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移転しました(2014/1/1)

平清盛 #10 義清散る

2012-03-12 | ヒストリ:平清盛

びっくりしました。
この時代でこういう話の流れのドラマって今まであったんでしょうか。
佐藤義清がまるきりストーカーでした。怖ええええ…
その一線は越えてはいけなさ過ぎる^^;

●系図
人間関係がどんどんややこしくなっていきます。毎週言っているな、これ。笑。
ここを押さえておかないと、後で話が分からなくなります。
この時代のややこしさは、保元の乱に向かういざこざが同時進行している所にあると思う。
いざこざ=皇室、摂関藤原氏、平氏、源氏の家族の争いね。
 

 
前回生まれた皇子が躰仁(なりひと)親王。
ドラマでは美福門院の出自が低いため皇太子となれず、関白藤原忠通に図ってその子、聖子の養子となっていました。
聖子は崇徳天皇の中宮になります。
先週言われていましたが、当時このご夫婦には子供がいなかったんですね。
一方、外戚になる忠通にも男児がおらず、弟の頼長を養子に迎え(させられ)る訳ですが、その後男児が生まれてしまう。
1156年の保元の乱は、要するに上流社会の相続争いです。
 
●雅仁親王元服
保延(1139)5年12月27日元服ということで、雅仁親王こと後白河の生年を調べてみると1127年。
12歳。あれで。
いやいや。それは分かってました。子供だという事は。姿見れば丸分かりです^^
元服は現在で言う成人式ですが、12~14・5歳くらいまでに済ませます。
何が変わるかというと、髪型が大きく変わるんですね。
前までの髪型は多分 みずら で良いと思うのですが、元服すると髻(もとどり)を結うようになる。
この元服式を加冠(かかん)の儀といって、この時から冠を被るようになります。
で、先日書いた『人前でパンツ脱いでる状態』ですが、成人した男性が髻を隠さずにいる状態を露頂と言います。

 露頂の状態

これが人前でパンツ脱いでる状態。
なので、時代考証的に言うとこの時代のマンガの多くでは皆フリチ…げふんげふん パンツ脱いでる状態で恥いるようすも見せず生活している事になります。笑
あんたたち楽園追放される前のアダムか。
この辺り、厳密に描かれていたのは私が知る限りでは岡野玲子の『陰陽師』位です。
博雅が恥ずかしいという表現をしていた。こういう所であーよく調べてあるなーという事が分かる。

ただ、これは清盛達の生きた平安末期でも同じ感覚なのかな…
ちょっと分かりませんが、ごく親しい人の前なら露頂もOKというのを見た事もあるので、一概にこう、とも言えない気がします。
難しいね。
ついでに言うと、この加冠の儀の際に冠をかぶせてくれる人の事を冠親といいます。
何週間か前に清盛が元服していましたが、その時は冠ではなくて烏帽子をかぶっていました。
武家なので侍烏帽子ですね。あの烏帽子を被せてくれたのが烏帽子親になります。
 
で、元服の際の雅仁親王のフリーダムな行動に皆さんどんびき…
佐藤義清が救いようがないと随分けなしていましたが、あれは当時の周囲の皆さんの人物評です。
ドラマの清盛や高階通憲(信西)のように見込みがある、なんて人は多分いなかっただろう。
後年、清盛の最大の障害として立ち塞がる人物が後白河であるから、そういうドラマ的な表現をしているのだと思います。
 
今様の話は先週書きましたが、あまりに凄くて「今様狂い」とか言われていた。
父の鳥羽院からも「あれは天皇の器じゃねーなー」とか言われてさ。だから余計に気楽に遊びまくるんだろうね。
そんな感じなので帝王学を叩きこまれた訳でもなく…
私のこの方に対する印象は、鵺とかそんな感じなのですが、この若い頃のあり方が大きかったんじゃないかなあ。

