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2013/12/31 ヒジハラ

花井虎一のこと ~お奉行様!補 /完

2007-11-10 | ヒストリ:連載
※サイト掲載済。こちらのほうが読みやすいです

 
花井虎一のこと、最終話です。
先日は、花井が何故"密告者"の汚名を被ることを可としたのだろう、という事を見ていきました。
まず一つ目には「出世と引き換え」に、二つ目には「蘭学者としての立場から」、それでも良いと思ったであろう理由がある。
そういうものでした。
花井="密告者"としての話は取り敢えずここで打ち切ります。
史料が無さ過ぎて、これ以上は論が進みません。
今日はそれとはまた違う花井の話です。



前回このブログで、蘭学者としての花井は傍流に属し、残念ながらその研究は、花井が望むような評価を受けることは無かったと書きました。
彼の著書や訳述が直接世に喧伝されるような評価を受ける事は、有りませんでした。
ところが彼の研究は意外な所で利用され、評価を受けることになります。
先日彼の著書を書き出しましたが、それは全てガラスの製造に関係するものでした。
ガラス。
江戸時代後期でガラスと言えば皆さん、思い浮かぶ所がありませんか?(笑)

そうです。薩摩藩です。

薩摩でのガラス製造を始めたのは27代藩主島津斉興の時代。
斉興は斉彬の父ちゃんですな。
薬品を精錬するために利用する、良質のガラス容器が必要、また薬品に耐えるガラスが必要だ、ということで江戸から職人を呼び寄せてガラス窯を作らせたのが始まりだといいます。
それが弘化4年(1847年)。
そこから苦心惨憺の末、4年後の嘉永4年、斉彬の代に紅色ガラスの開発に成功します。
薩摩の紅色ガラスは…ご存知の方が多いと思いますが、非常に有名です。
この頃になると目的が薬品云々だけでなく貿易品目にも上げられ、その関連で美術工芸品として大きく発展することになります。実際に、斉彬はこの紅ガラスを禁裏や将軍家、諸大名への贈答品として利用していました。

因みに、斉彬は富国強兵・殖産興業に力を入れた藩主としても有名です。
その中核となる技術を集めた工業地が集成館。現在観光地となっている尚古集成館であります。
磯庭園の隣にあるので、観光で寄られる方も多いと思います。あの辺りにガラスの製造工場があったのですな。
従業者が100人を超えていたと言いますから、かなり規模の大きなものであったと推察されます。

 
父の薩摩切子を勝手に拝借(笑)

江戸時代の工芸ガラスと言うと、大体大雑把に分けて、
1)江戸切子
2)薩摩切子
3)長崎硝子
の三種類。明確な分類というのが難しいそうなのですが、
上記二つは切子ですが、色が着いていないのが江戸、着いているのが薩摩。吹きガラスが長崎。
…と便宜上はなされている、というのを大昔に読んだ事があります。
ただ薩摩切子で一番特徴的であるのが、ボカシという技法です。
上の写真、特に左側のものを見て頂くと良くわかるのですが、カットされているところがグラデーション掛かっています。コレです。
無色ガラスに藍色ガラスを被せて、必要な部分を削っていく。その削る角度が
1)急ならば、上から見た時、透明部と藍色部の境目がシャープに見える
2)緩ければ、上から見た時、透明部と藍色部の境目がグラデーションに見える 
この2つ目の方が薩摩切子です。因みに江戸切子の手法は1の方。
イギリスやボヘミヤの工芸ガラスも1の方だそうです。

薩摩切子は無色のガラスに紅、藍、紫、黄といった色ガラスを被せ、それをカットする技法を採っている。
現物を見てからこの話を聞くと、ああそうか、と言うだけの話ですが、この技法を薩摩藩がどこから、何から学んだかというのは良く分かっていないそうです。何だか意外ですが。



