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『下流志向』を読む⑤-「等価交換モデル」とペラギウス主義

2009年11月23日 | 内田樹
『霊的な感覚というのは、無時間モデルのちょうど正反対の、いわば「最大時間モデル」と言ってよいのかと思います。』(内田樹『下流志向』)

『下流志向』の本の最後のほうで内田氏は「日本人はゆっくりと宗教的な成熟に向かってゆくだろう」という予測を立てています。

『これはやはり時間の感覚のことですけれど、宇宙には起源があり、終末がある。時の始まりがあり、終わりがある。その悠久の流れの中にこの一瞬、という時間のとらえ方ができる人間のことを「宗教的な人間」あるいは「霊的な人間」と呼んでよいと思います。』(内田樹)

教育や労働を巡る「時間」に対する考察が一通り終わった後で、このように「霊性」や「宗教性」への言及がありました。

この「最大時間モデル」としての「霊的な感覚」の正反対にあるのが、「無時間的」「ビジネス・モデル」の極限で、そこでは人間が人間として生きていく余地がなくなってしまうことが危惧されています。

『無時間ビジネス・モデルの極限のかたちはプレイヤーに「おまえは誰であってもよい」と告げ、最後には「おまえは存在する必要がない」と告げることになるでしょう。』(内田樹)

ここに、次のような対比が作れます。

無時間モデル-ビジネス ⇔ 最大時間モデル-霊性・宗教

私は、この右側の項をもうちょっと考えてみたいと思いました。
過去の宗教的伝統の中に、どういう時間モデルが組み込まれていたのか。

内田氏がこの本で示す「等価交換モデル」や「無時間モデル」という概念を、宗教や霊性を考えるときにも使ってみたい。

キリスト教の長い伝統の中で議論されてきたことのひとつに、「救済」において人間は神とどのような関係を取り結ぶのか、という問題があります。

5世紀ごろアウグスティヌスという人が、ペラギウスという人と論争しました。

ペラギウスという人の考え方を単純化すると、人間が努力すれば、その功績に報いるように救いがもたらされる、というものでした。ここには、人間の救いに関しあたかも神との取引が行われているかのような関係があります。つまり、ペラギウス主義は神との関係に「等価交換の原理」を持ち込んでいるように見えるわけです。

アウグスティヌスは、そうしたペラギウス主義の「等価交換モデル」を批判して、人間側の功績とは対応しない「神の恵み」により救いがもたらされると考えました。
結果的には、アウグスティヌスの考え方が勝利し、これが中世のキリスト教の伝統となりました。

16世紀の宗教改革の時代に、マルティン・ルターは当時の教会が発行していた「贖宥状」に対し「それはペラギウス主義的ではないか」という危惧を抱きました。
「贖宥状」というのは「免罪符」とも通称されるもので、もともとは神への「報恩感謝」を示すための「寄付金」のようなものだったらしいのですが、ルターの目にはそれが、堕落した教会が「天国への切符」を民衆に売りさばいているように見えました。
「これを買えば天国へ行ける」というのはまことにペラギウス主義的で、ルターはそこにひそむ「等価交換モデル」に強い嫌悪感を持ったようです。

アウグスティヌスから中世までのキリスト教の伝統では、救いというのは神の恩恵によりもたらされるもので、そこにはおそらく「等価交換原理」ではなく「贈与原理」が働いていたのだと思います。

「時間」については、「恵みによる救い」や「聖霊による魂の刷新・成長」を重んじていた中世のキリスト教徒の生活は、かなり悠長な時間感覚に浸されていたものだったと想像できます。

ここで「無時間モデル」と「悠長時間モデル」との対比を無理やり作っておくと、中世では、信徒の間では、神の恵みを少しづつ頂きながら、善行をしたりしなかったり、または寝たり食ったりしながら生活のうちで何だか知らないうちに救われている、という悠長な時間モデルが採用されていた、と仮定することができそうです。

ペラギウス主義 - 「功績」と「恩恵」との「対応」   等価交換原理  
            「功績による救い」        無時間モデル
 
 中世の伝統   - 「功績」と「恩恵」との「非対応」  贈与原理
            「恵みによる救い」        悠久時間モデル

 ルター     - 「功績」と「恩恵」との「非対応」  贈与原理
            「信仰による義認」-法廷的義認  無時間モデル?

このように図式化してみると、ルターやその周辺の者たちが「恵みによる救い」よりも「信仰による義認」を強調したというのは、時間モデルで考えたら、どちらかと言えば「せっかち」な感じがするというのが私の印象です。

人は行い(功績)によってではなく、信仰(内面)によって救われる、というのは完璧にペラギウス主義を否定した考え方で、ルターにとってはアウグスティヌス以来の伝統を確認したものにすぎないのでしょうが、信徒が救われる過程での「聖霊による魂の刷新」を強調していた中世のカトリック教会がもつ悠長な時間感覚と比べると、どうしても急迫されている感じがします。

ルター派には、義は宣告される、という考え方があります。

神さまが、法廷や市場のようなフェアな場所で、それぞれの人間に「義」の宣告を下します。
それは人間にとってどうこうできるものではなく、ただ信ずるしかないようなものである。
「法廷的義認」と呼ばれるこの考え方は、後のカルヴァン派の「予定説」とも似ていて、とても「静的な」印象を受けます。ここではもちろん神様との等価交換的な「取引」は否定されているのですが、なんとなく「無時間モデル」への偏りを感じます。神様から恩恵をもらって、とろとろと少しづつそこから養分を得ていく、というのが中世の伝統だとすると、ルターやカルヴァンの考え方には「無時間モデル」に近づく危険がある、ようにも思えます。

  ルターの「信仰のみ」・カルヴァンの「予定説」
 … 神と取引できない but,時間による変化を認めない点で「無時間モデル」に近づいてしまう?

 マックス・ウェーバーが言うように、資本主義とプロテスタンティズムに何らかの関係があるのだとすると、こうしたルターやカルヴァンの時間感覚が、現代のビジネス・教育・労働に影響を与えていることもあるかもしれません。

以上、A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』という本を、内田樹『下流志向』の概念をあてはめて読んでみたことの結果です。(終わり)


参考:カトリックの「恵みによる救い」⇔プロテスタントの「信仰による義認」

『十六世紀のプロテスタント宗教改革の間、救済の言語における根本的な変化が起こり始めた。アウグスティヌスのような初期のキリスト教神学者たちは「恵みによる救い」という言語を用いる新約聖書の箇所を優先させていた。しかしながら、どのようにして神は罪人を受容し得るのかという問題との格闘によって、マルティン・ルターはパウロが主に「信仰による義認」について語っている箇所に焦点を合わせるようになった。どちらの文章においても要点は根本的に同じであると言う事もできるが、その要点を表現するのに用いられる言葉は違っているのである。宗教改革の最も重要な影響の一つは、「恵みによる救い」という言葉を「信仰による義認」という言葉に置き換えたということにある。』(A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』より)







1 コメント

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トランプエレメント (サステナブルエンジニア)
2021-08-23 22:48:57
ダイセルリサーチセンターの久保田邦親博士(工学)の材料物理数学再武装は人工知能と品質工学のあいのこみたいで面白いよ。最近学術問題なんかでネット分断が社会問題視されていますよね。これは人類文明の構造的な欠陥で、それは国富論で有名な経済学者アダムスミスまでさかのぼるという。専門家はよくトレードオフを全体最適化するといいますが、その手法が眠っているのがブラックボックスの人工知能の中だけ。そのエッセンスが関数接合論だとして実際アダムスミスの神の見えざる手をエクセルで計算している。なかなか興味深い。
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