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2013/12/31 ヒジハラ

熊野詣

2013-07-17 | 歴史の小旅

熊野遠すぎ笑えない。

渋滞してて行き6時間、帰り大かた8時間。那智での滞在時間1時間ちょっと。
家に帰りついたのは日付が変わった頃でしたwww
江戸時代の人は「伊勢へ7度、熊野へ3度」(※一生の内この位行っときたい)だったらしいけど1回で十分だわ
後白河法皇が三十数回熊野詣したらしいけど、平安後期ではそれは大変だっただろうなー
  
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/49/751f297f483fcbc5e53d7d5c5a3d9865.jpg?random=1aa059861a8b5848cb706a8e036d60a2
  
滞在時間がお勤め入れて1時間ちょっとで本当に時間が無く、那智の瀧を目の前にしながら瀧下まではいけなかったのが痛恨。
御朱印だけは辛うじて頂いてきた。
  
紀伊半島の横断道が車に酔いやすい人間には非常に辛く、正直もう寝るしかなかった。
それなのにわざわざ起こしては2年程前の台風の際の土砂崩れの生々しさを実地で説明してくれるツアコン(殆どそのまま残ってた)。
止めてくれ起こさないでくれ戻しそう。
風景も綺麗だったし、出来たらもう一度ゆっくり落ち着いてお参りしたいと言う気持ちはあるけど、あの行路をもう一度と言われると正直考える。
アデュー陸の孤島多分もう行くこともなかろう。しんどかった…


赤レンガ倉庫・契沖生誕比定地@尼崎

2013-02-06 | 歴史の小旅

行く予定はなかったのですが尼崎に用事があったのでついでに寄ってみた。
阪神電車が所有している赤レンガ倉庫が初公開という事で、関西ローカルのニュースや新聞で取り上げられていました。
今回公開されたのは1月末と2月初旬の土日、4回のみ。
係員の方に伺ったところ今後の公開は不明だそうです。
   
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/dd/dcbf9b39987d5dde60860c329fdbeb0c.jpg?random=e37431fac6822b6cfe1ffb69c90a934d
 
尼崎駅の南側。もう少し行ったら工業地帯かな。
奥の方に電車が見えていますが、これが阪神電車。手前のが赤レンガ倉庫で、手前に見える白塀は尼崎城址。
現在尼崎市立中央図書館になっている。
写真の背後は石垣なのですが流石にこれでは分からないな~^^;
 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/36/cbdcdd7c95012f064ac394399d407e34.jpg?random=4fb59b019b2732ebecf539d4f7776582
 
こじんまり…
電車を動かすための電気を自前で作っていたらしい。余った電気は電気会社に売っていたらしい(戦前)。
関西は私電が多くて、それが各々電気を作っていたそうです。
それが戦中に国策の一環として一本化され、できた会社が関電(の前身)だと伺った。
そうだったんだ。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/7c/7e7b30f236a29d9ce3476940a6473609.jpg?random=aca2eb621c819a65225bbb357d268c03 

休日だったこともあってか、思ったよりも人が多かったです。びっくりした。
本当にひっきりなしに人が吸い込まれていく…
 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/91/6372fec594cc33e6cfe28385c97d6b30.jpg?random=774a7412b42246493e4253a3d523fae1

近代建築ファン、鉄道ファンの中では割と存在が知られている建築物だという事をニュースでは放送していました。
親子連れとか一眼レフを持った女子ひとり、女子の集団(勿論男子の集団も)なんかも多くて、なんか価値知らん人間がフラッと立寄ってすいませんという感じでした。すいません場違いでほんとすいません。
 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/4e/f8a4a3a0d6016b68d8d36598ee190071.jpg?random=f712fa158d7eda1467c03dfc93a79aab
  
工場写真で有名な小林哲朗さんの写真展と講演会があったので、それも人が多かった理由かも。
私が立寄った時は丁度講演が始まる直前で、中は結構混雑していました。
私はそのまま帰ったけど。
そして中の写真はNGということで、残念ながら。
我が町は海の方は空襲で焼けてるんですよねー。
紫電改を作っていた工場があった(今でも海の方には名残があるらしい。甲子園の近く)のでそれもあると思うのですが、同じ海側でもこちらは空襲はなかったみたい。
近場にこんな建物があるということに小さな驚きが…

で。
 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/3c/cb3340278b215fbcf8503cd1190ab14f.jpg?random=5623618f64f52b01994ad95aa4e5fdd2

図書館の側にある契沖生誕の比定地。
どうせ比定ならもっと目立つ所におけばよかったのに…
私は国学者で万葉集の研究をしていた人としか知らないのですが、尼崎の生まれだそうで。
そうなんだ。
近松門左衛門も尼崎に随分所縁のある人物だけれど(お墓がある)、あの人は福井の人だ…