しかしながら、薩摩藩がガラス製造に使う材料、製法そのものを何から学んだかというと、それに関しては史料が残っている。
それが『玻璃精工全書』、『硝子調合論』、『硝子製造』という三冊の書物です。
…どこかで見たこと有りませんか?(笑)
これ、先日書き出した花井の著作/訳述書なのです。

・『玻璃精工全書』(1829年、文政29年)
・『硝子調合論』(1829)
・『硝子製造』(1829、訳述)

・『和硝子製造編』、『和硝子製造編 余稿』
・『金剛硝子製造巧』、『金剛硝子製造巧 略説』
・『金剛硝子製造書』
・『赤色硝子製造全書』

この上記3冊が昭和30年代に島津家文書の中から発見され、薩摩藩が何からガラスの製造法、技法を学んだかが解明されたそうです。
さらにこの3冊から江戸、薩摩をはじめとする江戸時代のガラスの技法、材料、製法、原料調合方法が、克明に分かったという。
そして付け加えますに、ガラス工芸史の大家・由水常雄氏がこの本の検証を行っておられます。
又書きになってしまうのですが、その論評を以下に書き出します。

・まさに名著というにふさわしい
・このような実践的技法書を踏まえた上で、多くの俊秀が精魂を傾けて研鑽を深めた結果が、薩摩切子となって花を咲かせたのである。


薩摩切子の歴史は、非常に短いものでした。
斉彬は殖産興業の一環としてガラス事業にも非常に力を入れておりました。
しかし彼が急逝すると状況が一変、ガラス事業は財政整理の対象となり、大規模に縮小されます。
それでも細々と続いてはいましたが、薩英戦争時に集成館一帯が砲撃にあい、ガラス製造工場もその殆どが焼失してしまいます。
そこで薩摩切子の歴史はほぼ終わったと見ていい。
核になった時代は10年強程度しかありません。

そうではありますが、専門の研究家をして
薩摩切子は、当時のガラス工芸の中心地であったイギリスやボヘミヤのガラス器にくらべても、いささかの遜色もない美術工芸品だ
と言わせております。薩摩切子への評価は、非常に高い。

その薩摩切子製造の基礎を作ったのが、花井虎一の著作なのです。
冒頭に私は、「彼の著書や訳述が 直接 世に喧伝されるような評価を受ける事は、有りませんでした」。
そう書きました。確かに彼の書物が直接評価されることは無かった。
ですが…
どうでしょうか。
彼の研究の成果は、薩摩切子に形を変えて現在に至るまで大きな評価を受けている。
こう考えることはできませんでしょうか?
 

 
花井虎一について知りたいとお声を掛けて頂き、今回は身近な範囲で調べてみました。
私としては花井と聞くと「=蛮社の獄=密告者」というだけの印象で、何か出てくるのだろうかという疑問があったのが正直なところでした。
今シリーズの一番初めに「本来ならコメント欄で…」と書いた通り、質問頂いた方にはコメント欄に返す予定でいたのですが、調べていく内に意外な事が分かりましたので、連載という形を取らせて頂きました。
意外な事…お読み頂いた方はすでにお分かりかと思いますが、

1)密告者ではなく、情報提供者であること。密告者の汚名をかぶっている事。
2)薩摩切子との関係

この2点です。
個人的には薩摩切子との関係、著作への評価が大きな驚きでありました。
今回赤字で書いた由水氏の花井著書への評価。
書き写しながら思わず目頭が熱くなりました。
この文章を読んだ時私は本当に嬉しかった。

あー…だから歴史は止められないんだよな~と思うと同時に、いつもこのブログで言い続けている
「光が当たる場所があれば、陰になる場所も絶対にある」、
逆もまた然り。これを我が事ながら思い出しました。

花井関しては蛮社は…光か影か微妙な所ですが(本人にとっては)、少なくとも硝子製造に関しては光があたったと思いたい。
薩摩切子を見ても花井のことを考える人はいないでしょう。
ですが現代でも薩摩切子を見て美しいと思ったり、専門家が絶賛したり…
それだけでも光は当たっている、高評価は為されている、そう思うのはあながち間違いでは無いと思います。

