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兵庫×平氏3 (和田神社・阿弥陀寺)

2012-10-28 | ヒストリ:平清盛

時間が開いてしまいましたがサイト更新です。
今回は兵庫×平氏3と言う事で和田神社と阿弥陀寺。

和田神社がお祀りしている神様のひとり?は市杵島姫命。
大輪田泊の工事が殊の外難航し、それを心配した平清盛が工事の完遂と将来の繁栄を祈って広島の宮島から勧請したと言われています。
市杵島姫命は厳島神社のご祭神。ついでに言えば厳島神社は平氏の氏神になります。
神戸には他にも厳島神社がありますが、本当にあっちこっちに勧請されてますねえ。
 
今まで何度か書いていますが、平清盛は神戸で千僧供養を何度か行っています。
詳しい開催場所は分からないようですが、どうもこの和田神社の辺りであっただろうと。
和田神社には平清盛に関する石碑などはないのですが、近くにある三菱重工の敷地内にはこの万灯会に関する石碑があるようです。
 
こちらの神社を調べていた時に驚いたことがありまして。
郷土史の本に「幕末に武庫川堤防が決壊し、武庫郡小松村にある岡田宮の御神体が流れ着いたものを祀った」とあったのよ。
めちゃめちゃ地元やないか~い!笑
この岡田の宮、現存していて今は岡太神社。
何を隠そうこの辺り平安時代末期は平氏の荘園があった所で、伝承では付近に平重盛の館があったとされている所。
  
 →平重盛邸跡@西宮
   
写真に小松内府とありますが、ここから地名が取られてこの辺りは現在小松町。
そうした所から平氏所縁の地に流れ着いた神様も大したもんだ。笑。
そう言えば先日新聞広告を見ていて地元にも厳島神社があることに気が付きました。知らんかったー
両方とも武庫川沿いだけれども距離がある。
さすがにその厳島神社の辺りは平氏の荘園ではなかっただろうけど、何か関係があるのかとは思いますねえ。
面白い。
 
現在は全然そのような名残はないのですが、和田神社の辺りはかなり風光明媚な場所であったようです。
幕末には勝海舟、徳川家茂、徳川慶喜といった人々が訪れたこともあったそうで。
勝海舟は海軍操練所の関係で神戸に滞在していたからあちらこちらに顔を出しただろうとは思うけど、家茂慶喜と言われると、流石に結構有名な所だったのかなーと^^;(現金)
 
もうひとつの史跡は阿弥陀寺。
こちらは平清盛と言うよりも南北朝時代、楠正成がメインです。
清盛と関係ない訳ではないようなのですが、今年に入ってから無料配布された史跡巡りのパンフにちょっと載っているという位。
私もここが清盛所縁と紹介されていても何故かは初めは分からなかったです。
清盛とちょっぴり関わりがあるという事はごくごく地元の人位しか知らないのではないだろうか…^^;
 
楠正成は湊川の戦いで戦死しますが、その後掻かれた首は尊氏の許に齎され首実験されることになる。
この阿弥陀寺にはその首実験の際に使われたとされる巨石が残されています。
 


大名家から地元の名士に賜り、そこからこのお寺に寄贈されたそうです。
関わった人物が人物ですし結構大事にされたのではないかと思います。
湊川神社も近いし、もしかしたら明治期に伊藤博文や東郷平八郎なんかもやってきたかもしれませんね~
 
湊川神社は比較的新しい神社です。
幕末期に薩摩が中心になって神社を作ったれという動きがあり、それが引き継がれて明治5年に創建された。
神社の奥には施錠されている区域があって、そこが楠正成の戦没地とされている場所です。
勝手には入れない所ですが、見たいと言ったら見せてもらえる。
で、その入り口には石灯篭が建っているのですが、その寄進者が伊藤博文、江藤新平、大木喬任の3人。
ひとり1基ずつ。
大木もそうだけれど、江藤に関するものが兵庫にあると言うのは私としてはかなり意外でした。

湊川神社には伊藤博文の銅像も建っていました。
しかしながらそれは日露戦争後のポーツマス条約の内容に怒った民衆によって引き倒され、福原の海に棄てられそうになった所を救われて、昭和初めに萩に戻っている。
萩の松下村塾近くの伊藤博文旧宅の前に建てられていたものの戦時の金属供出に引っ掛り、その後萩焼で陶像が作られています。
それが今伊藤旧宅前に建っている。



