メンタルと体調日記・社会復帰に向けて?

混合性不安抑うつ障害・うつ病・PMSなど・・・一応、社会復帰を目指しています。

今日の私から、妹へ

2010年10月11日 04時17分58秒 | 体調
教えなければ、恐らく存在が知れらることはないブログ。
存在を教えるのか、どうするかは決めてないけど。

今の思いを残しておこうと思った。

あなたは、作業療法士として、家族の一員として、よくやっている。
家族の中で作業療法士を演じて、仕事との境目がない今、家族以外の人と接することが、恐らく、救いになっているに違いないと思う。

そして、これを伝えると傷つき、恐れを抱くだろうけど、
その救いの中に家族を救う自分を見せ、陶酔に近い気持ちを抱き、その行動によって自分のバランスを取っているに違いないと思った。

今、書きながら、これをいずれ伝えるのか、どうか迷っている。

私の感じるものは、飽くまで一方方向からの視点で、違いないと確信に近く感じているけども、真実は異なるのかも知れない。

きっと、家族を労わる自分に陶酔するなと伝えれば、拒絶と怒りを持つことだろう。
拒絶できている間は、いい、自分でもしそれを認めてしまう事ができた瞬間に恐らく、精神的な均衡を崩してしまうのではないかと思う。

その時の救う術を見つけられないから、伝えることを迷う。

そんな事にもし、気づいて、それが事実だったとしても、立て直す精神力があると良いのだけれどもと思う。
この場合、かなりの強靭な精神力が必要になるに違いないと思う。

ここに書く内容は、私の主観にしかすぎないから、違っていれば、それはそれで良いと思う。

これ以上、精神的に追い詰めるなと涙したあなただけど、お肌のお手入れをする心の余裕が残っていたことに気づいてしまった。
お洒落に心配りできている事に気づいてしまった。

もしかしたら、余裕のギリギリの淵にいるのかも知れないけど。
それでも、あなたが追い詰めた私の心と比較すると、余裕がありすぎると感じてしまった。

私はね、10年以上、美容にかなり気を使ってきた。
なのに、ここ4年ぐらい、それができなくなっている。
やっと、美容液をつけるレベルまで心を持ち直したのに、あなたに追い詰められた心は洗顔さえも忘れてしまった。

本当に余裕がなくなる、追い詰められるということをあなたは知らないと思ってしまった。

どこまで行っても、これは私の主観。
だけど、私の自分の経験と勘がそう主張している。
ほぼ、今感じていることに間違えはないだろうと。

追い詰められた心を自分で持ち直した時、「昨日と反応が明らかに違うね。どんなものを見出したのかは、知らないけど。」と、あなたは、興奮して言った。
怒るように、拒絶するように、失望するように、希望を見出した私のその時を拒絶した。

あなたの立場を考えるとやむを得ないことなのかも知れない。
だけど、私はあなたのあの時のぶつけてきた感情を印象として記憶に残してしまって、忘れられそうにない。

今だから分かる。
あの時のあなたは、作為的に私をある道へと誘導しようとしていたのだと。
そして、あの瞬間、その誘導に失敗したかも知れない、失敗するかも知れない恐怖のようなものを感じていたこと。

考えてみれば、その背後で糸を引いているのは、実は姉かも知れない。
あなたこそが、姉の誘導に乗せられていた可能性さえある。

可能性は、いくらでもある。
気付いてしまった可能性は、その瞬間に、まるで自分の中で、真実のように成長してしまう。
今は、それをこれを書きながら、私自身が実感しているから。

気づいてしまった可能性によって、自分を追い込み、状態を追い込んでしまっている可能性さえもある。
可能性を追求してしまうと、本当に、言葉遊びのように堂々巡りが始まる。

マイナスの可能性の場合は。

プラスの可能性を信じてみなければ、未来は開けない。
プラスの可能性を信じず、マイナスの可能性のみを考えるという事は、極端に言えば、毎日当たり前にしていることが何らかの障害でできなくなると恐れる事に値するといって、過言ではない。