鹿児島に観光に行った時、はたまた美術館博物館で切子を見ることがあった時、
「切子に関してこんな事書いてる文章読んだ事あったな」
と少しでも花井の事を思い出して頂ければ、幸いです。

さて。
そして、今回で「お奉行様!補」と言うことで続けてきた「花井虎一のこと」は終了となります。
長い上に乱筆乱文で読み難いことこの上なく、赤面の限りではありますが…
ここまでお付き合い頂きました方々、ありがとうございました。m(__)m



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>hanai様

今回参考いたしました本、以下に書き上げます。

『洋学史研究序説-洋学と封建権力-』佐藤晶介、岩波書店、昭和39年
 ・第二篇 蛮社の獄の研究
  非常に優れた研究書です。鳥居耀蔵告発状に関しても詳細な考証があります。

『ひとり旅 歴史と文学』綱淵謙錠、角川書店、昭和52年
 「ある密告者」
  花井と硝子に関してはこの本からの情報です。非常に読易く分かりやすい。

『森銑三著作集 第6集』森銑三、中央公論社、昭和46年
 「渡辺崋山」
  渡辺崋山の基礎研究の一つ。私が尊敬している碩学の先生です。
  P.168に花井に関する記載が有ります。

『森銑三著作集 第9集』森銑三、中央公論社、昭和46年
 「掃墓記録」内「花井虎一の墓所一覧」、P.309

また花井の著作等に関しましては…
☆『玻璃精工全書』『硝子調合論』『硝子製造』
この3冊は東大史料編纂所「島津家文書」所収との事ですので、
『大日本古文書 家分け 島津家文書』 に所載されている可能性があります。
この3冊が何故島津文書に入ったかと言う経緯が、
「薩摩切子」(由水常雄/『芸術新潮』/昭和49年4月号)で考証されているようです。

更に花井が残した蔵書を孫の平井(花井?)保正という人物が纏めております。
『単思叢録』 明治12年、35冊。
こちらは尊経閣文庫(東京/前田育徳会)の所蔵。恐らく原典史料です。

大体こういう感じでありますが、一番初めに綱淵氏の本から入るのが分かりやすいと思います。
大筋を知るには、1番目と2番目の本がお勧めです。

よろしかったらご参照くださいませ!
長々とお付き合い頂きましてありがとうございました。

花井虎一のこと ~お奉行様!補5

2007-11-09 | ヒストリ:連載
※サイト掲載済。こちらのほうが読みやすいです


花井虎一のこと、第5話。
先日の話は…
「密告者」の汚名を被るのも悪くないと花井が考えたのではないか。
そしてその根拠のひとつが、蛮社の獄の後に花井が異様な出世を遂げている、ここから後の出世と汚名を被ることを引き換えに考えたのではないか。
と、こういう事でした。

そしてもうひとつの考えられる根拠。
今から書いていく話は作家綱淵謙錠氏の本から私も今回新しく知ったものです。
推理の域を出ないものですがかなり頷ける点の多い意見ですので、ここで書き出したいと思います。
それは
「蘭学者・花井の立場を考えた時、それなりの理由があったのではないか」
というものです。



花井は宇田川榕庵の門下生であり、また渡辺崋山らとも交流があった、と先に記しました。
江戸中期ごろの蘭学/洋学は、まあ大雑把に別けて、

1)医学系蘭学 … 前野良沢や杉田玄白、大槻玄沢、桂川甫周等
2)天文・暦学系蘭学 … 麻田剛立、高橋至時、間重富等

に分けることができます。それがこの時代になると

3)地理学、西洋事情の研究、軍事・軍制の研究…等

といった、政治的な分野にまで広がっていきます。
まあしかしここに書き出されているものは一部だと思っていただければ。

さてさて。
このどこの分野に花井が位置していたか、という話でありますが…
それを知るのに幸いにも花井には著作が残されております。

・『玻璃精工全書』(1829年、文政29年)
・『硝子調合論』(1829)
・『硝子製造』(1829、訳述)
・『和硝子製造編』、『和硝子製造編 余稿』
・『金剛硝子製造巧』、『金剛硝子製造巧 略説』
・『金剛硝子製造書』
・『赤色硝子製造全書』