●藤原頼長
なんかね、最近彼の関係でブログにこられる方が増えてます。検索で当たるみたい。
こらそこー!調べたい内容は全部まるっとお見通しだ!ホモネタだろ!(こら)(笑)
うんうん。はっきり言って面白いよね。
なびかない相手をなびかせるために陰陽師に祈祷させたり新しいカレをゲットするために交際2年目のカレと一緒に家にまで押し掛けたりラブレター送ったり呪符携帯したり3Pに及んだりお願いそんな事に陰陽師使わないであげて(棒読)。
私も興味はあるしすっごく面白いと思うけど。
  
そう言う事だけじゃなくて、実在した歴史上の人物なのだからどんな人であったのかも知って欲しいと思うんです。
それに当時男色は上流社会では普通の事なんで。
それにこの院政期の頃って、ある意味男色のピーク時なんです。
好む好まないに関わらず、肉体関係を結ばないと出世できない例もありました。
後白河なんてまさにそうで、自分と男色関係にある近臣をどんどん取り立ててる。
この方、印象としては本当に手当たり次第で、源頼朝も子供の頃は後白河の相手をしていた可能性が濃い、という研究もあります。五味先生。
公家など貴族の子供がお寺に稚児として預けられた場合は、まずほぼ100%経験してます。
稚児ってそういう対象なんです。
じゃあ平家の公達殆どそうじゃん、といわれたら、殆どそうですとしか答えざるを得ない。
 
ぶっちゃけると、清盛の父親忠盛、ドラマで非常にカッコいいですけど、白河院に体を差し出したから出世したという話もあるんです。
気持ち悪いとか特異とかではなくて、そんなもんなんです。
保元の乱は、それぞれの家督争いが大本にあるのですが、度を過ぎた当時の上流社会の男色関係も決して無視できるものではないと思います。
要するに男色が絡んだ権力争いでもあるっちゅうことだよね。
 
でも!
頼長が男色の代名詞のようにしか扱われない事に悔しさを感じるので。
検索で引っかけてこのブログに来た人、読んでくれ。笑。これは一部よ。こういう面もあったのよ。
  
頼長は腹黒い”悪”左府と言われる一方で、非常な勉強家、高い学識を誇る人物で、

日本一の大学生、和漢の才に富む

と言われた。だい・がくせい ではなくて、 だい・がくしょう です。
当時の学生とは学者の事で、つまり頼長は「すごい学者」だと言われていた。
子供の頃から頭は良かったようです。
そして和漢問わず、ものすごい読書量。ものすごい勉強家。
寸暇を惜しんで勉強する。博覧強記とはこの人の事をさします。いや、本当に。
 
この時代の人の常として、日記をつけています。頼長の場合は「台記」。別名「槐記」。
この日記の1年の最後にその年に読んだ本が挙げられたりもしていて、中でもすごいな、と思うのはですね…

歴史書を学ぶ暇がないので、康治2年春より食事中と入浴中に、
家の書生5人に命じて交代で『南史』(南朝の歴史。全80巻)の要点を読ませ、これを3度繰り返す。
11月16日に一応終わり、翌日からそのテストをした。時間がないので入浴中に行う。
方法は書生に南史の主要な所の初めの文を読ませ、自分が後を答える形式。
80巻から591題を問われたが、覚えていて答えられたのは285題のみ。
半分にも達せず実に恥ずかしく、翌日からまた書生に読ませることにした。
 
この知識欲。どこから来るんでしょう。
康治2年と言えば1143年。頼長23才の頃です。このドラマの時間軸で言うと、4年後の話。
こういう一面もある人だった。
ドラマでは落ち着いた、やや凄味のあるヒールになっていますが、結構いい感じだなと思いながら見ています。

このドラマはディテールがバランスよくちりばめてあるな、と感じます。
頼長と清盛の初対面ではオウムが出て来ていました。
今回も頼長の室にオウムが出ていましたが、史実です。日宋貿易で孔雀と一緒にやってきています。
当時のオウムも喋っていたようで、頼長の日記には
「人間の舌と似てる」
「喋ってるのは中国語?だから分からないのか?」
「羽根を広げた孔雀、絵で見た通り!」
とか、そんな事が書いてある。

