Forth!

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2013/12/31 ヒジハラ

中尊寺金色堂@「美の巨人たち」

2012-08-19 | ヒストリ:平安の風

お風呂はいろ~と思って部屋に戻った隙に風呂場前で2歳がオムツ脱いで待機してて笑う。
少し長湯しようと思って握っていた「軍艦長門の生涯(上)」をどうしろと。笑。
そんなこんなで昨日奴隷解放令が出ました。パトラッシュ僕はもう疲れたよ。
 
眠くてたまらない中昨日は『美の巨人たち』の平泉の金色堂の話を見ながらブログを書いていたんですが、見た後結局寝落ちしました。笑。
内容は予測していましたが、大体このブログで書いたことなので正直、はい。
サイトに纏めてありますので、興味がある方はリンクかららどうぞ~。
(歴史話>前九年後三年>安倍氏藤原氏>残心)
 
見ながら微妙に方向が違うと思うなあ…と。
平治の乱の絵巻を出して「源平が争っていた時に平泉の繁栄が」というのも、時代が30年ほど早いのだけれど…
ちょうど源氏が凋落し始め、平氏が台頭してくる時代です。
大河ドラマの影響だと思うけど少し結び付け方が強引すぎ^^;
 
また供養願文は中尊寺の供養願文(だろう)と言われているけど、金色堂は藤原氏の阿弥陀堂(もしくは持仏堂、葬堂)です(自分の極楽往生を願う)。
金色堂は中尊寺の中にあるということで、それならイコールでもいいのかとも思うけど、なんかちょっと違う気がするなあ。
何せ金色堂は中尊寺の中にある建造物の中でも全く性格が違うものとまで言われることもあるので(なので余計に建物の目的が判然としない)。
全く嘘ではないにしろ、話の持って行き方に少し無理を感じるわ…
時間が30分だけに仕方ないか。
    
金色堂の内陣の周りを藤原清衡が病気に侵された体で読経しながら歩いていたのではないかという旨のナレーションがありました。
時間の関係か省かれていましたが、清衡は晩年、脳溢血(かそれに類似する病気)で左半身が不随であったことが判明しています。
中尊寺が落慶した時には随分不自由な体であった筈で、落慶法要の願文も自分で読めたかどうかと考えられています。

でも映像で見ると実際に行っても見えない所がきれいに見えるので、それはいいな~^^
実際に見る以上の感動に勝るものはないと私は思うけれども、どちらにも良い面があるよね。
    
***

昨日の昼2時~3時頃は雷がすごかったです。
ものすごい近距離で雷鳴ってるの!
光って3・4秒でズドーン!とかピシャーン!とか…あーあれは絶対近くに落ちてる…
あまりの音の大きさに何度かびくっとしました^^;
わんこ大丈夫かな~と様子を見に行けばたたーっと駆け寄って来て頭すりすり。そりゃ怖いよね。
暫く一緒にいてあげようと思って外の様子を見ていのですが、稲妻が走る所を初めて見ました。
こういうの→昨日の甲子園(←家から自転車で2・30分の距離)。
あれは流石にひいってなるわ。怖かったー
雷で家電が壊れた事があるので、流石にパソコンの電源抜いた。
夕方にわんこの散歩に行った際警察と消防が来ていた場所があり(立ち入り禁止のテープが張られていた)、近所の人が感電云々と言っていたので、多分雷が落ちたんだろう。
ニュースにはなっていなかったので多分人間には何もなかったのだと思うけど、亡くなった方や怪我された方が気の毒です。
 
雷と言えば、京都にある上賀茂神社の御祭神は雷です。
そもそも上賀茂神社の正式名称は賀茂別雷神社(かも わけいかづち じんじゃ)。
学生時代古文書の授業で先生が上賀茂神社に関連する鎌倉時代の文書を読ませてくれたんですが、雷が落ちた時の記述が、
「神落ちたまいて」
とか、そうした表現でした。
「神が落ちて火がついた」と書かれていてもなんのこっちゃか訳変わらんかっただけに、へ~と思った覚えがある。
というかその時に御祭神が雷と初めて知りました。
そりゃあ雷はそもそもが「神鳴り」ですもんね…
日本には八百万の神がいるといいますけど、本当に何にでも神様いるな^^
    

