Forth!

移転しました(2014/1/1)

移転のご案内

ご訪問ありがとうございます
このブログは2013年末にて更新を終了し、現在は新ブログで更新しています

移転先:Para Bellum(パラべラム)

また下記サイトも運営しておりますのでぜひ遊びに来て下さい。

サイト:月に叢雲花に風

これからも【Forth!】改め【Para Bellum】を宜しくお願い致します。

2013/12/31 ヒジハラ

平清盛 #50(最終話) (2)

2012-12-31 | ヒストリ:平清盛

続き。(間に合った…!)
 
●源義経の死
最後に纏められていた義経の話。
義経が京都で任官し兄頼朝との不和が生じた所から始まりました。
そこから有名な「腰越状」、そして平泉へと流石に急ピッチで話が進んでいましたが、あの流れだと頼朝が悪人のようではないかorz
兄頼朝の政治スタンスを理解していなかったために義経は平泉で死ぬ羽目になったと思うんだよね。
だから兄に幾ら一族兄弟だからと情に訴えてもなあ。
兄弟(だから自分は特別)でしょ?と情に訴えるほど立場が悪くなる^^;

屋島・壇ノ浦の両戦は義経が迅速に終結させました。
戦争が早く終わるのはいいことなのだけれど、それ故に東国武士の活躍の場を奪ってしまっている。
屋島の戦いの方は義経は東国武士たちを置いてけぼりで出陣し、彼らが屋島に到着した頃には戦は終わってた…
壇ノ浦ではほぼ陸地で見てるだけ。
…あー…
軍功を立てないと恩賞が貰えないんだよねー^^;
そりゃ東国武士団は不満だわ。
東国から大事な所領(一所懸命)から離れて来たくもなかった西国くんだりまでわざわざ出てきたっちゅうのに、やったことと言えばほぼ見てただけ。

頼朝は戦に敗れ13歳で伊豆に流されたため、独自の所領もなければそこを本拠とする武士団も持っていない。
東国武士と頼朝の関係は忠義忠誠とかではなくて、簡単に言うと契約です。
だから利害関係をきちっと押さえていないとまずいという点がある。利益がなかったら彼らは離れていってしまう。
頼朝は平氏討伐が長期戦になる事を覚悟していたようなんですね、東国武士に与える恩賞のために。
というか、ある程度長期化して欲しかったんだと思う。
それに時間をかけてでも3種の神器を取り戻し、安徳天皇や二位尼(時子)を生還さたいというのがあった。
これはその後の後白河との交渉のカードとして使うつもりだったんだと思う。
 
それなのにああ義経がそれなのに!さっさと平氏を滅亡させてしまったー!^^;
3種の神器のうち草薙剣が紛失した挙句、安徳天皇入水。
平氏は滅亡したけれど目的は達成されないまま終わってしまった。

ちょっと…義経さん空気読めなさすぎ…
頼朝困惑。東国武士からはブーイング。
平家物語では梶原景時が頼朝に義経は勝手過ぎる(自専)と”讒言”をする訳ですが、別に景時が義経を怨んでとかそういうことではなくてだなー。
そういうことを言われるのにはそれなりに理由があって、景時は東国武士のブーイングを代表しただけだろう。

そして戦後、義経は京都で後白河の引きによりそれまで平氏が独占していた御厩司に補任されます(平たく言うと親衛隊の隊長)。
(※義経は一の谷合戦の後に検非違使・左衛門尉になっており、更に壇ノ浦後には頼朝の推挙で伊予守にもなっている)
その上生き延びて捕虜になった平時忠の娘と結婚して。

……。
…………。
あれ、これ大丈夫…?
義経さん、立場が平氏の後釜みたいになっていらっしゃるのだけど…
後白河は後白河で独自の武力を持っていないので義経を手放したくないという思惑もあったと思います(義経以前は平氏が後白河の中心的武力)。
だから頼朝が義経を伊予守に推挙して京から引き離したいと思っても上手くいかないし、その上義経も頼朝が冷淡になって来たのが分かるので動きたくない。

しかもこの御厩司、職務の関係から平泉、奥州藤原氏とも関わりがあったそうで。
義経は青年期を平泉で過ごしていて、平泉とは深い関わりがあります。
平氏が斃れた今、頼朝にとっての最大の懸念は奥州藤原氏であるというのに……
まかり間違えば鎌倉は北方の藤原氏と西の義経に挟まれてしまう訳で。
これでは状況的に鎌倉に対する背信を疑われても仕方ないと思う。


それともうひとつ。
源氏の歴史は身内同志の殺し合いの歴史だという事は今まで何度か書いてきましたが、本当にそうなんですよね。
源義家の時代のすぐ後では、義家が次期棟梁としていた息子が殺害されています。
次弟とその一族がその嫌疑を受けて最終的に義家の孫為義に討伐され、一族滅亡状態。
ただこれは冤罪で、首謀者は次々弟義光でした。謀略で嵌めた。
要するに棟梁の座争いで、ライバルと成り得る人間を義光が次々と消していった。

