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2013/12/31 ヒジハラ

明治の物価

2013-05-14 | ヒストリ:広瀬武夫

 

※こちらの内容はサイトに移行しました。

サイト>works(歴史話)>近代史(明治)>30~40年代>「明治30年代の物価を考察する」


上泉徳弥から財部彪へ

2013-04-09 | ヒストリ:広瀬武夫

以前名前を出した末永節については『続対支回顧録』(明治百年史叢書)の下巻の列伝で調べました。
ここには名前を見たことがある人がちらほら載っていて、その中に上泉徳弥もいた。

上泉は慶応元(1965)年の生まれ。
米沢藩士の家で、家系を辿ると上泉伊勢守がいる。
マジか。
そりゃすげえ。(上泉伊勢守=剣聖上泉信綱。新陰流の開祖)

父親が学者で、門人に雲井龍雄がいます。
子供がおらず、雲井と門人の双璧をなしていたもうひとりを養子にした。
その後後妻を迎え、生まれたのが上泉徳弥です。
結構なお年の時に設けた子だったのではないかな~。何せ父は上泉の生前に亡くなっている。
そのため上泉は養子に来た義兄に育てられているのですが、この義兄がまた有名だったらしい。
上泉直蔵。
維新後は地元の教育者として過ごし、米沢聖人と称された篤行、人望のある人だったそうです。
戦前の米沢にはこの人に関係した上泉奨学金というのがあったらしいよ。
ググってみたら藤沢周平の小説『雲奔る』(雲井龍雄)に出ていることが分かった。
 

今まで何度か触れているけれど、上泉はエキセントリックなんだよねー。
こんな人私の周囲にいなくて良かったと思うようなエピソードがあっちにもーこっちにもー。
いや、でも悪い人ではない。多分。
国のことを思っての行動や、他人の非を糺す行動がエキセントリックなだけで。
しかしながら、話を聞くだけなら面白いけれど「お願い巻き込まないで」のタイプである事には違いない。笑

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/89/6d24cb8952c3848fedd01fe7730d9232.jpg?random=b12f4cf1ca506528d258d0a5935be7a1 カミイズミ・ザ・エキセントリック
 
海軍大臣の息子の海軍士官が薩摩風を吹かして威張り散らすのに腹を立てその士官の頭に放尿したり(…)、候補生の時には巡洋艦浪速に便乗した伊藤博文が艦橋で葉巻を吸っていたのを取り上げて大叱責したり。
当時伊藤博文首相ですよ^^; (※でもこの事に関しては伊藤が悪い)
なんちゅうかあんたも大概よと私は思うけど。
てゆーか、聖人に育てられたのにどうしてこんなことに。


日露戦争以前は開戦推進派とでもいうのか、早い内に戦争したい派、随分な右派で湖月会のメンバーでもありました。
湖月会は明治36年初夏ごろからの会合で、秋山真之、陸軍の井口省吾や田中義一、外務省の山座円次郎なども参加しています。
山座なんて酔っ払った挙句伊藤博文を暗殺しないと戦争出来ないイエー!とか気勢を上げて、それが伊藤の耳に入ってしまい大問題になったり。
そんな中で海軍の要路者から一番煙たがられたのが恐らく上泉かと。
上泉は当時軍令部副官でしたが、その仕事を同僚(←江頭さん)に押し付けて海相や軍令部長に「開戦しようぜ!」と説きまくっていた。
  
しかしながら36年4月末には山本権兵衛海相が、
「機先を制するため開戦の心算を悟られてはいけない。責任者外に秘密が漏れぬよう注意せよ。軽挙妄動は厳に慎しめ」
と、大雑把に言うとこうした内容の訓示を極秘で出していたんですね。
これは『参戦二十提督 日露大海戦を語る』にも出ている話ですが、本当に少数の人間にしか知らされていなかったようで。
軍令部長と鎮守府長官は知っていて、推測ですが、訓示が下りたのは軍令系統のトップ数人だったのではないかな。
何せ総務長官(次官)であった斎藤実でさえ知らなかった様子で、それなら上層部が何を考えているのかなんて一軍令部員が知っている訳がなく。

で、知らないから騒ぐ。エキセントリックなんで…
山本権兵衛宅には4回訪問、伊東祐享軍令部長、既に引退している樺山資紀にも早期開戦を説きに行き、ついに伊東軍令部長マジギレ^^;