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/35/29f7addde2a35e539864fca930c850d8.jpg?random=0af2422f994bf80583f190419c7735ad

解説を読むと水戸光圀と関わりがあったそうで、『万葉代匠記』という万葉集の注釈本を作ったそうだ。
手元にある新版日本史辞典(角川)を見ると、
「著書が多く、その文献実証的古典研究は近世国学の先駆とされ、本居宣長に影響をあたえた」
そうなんだ。
自分がそこそこ地元と認識している行動範囲内で教科書に載るような人の石碑を見ることがあまりないので、へーとは思うのだけど、へーとしか言いようがない。知識がなさ過ぎて。
ただ解説や辞書に書かれている事柄を見ると日本の古典研究にとってはかなり重要な人のようです。
光圀の時代かあ…
ちょっと私の守備範囲からは外れてくるなあとは思うものの、機会があれば何か読んでみてもいいかもと思う位には興味がある。
冲方丁の小説に出てくるんじゃない?読んでないから知らんけど。 
   
>yuruyuruさん(反転して下さい)
こちらこそいつもありがとうございます!興味深いと言って頂いて嬉しいです^^


師直塚@伊丹

2011-10-24 | 歴史の小旅

ちょっと前に出かけた史跡の写真。
171号線、伊丹市にある師直塚。
  


足利家の執事、高師直所縁の塚になります。
高師直は1350年から始まった観応の擾乱で命を落としますが、それがこの辺りだったようです。
高師直が殺害されたのが武庫川、伊丹の辺りだったというのは知っていたのですが、大して興味もなく(ごめん)いつか行ってみようという程度でしか思っていなかったのですが、去年偶然この前を通りかかったんです。
車だったのでサーっと通り過ぎてしまったんですが、あー、きっとこれやーと。場所が分かれば行きやすい。
  

 
武庫川を遡上して報徳学園の辺りで171号線を伊丹方面へ。自転車で川から15分くらいかな。
イズミヤ昆陽店に隣接してます。
電車でだったらどうなるのか…ローカルバスに乗らないと厳しい気がします。


 
こういう人通りと車通りの多い所で当たり前のようにある石碑をためつ眺めつしながら撮っていると変な眼でじろじろ見られる。
いいもん。慣れてるもん(笑)

私が学生の頃は歴史の教科書や史料集に必ずと言っていいほど「足利尊氏像」が載っていました。
尊氏像と言えば「あー、あれね」と思う方も多いと思いますが、これは昔から「伝足利尊氏」というか、「足利尊氏なの?」という話がありました。
というのも馬具に描かれている家紋が足利家のものとは違うんですって。
で、高師直じゃないかといわれ、一時「高師直像」になったものの、現在では「騎馬武者像」という表記がされているようです。
まあ、でも高師直説(高一族説)が強いようです。
  

  
塚は元々違う場所にあったようですが、何度か移転した後この場所に落ち着いたようです。
うーん。一応歿地なのだから場所を選べばいいのに、と思うのですが、はい。アレです。
動かすとTATARIがとかそっち系の話があるようです。将門塚ですか…
でもそれなのに何度か移転したのね。
   

 
解説板によると、
観応2(1351)年、この地で上杉能憲勢の待ち伏せにあい弟、息子と共に殺害され、一族が滅亡した。
没後は墓らしき塚が残っていたけれども、耕作の妨げになるとしていつしか崩された。
大正4年、師直らの魂を鎮めるため、山田村有志により現在の師直塚が作られたものの、国道の拡張工事等により現在の位置に移された。
とのこと。

2・3年前に打出浜の合戦の石碑(大楠公戦跡@打出)がこれまた意外と近くにある事を知り驚きましたが、側にあるのに気付かないでいる歴史は多いんでしょうね。
 
南北朝では私は北朝方の方が好きなのですが、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が好きです。
鎌倉には親王を祀った鎌倉宮がありますが、鎌倉に行った時は必ずと言っていいほど立寄ってます。
また鎌倉宮は明治天皇が命じて建立された神社でして、それもあってか明治の元老や陸海軍将星たちの筆跡が一杯あるんだよね。 
ここは近代史オンリーで好きの方だと中々気付かれないと思います。
 
*****
  
この日は天気も良かったし、時間もあったし、ぶらぶら散歩でもしようかと武庫川を延々と遡上してみました。(自転車大好き)
武庫川を遡上すると宝塚に行きつくんですが、気がついたら宝塚にいました。
流石にえっ?てなった。えっ?て^^;
  
 

