の男は振り返りもせずに吐き捨てる。僕は去っていく男の背中を見つめながら答えた。
「……ああ、殺したくなったこと……だ」
「貴方は人を殺したいと思ったことがあるの?」
「あるよ、幾らでもある。ついさっきもそう思った」
 僕はあまり他人に自分の考えを言うタイプではない。しかし、何故だかドロシーには話したくなった。
 彼女なら答えを出してくれそうな気がする。僕が閉じ込められている、この問題に。
「自分でも些細なことだとは思うんだ。誰かが僕の悪口を言ったり、嫌なことをしたり……酷い時には、そいつがそこに『いる』というだけで殺したくなってしまう。勿論、僕は本当にやったりはしないけど……いや、それが可能な状況でさえあれば、僕だって人殺しをするかもしれない」
 僕の脳裏に昨夜のおじさんの姿が映った。
 そして、お前も同罪だと言ったリョウの顔も……。
「嫌ならやめれば?」
 ドロシーは車の行き交うスクランブル交差点の前で立ち止まり、斜め向かいのファミリーレストランを見ながら言った。
「僕だってやめたいよ、だけど止まらないんだ。まるで自分の中に化け物がいるみたいだ……何か嫌なことが起きた瞬間、そいつは僕を支配するんだ。そして僕はそいつに逆らうことができない」
 僕はドロシーの横に並び、車の流れを見つめながら呟いた。
「……でも、どうして僕は人を殺したくなるんだろう?」
 すると、ドロシーが僕の方を見て言った。
「気持ちいいからよ」
「…………何だって?」
 僕はドロシーの言ったことが理解できずに聞き返した。ドロシーは冷静な顔で続ける。
「怒るっていうのはどういう行為だと思う?」
「さあ。何だろう?」
「怒るっていうのは結局、ストレスの解消よ」
 ドロシーは車の流れに視線を戻して言った。
「人間は物事がうまくいかなかった時、自分の欲求が受け入れられなかった時、それを解消したくて『怒る』のよ。目の前の障害を撃ち破る為にね。幼稚園児のお菓子の取り合いから核戦争まで、争いの原因はほとんど変わらない」
「……まあ、そういう考え方もあるよね……」
 僕の曖昧な反応を気にせずドロシーは続けた。
「怒りに暴力が伴うのは、それがストレスを解消する最も簡単な手段だから。相手と面倒な交渉を続けることなしに権力や腕力で相手が行動できないようにすれば……ねえ、とっても気持ちいいと思わない?」
「……それがすべてじゃないと思うよ。世の中には、もっとちゃんとした理由で怒っている人だっていると思う」
 僕の反論に、ドロシーは物わかりの悪い生徒に向けるような微笑みを浮かべた。僕は最近、人からこういう態度をとられることが多い。
「アタシだってそう思う。でも、それは少なくとも貴方のことじゃない」
 信号が青に変わり、ドロシーは僕を残して歩き出した。
「人殺しは最も簡単な問題の解決法よ。だって、相手がこの世から消えてなくなるんだもの、面倒な交渉を続けることも相手の要求を飲むこともない……素晴らしいことよね。でも気をつけた方がいいわよ、殺すってことは問題に対して他の方法で相手に勝つことができないって自分で認めたようなものだからね」
 僕はドロシーに追いついて言った。
「……君はこう言いたいのか? 僕は現実の問題に対して何もできない人間で、僕は……それを認めたくないから人を殺したくなるんだって?」
「へえ、頭いいじゃない。その通りよ」
 ドロシーが振り返りもせずに答える。その声は楽し気だった。
 頭の中がカッと熱くなった。
 僕の求めていた答えはこれじゃないと思った。
 僕は乱暴にドロシーの肩をつかみ強引に振り向かせようとした……正直、殴ってやろうかとさえ思った。しかし振り向いたドロシーの手にはいつの間にか銃が握られており、それが僕の眼前に突きつけられた。
 瞬間、意識が混乱した。すぐ目の前にいるはずのドロシーの声が、ひどく遠い所から響いてくるようだ。
「アタシはさあ、キリストじゃないから人を殺すなとは言わない。殺されそうになった、レイプされた、本当に大切なものを傷つけられた……これならまだ仕方ないと思えるわよ。でも、貴方には人を殺すだけの理由はないわ。まさか貴方のちっぽけなプライドが『大切なもの』だなんて言うつもりはないでしょうね?」
「……君はそう言うけど……僕はそれがないと生きていけないんだ」
 喉の奥から絞り出すように、僕は呟いた。
「ちっぽけなプライドでもそれがないと生きていけない。僕は……」