ハイ。
一覧して分かる通り全てガラス製造に関する著作、訳述書になっております。
上記1~3に当てはまらない、科学系の洋学を修めた人だったんですね。
天保7年頃(1837年、蛮社の獄の2年前)には、「好事家として多少は人にも知られていたらしい」と記されています。
また『和硝子製造編』には、あの最上徳内が以下のような序文を書いている。

吾が党に花井一好といえる好友は天質火製をこのみて薬製精錬に精しく、
かつ硝子に日を愛し公事の暇に数多の法を記し数編におよぶ。
吾請うて片時一閲するに、その人を誘うこと誠に手をひき戸に入り堂に昇るがごとし 
(※句読点を打ち、平易な漢字、ひらがなに直しました)

もしかしたら花井は、ガラス専門家としては結構名の知れた人物であったのかもしれません。
ただ悲しいかな、上記1~3から外れているというのは、主流から外れているということであります。
特に花井が生きたのは「内憂外患」と称された時期でありますから、どうしても3に重きが置かれていく。
その為花井が修めた学問は、どうやら雑学程度にしか認識されていなかったようなのです。
つまり研究成果が世間からは評価されない。
それはなぜか、ということを恐らく花井は考えたのでしょう。



花井の研究が評価されなかった理由。
先にも書きましたが、私は内憂外患という時期が悪かった、これが一番の理由ではないかと思います。
対外関係云々が政治の中心的話題になっている時に、「ガラス製造」では何らかの理由が無い限り見向きもされない話であったでしょう。
娯楽・雑学と看做されても、これはある意味仕方が無い。
ただ綱淵氏はこう述べています。

(花井には)蘭学という新しい学問の世界にも当時の武士社会におけるヒエラルキー(身分階層制)がそのまま色濃く影を落としているためだ、という封建社会の現実が痛烈に意識されていたと思われるのである。
本来、そのような意識をなくするところから新知識・新学問の摂取は始ってしかるべきなのに、当時としては最も進歩的だったはずの蘭学会にも、エリート・グループと<縁の下>グループとの分裂があったのではあるまいか。
わたくしは、花井虎一の心の底深くにわだかまっているエリート蘭学者にたいするある感情が、彼をいわば体制側に押しやり、出世昇進を求めさせた動因ではなかったか、と想像するのである。


花井は身分が低いから正当な評価は得られないと考えたのではないか。
またそれに関連して、社会の上層部にいるエリート蘭学者に対する負の感情が強くあったのではないか。
それが「出世昇進を求めさせた」="密告者"の汚名を被ることを承諾した理由であったのではないか…

先日見ました通り、出世するまで花井が得ていた月給は3.4万+α程度です。
そこから束脩を払って蘭学を学ぶというのは、並大抵の熱意、向学心ではなかったと思うのです。しかも学問には多額のお金が掛かります。
それを月3.4万円で家族と家来ひとりを養いながら、花井は続けていた。
本人からすると趣味や道楽という域ではなかったのでしょう。恐らく家族を養う積りもあったのでは。
そう考えると見返りは勿論、正当な評価が喉から手が出る程欲しかったと考えるのが普通だと思います。
そしてそれは、残念ながら"御子人"・花井を取り巻く現実社会の中では実現しない…
そういった流れで、花井が密告者としての汚名を被ることになった。

なるほど、綱淵氏の意見にも大きく頷けます。



花井にとって一体何が本当の理由であったかというのは分かりません。
しかしながら、今の段階で分かる限りの花井の身辺を思うだけでも「"密告者"になるに足る」と考える理由が、それなりにちらほらと落ちている。
どれかひとつが理由というのではなく、その色々様々な条件が折り重なった末の、花井の選択だったのでは無いでしょうか。
私はそう思います。