 
>MVさん
ありがとうございます!本放送の日に調べたのですがその時はまだ情報が出ていなくて(違う処見てた?)。
やっぱり夜中ですよね…はは…orz 本当にあまり一遍に放送されると辛いです。既に何本か見逃しました。見たかった…満州国軍五族協和…
あと戦艦大和関連のBS放送もその内放送されるかな~と待ってます。すぐに再放送されるのは嬉しいのですが、本放送とのスパンが短すぎて気がついた時には終わっている事が多すぎます(涙; 料金払ってるのになんでオンデマンド見るのにお金払う必要があるのかと小一時間(ry

>Sさん
そうです~昨日解放されました!解放されました!(2回言う)もう本当にあちらの人々とはまともにお付き合い出来ないですね…毅然とした態度を取って欲しいですが今の政権じゃ無理ですね;いやいやしんどいを理由にだらけているのは私の方で、ブログに如実に表れています^^;暑いですがSさんもご自愛くださ~い!


無量光院跡@平泉

2012-07-25 | ヒストリ:平安の風

サイト更新です。
今回で平泉の史跡案内は最後になります。うーん。終わってしまうとなると寂しいな…
 
最後の史跡は無量光院跡になります。
平泉には奥州藤原氏時代の建物はほとんど残っていません。
残っているのは中尊寺の金色堂のみ(中尊寺の経蔵は鎌倉時代に火災に遭い創建当時の建材を使って建てなおされたとされている)。
それだけでもよく残っていたなという感じです。
無量光院は現在跡地が史跡公園?になっていて碑が立っているばかりという状態です。
私がこちらを最後に訪れたのは4年前ですが、それ以前は98年が最後です^^;
10年のスパンが開いての再訪だったのですがあまりの変わりように驚きました…(笑)
   
無量光院は3代御館藤原秀衡が建てた寺院になります。
宇治の平等院鳳凰堂を模して作ったということがよく知られていますが、それよりはもう少し大きかったようです。
こちらも阿弥陀堂で東面している。


 
阿弥陀堂の本尊は阿弥陀如来ですが、この仏様は西方浄土におられるんですね。
なので参拝者は西方にいる仏さまを拝むことになる=如来の顔は東を向いている(東面)。
阿弥陀堂は東面しているのが基本です。

想像図を上げていますが、そのすぐ後ろに山が見えます。
金鶏山といって、奥州藤原氏の神聖な山といった存在であったと考えられている。
ちなみにこの山には衣川の戦いで亡くなった源義経の妻子のお墓があります。
この山の頂上と堂の中心、橋は一直線に結ぶことができるのですが、春分の日と秋分の日には山の頂きから太陽が沈むのを見られるように設計されている。
つまり阿弥陀如来のま後ろに沈む太陽が来ることになる訳ですが、これは本当に神々しかったと思います。
昔の人はすごいねえ…

平泉は本当に大きなまちではないんです。
なんせ観光するにしても軽く見るだけなら徒歩1日で間に合う位なので。
それだけのまちの中に、こんな規模の寺院や邸宅がひしめくようにして並んでいたというのが今からでは中々信じられません。

当時の平泉がどれだけ壮麗な”都市”であったのかというのは、『吾妻鑑』からも分かる訳ですが、当時の東国武士は平泉の豊かさを目の前にして腰が抜けるほど驚いたんじゃないかなーと思う訳です。
建造物についてもそうですし、奥州藤原氏は独自ルートで海外交易をしていた事もあり、日本では入手出来ないような宝物も多く持っていたので、見たことのないもののオンパレード!という東国武士もかなり沢山いたのではないだろうか。
寺院の宝物の略奪に走った人間もいたと書かれてますし(厳罰に処されてます)。

 
(金色堂は日本では手に入らない材料が多く使われてます)
  
