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花井虎一のこと、最終話です。
先日は、花井が何故"密告者"の汚名を被ることを可としたのだろう、という事を見ていきました。
まず一つ目には「出世と引き換え」に、二つ目には「蘭学者としての立場から」、それでも良いと思ったであろう理由がある。
そういうものでした。
花井="密告者"としての話は取り敢えずここで打ち切ります。
史料が無さ過ぎて、これ以上は論が進みません。
今日はそれとはまた違う花井の話です。
◆
前回このブログで、蘭学者としての花井は傍流に属し、残念ながらその研究は、花井が望むような評価を受けることは無かったと書きました。
彼の著書や訳述が直接世に喧伝されるような評価を受ける事は、有りませんでした。
ところが彼の研究は意外な所で利用され、評価を受けることになります。
先日彼の著書を書き出しましたが、それは全てガラスの製造に関係するものでした。
ガラス。
江戸時代後期でガラスと言えば皆さん、思い浮かぶ所がありませんか?(笑)
そうです。薩摩藩です。
薩摩でのガラス製造を始めたのは27代藩主島津斉興の時代。
斉興は斉彬の父ちゃんですな。
薬品を精錬するために利用する、良質のガラス容器が必要、また薬品に耐えるガラスが必要だ、ということで江戸から職人を呼び寄せてガラス窯を作らせたのが始まりだといいます。
それが弘化4年(1847年)。
そこから苦心惨憺の末、4年後の嘉永4年、斉彬の代に紅色ガラスの開発に成功します。
薩摩の紅色ガラスは…ご存知の方が多いと思いますが、非常に有名です。
この頃になると目的が薬品云々だけでなく貿易品目にも上げられ、その関連で美術工芸品として大きく発展することになります。実際に、斉彬はこの紅ガラスを禁裏や将軍家、諸大名への贈答品として利用していました。
因みに、斉彬は富国強兵・殖産興業に力を入れた藩主としても有名です。
その中核となる技術を集めた工業地が集成館。現在観光地となっている尚古集成館であります。
磯庭園の隣にあるので、観光で寄られる方も多いと思います。あの辺りにガラスの製造工場があったのですな。
従業者が100人を超えていたと言いますから、かなり規模の大きなものであったと推察されます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/0c/59544ab8d4cdc803e937e0557be998e9.jpg)
父の薩摩切子を勝手に拝借(笑)
江戸時代の工芸ガラスと言うと、大体大雑把に分けて、
1)江戸切子
2)薩摩切子
3)長崎硝子
の三種類。明確な分類というのが難しいそうなのですが、
上記二つは切子ですが、色が着いていないのが江戸、着いているのが薩摩。吹きガラスが長崎。
…と便宜上はなされている、というのを大昔に読んだ事があります。
ただ薩摩切子で一番特徴的であるのが、ボカシという技法です。
上の写真、特に左側のものを見て頂くと良くわかるのですが、カットされているところがグラデーション掛かっています。コレです。
無色ガラスに藍色ガラスを被せて、必要な部分を削っていく。その削る角度が
1)急ならば、上から見た時、透明部と藍色部の境目がシャープに見える
2)緩ければ、上から見た時、透明部と藍色部の境目がグラデーションに見える
この2つ目の方が薩摩切子です。因みに江戸切子の手法は1の方。
イギリスやボヘミヤの工芸ガラスも1の方だそうです。
薩摩切子は無色のガラスに紅、藍、紫、黄といった色ガラスを被せ、それをカットする技法を採っている。
現物を見てからこの話を聞くと、ああそうか、と言うだけの話ですが、この技法を薩摩藩がどこから、何から学んだかというのは良く分かっていないそうです。何だか意外ですが。
◆
しかしながら、薩摩藩がガラス製造に使う材料、製法そのものを何から学んだかというと、それに関しては史料が残っている。
それが『玻璃精工全書』、『硝子調合論』、『硝子製造』という三冊の書物です。
…どこかで見たこと有りませんか?(笑)
これ、先日書き出した花井の著作/訳述書なのです。
・『玻璃精工全書』(1829年、文政29年)
・『硝子調合論』(1829)
・『硝子製造』(1829、訳述)
・『和硝子製造編』、『和硝子製造編 余稿』
・『金剛硝子製造巧』、『金剛硝子製造巧 略説』
・『金剛硝子製造書』
・『赤色硝子製造全書』
この上記3冊が昭和30年代に島津家文書の中から発見され、薩摩藩が何からガラスの製造法、技法を学んだかが解明されたそうです。
さらにこの3冊から江戸、薩摩をはじめとする江戸時代のガラスの技法、材料、製法、原料調合方法が、克明に分かったという。
そして付け加えますに、ガラス工芸史の大家・由水常雄氏がこの本の検証を行っておられます。
又書きになってしまうのですが、その論評を以下に書き出します。
・まさに名著というにふさわしい
・このような実践的技法書を踏まえた上で、多くの俊秀が精魂を傾けて研鑽を深めた結果が、薩摩切子となって花を咲かせたのである。
薩摩切子の歴史は、非常に短いものでした。
斉彬は殖産興業の一環としてガラス事業にも非常に力を入れておりました。
しかし彼が急逝すると状況が一変、ガラス事業は財政整理の対象となり、大規模に縮小されます。
それでも細々と続いてはいましたが、薩英戦争時に集成館一帯が砲撃にあい、ガラス製造工場もその殆どが焼失してしまいます。
そこで薩摩切子の歴史はほぼ終わったと見ていい。
核になった時代は10年強程度しかありません。
そうではありますが、専門の研究家をして
薩摩切子は、当時のガラス工芸の中心地であったイギリスやボヘミヤのガラス器にくらべても、いささかの遜色もない美術工芸品だ
と言わせております。薩摩切子への評価は、非常に高い。
その薩摩切子製造の基礎を作ったのが、花井虎一の著作なのです。
冒頭に私は、「彼の著書や訳述が 直接 世に喧伝されるような評価を受ける事は、有りませんでした」。
そう書きました。確かに彼の書物が直接評価されることは無かった。
ですが…
どうでしょうか。
彼の研究の成果は、薩摩切子に形を変えて現在に至るまで大きな評価を受けている。
こう考えることはできませんでしょうか?