はい、続きまっす!多分次の話で終わるかな。




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花井虎一のこと ~お奉行様!補4

2007-11-08 | ヒストリ:連載
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花井虎一のこと、第四話。
前回は、鳥居耀蔵が老中水野忠邦に提出した告発状を見てみたわけですが…

その内容がどんなものであったかというと以下。
 1)夢物語の著者 → 渡辺崋山他数名 について
  2)無人島密航計画 について
ということでした。

この内容を調査したのは、鳥居の部下・小笠原貢蔵という人物。
彼が鳥居より水野老中の命令だということで、
 1)モリソンの事
  2)夢物語著者の事
を調べろと言われ調査に乗り出している。
そしてその情報を提供したのが花井虎一であった。

その花井から得た情報を元に小笠原が
 1)モリソンの事
  2)夢物語著者の事
  3)無人島密航計画の事
を鳥居に報告し、コレを基にして鳥居が水野に上申する(A)という流れでした。
時系列的には B→C→A になる。

花井は一般的には「蛮社の獄の時の密告者」と言われています。
ですが今までの経緯を見ると、密告者→×、情報提供者→○ ということになります。
それが何故「密告者」という扱いになっているのでしょうか。

…と、前回はこういう所まででした。



実はここまで書いた中で、おかしな所がいくつか有ります。
お気づきでいらっしゃいますでしょうか…?(笑)
はい。「鳥居の行動」ですね。何かと言いますに…

ひとつ目。
鳥居は水野老中の命令ということで、小笠原にBの2項目の調査を命じています。
にもかかわらず、実際に水野老中に出された上申書の項目はA。
 1)夢物語の著者    1)モリソン
  2)無人島密航計画    2)夢物語著者
水野が調査を命じたモリソンの事はどこへ行ったんでしょう。
それに対外関係に関連してくるとなると目付けの権限で無視できる項目では無いはずの問題です。
またこの時点ではまだ水野も知らず、調査も命じていなかった"無人島密航計画"が入っている事。
不自然です。

ふたつ目。
前回引用した鳥居の告発文の末尾にある 「虎一申立候儘、認取此段奉申上候」
(虎一が申し立てて来たことをそのまま筆写して、上申いたします)
これもおかしい。
花井は渡辺崋山ら蛮社グループの事を自ら申し立てたのではなく、小笠原に聞かれて情報を提供した人間です。
それに鳥居の告発状は花井の話/小笠原の調査を下敷きにはしていますが、下敷きにしているというだけで大分内容が変わっています。
先日紹介したように「渡辺崋山はアメリカに渡航する積りだった」という、小笠原調査にも無い内容が書かれている。
そうしたものを「花井から申し立ててきた」というのは、いかにも不自然です。

さらに三つ目。
この上記二項目、内容が食い違っているのですね。
何かというと、
・水野が調査を命じたと言っているのに、
・密告してきた花井の話をそのまま上申します と締め括っている。
おかしくないですか。
鳥居の話を信じれば、これは「調査を命じた上司に出す報告書」の筈。
「部下の小笠原が調べた結果、花井がこんな話をしました」となる筈です。
それが何でいきなり「花井がこんな話を持って来ました」なんですか。
 

 
さて、疑問・不可解な点がつらつらと出てきましたが…
取り合えず今迄の研究で解明されていることは、

1)鳥居が水野の命令と偽って小笠原らに調査をさせた。
2)鳥居の目的は渡辺崋山を陥れること。
  その為無かった事件まででっち上げて崋山の罪状を挙げている。
3)花井は密告者の汚名を被る事で、権力者側と取引した。

この三点です。
この内、1)と3)がリンクしております。
鳥居の手法というのを直接間接に「お奉行様!」を通して見て来ているわけですが、まあやり方はかなり悪質です。今回の例も御多分に漏れません。
要するに、