義光は甲斐武田氏の祖で武田信玄の出自を触れる際によく名前を聞く人物ですが、源氏が凋落した理由はこの人が始めた同族争いにあります。
頼義・義家父子やその先祖が築いた名誉を失墜させ、財産をすべて潰した。
ドラマでも為義の頃の落ちぶれ方は凄かったけれど、あれは一族間の棟梁の座を巡る争いが原因でした。
為義・義朝の代にしても保元の乱で一族が分裂、辛うじて義朝が残ったものの平治の乱でどうなったかはご存じの通り。

一族分裂が導く事態。
頼朝はその辺りのことをずっと考えていたと思うんだよね。
東国で鎌倉殿の位置を築いても、兄弟や一族の人間が力をつけてきたらそれを脅かさないとも限らない。
可能性のある芽を予め摘んでおくという意味もあったと思うし、頼朝の近親者の話をすれば嫡庶の別をリストリクトにした方がいいと考えていたんではないかなー。
現に頼朝はライバルになりかねない兄弟を手にかけているし。
また富士川で主力で戦った源氏の有力一族武田信義もいいがかりで殺されているし、他にも殺された一族がいます。
ただ、平氏討伐後間もない段階で同族を潰していく頼朝に「おかしい」と声を上げている人がいて、しかし頼朝はそれに怒るどころか褒めているそうで。
非情だとか冷酷だとか、そういう謗りを受けることを分かっていてやっている節がある。

一方の義経は頼朝が神経を擦り減らしている東国武士との和も計らない。
その上京都では後白河の軍事勢力になりかけてたし(本人がどう意識していたかは別として)、その上平氏の(以下ry)、奥州藤原氏と(以下ry)。
だから
「平氏滅ぼしたら兄ちゃんに褒めてもらえると思ったのに。検非違使・左衛門尉になったのだって一族の誉れでしょ?(※そんな事ない)」(腰越状)
と兄弟の情に訴えた所で、そもそも弁明の方向性が間違ってる。
東国武士と不和とか後鳥羽院がとか平氏の後釜とか奥州藤原氏がと気をもんでいる時にこんな事を言ってこられてもなあ。

 (もっと他に言わなきゃいけないことあるでしょー!)

あーなんてーか…
頼朝が非道とか冷酷とか、そういう事じゃなくてさー
義経が空気読めなさすぎたんだよきっと…

上記したように頼朝には頼るべき独自の武士団がなかったので、富士川の戦いで義経が駆け付けた時は嬉しかったと思うんだよね。
それに婚姻関係を見ているとうまくやればそれなりに重用された可能性もあるんじゃないかなあ(義経の正室は頼朝の乳母の孫。範頼と頼朝嫡子頼家の妻も同様)。
歴史にイフは禁物だけど。

で、義経は行き場を無くして平泉を頼り、後の結果は周知の通り。
この辺りの話は今まで何度か触れているのでいいですか。



この1年、続けてドラマを見るというのが苦手な私にとっては大変な長丁場でございました…
なんだかんだ言いつつ見続けて、見逃しは2・3回だけかな?
始まる前~第1部の半ば辺りまではかなり斜に構えていましたが、2部は大変私好みでした。
元々「やあやあ我こそは」的な合戦が大好きな所から歴史に入ったので、大鎧が画面を行き来するのを見るのだけでも大興奮。わはは。
源義朝と藤原頼長、崇徳天皇がもの凄く印象に残ったわー。
玉木宏、あのノリで木曽義仲してくれんかな…
3部はちょっとバタバタしていて中々落ち着いて見られない回が多かったのだけれど、まー何と言うか。
安定してしまうと政治の話が中心になってきてしまうので、目を引くような動きが乏しく、ダイナミックな見せ場が少なくなっていくというのは中々辛い所だったかと思います。
しかも最後の結末は滅亡やしなぁ…く、暗い…^^;

私個人の感想としては、歴史ドラマとしてはかなり面白い部類に入るドラマだったと思います。
しかも割と丁寧に史料・資料を拾い上げて違和感なくドラマの中に織り込んでいて、うまくエピソードを入れてくるなと感じる所も多かったです。
ただ、清盛が目指していた”武士の世”とか国作りはどういったものかとか、清盛が為した事の日本史的な意義とか、そうした事がドラマの中で語られることは結局なかったように思います。
後白河や貴族との確執とか、そういう事の他に、もっと大きな所からの視点があれば良かったのに。

ドラマの中で散々言われてきた「武士の世」っちゅうのがなあ。
もっとはっきり清盛の言葉として内容を語らせた方が良かったのではないかなーと思います。
キモになる言葉なのに分かりにくいことこの上なかった。一体何をどうしたいのか。
 
で、初っ端から視聴率が悪いと叩かれ続けた番組でもありましたが、私はとても面白かったと思います。
低視聴率だからと言って内容がクズだった訳ではない。
メディアでは「馴染みがない時代だから」とか、「大河に清盛なんて悪役・アンチヒーローw」みたいな感じで批判され続けていましたが、その言葉を聞く度にだなー、こう…怒りがだな…フツフツと…

