Forth!

移転しました(2014/1/1)

流し目プレイ☆

2006-12-02 | ヒストリ:近代MTS
という事で(どういう事だ)、今日は桐野利秋の誕生日ですね~v

とりあえずサイトの更新いたしました。
桐野利秋とその従兄弟、別府晋介の誕生地の紹介です。
先月は何件かこの2人の名前で来てくださった方が居られた様なのですが。
スイマセンでした。うひ。
とりあえず今月は桐野…というか中村半次郎関係の史跡紹介になるかもです。
…力尽きたら途中で止まります(笑)

きりーといえば、カッコ良くて優しくて爽やかで金離れも良く(貧乏だったのに…)、何処に行ってもお世話してくれる女性がいたそうです。
イメージ的には 帰る家がない 一箇所に留まらない天然遊び人のようなのかしらという所だったのですが、実は妻帯者。
このことを知った時私はショックでした(爆笑)
桐野が家庭を持っているイメージが全っ然無かった…(笑)
ただ子供はいなかったようで、弟の子供を養子にし桐野家の跡を継がせています。

しかしホント、何処に行っても桐野の周りには女性が。
お茶屋に行けば争って芸妓がお座敷に出ようとしたといいますし。
陸軍に出仕していた頃彼は本郷の辺りに住んでいましたが、夏には美女を連れて不忍池へ夕涼みに行っていたり。
西南戦争時でも西郷札で遊郭の美女を落籍せたとか。
京都時代には村田煙管店の娘ちゃんと恋仲になったり。
なんて華やかな…

西郷と出会った事、そして吉野郷から京都に出た事が桐野の人生の一大転機であったと思うのですが、京都に出た頃なんてそらーもうバリバリの薩摩弁(?)だったはずです。

薩摩弁というのは日本の方言の中でも、やや特殊なんですね。
関が原で敗れて以降、島津家は大隅と薩摩の2州に封じられる事になりました。
まあ…日本史の大まかな流れから見ると確かにそういうことなのですが…
薩摩側から見ると、外から藩領に容易に他藩人や幕府のスパイが入れないようにしていました。藩防衛の為に完全に入り口を閉ざしていた。
それが関所の強化と言葉です。
関所は非常に厳しかったようで、殆どがここで止められて藩の中には入れない。
入れたとしても、言葉が明かに違う。
明かに違うように作られたところがあるからです。
幕府の密命を帯びて密入藩(笑)した間諜が殆ど帰ってこなかったのはここに理由があります。
因みに薩摩に入る密入藩者は「薩摩飛脚」と言われていました。「生きては帰れぬ薩摩飛脚」と言う風によく言われますな。
(因みに幕末「薩摩が密貿易をしている」という証拠を握って江戸に帰った薩摩飛脚がおり、これが幕末史を動かす1要因にもなっています)

因みに今現在の薩摩弁と、桐野らの時代の薩摩弁は同じものではありません。
戦前と戦後で随分違うそうです。
戦前の薩摩弁を聞いても現代薩摩人は「???」だそうで。
どれほど難解な言葉だったか。
これには有名な話があります。
太平洋戦争時のことですが、海軍で利用している暗号がブレイクされている事に気がついた当局が応急で暗号を使わずに薩摩弁で作戦の伝達をした事があります。
確か米軍だったと記憶していますが、この"暗号"がなっかなか解けず(笑)、内容が分かった時には作戦が終了していたとか。
しかしこの話…薩摩弁が難しい言葉だったと言うより、意味を解明した米軍の担当官に驚きます(笑)

と言うわけで、国内で外国語を話していた薩摩藩士たち。
桐野なんて文久2年に京都に出て来るまで薩摩しか知りませんから、訛りは相当キツかったと思うのです。
京都なんかでは冗談ではなく本当に言葉が通じなかったんじゃないかと。
そんな中でどうやって

「京洛や東京の名妓を悩殺」(『三百藩家臣人名事典』桐野利秋の条)

したんだろう…
言葉が通じなくてもこういう事はまあ、アレな感じですけど(笑)こう思うのですよ。

流し目プレイ☆ 煌くスマイル♪

……ぴったりじゃないですか……?……
きりーは意識して無くてもきっとこうだったんじゃないかと(笑)

あっ イタイ子を見るような目で見ないで下さいっ!
石は投げないで!!(笑)
前置き長すぎ?ゴメン!!!(笑)


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>拍手頂きました方、ありがとうございました!

>12/2 14:11 日記を読んでいると ~ の方
ありがとうございましたv歴史ってよく知ればもっと面白いと言う事を意識しながら書きたいとは思っているのですが、そのように思って頂けるとは…書いていて本当に良かったです。肩肘張らずにお気楽にお楽しみ頂ければ何よりです。
ありがとうございました。



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