嘘をついて小笠原貢蔵に調査をさせ、小笠原から上がってきた調査書を元にでっち上げを含めて告発状を作成。
水野老中には「花井虎一がこんなことを密告してきました」という形で上申。

鳥居は完全に水面下にいる状態になっている。

蛮社の獄そのものは、鳥居耀蔵が渡辺崋山らとそのグループを陥れる為に起こした冤罪事件です。
そしてその裏に鳥居がいることは当時から周知の事実でありました。
そうではあったのですが…
鳥居はこの告発状を作成するに際し、自分が策謀しているということを隠蔽するために花井の名前を前面に出す形にしている。

鳥居から水野老中に告発状が上申されるに当たり、花井もこういった形(花井からの密告)になる、またそうなった経緯は他言無用と上司である小笠原または鳥居からきつく言い含められていたと想像されます。
甘言、脅し文句もあったでしょう。

個人的には、花井はこの話は悪くないと考えたのではないかと思います。
なぜそう思うか、と言うと…花井はこの後飛躍的な出世をするのです。

花井虎一。この話の一番初めに書き出しましたが…
彼は幕臣ではありましたが、非常に身分の低い最下層に位置する御小人でありました。
役高が15俵1人扶持。
ということは米10キロを3500円で換算すると、
15俵→31.5万円/年、1人扶持→9.45万円/年
年棒が約41万円、月給3.4万円程度。
…びっくりした…
勝小吉(勝海舟の父ちゃん、6万円程度。ほぼ同時代)より貧乏だ(笑)
花井は御納戸口番という仕事をしておりましたので、他に役職手当があったと思います。
まあしかしコレは本当に最下層のお給料ですね。扶持米が付いているという事は家来を雇わないという事ですから、
…生活出来てたんかいな(笑)
そういうレベルです。

そこから、蛮社の獄の後は取り立てられて学問所勤番へ(天保10年)。
学問所というのは、昌平坂学問所のことです。
当時の聖堂の最高責任者である林大学守は林述斎、つまり鳥居耀蔵の実父になります。
その伝で恐らく放りこまれている。
そこが110俵3人扶持+御役金3両。年棒231万円、月給20万。

またその後、長崎奉行所与力となっております(天保12年)。
はっきり言ってコレはもう、物凄い出世です。
与力というのは奉行を補佐するお役人です。
大体200石取り程度、騎馬が許される家格。更に与力の中でも長崎奉行所の与力は最優遇されていました。
任命される時は暇金10両、引越金50両、引越拝借金50両
年棒としてお手当金70両、雑用金60両
1両大体5万円で計算すると、650万円/年、月額54万円。+初期費用として550万円。

経済的なものだけを見ても、大抜擢大出世です。
3.4万から始まって、2年後には54万の高給取りです。
これを出世といわず、なんと言う(笑)
蛮社の獄の時点で取立てが確約されていたかは分かりませんが、月給3.4万から抜け出そうと思うと、花井でなくても同じ立場なら誰だって頷いたのでは無いでしょうか。

まずコレがひとつ。

はい、続きマース!(自棄:笑)



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花井虎一のこと ~お奉行様!補3

2007-11-01 | ヒストリ:連載
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花井虎一のこと、第三夜です。
先日は小笠原が上司鳥居耀蔵に出した探索書の三項目、
1)モリソンの事
2)夢物語著者の事
3)無人島密航計画の事
の、三つ目が「?」という話でした。
鳥居が調査指令を出していたのは上記の二つのみだったのですな。
小笠原は何故指示されていない事迄鳥居に報告したのでしょう?
小笠原が探索に乗り出したという事なのですが、まあメクラ滅法に当たってもしかたありません。やはりこういう時は事情通に話を聞くのが一番。
そこで浮上してくるのが花井虎一です。