悪役とかアンチヒーローとか言っていた人はどれほどを知った上でそう言っていたのだろう。
殆どが”悲劇の英雄義経”というかなり一方的なフィルターを通してではないかな…
それに清く強く正しい人間じゃないと主人公になる資格はないってかー
悪役のイメージの強い人物はドラマの主人公になる資格もないってか。じゃあ日野富子はどうなんだ。
清く強く正しい権力者が一体どれほどいると思ってるのか聞いてみたいわ。きれいごとばかり。

それに「時代に馴染みがない」と言いつつ同時代の義経が主役なら絶対にそんなこと言われないと思うと更に腹が立つんだよね。
(義経は大して好きでないから余計に腹立つ…)
確かに人間関係のややこしさはあるし、知らなければ理解しづらい面白さはあったと思う。
その辺りは番組と同時にツイートじゃなくて、番組内でフォローすべきだったんじゃない?
どれだけの人間が番組見ながらツイッターしてると思ってるんだ…
 
馴染みがない時代だからという理由で他の時代を忌避して幕末と戦国をループで回しているというのなら酷い話だと思う。
視聴率が低くなりそうというのが大きいのだろうけどなあ…
馴染みがないからこそ普及に努めるのが公共放送だろう。
それができないというのは、その力量がないと自ら告白しているのと同じだろう。

来年もどうせ福島の話をするなら私は新島八重じゃなくて保科正之でして欲しかった。
スタート時は幕末で視聴率取れそうだし、女性史で明るくしやすそうだからというのもあるのだろうけど。
来年のを楽しみにしている方には申し訳ない言い草ですが、被災地を元気づけるという意味でも、色々な意味でも保科正之の方が相応しかったんじゃないか…(まだ言う)
どーせ視聴率の為に戦国時代するんでしょ?だったらそれでよかったじゃん(投げやり)

来年はそうだなー多分見ないかそんなに見ないだろうなー^^;
明治の風俗には心惹かれるんだけど、女性史に興味ないのよ私…

こんな感じで間飛び飛びながら1年続けてきた平清盛レビューも今回でおしまいです。
レビューちゅうかなんちゅうかという感じですが。
昔から平清盛が好きなので、少しでもドラマを見ている人の”清盛像”に新しくプラスの印象が加わればいいな~と思いながら書いていました。
好きな時代とはいえ元々のホームベースは近代なので大変だったわー^^;
それでも色々と思い出すことがあったり勉強になる事があったりして楽しかったです。
ここまで読んで下さった皆さま、ありがとうございました!
  
次源平合戦あたりの話題に触れるのは、史跡紹介の時だと思います!
当分先です!(笑)
 
 
なんかもう今日は出て来れない感じがするので。
今年1年お付き合いくださいましてありがとうございました。
来年もよろしくお願いします!良いお年を~^^


平清盛 #50(最終話) (1)

2012-12-28 | ヒストリ:平清盛

とりあえず書けている所だけアップするorz
 
 
最終回でした。
 
治承4(1180)年6月に福原遷都、同年8月に頼朝が伊豆で挙兵、同年10月富士川の合戦で平氏大敗。
11月末に神戸福原より還都、12月末に南都攻撃(奈良の大仏延焼…)。
治承5(1181)年1月8日平宗盛が畿内惣管職に(東国の源氏と戦うための準備に入る)、14日に高倉院没。
と、ここまでが前回。

で、今回。
閏2月4日平清盛が死去。
 
閏月については何度か触れていますが、要するに治承5年は暦の関係で2月が2回あり、その2回目の2月初旬に清盛が亡くなった。
平氏にとっては高倉院と清盛、権力を支える大きな基盤を一度に失ったわけです。

●清盛の死
清盛が熱病で苦しんだ事はよく知られています。
発病から1週間ほどで亡くなっているのですが、どうも急速に悪くなったようですな。
「あつち死に」と言われていて、読みは「あっちじに」でいいんだろうけど、昔読んだ本では熱さでのたうちまわって死んだと注釈があった。
とにかく熱病に苛まれたらしい。
体を冷やすために水風呂に入るも水が沸騰し、比叡山で汲んで来た水でもダメとか雪を頭に乗せると蒸発したとか、そういう話を小学生の時に学研のマンガで読んだなあ…
ドラマの表現の仕方にちょっと笑ってしまった^^; 笑うシーンじゃないのに…

こうした表現は元々平家物語に描かれているもの。
物語とはいうものの、清盛の死の前年に平氏は故意ではないにしろ奈良の大仏を焼いてますし、それまでも寺院権門と対立・攻撃したりしていたので、当時の貴族たちは清盛に仏罰が当たったと思ったらしい。
実際のところ病状から見て瘧(マラリア)だったとか髄膜炎だったとか言われてますな。