手塚治虫記念館。何度か行ったなー。
 


タカラヅカ。
タカラヅカは見た事ありませんが(興味無し)、宝塚ファミリーランドは子供の頃はよく連れて来てもらいました。
ここ来る時はマクド買って貰えた。小さい頃はめったに買って貰えないハンバーガーがご馳走だった。笑。
跡地はローズガーデンとかドッグランか何かになってるようですが。
うーん。宝塚には全く用がないんですよね…清荒神とか川西に行く時に電車乗り換えるだけで。
そしてこの日一番驚いたのはこの手塚治虫記念館から家の前まで自転車で40分だった事だった。
車より早いってどうよ。
 


先週インフルエンザの予防接種に行ってきました。
かかりつけでもまだ受付が始まったばかりで、「流石にまだ早いですよね」と聞いたら
「いやー、もうね、関学の方で患者出てるんだよ。早くないよ」
まだこんなに暖かいのにね。びっくり。
学校で罹患者出たら一気に広まりますな。阪神間の方要注意です^^;


続・岡崎にある”近代”@京都

2011-09-27 | 歴史の小旅

先日の続きです。  



うろうろしているのは大体この辺り。 


 
先日のこの写真はで撮影したもの。あれこれと本当に目と鼻の先でしょ。
いつもなら青蓮院にも寄るのですが、今回は帰りのルートが違っていたので寄らなかった。
 
 

上の参道からこの門に至る迄の間に金地院があります。黒衣の宰相金地院崇伝の金地院。
 
 三門
 
めちゃめちゃでっかい。石川五右衛門の「絶景かな絶景かな」の門。
公式HPを見てみるとこちらは何度か再建されたそうな。
現在のものは寛永5年(1628)に藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建したものだそうです。
  


でも、南禅寺で一番有名なのは水路閣だと思う…。レンガ造りのアーチが奥に見えています。
  

 
京都が舞台の2時間サスペンスとかでよく出てくる水路閣ですが、これは南禅寺境内を通っている琵琶湖疏水です。
確か今でも水が流れていたと思う。確かめれば良かったのですが、3連休だけに人が多くて(以下ry
なんというか、市内なのですが、繁華街の一番端っこかギリギリ内側にあるような感じなんですよね、こちら。
ドラマで水路閣バックに歩く場面とか見て、こんな所まできて話なんか絶対しないwwwと思ってしまう。笑。
  

 
アーチが綺麗なのですが、本当に人が多くて。よく来るし今日は良いかと。

 そして無鄰菴。
 
元々下関、吉田の東行庵が無鄰菴だった。
山縣有朋が明治2年に洋行する際、高杉晋作の愛人おうのに譲っている。
2代目無鄰菴は京都に作られるのですが、それも元々は違う場所にありました。
  

 
木屋町二条下ル、島津製作所創業記念資料館の正面、角倉了以の屋敷跡。今はがんこになっている…
 
 

今回は無鄰菴もスルー。こちらは本当によく来るので。
庭やらなんやらの写真はサイトに上げてありますので、よろしければどうぞ。
なおこちらで山縣が利用していた遺品は栃木の山縣有朋記念館にありました。
京都にももう少し置いておいて欲しかった…orz (こちらにあるのは数個)
  


入り口付近で写真。隣が瓢亭。室町終り?江戸初期?からあるお店である…
上写真を真直ぐ、どんつきで右に曲ったところが下。



目の前に見えている洋館で日露戦争前の外交方針が決められたそうです。
山縣、伊藤博文、桂太郎首相、小村寿太郎外相が集まったとのこと。
 


ここに来る度に瓢亭でご飯食べたんだろうなーとか思う。
こちらには品川弥二郎が酔った勢いで描いた瓢箪の絵の軸がある。
他にも色んな人が訪れたんでしょうね。


岡崎にある”近代”@京都

2011-09-25 | 歴史の小旅

京都の岡崎方面(平安神宮の辺り)に行ってきました。
 


目的はワシントンナショナルギャラリー展。
ワシントンナショナルギャラリーの一部が改修工事にかかるという事で、そこに収蔵されている美術品が京都市立美術館にきています。
展示されていたのは印象派と、ポスト印象派。
つまりモネやらドガやらルノワールやらセザンヌやらなんやらかんやら(こら)。
上の写真に出ているゴッホの自画像が展示されているという事で、これが見たくて出掛けたんですが、あれこれと結構見応えがありました。
もちろん私に善し悪しなんて分からないので、好き嫌いでの判断になりますけれども。
スーラとロートレックが見られたのが嬉しかった。