小笠原は御小人目付、花井は御小人という上司部下関係。
更に花井は小笠原の女婿に当たります。
そして花井の身辺を見ますに、蘭学に興味があり宇田川榕庵の門下に入っている。
宇田川榕庵というのは当時の優れた蘭学者であります。
シーボルトとも会っている。確か日本に初めてコーヒーを紹介した人。
そういった関係からか、花井は渡辺崋山の家にも出入りしております。
言ってみれば鳥居派とも渡辺崋山らのグループとも繋がりがある。
小笠原にとってこれ以上の人物っていたんでしょうかね。
また花井が小笠原の情報源になっているというのは、史料からも確認が取れる事項のようです。

その花井なのですが、実は「無人島渡航計画」に参加していたのですな(笑)
花井自身は途中で抜けたらしいのですが。
恐らく崋山らの事に関して話をする過程でその計画の話が出たのだと思います。
その絡みで、鳥居への上申書に無人島渡航計画の話が入っている。
…どういう意図であったのかはよく分かりませんが。
小笠原の探索書は前後2度にわたり鳥居に提出されているのですが、無人島渡航計画に関してはほぼ正確に事情が調査され報告されております。
ただその中の一条、渡辺崋山に関する項目だけが事実に反している。
崋山はこの件とは全くの無関係だったのですが、関係者の一人として名前が上がっているのです。…この辺りの機微がどうもよく分からないのですが。
とにかく。この小笠原の探索書を元にして鳥居は告発状は作成しています。

先日紹介した鳥居の告発状からは「申立候」、花井が申し出て来た、
こう書かれていましたが、実際にはこの小笠原の探索書を元に鳥居が作成したものなのです。
ではこの探索書に忠実に鳥居が告発状を作ったかというと、そうではありませんでした。

小笠原の探索書と鳥居の告発状では、大分様相が変わります。
まず鳥居の告発状ではモリソンに関する記述が無い。
そして殊更に渡辺崋山の多種の容疑が強調されいる点。
例えば無人島渡航計画は2回目の調査で違法ではない事が確認されていましたが、事情の詳細が分かっていない1回目の調査を誇張を加えて記述している。
さらに小笠原の探索書にはない「渡辺崋山アメリカ密航計画」まで書かれている始末。完全にでっち上げです。
はっきり言って鳥居にとっては無人島渡航計画の有無合法非合法等どうでも良かったのでしょう。
目的は渡辺崋山を狙い撃ちすることであったと思われます。
こういった点から 花井→小笠原→鳥居 を経由した後、当初の話が大分変わっている事が推察される。
…というか、大分変わってるし…

さてさて。ここら辺りで一度話を纏めてみましょう。

1)花井の密告→×、花井情報提供する→○
2)花井→小笠原→鳥居経由で、崋山らや無人島渡航計画が伝わる。
 
ハイ。こんな感じなのですが…
ここでひとつ疑問が出てまいります。

何故鳥居はわざわざ
「虎一申立候儘、認取此段奉申上候」、
虎一が言ってきた事をそのまま認めて上申します
なんて事を言っているのでしょうか?



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花井虎一のこと ~お奉行様!補2

2007-10-30 | ヒストリ:連載
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花井虎一のこと、第二夜です。
先日は"花井が鳥居耀蔵に密告した"という根拠のひとつが高野長英の「蛮社遭厄小記」からきていること。
そしてこの書物が長英の誤解・憶測・バイアスが掛ったまま引用されている、という事を書きました。
ではもうひとつの根拠となっている2)の方、「鳥居耀蔵の告発状」はどうなんでしょうか。

この告発状は鳥居からその上司水野忠邦に上申されたもので、内容は先日来出ている無人島"密航"計画に関するものです。
①関係している人物/彼等の身分略歴/計画にどういった形で関与しているかが書かれた上、
②なぜこういった事が上申されたのか/誰が上申してきたのかが記されている。
②で出ているのが花井です。