 平清盛像@兵庫

享年64。
現在の感覚だとまだまだ若いけれど、当時からするとそこそこ長寿じゃね?
ただ清盛本人としては、さぞ無念であっただろう。
福原から京都に帰ってきて新体制で政権を立て直している最中であったし、源頼朝ら反平氏勢力を鎮圧する途中でもあったし…
自分が死んだ後一門がどうなるのかというのは、清盛の一番の悩みだったでしょう。
棟梁宗盛は頼りにならないし、平氏の権力の基盤になる安徳天皇はまだ4歳。
院政を復した後白河に太刀打ちできるのか。
平氏政権の根幹を揺さぶっている東国の頼朝を抑圧できるのか。

清盛はその死に際して「頼朝の首を墓に供えよ」と遺言したと平家物語にはあるけれど、史料にもそれと似たような言葉が伝わっている。
「我が子孫、一人生き残る者といへども、骸を頼朝の前に曝すべし」(玉葉)
一門がただひとりになっても頼朝の首を持ってこんかい、という何とも激しい口調。
それだけに無念と言うか、恨みと言うか、そんなものがひしひしと伝わってきますな…

清盛の遺体は愛宕(おたぎ)で荼毘にふされます。
愛宕は六波羅蜜寺の近くにある六道珍皇寺辺りと言われている。
この辺り、「六道の辻」と言ってこの世とあの世のはざかいだと言われる場所でもあります。
私の好きな小野篁(おののたかむら)に所縁があるお寺で、境内にはあの世とのこの世を繋ぐ井戸があったり、篁像があります(お盆に公開)。
写真があればいいんだけどなー
あの辺りは自分にとって日常過ぎて写真撮るような所じゃなかったのよ^^;
ハッピー六波羅略してハピ六(スーパーね)によく買いものに行ってた…。どうでもいいですかそうですかすいません。
ついでに言えば子育て幽霊が子供の為に毎晩飴を買い求めた幽霊飴のお店も近くにある。
東山安井の辺りだから、維新志士のお墓がある霊山からも近いんだよね。
更についでに言えば崇徳天皇御廟も近くにあります。

清盛の遺骨は神戸・兵庫にある能福寺の円実法眼が持ちかえり、経島に埋葬したと平家物語にはあります。


 
そんな事もあって、兵庫にあるこの清盛塚が墓所だろうと長らく考えられてきたのだけれども、大正12年の移転時に行われた発掘調査では人骨は発見されなかったそうで。
『吾妻鑑』では明石山田の法華堂に葬られたとも言われますが、現在ではこの清盛塚の側にお墓があります。

 清盛墓所@能福寺(兵庫)

まあ…うん。滅亡の話はいいですか。
最後に書いておこうかと思っていた平頼盛や伊藤忠清が都落ちには同道せず、独自の動きを採ったという事も言われていたし。
頼盛が頼朝を頼ったのは実母池禅尼が平治の乱の際に頼朝の命を救った事が縁になっています。
伊藤忠清は三日平氏の乱といって、伊勢伊賀の辺りで大規模な反乱を起こしており、その為に義経の屋島出陣が遅れた程でした。
(三日とはいうものの三日どころではない大規模な反乱でした。確か鎌倉時代辺りで資料編集者が違う反乱と間違えて名をつけたらしい)

一門の人々の最期にも触れられていたし。

 壇の浦古戦場跡@下関

清盛の構想は室町時代に実現したという事も言われていたし。
サイトの壇ノ浦の戦いに関する史跡紹介の所で、源平合戦の大まかな流れも書いています。
興味のある方はそちらをどうぞ~ (サイト>works>歴史話>史跡巡り>日本史全般>山口県)

 下関

「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」
「浪のしたにも都のさぶらうぞ」
この件は涙が出るわ…
壇ノ浦の戦いで平氏は歴史の波間へと消えていきました。

 治承4(1180)年  以仁王の令旨。福原遷都。源頼朝、木曽義仲等反平氏勢力が挙兵 
 養和1(1181)年 平清盛死去
 寿永2(1183)年  倶利伽羅峠の戦い→平氏都落ち(3種の神器を持って大宰府へ)
             寿永二年十月宣旨
 元暦1(1184)年  木曽義仲、征夷大将軍に→後追討。頼朝に平氏追討の宣旨が下る。
             2月 一の谷の戦い
 文治1(1185)年 2月 屋島の戦い 3月 壇ノ浦の戦い

大雑把に書くとこんな感じ。
平氏の滅亡は頼朝挙兵から5年、清盛死去から僅か4年後の事でした。
    

続く!^^;


厳島神社*鎮守稲荷神社@神戸

2012-12-21 | ヒストリ:平清盛

■サイト更新 兵庫×平氏5(厳島神社・鎮守稲荷神社)

平清盛が次回でとうとう最終回ですが、うちの平氏関係の神戸の史跡紹介もこれでストックアウトっす。
最近の平清盛紀行で紹介されている辺り、荒田八幡宮(平頼盛の山荘)や清盛のお墓がある能福寺は既にサイトで紹介済みですので、今回更新の史跡はちょっと時期が外れてしまうんですが。