「僕は不幸なんだ……」

 僕らの周りを沢山の人達が通り過ぎてゆく。
 混乱した頭の中で、どうして誰もドロシーを止めないのだろうと考えた。白昼堂々、女が道のど真ん中で銃を構えているというのに。
 ……誰も本物の銃だと思っていないのだ。僕は気がついた。ドロシーの格好はまるで撮影中のモデルだし、僕は小型のビデオカメラを持っている。多分、みんな何かの撮影かリハーサルだとでも思っているのだろう。
「幸せな国ね。銃を構えても誰も何も言わない」
 ドロシーも同じことを考えていたらしく、周りを見回して呟いた。何故かその声はとても優しかった。不意にドロシーは銃を腰に戻し、微笑んだ。
「まあ、アタシにも貴方を殺す理由はないし……それに昨日は泊めてくれたしね。ありがと、礼を言うわ」
 そう言うと、ドロシーは僕に背を向けて歩き出した。しばらく突っ立っていた僕は、ドロシーとは逆を向いて、家の方向に戻ろうとした。
 これでいいんだ。僕は思った。……やっと逃げ出せたのだと。
 大体、あの女は半ば強引に僕の世界に入って来たのだ。そして僕の一番見られたくなかった所を暴き立てた。もうこれ以上、あいつと関わり合いになる必要なんてない。
 僕は横断歩道を渡りきった。
 信号は点滅して赤になりかけている。
 その時、振り向いた僕の視界に小さくなってゆくドロシーの後ろ姿が飛び込んできた。

 PM.2:14

 今でも、何故あんなことをしたのか自分でもわからない。実際、やっている途中だって自分が何をしているのかわからなかったのだから。
 順を追って話すとこうだ。
 僕はいきなり短く舌打ちをすると方向転換して、元来た横断歩道に走り出たのだ。横断歩道は五十メートルくらいの距離があり、信号はとっくに赤になっていた。そして僕が渡ろうとした道路の車は、信号が青になったのを見てアクセルを踏んでいた(当然のことだ)……そこに僕が飛び出したのだ。
 幸運だったのは、すべての車のドライバーが僕に気づいてブレーキをかけてくれたことで……僕はこの国の交通マナーの良さに本当に感謝しなければならないと思う。今後、水たまりの泥水を跳ね飛ばされたくらいでは怒ったりなんかしないと、その時誓ったほどだ。
 話を戻すと、横断歩道に飛び出した僕はブレーキとクラクションの音と誰かが怒鳴る声を完全に無視して走り続け、あろうことか横断歩道に突き出す形で止まった車(この人も僕の姿を見てブレーキを踏んでくれたのだ!)のボンネットの上を踏み越えて横断歩道を渡り切り、ドロシーの姿を追って人混みに突っ込んでいった。
 僕が今願うことは、その車のボンネットがそれほどへこんでなくて……運転手が僕の顔を覚えていないことだ。
 そして、僕はドロシーに追いついた。

「……何してるの?」
 ドロシーは息を切らして歩道に座り込んでいる僕を見て言った。
「…………言われっぱなしってのも……僕のプライドが許さないんだ……」
 僕はやっと立ち上がると笑いながら言った。
「それに、さっき肩に触って悪かったね……触られるの、嫌いなんだろ? これじゃあ斉藤のことを悪く言えないな」
 ドロシーは悪戯っぽく笑って答えた。
「相手によるわよ」
 気がつくと、手にしていたはずのビデオカメラがなくなっていた。走った時にベルトが外れたのだろうか? 高かったのに……僕は思ったが、不思議と悔しくはなかった。
「ところで、今思ったんだけど」
「何?」
「僕は不幸なんだ、って台詞は何か変だよね? ……妙に笑えるなあ」
 ドロシーは僕の顔をまじまじと見つめ、呟いた。

「何だ。本気で言ってたの」