「無人島渡海之儀も内実は名目ニ、異国へ漂流仕度つかまつりたき心組ニも相聞、其外平日難心得こころえがたき咄多く、不容易よういならざる事ニ心附、申立候段、奇特ニ奉存候」
花井は無人島渡航は名目で実は外国渡航したいという思惑も聞いており、その外にも納得いかない話も多く、これは容易ならない事だと思って申し立てて来た。
<中略>
「虎一儀は幼年ニ而父を失ひ、母壱人之手に育、孝道之聞へ御坐候もの故、全く貞実之至情より過慮仕候ニも可有之哉、つまる所好事之もの共偏ニ蛮国之事情を穿鑿仕度存込候より之儀ニ而、敢而邪心御坐候儀とは不奉存候へ共、虎一申立候儘、認取此段奉申上候、以上」
花井は幼年時に父を失い、母に育てられた孝行者として知られており、(密告は)全く貞実心からきているものであろう。
この密航事件は好事家達の海外事情を知りたいという心から出ているもので、悪気はないのだろうと思うのだが、花井が申立ててきた事をそのまま認めて上申するものである。


赤字にした所を見ると、申立候、花井が無人島渡航を見過ごす事が出来ずに鳥居に報告、それを鳥居がそのまま水野忠邦に上申した、と云う事になる。
高野長英の「遭厄小記」もさる事ながら、『花井虎一=密告者』の図式は恐らくここから発しています。
史料の性格から言うと当時の状況を語る第一次史料であり、当事者が書いているという事もあり、「遭厄小記」よりは信頼性・確度共に高いと見做すことができます。
しかしながらこの上申書自体の史料批判がなされていたかと、どうも長らく為されていなかったようですが、佐藤昌介氏が当時の史料を比較検討し、この鳥居の上申書が作られた経緯を検証しておられます。
(『洋学史研究序説』(昭和39年、岩波書店)という古いですが非常に優れた研究書です。佐藤さんは蘭学関係を勉強しようと思うと避けて通れない先生です)


まずしつこい様ですが、人間関係を整理してみます。
 老中…水野忠邦
 目付…鳥居耀蔵
 御子人目付…小笠原貢蔵
 緒小人…花井虎一
上下で、上司部下の関係となっています。
鳥居の告発状を見ると
 花井→小笠原→鳥居 若しくは 花井→鳥居
というルートで密告したということになる。そしてこれが通説になっているのですが…

鳥居と花井の間に小笠原と云う人物が挟まれております。
小笠原は鳥居の配下に当る人物なのですが、渡辺崋山に関して個別に探索をしているのです。

天保10年4月19日、小笠原は殿中にて鳥居耀蔵に呼ばれ、水野老中の内命という触れで、

1)イギリス人モリソンの事
2)夢物語の著者(渡辺崋山か)

の事を調査せよと命じられ、小笠原は前後2回に分けてその調査結果を鳥居に提出しています。
小笠原が提出した結果は3項目。

1)モリソンの事
2)夢物語著者の事
3)無人島密航計画の事

小笠原は鳥居に下された調査命令以外の事も探索して報告している。
さてさて。何故なんでしょう…?

つ、続きマース…(笑)



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>拍手いただきました方いつもありがとうございますv

>きりのなかむら様  以下反転です 
こんばんわ!お帰りなさいませ~。
デジカメが壊れるとは…折角行かれたのに災難でしたね(涙)
しかしその分脳裏に焼きつけて来られたのではないでしょうか?
「中村半次郎の霊に捧げる」歌碑ですか。はー…私も気が付きませんでした。
かなり大きな物のようなのに、見えども見えずだったのかしら?(笑
別府3兄弟に関しては、実は今創作を書いている最中です(笑)
でも実際に出て来るのは兄二人…;
作四郎に関して、私も少し調べてみたのですがやはり史料不足でよく分りません。
山鹿で戦死と云う所から恐らく別府景包という人物とイコールだとは思うのですが。うーん…?
ご紹介頂いたページ、私も昔訪問した事があります!
目次を見て興味ある所しか見なかったので、写真が載っている事には気が付きませんでした。面長な家系なんでしょうか…面影があるように思いますね。
こちらこそメールありがとうございましたv
よろしくお願いいたします☆