13歳まで都で過ごした源頼朝でさえ平泉の文化には驚き、大きな感銘を受けたようで、それが鎌倉のまちづくりにも反映されている。
これは史料からも判明しています。文化の持つ力は凄い。
 
大河ドラマは次回は平家納経ですが、平家納経は一門の人間がひとり1巻ずつ分担して経典を書いたもの。
神戸で開催された「平清盛展」で実物を見てきましたが、そりゃあ綺麗だった。
平氏もそういった面では文化の推進者だと思います。
一門の中には忠度(ただのり。清盛の弟)のような歌人がいて、経正や敦盛といった音楽に造詣の深い公達もいて。
置かれた立場が違うというのもあるかと思いますが、殺伐とした源氏とは随分趣を異にしています。

源氏はそういった平氏や奥州藤原氏を叩きつぶして鎌倉幕府を作る訳ですが、頼朝は政治的には清盛の執った手法を参考にしている形跡が見られるようで、また他方鎌倉に造った建造物などは平泉を参考にし、とかなり面白いことになっている。
あっちの良さやこっちの良さを少しずつ取り込んでいるみたいですな。
こういうのを見ると「いきなり出来上がる」のではなくて、「少しずつの積み上げで歴史が出来上がっていく」というその過程を見るようで、かなり興奮します。笑。
歴史は面白い。

あとひとつ、以前このブログで毛越寺について書いた時に、「史跡名勝でのダブルの特別指定は全国合わせて8例しかない」と書いたのですが、その後近年出版された本を読んでいたら「9例」になっていました。
調べたら朝倉の一乗谷が加わっていた。
サイトの毛越寺のページには9例と書いていますが、ブログの方で訂正し忘れていました。
よろしくお願いします。

そんな感じですが、今回で平泉のまち歩きは終了です。
お付き合い下さった方ありがとうございました!
楽しんで頂けたなら幸いです^^


平安時代、髪の毛

2012-07-03 | ヒストリ:平安の風

この時間(23:21)から書き始めるとなると、多分何も書けないなー…

丁度1ヶ月ほど前からごぼう茶を飲み始めています。
高血圧とかコレステロール値が改善されるらしく、それを期待して。
私用じゃありません。
高血圧気味な家族用です。笑。

そのごぼう茶を私も一緒に飲んでいるのですが、暫くしたらシャンプー時の抜け毛が目に見えて減ってきました。
私の髪は肩甲骨の下位まであるのですが、以前は気持ち悪いほど抜けていた。
長さがあるので余計にそう感じるのだと思うのだけど、そらーもー禿げるんじゃないかと思う位に!(^^;
以前100本ほど抜けていたとすると、今は15~20本くらい(あくまで感覚)
劇的過ぎて自分でビビる(笑)
シャンプーはラックスとか普通のシリコンシャンプーを使っているんですが、ちょっと刺激が強いんじゃないかと思って最近お湯で薄めて使ってるんだよね。
コンディショナーも薄めて使うようになった。
そういうのもあるのかと思うのだけど、我ながらちょっとびっくりです。
薄毛を気にしている方がいたらごぼう茶飲んで、散々言われてきているけど無添加シャンプー使ったらいいんじゃないかなー。

今年の冬に平安時代の生活を調べている時に知ったのだけど、育毛の歴史は結構古いみたいです。
古代エジプトでも薄毛は結構な悩みだったそうですよ…^^;
日本では髪の量が少ないと冠が被れないというちょっと大変なことになる。
 

 
内裏に参内する時に着用するのが冠。プライベート時は烏帽子を被る。
冠は要するにフォーマルスーツの一部なんですな。
で、頭に乗せているだけの冠、固定しないと落ちてしまう訳ですが、それを止めていたのが髻(もとどり)でした。
 


後ろに立っている尻尾みたいな所(巾子・こじ)に髻を入れて、簪を挿して固定している。
髪の毛の量が少ないと不安定になる訳で、実際に薄毛の人は困ったことになる。
で、この話でよく名前を引かれる人物が清原元輔になります。清少納言のお父さんです。