◆
花井虎一について知りたいとお声を掛けて頂き、今回は身近な範囲で調べてみました。
私としては花井と聞くと「=蛮社の獄=密告者」というだけの印象で、何か出てくるのだろうかという疑問があったのが正直なところでした。
今シリーズの一番初めに「本来ならコメント欄で…」と書いた通り、質問頂いた方にはコメント欄に返す予定でいたのですが、調べていく内に意外な事が分かりましたので、連載という形を取らせて頂きました。
意外な事…お読み頂いた方はすでにお分かりかと思いますが、
1)密告者ではなく、情報提供者であること。密告者の汚名をかぶっている事。
2)薩摩切子との関係
この2点です。
個人的には薩摩切子との関係、著作への評価が大きな驚きでありました。
今回赤字で書いた由水氏の花井著書への評価。
書き写しながら思わず目頭が熱くなりました。
この文章を読んだ時私は本当に嬉しかった。
あー…だから歴史は止められないんだよな~と思うと同時に、いつもこのブログで言い続けている
「光が当たる場所があれば、陰になる場所も絶対にある」、
逆もまた然り。これを我が事ながら思い出しました。
花井関しては蛮社は…光か影か微妙な所ですが(本人にとっては)、少なくとも硝子製造に関しては光があたったと思いたい。
薩摩切子を見ても花井のことを考える人はいないでしょう。
ですが現代でも薩摩切子を見て美しいと思ったり、専門家が絶賛したり…
それだけでも光は当たっている、高評価は為されている、そう思うのはあながち間違いでは無いと思います。
鹿児島に観光に行った時、はたまた美術館博物館で切子を見ることがあった時、
「切子に関してこんな事書いてる文章読んだ事あったな」
と少しでも花井の事を思い出して頂ければ、幸いです。
さて。
そして、今回で「お奉行様!補」と言うことで続けてきた「花井虎一のこと」は終了となります。
長い上に乱筆乱文で読み難いことこの上なく、赤面の限りではありますが…
ここまでお付き合い頂きました方々、ありがとうございました。m(__)m
◆
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/fe/3e82115ed2112fe891b5be23cfd490e3.png)
ブログランキングです。
>拍手いただきました方、ありがとうございました~
◆
>hanai様
今回参考いたしました本、以下に書き上げます。
『洋学史研究序説-洋学と封建権力-』佐藤晶介、岩波書店、昭和39年
・第二篇 蛮社の獄の研究
非常に優れた研究書です。鳥居耀蔵告発状に関しても詳細な考証があります。
『ひとり旅 歴史と文学』綱淵謙錠、角川書店、昭和52年
「ある密告者」
花井と硝子に関してはこの本からの情報です。非常に読易く分かりやすい。
『森銑三著作集 第6集』森銑三、中央公論社、昭和46年
「渡辺崋山」
渡辺崋山の基礎研究の一つ。私が尊敬している碩学の先生です。
P.168に花井に関する記載が有ります。
『森銑三著作集 第9集』森銑三、中央公論社、昭和46年
「掃墓記録」内「花井虎一の墓所一覧」、P.309
また花井の著作等に関しましては…
☆『玻璃精工全書』『硝子調合論』『硝子製造』
この3冊は東大史料編纂所「島津家文書」所収との事ですので、
『大日本古文書 家分け 島津家文書』 に所載されている可能性があります。
この3冊が何故島津文書に入ったかと言う経緯が、
「薩摩切子」(由水常雄/『芸術新潮』/昭和49年4月号)で考証されているようです。
更に花井が残した蔵書を孫の平井(花井?)保正という人物が纏めております。
『単思叢録』 明治12年、35冊。
こちらは尊経閣文庫(東京/前田育徳会)の所蔵。恐らく原典史料です。
大体こういう感じでありますが、一番初めに綱淵氏の本から入るのが分かりやすいと思います。
大筋を知るには、1番目と2番目の本がお勧めです。
よろしかったらご参照くださいませ!
長々とお付き合い頂きましてありがとうございました。