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移転しました(2014/1/1)

厳島神社*鎮守稲荷神社@神戸

2012-12-21 | ヒストリ:平清盛

■サイト更新 兵庫×平氏5(厳島神社・鎮守稲荷神社)

平清盛が次回でとうとう最終回ですが、うちの平氏関係の神戸の史跡紹介もこれでストックアウトっす。
最近の平清盛紀行で紹介されている辺り、荒田八幡宮(平頼盛の山荘)や清盛のお墓がある能福寺は既にサイトで紹介済みですので、今回更新の史跡はちょっと時期が外れてしまうんですが。

厳島神社は兵庫や大輪田泊が繁栄するようにと清盛が広島から勧請した神社になります。
また人々が兵庫の地に「居つく」ようにという祈りも込められていたそうで。
夏に神戸に行った時に写真撮り忘れたんだよね…大変古い写真で申し訳ない。
その上地元の図書館にある郷土系の本を見ても大した解説がなく、かなり薄っぺらい感じに落ち着いてます^^;

清盛は重盛に跡を譲った後兵庫に移り、還都となる迄の10年を神戸福原で過ごしています。
反平氏勢力の台頭で京都では身動きが取りにくいという事もあったと思うけれども、新しい王朝を建てるという意味の籠った福原遷都でもあった訳で、清盛にとって神戸は色んな意味で思い入れのあった地だったんだと思うんだ。
周囲にいる全員が還都を主張したというのは苦しかっただろうなー
途未だ半ばで本当に後ろ髪を引かれる思いで神戸を後にしたんだろう。

次回への引きで今回清盛は熱病に倒れていました。
来週の話なのでその話は次でいいかと思いますが、頭痛を訴えはじめて熱病で倒れ、死去するまで僅か1週間ほど。
平氏一門も、恐らく清盛本人でさえもこんなに早く世を去ることになるとは思っていなかっただろう。
そう言ってもいいと思える程の急逝だった。
あー来週で終わるのか…寂しいなー

話を戻しまして、もうひとつの鎮守稲荷神社は清盛亡き後の史跡、平氏滅亡に関する史跡になります。
こちらには清盛の甥、平経俊の塚がある。



父親は清盛の弟、平経盛。


(友章は知章、ピンクの教盛は教経の間違いorz)
 
ドラマでは文には秀でているなんて紹介のされ方を時忠にされていたように思います(忠度が出てきた回)。
息子に経正、経俊、敦盛がいる。
経正は琵琶、敦盛は笛でよく知られる人物ですが、この3人、全員一の谷の合戦で戦死しているのね。
それもあって神戸には彼ら所縁の史跡がある。
ひとつが琵琶塚(経正)、ひとつがこの経俊塚、最後のひとつが敦盛塚。
前者ふたつは兵庫だけど、敦盛塚は少し離れた須磨にある。
琵琶塚は既に紹介済みです。清盛のお墓のある能福寺のすぐ傍。
ついでに言えば経盛は壇ノ浦で弟の教盛と共に入水、下関にある赤間神宮に葬られています。

 

赤間神宮にある七盛塚。平家一門の人々と一緒に葬られている。
平清盛の妻時子の名前もここにあり、安徳天皇の御陵も赤間神宮に隣接してます。
ついでに言えば幕末、僅かな間ですが隣地に奇兵隊本営が置かれた事があり、そこが手狭なために赤間神宮(当時は極楽寺)も利用されていた時期がある。
石碑が建っています。
 
話は戻って神戸の鎮守稲荷。
成立時期は分からないものの江戸時代中期頃には既にあったようで、その頃のものとして境内には高田屋嘉兵衛が寄進した灯籠が現存しています。

高田屋嘉兵衛は江戸中期の商人ですが、超簡単に書くと成り行きでロシアに連れ去られ(としか言いようがない)、日露関係の改善に尽力することになった人。
司馬遼太郎『菜の花の沖』で知られる人物かと思います。
NHKが竹中直人でドラマ化していたけれど、あれはうーん…^^;イメージ違い過ぎたわー

実は嘉兵衛が構えていた本店と鎮守稲荷は目と鼻の先の距離。
灯籠を寄進したというのはそうした地の縁からかと思います。
で、多分今年の春かな?本店の地という大きな石碑が設置され、その近くに高田屋嘉兵衛資料館という私設資料館ができていました。
嘉兵衛の出身地は淡路島で、そちらには記念館があります。
北海道の交易開拓に尽力した事もあり函館にも大きな資料館がある。

しかし兵庫には色んな史跡がありますな。
前にも書きましたが、平氏が都を置こうとした地であり、交通の要衝であることから源平、南北朝、戦国と合戦が幾度となく起り、江戸時代には主要な港町として栄え、近代では初代県庁が置かれている(伊藤博文が初代兵庫県知事)。
ホント史跡巡りのし甲斐がある町だわ(笑)
知らずにいるには勿体ない歴史が沢山あります。



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