清原元輔、賀茂祭の時に頭からまっさかさまに落馬しましてねえ…
その拍子に冠がころりんと落ちてしまい、頭を露出してしまいました。

冠は落ちにければ髻つゆ無し。ほとぎを被きたる様なり。

ほとぎは土器とか甕のこと。
冠は落ちてしまい、その上髻が全く無い。甕を被っているよう(な禿げ頭)だ。
おおう…
結構なお年なので見ていた人々はびっくりするんですが、この元輔の姿を見てシーン…
従者が慌てて落ちた冠を拾って渡そうとするのですが、元輔はそれを制してこちらを見ている殿上人にあれこれとうんちくをたれる訳です。
しかしその時の様子は

夕日の差したるに頭はきらきらとあり。いみじく見苦しき事限り無し。

日の光を浴びて頭キラッキラ!
元輔はなんだかんだと言い募る訳ですが、周りに笑われながらも道理を説いて去っていく。
結構面白いじーちゃんだったみたいです。

ちなみに青い文字は「今昔物語」になります。
小難しい話ばかりじゃなくてこういう話を高校や中学の古典で習っていたら、もうちょっと古典が好きになっていたと思う。

髻を隠すというのは当時は大切な事なんです。
頭をそのまま出している状態は露頂といって、大変恥ずかしい状態だった。
今で言うとパンツ穿かないまま外出している状態だと思って下さい。
これがいつからいつまでの時代に当てはまるのか、調べたけれどもちょっと分からず…
大河ドラマ平清盛で、清盛が熊野で信西入道の危機を知った時、何にも被っていない場面がありましたねえ…
平安末期はどうだったんだろう。
 
…育毛の話に繋げるつもりが、ここでタイムアウトです(笑)
  


平泉の展覧会

2012-06-07 | ヒストリ:平安の風

2004年の国宝中尊寺展と2009年の平泉展のチラシが出て来た。
 


前者は滋賀の守山にある佐川美術館の。超遠かった。守山駅からバスで40分って何。
後者は東京の世田谷美術館の。………遠かった…………
両方とも会期が終わるギリギリに気がついてめちゃめちゃ焦りました。
こういう展覧会には「書籍ではよく見るけど、平泉に行っても実際には見られないもの」が出てくることが多いので、できたら見逃したくないんです。
 
佐川美術館も国宝重文のオンパレードでしたが、世田谷美術館は本当にすごかった。
あの質、あの規模の展覧会は中々見ることがないと思います。
本当にびっくりした。
何がって、金色堂の西北壇がそのまま来ていたんですよ!


 
西北壇と言ってもなんのこっちゃかと思いますが、写真右側に写っているのが中央壇。
その右側に同じようなセットがあるのですが、それが西北壇。
こちらに藤原秀衡の遺体と泰衡の首が収められいたのですが、その須弥壇から上の諸像11体のワンセット(国宝の塊である!)が全部世田谷にやって来ていた。
びっくりしたんですが、それ以上に思った事は

この会期中に平泉に行った人の気の毒さ…

^^;
とにかくあの仏様たちを目の前(1m程)で見ること、その距離で横顔や背中を見ることなんて、もう金輪際ないような気がします。
すごかったなあ…
関西でも開催して欲しい。
  
中尊寺のHPをここ数日でちらちら見ていたのですが、今年は秘仏である一字金輪仏が公開されるそうです。
おお!12年ぶりです。
人肌の大日と言われる仏様ですがこちらは藤原秀衡の持念仏であったそうです。
 

 
私が中尊寺に行った時に偶然公開していて見る機会を得たのですが、平安時代に造られたとは思えない美しさ…
この美しい仏様に秀衡は何を祈っていたんでしょうねえ。
私は不動堂という中尊寺のお堂で拝観したのですが、今回は讃衡蔵(宝物館)特別収蔵室での展示という形になるようです。
朝のまだ早い時間で他に拝観者なんかいなくて、静かないい雰囲気だったな~…
仏様きれいだし。
広隆寺の半跏思惟像
 