10時半ごろに到着したのですが、沢山の人がチケット売り場に既に並んでいてあちゃーと。
それでもチケット売り場の列に並んで、…よく見ると「フェルメールからのラブレター展」と書いてあった。
え?場所間違えた?開催日時間違えた?
よく見たらお目当ては隣の入り口だった…
フェルメールは入場制限がかかっていましたが、ナショナルギャラリーの方はすっかすかなのな!(笑)
並びもせずかなり快適に見学出来ました。美術館でも博物館でも、押し合いへしあいで見るのは辛い。

ゴッホの自画像は、初来日だそうです。
大して大きな絵では無かったですが、凄い目ヂカラ…
目の周りも頬も、全体的にゴボーっと落ちくぼんでいて(病みあがりの自画像だそうです)、額に血管が浮いてる。
顔は青白いし、画面も青いし、すごい迫力でした。ふう。
  
***

歴史の方。

 阪急河原町駅、木屋町南出入口
 
前はパチ屋だったのですが、今はマクドに変わっています。
2月に京都に行った時はすでにマクドだったなー…って、ここは中村半次郎の京都時代の彼女の家(村田煙管店)があった処。
昨日は桐野利秋の御命日(というか、城山が陥ちた日)だったのですが、眠気に負けました…
ごめん、きりー。私も墓参りで忙しかった。
 
そして京都市立美術館がある辺り。

 

同じ場所から撮っています。右上の写真の道を真直ぐ進むと(東に向かう)
 


琵琶湖疏水記念館と、山縣有朋の別荘だった無鄰菴。
無鄰菴を横目に真直ぐ進むと琵琶湖疏水記念館にぶつかります。
 

 
文字通り疏水に関する記念館で、入館無料。
疏水は近代、京都市が手がけた大事業のひとつです。
1期、2期に別れていて、その内の2期の方を西郷菊次郎が推進した。
 
西郷菊次郎は西郷隆盛が奄美大島に流されていた際に愛加那との間に授かった長男になります。
西南戦争にも参加していますが、銃創のため片足を切断しており可愛嶽突囲には参加できず、政府軍に降伏しています。
西郷どんの弟、西郷従道の下に降った。

明治30年代には台湾の宜蘭の初代庁長になり治水をしたり、仁政で慕われる人物であったようです。
台湾に行った際、台湾総督府(現中華民国総督府)も見学しましたが、西郷菊次郎のコーナーがちゃんとありました。
総督府内、見学は出来るんですが現在も国の中枢として機能しているだけあり、写真アウトなんです…
ガイドさんもさらーっと流して歩いて行ってしまうので、メモが取れる状態ではなかったorz
  
で、この方2度程京都の市長もされているそうで。
1度目が明治37年から6年間、2度目が明治43年から44年まで。
明治44年に病気で市長を辞め、鹿児島に帰ったと記念館の解説にあった。
…んですが、よく見りゃ37年から6年間て明治43年じゃね?
明治37年から44年までじゃね?
ちょっとどういうこと?(笑)
自分で調べていないので何とも言えません。そのまま書いときます。
  
当時西郷は3大事業として
 1)第2琵琶湖疏水を作り、多くの水と電気を得る
 2)水道を作り飲料水を得る
 3)烏丸通他主要7大道路を広げ電気鉄道を通す
こういう事をしていた。
こうした事業は西郷の前の市長から手を付け始めていたようですが、政府がうんと言わなかったり、その内日露戦争が始まってしまったりで上手くいかなかったらしい。
そういう事もあったのかと思いますが、西郷は計画を認めさせるべく京都と東京を何度も往復して、政治家や役人に会っていたそうです。
「東京在住の京都市長」
なんて言われていたそうですから、相当頻繁だったのではないでしょうか。
そして、その東京行きの際に利用していたカバンが記念館には展示されています。
ちなみにフランスで外債を集めて資金調達し、明治45年に工事は終了したそうな。

政府からゴーサインが出たのが明治39年。
直接許可を出して居るのは内務省ですが、その時の内相が原敬になります。
事業許可します、という原敬のサイン入りの公文書もこちらで展示されている。

また、第1期の際には、知事北垣国道に命じられて明治22年頃には河田小龍が疏水工事の様子や疏水沿いの風景を描いていたようで、そうした絵も2点程展示されています。
河田小龍、まだ生きてたのか、という驚きが…坂本龍馬と知り合った段階で、何だかものすごく年をとっているイメージがあるんですが…(笑)
計算したら明治22年で65歳くらいだった。

そしてレプリカではありますが、荒井郁之助宛大鳥圭介書簡(明治14年11月1日)もあります。
意外な所で見つかる意外な近代の人々。笑。
  

 
これも同じ所で撮影した写真。
後ろに下がれば疏水記念館。あっちもこっちも目と鼻の先。
明日につづーく!