この餓鬼は、酔ッ払うといつでも屁理屈ばかりいつて、五月蠅くて仕様がない」(『参戦二十提督 日露大海戦を語る』)

この餓鬼は(笑)
 
いやーそりゃね、伊東は幕末からの猛者ですからね。
勝海舟の下、坂本龍馬と一緒に海軍塾だか海軍塾操練所だかにいて操船を習い、それを誇りにしていた人ですからね。
伊東からすれば上泉なんて正にガキで、小僧にもならなかったでしょう。
陸軍にも議論を吹っ掛けに行っていたようなので、状況をよく知る人間としては余計に腹立たしかったろう。

更に戦後、山本権兵衛からは
「貴様のようにぎゃあぎゃあ言って歩いては戦争なんかできない。ごく秘密に、知らん顔をしていて、ぼかんとやらないととても勝てるものではない」
日露戦争前の苦心は一通りではなかった。
そう言われている。
上泉はこの一連のことを振り返って「親の心子知らず」と評しているけれど、本当にその通りだわ…

この極秘訓示の存在を知ったのは、上村の回想からして昭和に入ってからだと思われます。
面白いのは陸軍でも同じような話があること。
日露戦争の当時、参謀総長は山縣有朋で、次長が長岡外史でした。
山縣は性格もあると思うのだけれど、戦時の高等政策については長岡には片言隻句も洩らさなかったと言います。
金子堅太郎がアメリカでルーズベルト大統領に会っていた事さえ、長岡は知らなかった。

知ったのは戦後20年経ってから。 (※大正15年)


   
山縣は信用できる人間とそうでない人間を峻別する。
何年か様子を見て、これなら大丈夫と思った人間には聞く方が初めは驚くほどの情報を話すのだけれど、そこまで行かない人間には何も話さない。
長岡は、多分あまり信用されてなかった……んじゃない、か……orz

ちなみに上泉が陸軍にねじ込んだ当時の参謀本部の次長は田村怡与造でした。
戦前の陸海軍の連絡という点からすると、まあ、なんちゅーか、色々問題があったらしい。

財部彪が常備艦隊の参謀であった時に電報の取扱い方に問題がある事に気付き、これは改善しないと戦争が起った時に困ると逓信省と陸軍省とで軍事の緊急電報取扱いについての内規を定めようとしたことがある。
問題というのは、当時普通電と緊急電が一緒に取り扱われていたというもの。
緊急なのに普通電が優先されたりして緊急電の遅延が目立つため、それをなんとかしようと。
 
ところが、あれこれ詰めてさあもう一息、という所で田村次長が大反対、結局陸軍抜きでその内規が定まった。
そしてそのまま戦争が起って陸軍自身が困ることに…
 
こういうことが度々あったのか、何かにつけて「我が陸軍は」のMeismで、陸軍と交渉する必要があった人は、ありゃ大分苦労してますな。
 
(※海軍がそうでなかったということではありませんので悪しからず。海軍の中の人から見た陸軍は自己中で大変頭が固い組織である…)

続くよ!
  
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銅像から上泉徳弥へ

2013-04-08 | ヒストリ:広瀬武夫

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/5c/6f2cf45868944bfafa2115004d24ce22.jpg?random= 
 
広瀬武夫の銅像建立の話は広瀬の戦死直後に彼の同期同僚たちが出したもので、すぐにあちこちの新聞に載った。
生方敏郎が当時の広瀬中佐の人気は凄かったと書いていましたが、その為もあってか結構な人数からの寄付金が集まった。
戦争が終わる頃には2万3・4千円、利子がついて40年には2万5千円。
以前は2600万位と書いたけれどこれは企業物価指数での計算なので、大体3000万円位の感覚かなー。
そういうこともあって銅像を立てざるを得ない状態になっていたようです。
  
しかしながら広瀬人気は戦時であったからこそ。
いわば一過性のブームであって、明治40年だと戦争が終わって2年、世間的には既に「ああ、そういう人もいたわね」という感じになっている。
それに30年代と40年代とでは随分世相が違います。隔世の感がある程。