●出家
佐藤義清の出家にしても、同じ事を思いました。
娘ちゃんを縁側から蹴り落としていましたが、ああいう所で入れるのか、と素直に感心した。
元は「出家を思いとどまって」と追いすがる娘を思いきるために蹴落とす、というエピソードだったと思います。
義清は鳥羽院の待賢門院への態度を見て、
「愛しい故につき放す」
と言っていましたが、これって自分の娘を蹴ったこともそれにつながるような。
今回の義清と清盛の別れの話は好きです。うん…ああいうの大好きなんです…笑
西行法師はまあ、また気が向いたら書こうかなあ…

●源氏
散々ですなあ。我が祖父も検非違使としてそれなりに働いていた、とか。
ちょ、頼朝酷すぎwww
 

毎回「今回のドラマと史実」みたいな感じですけど、どうなんだろう。
興味持って読んでいる人いるのだろうか…というか、ドラマ見ている人がどれだけいるのか、という^^;
   


上記したように異様に頼長×アレなネタで来られる人が…
それでちょっとぐぐっていたらあるコピペ(2ch)に出会いました。思わず吹いた。以下転載してみる。
確かにね…面白いんだよね、こういう話…
そっち系ですので、苦手な方閲覧注意。
 
****
 


6 : ウホッ!いい名無し… : 2008/09/22(月) 03:36:32 ID:AoHY7zg3 [1/2回発言]
61 名前:1/2 投稿日:2007/11/04(日) 23:00:17
頼長というとこのコピペを思い出す

18 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/10/21(土) 16:38:30
平安の大物ホモ藤原頼長の日記「台記」の研究を読んでるんだけど
「受領讃」こと大僕卿孝標とかいう男が笑えた。


孝標日記(仮)

1. 頼長から手紙でしつこく言い寄られる。うざい。無視。
 つーか俺には愛する妻もいるし。

2.このまま無視し続けるつもりだが、どうやら
 俺とヤりたいがために坊主に加持祈祷までさせてるらしい。キモすぎ。

3.元上司の藤原忠雅さんは頼長の愛人の1人だったらしく、
 俺と頼長の仲を取り持ってポイントを稼ごうとしてやがる。
 これはかなり断り辛い。最悪。

4.しかたなく1回だけ会ってやる。会うだけだ。
 それに忠雅さんも同席してもらって3人で。妙なことにはなるまい。

5.忠雅さんが頼長と別れたらしい。なんかかなり嫌な予感がする。

6.頼長のやつ調子にのって、今度は陰陽師に祈祷させてるらしい。テラキモス。
 つーかストーカーだろ完全に。
 1度会うだけの約束だったじゃねーかよ。祈祷のせいか最近夢見が悪い

7 : ウホッ!いい名無し… : 2008/09/22(月) 03:37:03 ID:AoHY7zg3 [2/2回発言]62 名前:2/2 投稿日:2007/11/04(日) 23:05:01
19 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/10/21(土) 16:39:09
7.久しぶりに忠雅さんから呼び出されたので、
 何の用かとおもって家まで行ったら、ニヤニヤした顔の頼長がいた。
 畜生、ハメられた。
 って言うかこの日は忠雅さんの手前、断りきれずに
 とうとう実際に「ハメ」られてしまった。ケツが痛ぇ……。痛ぇよ…。

8.妻が難産で死んだ……。子供も死産だった。欝だ。俺も死にたい。
 とか言ってる矢先に、玄関先まで頼長が来てるらしいと従者から連絡が。
 馬に乗って駆けつけてきたらしいが「空気読め」と百万回言いたい。
 なんでこんな奴が藤原氏の氏長者なんだクソが。
 馬より鼻息荒らそうで想像するだけでキモい。顔も見たくない。
 もちろん追い返すように従者に言った。はぁー。

