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平清盛 #47宿命の敗北

2012-12-03 | ヒストリ:平清盛

残す所あと3回!
何と言いますか、終わるのが残念というよりホッとする気持ちの方が大きいです(お前…)。
2・3日程前には来年の『八重の桜』のロケ風景なんかも放送されていましたし、あーもう本当に終わるのねーという感じに。
負担にならない程度にと思っていても毎回レビュー書くのはぶっちゃけ結構しんどいです。 
でも平清盛のカテゴリーをブクマして下さっている方もおられるみたいなので、ならやるかーと。
多分近代だったら心情的にはもっとしんどかったと思う^^;
義務でも何でもなく好きでやってる事だけど、これがなくなると思うとホントほっとするわー(笑)

●源頼朝挙兵→石橋山の戦い 
山木兼隆の首級を上げたものの、頼朝はその後の石橋山の戦いで惨敗します。
自軍300騎に対し3000騎ということで、数見てもちょっとこれはしんどかったかなー…
目代を殺害してますし、伊豆の国衙に対する反乱と言う事で、相模と武蔵の国家機関も協力する体制になった。
都の公卿なんかでも頼朝の挙兵を聞いた時の反応は「平将門の乱」と似たようなもの、といった感じだったようですな。

前回触れたように源頼政の孫を追捕するために大庭景親が関東にいたのですが、頼朝の挙兵を聞いて兵を集めています。
それが3000騎。
頼朝は惨敗し、7騎ほどで小田原の山中に逃げ込みます。で、以前写真を出した事があるのですが。
  
 

右下の60円切手が前田青邨の「洞窟の頼朝」になります(もっと大きな画像。別窓)。
ドラマの中で洞窟に隠れている場面がありましたがそのシーンを描いたのがこの絵。

山中を捜索する大庭軍の中に梶原景時がいました。
梶原は源義経と対立する等のトラブルで悪人として描かれる事が多い人物ですが、それはまた次の機会で。次の機会なさそうだけどな!(笑)
元々平氏方だった人物です。
ついでに言えば、この石橋山の戦いには一の谷之合戦で名前をよく知られている熊谷直実も平氏方で参加している。
後に鎌倉幕府の重臣になる畠山重忠も当時は平氏方で、この時は違う方面で頼朝追討に参加しています。

●大庭景親
誰かと名乗りを上げた後幾つか言い合っていましたが、大庭は鎌倉権五郎景正の流れを汲む人物。
実は梶原景時も鎌倉権五郎の流れを汲んでいて、両者、孫の世代にあたるのかな?
景正は何度かこのブログでも出てきていますが、源義家の家臣で後三年の役の際に活躍した武将になります。

(@後三年合戦絵詞)

これね。金沢柵攻めの際、片目を射られ、その矢を引き抜いたら目もボロリと。
「暫」という題目の歌舞伎の演目のモデルになった人物でもあります。
義家に仕えていたものの、景正の氏は平氏である。
平氏方は石橋山の戦いでは勝利を収めたものの、頼朝一行を取り逃がしてしまいます。
その後頼朝らは房総半島に渡り、現地の豪族を糾合して相模国鎌倉に入る事になる。

●鎌倉
河内源氏と鎌倉は源頼信・頼義の頃から繋がりがあります。



平忠常の乱を平定した後、その武名に感心した平直方がその娘を源頼義に娶わせたのですが、その際に持っていた鎌倉の屋敷も譲っている。
ドラマの第1部頃、源義朝が坂東で無体をしまくってましたが、その本拠になったのがこの鎌倉の屋敷になります。

●富士川の戦い
追討使の総大将に平惟盛、その下に伊藤忠清が付きました。
惟盛(これもり)は亡くなった重盛の嫡男、資盛(すけもり)はその弟になります。

(友章は知章の間違い)
 
情けなや。
戦う前に水鳥の羽音に驚いて逃げてしまうなんて、武門としての平氏の面目も権威も何もかもを失墜させる大失態でした。
ひとつには石橋山の戦いでの大勝があり、大した事ないと随分気が緩んでいたということ。
ひとつには関東における反平氏勢力の蜂起の状況の深刻さを理解していなかったこと。
ひとつには平氏は戦を知らない公達になってしまっていたということ。
これはドラマでも伊藤忠清が口にしていました。
 
特に兵力なんて、頼朝挙兵の際は100騎あるかないか位だったのが、富士川の戦いの後、鎌倉に入る頃には万単位に膨れ上がっていたと言いますから反平氏勢力を勢いづかせたことに間違いはない。
色んな意味で本当に痛い大敗だったと思われます。

惟盛資盛だけならとにかく、清盛の先代からの臣である侍大将伊藤忠清がいながら何事かという感じですな…
実は忠清、関東の情勢をよく知っていた筈なんです。
というのも、治承3年の政変後に上総介になっていて、関東の平氏の家人を統括するような立場にいた。
何故ちんたら軍勢を動かしていたのかと言うのがよく分かりませんが、気が緩んでいたということ以外にも何か理由がありそうだなとは思う。

●甲斐源氏の武田氏参陣
甲斐源氏と言えば武田氏、武田氏と言えば武田信玄ですが、今回出てきた武田氏は信玄の先祖になる。
というか今回出てきた武田信義が武田氏の初代になります。

●源義経、平泉から参陣
何なのあの主従。
ウィリアム・テルか (爆笑)
うーん…史実での義経はチビで出っ歯で弓矢が苦手なんだが…
頼朝と義経の対面の場面については、安田靭彦の有名な絵があります。
黄瀬川の陣(別窓。国立近代美術館)。
いいよね~^^私安田靭彦大好きなんだー
これより100年ほど前の後三年の役で、兄源義家を助けるために弟義光が京都から秋田まで駆け付けたという逸話があります。

(@後三年合戦絵詞)

弟が兄を助けに駆け付けたというシチュエーションが同じで、頼朝はこの話を引いて義経の参陣を喜んだと言われている。
まあ、大勢から見ると義経にとっては悲劇の始まりですなあ…
ちなみに上記した武田氏の祖はこの義光です。
武田信玄の出自や武田氏の由緒を語る時に義光流と書かれるのはそこから。

もう回数が全然ないから義経が戦場で活躍する場面まで描かれないと思いますが、まー書きたい事一杯あるよね!(笑)
頼朝は何故同族には冷徹だったのか、とかさー。
私は義経よりも頼朝の方が好きなんだ。判官贔屓?何それおいしいの?



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