プラスの可能性を微塵も感じることができなかったとしたら、一歩も身動きできなくなる。
何もえらべなくなる。
目の前の現実しかわからなくなる。

日々の出社でさえも、家族の外出を見送ることさえも、大丈夫という可能性を信じることができなければ、心が許さなくなる。
本当に何も選らべなく、何もできなくなる。
そのにあるのは、失望と絶望と、そこに存在しているという事実しか痛感できなくなる。

あなたが私を追い込もうとしたのは、そういう処だと感じている。
違うだろうか。

人の人生をどうこうする事の恐怖を思い知った方がいいのではないかと思える。

お金面で責任を取るのは容易い。
現金と稼ぐ自信と投資する気持ちさえあれば、誰にでもできること。

別の側面から見た責任を取るというのは、その結果を一緒に背負うことなのかも知れない。
それは、同情なんて容易い気持ちではなく、真実の意味で、それをできるひとは、意外と少ないように思える。

もし、それをする事ができて、それを感じることができて、側にいつづけるとすれば、それは、これ以上ない救いに思える。
それ以上の救済はないかもしれないとさえ思える。

本当の意味で、人から救われるというのは、そういう事なのではないかと、今思う。

ただ同時に、そこまでの事は不可能に近いとも思った。

近い事ができるのが、恐らく、家族なのだろう。

ある人が、あなたの言動を見て、私のことをあなたが家族としてみていないと言っていた。
その時は、あなたを信じたかったから、それはありえないって思った。
だけど、ここまで文章を書いてみて、ある人の言葉が正しいのかも知れないと思った。

人の人生を背負う、責任を取るという事は、容易くはない。
命を背負うことなのだから。

あなたに私の命を背負えるのだろうか。
それだけの気迫を持って行動しているのだろうか。
もし、そこまで考えていないとしたら、浅はかすぎる。

私は、あなたにトコトン追い込まれて逃げ場を失い、自分の自我を取り戻せないと思った瞬間に身を切ろうと決意しているのだから。
本気で考えて、恐ろしいことを考えていると自覚もした。

だけど、それをしなければ、体は生きていても、死んだも同然に近いと考えてしまった。
そこまでして、体を永らえさせようとは考えてはいない。
心が宿ってこその肉体だと思っているから。

はたして、これを知ってもなお、決行できるのだろうか。

人の人生を背負うというのは、ひどい言い方をすれば、自分がその人を殺してしまう可能性もある。

大げさすぎる、物言いだと思う。
ここまで考える人は少ないだろうし、ここまで考える人間は心が病んでいると思う。
だから、こそ、今の自分を悪い意味でも良い意味でも肯定してしまえる。

最終段階に突入してしまったと自覚と同時に、私は大切に思うものをすべて切り離す。

そのために失いかけた精神を取り戻し、今平静を演じている。

あなたを怨むと同時に許してもいる。
あなたの辛さもそれなりに想像できるから。

あなたが、「なまけている」といった数年の私の苦しみと苦労に気づいてくれたとしたら、少し救われるような気がする。

ここまで、書いたけど。

たぶん、なんとかなるし、なんとかしようと考えている。
まだ、自分に期待して、未来に期待できているから。

この重たくって息苦しい文章が、ネットの中の多くの文章の中に埋もれてしまえばいいと思う。
たまに見つけた人に、何かをもたらしてくれるだけで十分だと思う。

だれも、不幸を望んでなどいないし、幸せにむかっていこうと行動している。

そろそろ、思考の限界が来たらしい。

思いつめてはいるけど、思いつめていない。
思いつめた瞬間に多くの未来は閉ざされる。
それだけでも、知っていてほしい。

救いは、信じれば、色々な形である。
手を伸ばせば、意外と届くものなのだと。

思考が錯乱しているけど、今、この時、あなたに何かを残したいと思った。
この文章は、それだけのエゴにすぎない。

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