8.妻が死んでからは頼長も言い寄ってこなくなった。
 さすがに俺の胸中を察してくれたのかな。
 噂では今は年上の男と乳繰り合ってるらしいがもうどうでもいい。

9.と思っていたが妻の四十九日が終わった直後、
 忠雅とさん一緒に頼長がうちまで押しかけてきた。
 思わず警戒したけど普通に2人してお悔やみを言って帰って行った。
 ホッっとした。意外と常識はわきまえてるんだな。

10.俺が甘かった。2日後にまた、頼長が今度は1人でうちまで来やがった。
  もちろんまた俺のケツを掘ろうと必死に迫ってきたよ……。
  開き直って交換条件を出したらOKしてくれた。
  クソーこうなったらとことんコイツを利用して出世してやるしかねぇ。
  ヤケクソだ。

なんかこんな感じだったw
続きが気になる人はヒストリア84号を読もう。
真面目な論文なんだけどそれだけに妙に生々しい。 

*****

うん…
史実……だと……

(※藤原忠雅さん…交際2年目のカレ)



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5 Comments

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Unknown (ジゴロウ)
2012-03-13 01:21:18
土原さんには、気分を害されたら、大変申し訳ないんですが…
この記事(特に後半)を読んでたら、『太陽のKomachi Angel/B'z』が、なぜか頭にリフレインしました…


BL…普通だったんですよね…ちょっと言った人忘れましたけど、女性=性欲処理か子作りの道具で、男性=恋愛対象が、多数を占めていた訳ですからね…

それにしても、この頃を整理するのに、小学生向けの日本の歴史などを見直しましたが、『為朝かっこいい~』『崇徳天皇怖いわ~』以外の情報が、いまいち入ってきません…

でも感覚的に、面白いって感じますね。
貴族のえげつなさとか、天皇のやり口とか、このころをみてみると、後世に武士が勢力削りたがったわけがわかりました…
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>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2012-03-13 22:14:55
あ、そういうことで気分を害するという事は私は全くないので大丈夫ですよ~どうぞ気になさらず^^

日本史で言うとBLより男色という方が適当かなという気はしますが、何となく一緒くたにされていますねえ。
恋愛もさることながら戦国時代や江戸初期を見ているともっと強い絆というか…強い繋がりの代名詞であったような気がします。
まあ、会津なんかではドン引きしてしまうような若者たちの話があるので、そんなのばかりでも無かったでしょうが。
 
平安末期は面白いですね。
動乱という言葉は合わないかもしれませんが、そんな感じで魅力のある人物も多く出て来て。
新旧がスイッチする時代は、古今東西どの歴史を見ても面白いものかもしれません。
ただややこしくて時々ついて行けなくなります^^;
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>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2012-03-13 22:18:13
書きもらしました。

>ちょっと言った人忘れましたけど、女性=性欲処理か子作りの道具で、男性=恋愛対象が、多数を占めていた訳ですからね…

確か服藤早苗さんですかね?
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(笑) (ジゴロウ)
2012-03-14 01:39:22
會津のはすごいですね。
藩始まって以来、初の藩主立ち会い訴訟が、男色ですから。
しかも、その藩主が容保公で、嫉妬からの刃傷て…

何でしょう…命をかけている男同士の結びつき、というのは理解出来ますが、男色だとちょっと生々しさが…
嗜むとか言いますし、でも衆道は、生臭い…
現代の風潮が生んだイメージに、自分が負けてますかね…


あ、男尊女卑なコメントは、多分その人です。
ありがとうございます。
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>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2012-03-14 21:45:22
会津はならぬものはなりませぬの印象が強かったので、そんなにか、というのとブルータス(?)お前もか、というのがありました…^^;
土佐にしても薩摩にしても、戦国の風を残している遠隔地というのがあったのかもしれないとは思うのですが。

>でも衆道は、生臭い…

すいません。爆笑しました(笑)
そうですよね。何故かその表現がぴったりくるような気がします(笑)
男色はメディアではタブーのような扱いですし、BLでは面白おかしく扱われる事が多いしで…
まあ現在では中々受け入れにくい世界ではあるなあとは思います。
先日の話ではないですが、価値観の違いの移り変わりってすごいですね。
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