厳島神社は兵庫や大輪田泊が繁栄するようにと清盛が広島から勧請した神社になります。
また人々が兵庫の地に「居つく」ようにという祈りも込められていたそうで。
夏に神戸に行った時に写真撮り忘れたんだよね…大変古い写真で申し訳ない。
その上地元の図書館にある郷土系の本を見ても大した解説がなく、かなり薄っぺらい感じに落ち着いてます^^;

清盛は重盛に跡を譲った後兵庫に移り、還都となる迄の10年を神戸福原で過ごしています。
反平氏勢力の台頭で京都では身動きが取りにくいという事もあったと思うけれども、新しい王朝を建てるという意味の籠った福原遷都でもあった訳で、清盛にとって神戸は色んな意味で思い入れのあった地だったんだと思うんだ。
周囲にいる全員が還都を主張したというのは苦しかっただろうなー
途未だ半ばで本当に後ろ髪を引かれる思いで神戸を後にしたんだろう。

次回への引きで今回清盛は熱病に倒れていました。
来週の話なのでその話は次でいいかと思いますが、頭痛を訴えはじめて熱病で倒れ、死去するまで僅か1週間ほど。
平氏一門も、恐らく清盛本人でさえもこんなに早く世を去ることになるとは思っていなかっただろう。
そう言ってもいいと思える程の急逝だった。
あー来週で終わるのか…寂しいなー

話を戻しまして、もうひとつの鎮守稲荷神社は清盛亡き後の史跡、平氏滅亡に関する史跡になります。
こちらには清盛の甥、平経俊の塚がある。



父親は清盛の弟、平経盛。


(友章は知章、ピンクの教盛は教経の間違いorz)
 
ドラマでは文には秀でているなんて紹介のされ方を時忠にされていたように思います(忠度が出てきた回)。
息子に経正、経俊、敦盛がいる。
経正は琵琶、敦盛は笛でよく知られる人物ですが、この3人、全員一の谷の合戦で戦死しているのね。
それもあって神戸には彼ら所縁の史跡がある。
ひとつが琵琶塚(経正)、ひとつがこの経俊塚、最後のひとつが敦盛塚。
前者ふたつは兵庫だけど、敦盛塚は少し離れた須磨にある。
琵琶塚は既に紹介済みです。清盛のお墓のある能福寺のすぐ傍。
ついでに言えば経盛は壇ノ浦で弟の教盛と共に入水、下関にある赤間神宮に葬られています。

 

赤間神宮にある七盛塚。平家一門の人々と一緒に葬られている。
平清盛の妻時子の名前もここにあり、安徳天皇の御陵も赤間神宮に隣接してます。
ついでに言えば幕末、僅かな間ですが隣地に奇兵隊本営が置かれた事があり、そこが手狭なために赤間神宮(当時は極楽寺)も利用されていた時期がある。
石碑が建っています。
 
話は戻って神戸の鎮守稲荷。
成立時期は分からないものの江戸時代中期頃には既にあったようで、その頃のものとして境内には高田屋嘉兵衛が寄進した灯籠が現存しています。

高田屋嘉兵衛は江戸中期の商人ですが、超簡単に書くと成り行きでロシアに連れ去られ(としか言いようがない)、日露関係の改善に尽力することになった人。
司馬遼太郎『菜の花の沖』で知られる人物かと思います。
NHKが竹中直人でドラマ化していたけれど、あれはうーん…^^;イメージ違い過ぎたわー

実は嘉兵衛が構えていた本店と鎮守稲荷は目と鼻の先の距離。
灯籠を寄進したというのはそうした地の縁からかと思います。
で、多分今年の春かな?本店の地という大きな石碑が設置され、その近くに高田屋嘉兵衛資料館という私設資料館ができていました。
嘉兵衛の出身地は淡路島で、そちらには記念館があります。
北海道の交易開拓に尽力した事もあり函館にも大きな資料館がある。

しかし兵庫には色んな史跡がありますな。
前にも書きましたが、平氏が都を置こうとした地であり、交通の要衝であることから源平、南北朝、戦国と合戦が幾度となく起り、江戸時代には主要な港町として栄え、近代では初代県庁が置かれている(伊藤博文が初代兵庫県知事)。
ホント史跡巡りのし甲斐がある町だわ(笑)
知らずにいるには勿体ない歴史が沢山あります。


平清盛 #47宿命の敗北

2012-12-03 | ヒストリ:平清盛

残す所あと3回!
何と言いますか、終わるのが残念というよりホッとする気持ちの方が大きいです(お前…)。
2・3日程前には来年の『八重の桜』のロケ風景なんかも放送されていましたし、あーもう本当に終わるのねーという感じに。
負担にならない程度にと思っていても毎回レビュー書くのはぶっちゃけ結構しんどいです。 
でも平清盛のカテゴリーをブクマして下さっている方もおられるみたいなので、ならやるかーと。
多分近代だったら心情的にはもっとしんどかったと思う^^;
義務でも何でもなく好きでやってる事だけど、これがなくなると思うとホントほっとするわー(笑)

