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移転しました(2014/1/1)

平清盛 #46頼朝挙兵

2012-11-29 | ヒストリ:平清盛

すいませんが、まずはじめに。
今まで何度か書いてきましたが、コメント欄に住所電話番号といった個人情報を記載するのは止めて下さい。
また公序良俗に反するようなコメントもお断りです。
先日コメント欄で質問して下さった方、ここを御覧になっていないかもしれませんが、あなたに対し同様の事を書くのはこれで3度目です。
申し訳ありませんが今回はコメント自体を削除させて頂きました。
 
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●以仁王の挙兵
あっさりと終わったなー。もっと長引くかと思ったのだけれど、もう時間ないわなー
八条院が以仁王に対して正当な皇統だという旨を口にしていましたが、その辺りは前回のレビューで書いたのでもういいですか。
何となくこのドラマではそういう扱いなのだろうな~と思っていたことがひとつあったのですが、それが今回で明らかになりました。
源頼政は源義朝に仕えてなんかいない。
実際に聞いてしまうとびっくりする台詞だ^^;
いやー…うん、これね…うん…
なんてーか、義朝を頂点に全ての源氏が付き従ってるっていうイメージなんだろうなーと思うのだけど、家(というか系統)が全然違うんだ。
源氏はひとつの家が摂津源氏、大和源氏、河内源氏と別れ、そこからとにかく多くの系統に枝分かれしている。


 


義朝は河内源氏、頼政は摂津源氏の系統。
この系統によって接近する権力者も、それによって政治的なスタンスも大きく変わってくる。
義朝と頼政は同じ源氏、確かに同族ではあるけれど配下になって付き従うようなことはない。
同族、へたすりゃライバルっていうだけだろ。


 
頼政は宇治平等院で戦死しますが、平等院の敷地内にお墓があります。
気付かずにスルーして行ってしまう人が多いのが残念。

●治承4年(1180年)、福原へ
神戸に都を遷そう計画が進み始めましたー。
福原京が一般的かと思うのですが史料的には「和田京」らしい。福原京という言葉は史料からは見えないと昔読んだことがある。
清盛は以仁王の挙兵を切欠に神戸への遷都を断行しました。
はい、賛同者がおりません!平氏一門からも賛同されなかったらしい(笑)
いや、(笑)とか言っとる場合ではないのだが。

清盛が「都がある所が都」と言っていましたが、そうなんですな。
元々「都」は固有名詞ではなく一般名詞でした。首都がある所が「都」。
だから「奈良の都」、「京の都」。
ただ清盛の時代の時点で京に都が遷って既に386年。
平安遷都から100年か200年経った頃には「都」はすでに「京」を表す固有名詞になっていて、「都」は「京」にあるのが当たり前。都は京にあるべきもの。
そういうものになっていた。
これを変えてしまおうと言うのだから、当時としては本当に驚天動地であったと思われます。



ただ当時の神戸は現在と違い、海と山の距離が近くて平地が少なく、利用できる土地が限られていた。
京都の条坊制をそのまま持ってくる計画だったものの中々うまく行かなかったようで、伊丹や明石にしては?とかいう話もあった。
あったと言うだけで実現はしなかったけど。
また、あまりにも急だったため全くの準備不足。
というか、都市計画をする前に安徳天皇や高倉院らが移ってきた為、御所などを初めとする建造物もなく、上つ人々は平氏一門の別荘に宿泊していたようです。
九条兼実なんかも「どうしようついて行くべき?」で御伺いを立てたものの、「泊まる所がないから急いで来なくていい」と言われる始末…
無理矢理遷都された上住む所もないと来たら帰りたいわなー(笑)

結論から言うと、神戸に移って半年で京都に戻る事になった。
都を作っている段階で反平氏勢力が挙兵をし始め、また院政を行っていた高倉院も都=京という事で京に帰りたがり…
高倉院だけじゃないけどなー^^;
都造りそのものも遂に未完のまま平氏は木曽義仲により都落ちすることになり、その後滅亡した。

遷都の理由としては比叡山や園城寺といった宗教権門からの圧力を避けるため。
清盛は宗教権門との争いを極力避けてきましたが、高倉新院の厳島神社への参詣を強行したことや以仁王の挙兵に園城寺や延暦寺の悪僧が参加していたことなど、この時点での関係がかなり危ういものになっていました。

高橋昌明さんと元木泰雄さんの本にあってなるほどと思ったのは、清盛は新王朝を作ろうと考えていたという点。
清盛は高倉院、安徳天皇と平氏の血が流れる新しい皇統、新王朝を立てようと考えており、それにふさわしい都を作ろうとした、云々。
結局どうなんだろう。
清盛は自分の家を藤原摂関家のようにしたかったのかなー…
この辺りがよくわからない。