のエピソードを思い出しました。
学生が余りの美しさにキスしようとして小指を折ったという話(色んなバーションあり)ですが、なんかわかる気がする…^^
 
>みちこさん
そうだったんですか!青森とは~。十三湖、八甲田、三内丸山遺跡を訪ねて1度行ったきりです。

帰省の時に平泉、だなんて羨ましい…青森も岩手ももっと見たい所が沢山あるのですが、ちょっと行こうと思うには関西在住者には東北は中々ハードルが高い所です。見逃したものがあった時のあの悔しさ(^^;


夢のあと

2012-06-06 | ヒストリ:平安の風


 
1998年の写真。
古い…古いけど、大好きな写真。2枚を結構上手いこと継いであるでしょ?(笑)
 
平泉の風景です。
平泉にある高館、源義経最期の地と、とりあえずは言われている所からの撮影。
左側、北上川から左側にこんもりとした緑が走っていますが、そこが安倍氏の拠点があった衣川。
この川から上が奥六郡と言われた土地になります。古代ではこの衣川が国境でした。
真ん中を流れているのが東北の大動脈であった北上川。
右端にうっすら写っているのが束稲山(たばしねやま)。…の麓。
平泉を開いた藤原清衡の祖父、安倍頼時が1万本の桜を植えたと言う伝説があります。
 
聞きもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは

吉野の他にこんなに美しい桜があるなんて!
歌聖と言われた西行法師がそう読んだ。
 
西行は2度平泉を訪れています。
1度目は若い頃、これはドラマでも奥州に行ったという事に触れていました。
以前書きましたが、西行の佐藤家と奥州藤原氏は秀郷流藤原氏の出で同流、いわば遠縁になります。
そういう所に触れるかと思いきや「美しきものは云々かんうん」というよう分からん話で終わってました。あーあ。

2度目は晩年になります。
ドラマではまだまだ後の話になりますが、平清盛の五男重衡が奈良に軍を出した際、東大寺が燃えましてね。
寺や大仏殿を燃やすつもりはなかったようなのですが、その日は折悪しく風が強くてだなー…
延焼した。(ついでに近くにある興福寺も)
西行は東大寺の重源の依頼を受け、その修復の為の砂金勧進で平泉の3代御館藤原秀衡に会いに行っている。
この途上、西行は鎌倉の源頼朝と面会しています。
西行は俗名佐藤義清といい、優秀な武士でした。しかも先祖が平将門を討ち取った藤原秀郷だよ!
そういうことであーたの家には武者の秘伝みたいなのがあるんでしょ?教えなさいよってな感じで色々頼朝から聞かれたらしい。
その時に平泉を探ってこいなんて密命を受けたなんて推理をする人もいます。

1度目の訪問の際は2代御館基衡の頃。
先週亡くなった源頼長の荘園が東北にあり、その管理をしていたのが奥州藤原氏、当時はこの基衡になります。
基衡はこの頼長を相手に年貢を上げる上げないで随分激しいやり取りをしている事でも知られています。
ドラマでは都の政治情勢が主になって来るので平泉?同時代なの?
…という感じですが、めっちゃ同時代です…
基衡が毛越寺建立に際し本尊を都の運慶に依頼するのですが、その出来の良さを見て鳥羽院が東北に送ったらダメ、と言いだしたこともある。
中央の話と平泉の話、つい分断して考えて、結局繋がるのが義経からになってしまうのだけど、もう少しディープなアプローチがあっても面白いかなと思います。

頼朝が兵を上げた翌年に秀衡は従五位上、陸奥守になる。
これは清盛がなしたことで、平氏からの味方に引き入れたい、最悪でも源氏側に立たないでほしいと言うアプローチであった。
まあ平泉はどちら側にも立たなかったけれど、結局平氏は壇ノ浦で滅亡した。
西行が平泉を訪れたのはその後の話になります。
そして平泉がその後どうなったかは皆さんご存じの通り。

平泉が滅亡した丁度500年後に松尾芭蕉がこちらを訪れています。(奥の細道)



高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。
偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡
 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良


この風景を見て詠まれた俳句がこれでした…
それから300年以上経った今と当時では景観は違っていると思うけど。
(※数年前に高館下にバイパスが通り、現在ではさらに景観が変わっています)