その後もう一度神戸で銅像が作られてます。それがこれ。
現在は台座だけ大倉山公園に残っている。

湊川神社の宝物館には東郷平八郎が奉納した旗なんかもあります。
ご時世と言うか何と言うか、御祭神が御祭神なだけに色んな人がお参りしているんですよね。
楠公さん大人気。

広瀬武夫も湊川神社に参詣していますし、彼は清盛のお墓がある能福寺にもお参りしています。
これは本人の書簡から分かっている事なのだけれど、明治38年に出た広瀬の伝記にも書かれています。
楠正成についての反応は…うん、まあご想像の通り^^;
(「広瀬本人の反応」じゃなくて「伝記著者がこうあらまほしと思う広瀬の反応」)
なんせ広瀬の辞世になった「七生報国」は元々楠正成の言葉で、七生報国を誓って自刃したのが湊川神社の戦没地ですし。
その一方で、清盛墓での「こうあらまほし」な反応は「横恣驕慢なる歴史に、目尻を立てゝ唾したでせう」。
こーゆー扱いだったんだよなー清盛は…
ちなみに両方とも参ったと言うだけで、広瀬の本人の感想はありません。

神戸には小野浜造船所がありました。
広瀬やその同級生たちは海軍兵学校卒業間近の時期に瀬戸内を練習航海していて、その時に造船所の見学で神戸に寄っていたんですね。
小野浜造船所は、元々は神戸居留地の外国人が経営していたのだけれど、最終的に呉鎮守府に吸収されている。
場所は恐らく勝海舟の海軍操練所があった辺りかと思います。
ここで初代の戦艦大和が建造されていて、その監督官であったのが東郷平八郎になります。
花隈の方に東郷に関係する石碑も残っています(東郷井)。
  
***

維新以前、神戸の中心地は兵庫の辺りでした。
まさに今史跡紹介をしているJR兵庫駅の辺りですが、本当に史跡が多いんですよ。
交通の要衝であったと言うのが大きいと思います。


 
特に西から上京するのに船を使った場合、兵庫や西宮で大船から降りる必要があった。
大阪湾の大阪側は淀川やその支流から流れ込む土砂のせいで水深が浅く、喫水の深い船が入港できない。
例えば、江戸時代では千石船は兵庫で停泊、積荷を小舟に積み替えて大阪にまで向かっていて、兵庫津はその中継地点になっていた。
兵庫を代表する豪商北風家や、高田屋嘉兵衛の本拠地が兵庫にあったのはそういう理由から。

西宮もまた昔からの交通の要衝で、ここは幾つかの街道が交差している場所になります。
一番大きな道が京都に続く旧西国街道(山崎街道)。
ここは大阪を経由せずに京都に行ける道で、西国大名なんかが利用していたそうです。
幕末禁門の変で長州が都落ちした際、多くの兵がこの街道を下り、西宮から船に乗って国に帰っています。
中岡慎太郎とかそうですな。
 
西宮から大阪に続く浜街道もあるし、西宮から下関に続く山陽道もあり、と言った感じで重要なポイントになっている。
で、町は北が山、南が海となっていて、山の方に城を作れば四方の交通を見渡せる。
地元の甲山には越水とか城山という地名が残っていますが、そこに越水城という城があった。
三好長慶が居城にしていたこともあったのよ…
信長の上洛の際に城主(※三好じゃない)が逃げ出して、最終的には廃城になったのだけれど。
どこまでが本当か分からんのだけれど、この越水城が日本初の天守閣を備えていたという話があって、それを信長が参考に安土城を作ったと物の本で読んだ事がある。

こういう場所は儲かるんですよ。
関所を作ったり宿場を作ればお金巻き上げ放題!笑。
なので江戸時代では天領の時期が長く、一時尼崎藩の領になるものの結局幕府が召し上げている。
神戸と共に重要地であったという点もあったと思います。

水陸の要衝で、京都大阪に近いというのが神戸と西宮の一番のポイントだったかと思います。
それだけにこの辺りで起った戦も多い。
平安時代後期、南北朝時代、室町時代後期、戦国時代とひっきりなく戦が起り、土地の奪い合いになり…
江戸時代になって落ち着いてからは商売の歴史で、近代に入ってからもあれこれあります^^;
西宮の方は目に見える史跡はあまりないけれど、兵庫の方は県庁所在地なだけに。
 
兵庫駅前には付近の史跡地図が出ているのですが、時代ごちゃ混ぜで100件を優に超えている。
そりゃ人が長いこと住んでいたら100件なんて大した数ではないのでしょうが、あれもこれもと言う感じで結構驚くんだよねえ。
(西宮がね、本当に全然力入れてないようにしか見えないから余計に…)
  



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