●源頼朝の挙兵
実は頼朝が挙兵したのは以仁王の令旨が届いて3ヶ月も後のこと。
清盛の横暴がー以仁王さまの令旨がー頼政殿がーと脊髄反射で反応したのでないことは確か。
その間何してたの?ということですが、なんか、特に何もしてなかったみたいよ。笑
じゃあこの人なんで立ち上がったのって感じですが、平氏の圧力で仕方なくって感じらしい。
「以仁王の令旨を受け取った源氏は追捕される。奥州に逃げた方がいい」
こんな情報が頼朝の近い筋から齎され、それが挙兵を決断する切欠になった。

ただ永井晋さんの本を見ていると、この時伊豆で追捕の対象になったのは頼政の孫で、実は京都の人々は頼朝を忘れていたそうで。
そうですよねー平治の乱の戦後処理で頼朝が伊豆に流されてから既に20年ですもんねー。
それを自分にも追捕の手が伸びるかもとして判断ミスして挙兵したとあって、ちょっと笑ってしまった。
実際の所はどうなの^^;
 
ドラマでは三浦だったか上総介だったかが「佐殿が立ち上がれば全国の源氏が立ち上がります」的な事を言ってましたが、んなこたぁない。
以仁王の令旨は別に頼朝だけに出されたものではない。頼朝は令旨を受け取ったひとりにすぎない。
ドラマでは河内源氏の系統をどうしても源氏の総大将的な方向に持って行きたいようで。
まああんまり細かくしてもややこしいか…
ついでに言えば、「佐殿」は平治の乱の頃の頼朝の感触が右兵衛権佐であった所から。

●頼朝の挙兵2
頼朝が挙兵したと聞くと多くの坂東武者が蜂起した。
話の前提としては、治承3年の政変以降、知行国主や現地の支配者層が平氏に変わった国が多いという事。
頼朝がいた伊豆もそうで、ここは源頼政の知行国だった。
頼政が戦死した後は知行国主が清盛の義弟平時忠になり、その目代として現地にいたのが山木兼隆になります。
戦前の日本やアメリカと同じで、トップが変わるとその下も皆変わる。
知行国主が平氏系に変わるとその下の目代は勿論平氏系になる。
平氏系の在庁官人や現地の有力者が贔屓されるのが当然の流れになります。
ドラマではやたら北条時政を囲む坂東武士たちが「平氏がまた税を上げて」といった内容を口にしていましたが、多分それもあったと思うけどちょっと的が外れている感じがするなあ…
税じゃなくて土地の所有権や支配権の問題だろう。一所に命を懸けるくらいだし(一所懸命)。

伊豆は長年源頼政の知行国で、となると当然現地では頼政の目代や在庁官人が長年力をふるっていた訳で。
そこにいきなり平氏系の人間がやってきて没落の憂き目を見た挙句抑圧されるような立場になったら、そりゃ反発、対立といった軋轢が生じないわけがない。

頼朝個人としては自分の生命の危険であったり源氏再興であったり、事情はあったと思うのですが、東国武士にとったらそんなことはどうでもよかったんじゃないかなーと想像^^;
だって源氏没落してるんですよ。
現に頼朝だって蛭ヶ小島に流されて既に20年、後ろ盾もないし自分の武士団を持っているかと言ったら持ってない。
鎌倉には頼義、義家が築いた地盤があるので、”重代の家臣”的な存在はいただろうと思うけれど。
まー特に利益もないのに源氏に忠誠なんて誓う必要性なんて感じないだろう。
初めは自分の土地の為に蜂起した武士が多かったんじゃね?
以仁王の令旨は反平氏勢力にとってはこれ以上ない大義名分だし、旗頭として頼朝を立てるのもそれはそれで都合が良かったからじゃないかなー


なんというか、清盛の目指す武士が頂きに立つ世ってのが未だにいまいち分からんのだが…
よく分からんが故に感情移入しにくいと言うか、なんかドラマに激しくおいてけぼりくらってます。私だけ?
いきなり進む方向がねじ曲がってここ数回は正に老害ですって感じだったけど、頼朝の挙兵で暗闇から戻ってきたとか、いきなりそんなこと言われても何が何だか^^;
プロセスすっ飛ばしていきなり結論から結論へ進まれると付いて行けないorz

次回が富士川の戦いですか。うわーん悲しいなー…ついでに黄瀬川の陣もあるっぽい…
転落していく様子というのは本当に寂しい。



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