●源頼朝挙兵→石橋山の戦い 
山木兼隆の首級を上げたものの、頼朝はその後の石橋山の戦いで惨敗します。
自軍300騎に対し3000騎ということで、数見てもちょっとこれはしんどかったかなー…
目代を殺害してますし、伊豆の国衙に対する反乱と言う事で、相模と武蔵の国家機関も協力する体制になった。
都の公卿なんかでも頼朝の挙兵を聞いた時の反応は「平将門の乱」と似たようなもの、といった感じだったようですな。

前回触れたように源頼政の孫を追捕するために大庭景親が関東にいたのですが、頼朝の挙兵を聞いて兵を集めています。
それが3000騎。
頼朝は惨敗し、7騎ほどで小田原の山中に逃げ込みます。で、以前写真を出した事があるのですが。
  
 

右下の60円切手が前田青邨の「洞窟の頼朝」になります(もっと大きな画像。別窓)。
ドラマの中で洞窟に隠れている場面がありましたがそのシーンを描いたのがこの絵。

山中を捜索する大庭軍の中に梶原景時がいました。
梶原は源義経と対立する等のトラブルで悪人として描かれる事が多い人物ですが、それはまた次の機会で。次の機会なさそうだけどな!(笑)
元々平氏方だった人物です。
ついでに言えば、この石橋山の戦いには一の谷之合戦で名前をよく知られている熊谷直実も平氏方で参加している。
後に鎌倉幕府の重臣になる畠山重忠も当時は平氏方で、この時は違う方面で頼朝追討に参加しています。

●大庭景親
誰かと名乗りを上げた後幾つか言い合っていましたが、大庭は鎌倉権五郎景正の流れを汲む人物。
実は梶原景時も鎌倉権五郎の流れを汲んでいて、両者、孫の世代にあたるのかな?
景正は何度かこのブログでも出てきていますが、源義家の家臣で後三年の役の際に活躍した武将になります。

(@後三年合戦絵詞)

これね。金沢柵攻めの際、片目を射られ、その矢を引き抜いたら目もボロリと。
「暫」という題目の歌舞伎の演目のモデルになった人物でもあります。
義家に仕えていたものの、景正の氏は平氏である。
平氏方は石橋山の戦いでは勝利を収めたものの、頼朝一行を取り逃がしてしまいます。
その後頼朝らは房総半島に渡り、現地の豪族を糾合して相模国鎌倉に入る事になる。

●鎌倉
河内源氏と鎌倉は源頼信・頼義の頃から繋がりがあります。



平忠常の乱を平定した後、その武名に感心した平直方がその娘を源頼義に娶わせたのですが、その際に持っていた鎌倉の屋敷も譲っている。
ドラマの第1部頃、源義朝が坂東で無体をしまくってましたが、その本拠になったのがこの鎌倉の屋敷になります。

●富士川の戦い
追討使の総大将に平惟盛、その下に伊藤忠清が付きました。
惟盛(これもり)は亡くなった重盛の嫡男、資盛(すけもり)はその弟になります。

(友章は知章の間違い)
 
情けなや。
戦う前に水鳥の羽音に驚いて逃げてしまうなんて、武門としての平氏の面目も権威も何もかもを失墜させる大失態でした。
ひとつには石橋山の戦いでの大勝があり、大した事ないと随分気が緩んでいたということ。
ひとつには関東における反平氏勢力の蜂起の状況の深刻さを理解していなかったこと。
ひとつには平氏は戦を知らない公達になってしまっていたということ。
これはドラマでも伊藤忠清が口にしていました。
 
特に兵力なんて、頼朝挙兵の際は100騎あるかないか位だったのが、富士川の戦いの後、鎌倉に入る頃には万単位に膨れ上がっていたと言いますから反平氏勢力を勢いづかせたことに間違いはない。
色んな意味で本当に痛い大敗だったと思われます。

惟盛資盛だけならとにかく、清盛の先代からの臣である侍大将伊藤忠清がいながら何事かという感じですな…
実は忠清、関東の情勢をよく知っていた筈なんです。
というのも、治承3年の政変後に上総介になっていて、関東の平氏の家人を統括するような立場にいた。
何故ちんたら軍勢を動かしていたのかと言うのがよく分かりませんが、気が緩んでいたということ以外にも何か理由がありそうだなとは思う。

●甲斐源氏の武田氏参陣
甲斐源氏と言えば武田氏、武田氏と言えば武田信玄ですが、今回出てきた武田氏は信玄の先祖になる。
というか今回出てきた武田信義が武田氏の初代になります。

●源義経、平泉から参陣
何なのあの主従。
ウィリアム・テルか (爆笑)
うーん…史実での義経はチビで出っ歯で弓矢が苦手なんだが…
頼朝と義経の対面の場面については、安田靭彦の有名な絵があります。
黄瀬川の陣(別窓。国立近代美術館)。
いいよね~^^私安田靭彦大好きなんだー
これより100年ほど前の後三年の役で、兄源義家を助けるために弟義光が京都から秋田まで駆け付けたという逸話があります。