銅像建立の実務は広瀬の同期たちが行っていましたが、押し付けられるような形で担当になった人は随分苦労しています。
銅像建設の候補地として上げた二十数ヶ所、その全てで門前払い。
「広瀬の銅像?事可笑し」
要するに片腹痛いわーと鼻で嗤われる。
死後特進でやっとこ中佐になったという広瀬の階級の低さもネックになっていたようだけれど、たった2年でそれくらい時世が変わっていた。

世話役は6ヶ月くらいあちこちに打診しに行ったのだけれどもどこからも断られ、最終的に名前が挙がったのが万世橋駅前。
しかしそこでも敷地の問題が起って鉄道院、東京市と揉めています。
それがなんとか片付いた後に神田区に話を通しに行くと、豈謀らんや神田区大喜びの大歓迎。
地元の大変な助力と厚意を得て広瀬と杉野の銅像は除幕式にまで漕ぎ着けることができました。
ありがとう神田区。

ただ銅像の所有についてもかなり面倒があったようで、同期会としては初めは東京市に寄付したかったのだけれど断られ、神田区からも断られ…
考え考えた末に水交社が所有することになった。
当時水交社の社長だった斎藤実がOKしてくれた。良かったね…^^;
(神田区は多分管理の問題で断ったのだと思う)
 
万世橋駅前の広瀬像、戦前は東京へ修学旅行に行ったら必ずここで写真を撮るというスポットだったのですが、知ってしまうと「あー…まあそんなもんだよね」という話がかなりある。
見ていると、そもそも同期の人たちは銅像建立には乗り気ではないんですね。
広瀬神社を造るのにも反対で、幾つか湧いた神社建立の計画を潰してきた人たちですし。
この事は以前触れましたのでここでは書きません。
興味のある方は「君はともだち」(サイト)を御覧下さい。

銅像の除幕式は明治43年、雨の日だった。結構降ったらしい。
それにも関わらず多数の見物人が集まり、一時は電車が止まってしまう程。
「雨で良かった、晴天だったらきっと死者が出た」というのが関係者の話。

福沢諭吉研究で知られる伊藤正雄(明治35年生)が『忘れ得ぬ国文学者たち』で、この除幕式の直後に銅像を見に行ったと回想しています。

明治四十三年のことだが、五月に万世橋に広瀬中佐の銅像が建った。
大抵の銅像は一人立ちで、中には犬を連れた西郷さんや、馬に乗った楠公さんなどの例はあるが、これは双眼鏡を手にして立った広瀬中佐の脚の下に、片膝突いた杉野兵曹長が天を睨んでゐるポーズが新機軸で、大評判だった。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/a2/b40842f04b874af15a3c1e3f2bbb761d.jpg?random= 
 
そうなんだ。

万世橋付近は昭和1桁代頃までは銀座、日本橋と並ぶ一大繁華街でした。
新橋→銀座→京橋→日本橋→万世橋→上野→浅草
これが江戸時代のメインストリートですが、明治に入ってもそれが生きていて鉄道馬車や電車が通るルートになっていた。
それに東京駅ができるまでは万世橋駅は東京の中心になるターミナル駅でした。
要するに広瀬と杉野の銅像は滅茶苦茶人通りが多い所に立っていた。
それだけに時代が進むと 邪魔だ とか 移転すればいいのに とか散々言われ、その揚句付いた仇名が
  
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/6e/2d8c35e547a6c62c8cafe2dd1d661a4d.jpg?random= 
  
 (あーはっはっはっは!)

あれか。
三条土下座前みたいなもんか。(※三条土下座前の高山さん(下の方)
 
昭和元~4年の間だと思うのだけれど、神田橋畔の公園に銅像を移そうという話が持ち上がっています。
しかしながらそれは神田の人々がうんとは言わず、また物理的にもちょっと難しかった。

なぜならここの地盤は脆弱で大きな像を立てるのには不向きであったので、像が倒れたり傾いたりしないよう、滅茶苦茶堅牢な工事が施されていた為。
まず地を約6.7m掘り下げてそこに72本の松の丸太を打ちこみ、その上にコンクリの塊。
そうした上に台座、杉野像、広瀬像が乗っかったのだけれど、広瀬像の足から下には補強の為約6mの鉄棒が延びているといった有様。
それを聞いて移転すれば?と言っていた人も致し方なしと諦めた。
そして当の銅像と言えば本当に頑丈にできていて、関東大震災でもびくともしませんでした^^;
 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/0d/bb3d7dc277fbc809036125163e33d46a.jpg?random= 震災後の万世橋駅
  
