村上氏が紹介していた「やる夫は未来を信じていないようです」シリーズは、私も見て嗚咽がこみあげてきた。泣いた。こうした体験も、来たるべきゴースト論とかに関係しているのだろうか。
『(村上裕一「ゼロアカ第五次関門の私記」より)…このシリーズは本当に身につまされる傑作ばかりで、例えば最初期にあたる「やる夫が自分に向き合いきれなかったようです」でやる夫が「マッチ一本分でも意味のあることをしようとしてるやつを……/お前らが笑うな………………」と叫ぶ様子には、最初に読んだときには号泣してしまったし、今見ても目頭が熱くなる。ここにあったのは記号と文字の羅列ではなくて明らかにやる夫の「声」だった。やる夫について書くために開いたサイトで、僕は確かにやる夫に励まされていた。マッチ一本分以上の意味が溢れていた。僕はやる夫について書くことが何かとても美しいことであるかのように錯覚していたのかもしれない。それは本当に「信仰」に似ていた。』
福嶋亮大氏のブログに「怒りに満ちた文章よりも、涙を湛えた文章」が好きだという言葉があった(「仮想算術の世界」2008/8/8)。私は村上氏の『Fate論』などにはそういう「海の底で結晶化されたような涙」のようなものがあったかもしれないと思う。しかしそれはこのやる夫で泣いたというのとは、また別の話になるのだろう。
私はやる夫の「成長と停滞」の物語(主人公が人格的に成長したかと思ったらご破算になってまた元に戻るという、いわばビルドゥングス&スクラップ・ロマン?)を描いた「2ちゃんねるまとめサイト」を読んで泣きながら、ふと物故された山本夏彦氏のコラムに出てくる岩野泡鳴の話を思い出した。
明治大正時代の文士・岩野泡鳴が、当時全盛の桃中軒雲右衛門の浪花節を聞いて、思わず落涙して、その落涙したことに自分で腹を立てて、泣きながら拳固で涙をぬぐいながら、この涙はウソだウソだと言い続けてやめなかった、というものだ。
この涙はウソなのだろうか。
浪花節というのは、たぶん過去数百年の日本人の「泣き」のデータベースから構成された涙腺刺激マシーンとして量産されてきたもので、そのようなワンパターンかつ周到な構成を持った物語に、文学という「不明瞭で崇高なもの」を志すこの自分が、たやすく、オートマティックに反応してしまい涙を流すなんて、そんな不条理なことは許せない、というのが岩野泡鳴の心情だったのだろう。
同じようなメカニズムがやる夫を読んで泣くこの私にも働かないということは考えられない。
しかしまた、そのときやる夫のような強い情動を引き起こすキャラクターが、少なくともそこらへんのゴミを漁るカラスなどの動物より、私にとって強い「実在度」を帯び始めるような気がしたのも事実である。やる夫の「中」に入って操作している人間が、もはや気にならない。むしろそっちのほうが操作されているような気がしてくる。人形浄瑠璃で操られる人形のほうが人間よりリアルで垂直的な存在感を持ち始めるというのと、ちょうど同じメカニズムが働いているのかもしれない。
ふと思ったのは、村上氏のゴースト論や福嶋亮大氏の神話社会学というのが発展した将来、過去の日本の文芸や文化環境にもそれらを適用することができて、「ここは同じだ」とか「ここは違う」「あそこが違う」ということがもっとうまく指摘できるようになり、その結果、現代の文化環境や諸問題が「こんなにも特殊なんだよ」とか「こんなにも通時代的で普遍的なものなんだよ」というのがもっと明瞭に言えるようになるのかもしれない。そのような作業が進むともっと過去と現在の断絶(や接続)がはっきりとなって、「未来のゴースト」や「想像力の未来」について私達が想像力を働かせやすくなるのかもしれないなぁ、と思った。
『(村上裕一「ゼロアカ第五次関門の私記」より)…このシリーズは本当に身につまされる傑作ばかりで、例えば最初期にあたる「やる夫が自分に向き合いきれなかったようです」でやる夫が「マッチ一本分でも意味のあることをしようとしてるやつを……/お前らが笑うな………………」と叫ぶ様子には、最初に読んだときには号泣してしまったし、今見ても目頭が熱くなる。ここにあったのは記号と文字の羅列ではなくて明らかにやる夫の「声」だった。やる夫について書くために開いたサイトで、僕は確かにやる夫に励まされていた。マッチ一本分以上の意味が溢れていた。僕はやる夫について書くことが何かとても美しいことであるかのように錯覚していたのかもしれない。それは本当に「信仰」に似ていた。』
福嶋亮大氏のブログに「怒りに満ちた文章よりも、涙を湛えた文章」が好きだという言葉があった(「仮想算術の世界」2008/8/8)。私は村上氏の『Fate論』などにはそういう「海の底で結晶化されたような涙」のようなものがあったかもしれないと思う。しかしそれはこのやる夫で泣いたというのとは、また別の話になるのだろう。
私はやる夫の「成長と停滞」の物語(主人公が人格的に成長したかと思ったらご破算になってまた元に戻るという、いわばビルドゥングス&スクラップ・ロマン?)を描いた「2ちゃんねるまとめサイト」を読んで泣きながら、ふと物故された山本夏彦氏のコラムに出てくる岩野泡鳴の話を思い出した。
明治大正時代の文士・岩野泡鳴が、当時全盛の桃中軒雲右衛門の浪花節を聞いて、思わず落涙して、その落涙したことに自分で腹を立てて、泣きながら拳固で涙をぬぐいながら、この涙はウソだウソだと言い続けてやめなかった、というものだ。
この涙はウソなのだろうか。
浪花節というのは、たぶん過去数百年の日本人の「泣き」のデータベースから構成された涙腺刺激マシーンとして量産されてきたもので、そのようなワンパターンかつ周到な構成を持った物語に、文学という「不明瞭で崇高なもの」を志すこの自分が、たやすく、オートマティックに反応してしまい涙を流すなんて、そんな不条理なことは許せない、というのが岩野泡鳴の心情だったのだろう。
同じようなメカニズムがやる夫を読んで泣くこの私にも働かないということは考えられない。
しかしまた、そのときやる夫のような強い情動を引き起こすキャラクターが、少なくともそこらへんのゴミを漁るカラスなどの動物より、私にとって強い「実在度」を帯び始めるような気がしたのも事実である。やる夫の「中」に入って操作している人間が、もはや気にならない。むしろそっちのほうが操作されているような気がしてくる。人形浄瑠璃で操られる人形のほうが人間よりリアルで垂直的な存在感を持ち始めるというのと、ちょうど同じメカニズムが働いているのかもしれない。
ふと思ったのは、村上氏のゴースト論や福嶋亮大氏の神話社会学というのが発展した将来、過去の日本の文芸や文化環境にもそれらを適用することができて、「ここは同じだ」とか「ここは違う」「あそこが違う」ということがもっとうまく指摘できるようになり、その結果、現代の文化環境や諸問題が「こんなにも特殊なんだよ」とか「こんなにも通時代的で普遍的なものなんだよ」というのがもっと明瞭に言えるようになるのかもしれない。そのような作業が進むともっと過去と現在の断絶(や接続)がはっきりとなって、「未来のゴースト」や「想像力の未来」について私達が想像力を働かせやすくなるのかもしれないなぁ、と思った。