(@後三年合戦絵詞)

弟が兄を助けに駆け付けたというシチュエーションが同じで、頼朝はこの話を引いて義経の参陣を喜んだと言われている。
まあ、大勢から見ると義経にとっては悲劇の始まりですなあ…
ちなみに上記した武田氏の祖はこの義光です。
武田信玄の出自や武田氏の由緒を語る時に義光流と書かれるのはそこから。

もう回数が全然ないから義経が戦場で活躍する場面まで描かれないと思いますが、まー書きたい事一杯あるよね!(笑)
頼朝は何故同族には冷徹だったのか、とかさー。
私は義経よりも頼朝の方が好きなんだ。判官贔屓?何それおいしいの?


平清盛 #46頼朝挙兵

2012-11-29 | ヒストリ:平清盛

すいませんが、まずはじめに。
今まで何度か書いてきましたが、コメント欄に住所電話番号といった個人情報を記載するのは止めて下さい。
また公序良俗に反するようなコメントもお断りです。
先日コメント欄で質問して下さった方、ここを御覧になっていないかもしれませんが、あなたに対し同様の事を書くのはこれで3度目です。
申し訳ありませんが今回はコメント自体を削除させて頂きました。
 
**

●以仁王の挙兵
あっさりと終わったなー。もっと長引くかと思ったのだけれど、もう時間ないわなー
八条院が以仁王に対して正当な皇統だという旨を口にしていましたが、その辺りは前回のレビューで書いたのでもういいですか。
何となくこのドラマではそういう扱いなのだろうな~と思っていたことがひとつあったのですが、それが今回で明らかになりました。
源頼政は源義朝に仕えてなんかいない。
実際に聞いてしまうとびっくりする台詞だ^^;
いやー…うん、これね…うん…
なんてーか、義朝を頂点に全ての源氏が付き従ってるっていうイメージなんだろうなーと思うのだけど、家(というか系統)が全然違うんだ。
源氏はひとつの家が摂津源氏、大和源氏、河内源氏と別れ、そこからとにかく多くの系統に枝分かれしている。


 


義朝は河内源氏、頼政は摂津源氏の系統。
この系統によって接近する権力者も、それによって政治的なスタンスも大きく変わってくる。
義朝と頼政は同じ源氏、確かに同族ではあるけれど配下になって付き従うようなことはない。
同族、へたすりゃライバルっていうだけだろ。


 
頼政は宇治平等院で戦死しますが、平等院の敷地内にお墓があります。
気付かずにスルーして行ってしまう人が多いのが残念。

●治承4年(1180年)、福原へ
神戸に都を遷そう計画が進み始めましたー。
福原京が一般的かと思うのですが史料的には「和田京」らしい。福原京という言葉は史料からは見えないと昔読んだことがある。
清盛は以仁王の挙兵を切欠に神戸への遷都を断行しました。
はい、賛同者がおりません!平氏一門からも賛同されなかったらしい(笑)
いや、(笑)とか言っとる場合ではないのだが。

清盛が「都がある所が都」と言っていましたが、そうなんですな。
元々「都」は固有名詞ではなく一般名詞でした。首都がある所が「都」。
だから「奈良の都」、「京の都」。
ただ清盛の時代の時点で京に都が遷って既に386年。
平安遷都から100年か200年経った頃には「都」はすでに「京」を表す固有名詞になっていて、「都」は「京」にあるのが当たり前。都は京にあるべきもの。
そういうものになっていた。
これを変えてしまおうと言うのだから、当時としては本当に驚天動地であったと思われます。



ただ当時の神戸は現在と違い、海と山の距離が近くて平地が少なく、利用できる土地が限られていた。
京都の条坊制をそのまま持ってくる計画だったものの中々うまく行かなかったようで、伊丹や明石にしては?とかいう話もあった。
あったと言うだけで実現はしなかったけど。
また、あまりにも急だったため全くの準備不足。
というか、都市計画をする前に安徳天皇や高倉院らが移ってきた為、御所などを初めとする建造物もなく、上つ人々は平氏一門の別荘に宿泊していたようです。
九条兼実なんかも「どうしようついて行くべき?」で御伺いを立てたものの、「泊まる所がないから急いで来なくていい」と言われる始末…
無理矢理遷都された上住む所もないと来たら帰りたいわなー(笑)

結論から言うと、神戸に移って半年で京都に戻る事になった。
都を作っている段階で反平氏勢力が挙兵をし始め、また院政を行っていた高倉院も都=京という事で京に帰りたがり…
高倉院だけじゃないけどなー^^;
都造りそのものも遂に未完のまま平氏は木曽義仲により都落ちすることになり、その後滅亡した。

遷都の理由としては比叡山や園城寺といった宗教権門からの圧力を避けるため。
清盛は宗教権門との争いを極力避けてきましたが、高倉新院の厳島神社への参詣を強行したことや以仁王の挙兵に園城寺や延暦寺の悪僧が参加していたことなど、この時点での関係がかなり危ういものになっていました。