戦後に撤去されてしまいますが、よく出来たと思うよ…
ちなみにこの写真と前回上げたこの写真、

 

後ろに写っている建物が違うけれども、同じ万世橋駅です。
上のは初代、下のは2代目で、大震災後に建て換えられたもの。
初代の設計者は東京駅を設計した辰野金吾になります。
 
で、辰野金吾と言えば、辰野金吾の息子が広瀬と(以下略)詳しくはリンク先を見てー(笑) 
このリンク先で日露戦争時の大本営海軍部の様子をちらっと書きましたが、当時の大本営参謀のひとりに上泉徳弥がいました。

はーい続くよー
   
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生方敏郎から銅像へ

2013-04-07 | ヒストリ:広瀬武夫

前回最後に引いた生方敏郎の『明治大正見聞史』、これはかなり面白い回想録。
 
政治史とか文化史といったそういう小難しいものではなく、また政治家や軍人等の人物史に即してといったものでもない。
群馬から東京に出てきて早稲田を出て、新聞社に就職した一般市民が見た明治中期~大正期の様子が描かれています。
大正と言ってもほぼ明治の話で、当時の雰囲気がよく伝わってくる。

生方は明治15年の生まれなので、明治27・8年の日清戦争の時は12・3歳。尋常小学校かな。
明治32年に上京して明治学院、35年に早稲田に入ったのは前述の通りで、明治37・8年の日露戦争の時は22・3歳でまだ学生。
明治39年に外務省に雇われ、塵の山と化していた幕末維新期の条約改正に関する文書を整理。
翌年に東京朝日新聞入社、その後やまと新聞で記者など等。
記者であり、批評家であり、作家でもある。

日清戦争の頃、子供の目から見た自分の周囲の様子。
戦争が起るまでの日本人一般が清国に対して持っていた敬意の情、それが戦争で清国を圧していく内にどんどん軽侮に移り変わっていく。
田舎に住む若者が東京に憧れ、故郷を捨てて飛び出して行ったものの、その後東京で得た失望。
印象的な話が多いです。

日露戦争の時は、本来なら真っ先に出征している年代なのですが、恐らく徴兵猶予されていたのだと思います。大学生なので。
自分の友達が軍人や兵隊として出征していくのを見送っている。
後世から見るとこの戦いが分水嶺だったとかそういうことが分かるけれども、同時代の一般人にはそういう事は中々分からない。
日々報道される戦況を見てどっちが勝っているのか、負けているのか、分からなくなるばかり。
回顧録の雰囲気からすると良いニュースを聞けば喜びはすれど、ロシアはあんな大国だしといった不安感がずっとあったようです。

奉天会戦の勝利を聞いても、「このくらいの勝利では、我々に安心を与えるところまでは行かなかった」。
奉天の勝利は明治38年3月初旬で、この頃になると後送された兵士の口を通して戦場の恐ろしさが銃後に伝わるようになっている。
鉄条網、速射砲の恐ろしさ、要塞戦の困難さ。(生方の地元の高崎連隊が第1師団所属。旅順の要塞戦参加)。
勝っている筈なのに北に進むほど戦線が広がり、日本軍には不利に、ロシア軍には有利になっていく。
深入りした結果、どうなるのだろう。
旅順口陥り奉天を占領するにつれ、不安の空気は却って前よりも濃くなった
それだけに5月末の日本海海戦の大勝利がどれほどのものであったか。
この海戦の後には不思議な位安楽な心持が来た

海軍の無線電信機を開発した木村駿吉が日本海海戦の勝利を聞き、思わず床にひざまずいて合掌、感激と安心でその後1年ぐらいはぼんやり過ごしたという話がありますが、程度は違えどそれに繋がるものがあるような気がします。

まあそれは良いのだけれど、生方のこの本には広瀬の名前も出てきます。
と言っても本当にちょっとだけ。

この時の広瀬中佐の人気は実に素晴らしいもので、遂に須田町の交差点にあの銅像ができたわけだ。

 あの銅像
 
続く
  
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