高橋昌明さんと元木泰雄さんの本にあってなるほどと思ったのは、清盛は新王朝を作ろうと考えていたという点。
清盛は高倉院、安徳天皇と平氏の血が流れる新しい皇統、新王朝を立てようと考えており、それにふさわしい都を作ろうとした、云々。
結局どうなんだろう。
清盛は自分の家を藤原摂関家のようにしたかったのかなー…
この辺りがよくわからない。

●源頼朝の挙兵
実は頼朝が挙兵したのは以仁王の令旨が届いて3ヶ月も後のこと。
清盛の横暴がー以仁王さまの令旨がー頼政殿がーと脊髄反射で反応したのでないことは確か。
その間何してたの?ということですが、なんか、特に何もしてなかったみたいよ。笑
じゃあこの人なんで立ち上がったのって感じですが、平氏の圧力で仕方なくって感じらしい。
「以仁王の令旨を受け取った源氏は追捕される。奥州に逃げた方がいい」
こんな情報が頼朝の近い筋から齎され、それが挙兵を決断する切欠になった。

ただ永井晋さんの本を見ていると、この時伊豆で追捕の対象になったのは頼政の孫で、実は京都の人々は頼朝を忘れていたそうで。
そうですよねー平治の乱の戦後処理で頼朝が伊豆に流されてから既に20年ですもんねー。
それを自分にも追捕の手が伸びるかもとして判断ミスして挙兵したとあって、ちょっと笑ってしまった。
実際の所はどうなの^^;
 
ドラマでは三浦だったか上総介だったかが「佐殿が立ち上がれば全国の源氏が立ち上がります」的な事を言ってましたが、んなこたぁない。
以仁王の令旨は別に頼朝だけに出されたものではない。頼朝は令旨を受け取ったひとりにすぎない。
ドラマでは河内源氏の系統をどうしても源氏の総大将的な方向に持って行きたいようで。
まああんまり細かくしてもややこしいか…
ついでに言えば、「佐殿」は平治の乱の頃の頼朝の感触が右兵衛権佐であった所から。

●頼朝の挙兵2
頼朝が挙兵したと聞くと多くの坂東武者が蜂起した。
話の前提としては、治承3年の政変以降、知行国主や現地の支配者層が平氏に変わった国が多いという事。
頼朝がいた伊豆もそうで、ここは源頼政の知行国だった。
頼政が戦死した後は知行国主が清盛の義弟平時忠になり、その目代として現地にいたのが山木兼隆になります。
戦前の日本やアメリカと同じで、トップが変わるとその下も皆変わる。
知行国主が平氏系に変わるとその下の目代は勿論平氏系になる。
平氏系の在庁官人や現地の有力者が贔屓されるのが当然の流れになります。
ドラマではやたら北条時政を囲む坂東武士たちが「平氏がまた税を上げて」といった内容を口にしていましたが、多分それもあったと思うけどちょっと的が外れている感じがするなあ…
税じゃなくて土地の所有権や支配権の問題だろう。一所に命を懸けるくらいだし(一所懸命)。

伊豆は長年源頼政の知行国で、となると当然現地では頼政の目代や在庁官人が長年力をふるっていた訳で。
そこにいきなり平氏系の人間がやってきて没落の憂き目を見た挙句抑圧されるような立場になったら、そりゃ反発、対立といった軋轢が生じないわけがない。

頼朝個人としては自分の生命の危険であったり源氏再興であったり、事情はあったと思うのですが、東国武士にとったらそんなことはどうでもよかったんじゃないかなーと想像^^;
だって源氏没落してるんですよ。
現に頼朝だって蛭ヶ小島に流されて既に20年、後ろ盾もないし自分の武士団を持っているかと言ったら持ってない。
鎌倉には頼義、義家が築いた地盤があるので、”重代の家臣”的な存在はいただろうと思うけれど。
まー特に利益もないのに源氏に忠誠なんて誓う必要性なんて感じないだろう。
初めは自分の土地の為に蜂起した武士が多かったんじゃね?
以仁王の令旨は反平氏勢力にとってはこれ以上ない大義名分だし、旗頭として頼朝を立てるのもそれはそれで都合が良かったからじゃないかなー


なんというか、清盛の目指す武士が頂きに立つ世ってのが未だにいまいち分からんのだが…
よく分からんが故に感情移入しにくいと言うか、なんかドラマに激しくおいてけぼりくらってます。私だけ?
いきなり進む方向がねじ曲がってここ数回は正に老害ですって感じだったけど、頼朝の挙兵で暗闇から戻ってきたとか、いきなりそんなこと言われても何が何だか^^;
プロセスすっ飛ばしていきなり結論から結論へ進まれると付いて行けないorz

次回が富士川の戦いですか。うわーん悲しいなー…ついでに黄瀬川の陣もあるっぽい…
転落していく様子というのは本当に寂しい。