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2013/12/31 ヒジハラ

文武官

2008-10-29 | ヒストリ:英雄追憶
えー何やら大袈裟な題がついてますが。
昨日は何の話をするつもりだったのか。法正で横道に逸れたら帰れませんでした。
…魏ですよ魏(笑)
昨日も名前が出てましたが、魏の文官では荀イクと郭嘉がとても好きです。
ふたりとも曹操にその才をとても愛された。
荀イクは遠征に出た曹操の留守を預かる事が多く、どちらかというと初期の頃に名前をよく見る人物です。
私の中ではいつも穏やかに笑ってるイメージで、色的には暖色系。でも赤とかオレンジといったきつい色ではなくてベージュとかそういう柔らかいの。
でもさらりと腹黒い(笑)軍師だから(笑)
荀イクは曹操の政治参謀ですが、一方の郭嘉は軍事参謀であります。
この人は本当に軍師、だな。この人にはこれしかないし、本当にこれしかできない(笑)
なので戦がない平時には出仕したりしなかったりぷらっぷらしていたようです。
曹操は弛緩や乱れを嫌う人で、そういう所は厳しい目を向ける。
なのできっちり勤めてる人間からすると「郭嘉の勤務態度はなんだ」という話になるのですが、曹操は取り合わなかった。
なんせ戦の度に手元に置いて郭嘉を見てきたのは曹操自身ですので、常人のごとく縛るとその才が萎えると思ったのではないでしょうか。
郭嘉としても申し開きをしたような感じがありませんので、自身の事は曹操さえ分かっていればいいと思っていたのかなと。
残念ながら郭嘉は若くして亡くなります。36歳か38歳かその辺りで。
時代的には曹操の北征から帰ってきてすぐ、赤壁の戦いの直前(前年207年。赤壁は208年)です。
郭嘉の何が凄かったかというと洞察力とそれをもとにした先の見通しを立てる力でした。それに曹操が連れている参謀連の中では彼がずば抜けて若い。
大体一回りほど若く、それだけに曹操は次世代を担う人間として大きな期待もかけていました。
郭嘉が亡くなった翌年の赤壁の戦いで曹操はぼろんちょに負けるわけですが、その時に
「奉孝(郭嘉の字)がいればこんな事にはならなかった」
という言葉を吐いています。
それじゃ従軍している荀攸の立場ねえよ丞相(笑)
…と思わない事もないですが、そう言ってしまう曹操の気持ちもよく分かります。
因みに荀攸は荀イクの年上の甥で、戦時には大体郭嘉とセットで曹操の傍らにいて献策していた人物です。
しかしながら魏はとにかく人材が多い。
この層の厚さには呉にも蜀にも追随を許さないものがあります。
文官だけかというと、武官でも綺羅星の如き人物が多い。

魏で武将というと一番に名前が挙がるのが夏侯惇でしょうか。
彼は曹操といとこ同士でもありますので、文武官の中でも一番近しい人物といってもいいと思います。
あー…何というか。花がありますよね、惇兄には(笑)
強いしカッコいいし。隻眼というのがひときわ目立つ。
物語の中でしか知らないので簡単に眼帯かっこいーとか言ってしまう訳ですが、実際本人は物凄く気にしていたようです。
呂布攻めに参加した際、夏侯惇の左目に矢が突き刺さり以降隻眼になったわけですが。
医学も今と比べるとレベルは随分低いはずですから…目だけの損傷で済んだんでしょうかね?
演義(物語)の方では夏侯惇は結構活躍しているのですが、実際にはそうはいかなかったようです。
片目では当然視界が狭まることになり、片目を失って以降前線で戦う事が無くなります。たまに出ても後陣。
しかも正史に残っている話では主要武将として参加した戦は全部敗戦してるんですね。なんか意外ですが。
夏侯惇には同族に夏侯淵という猛将がおり、彼と区別するために惇兄は「盲夏侯」とあだ名されていました。
彼はそれを物凄く嫌がり、鏡(当時は銅鏡)を見ると腹を立てて投げつけたと言います。
片目が無くなり容貌を損ねたという以上に、戦場で戦えない、挽回の余地が少ないということに対する腹立たしさがこの行動に出てるんじゃないかなーと私なんかは思うのですが、どうでしょう。
とはいえ惇兄はなかなかの人格者で治めた土地の民からは慕われたと言いますし、それに中々茶目っ気のある人だったようです。
1800年前の話ですが、人間の内面ってそうそう大きくは変わらないのかな~と思いますね。

・岩倉具視・レッドクリフ・ヒロセ


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2008-10-28 | ヒストリ:英雄追憶
■サイト更新 平安史跡:下衣川、上衣川
・長者ヶ原廃寺跡/九輪塔/安倍一族鎮魂碑/瀬原古戦場/歴史ふれあい館/衣河営跡/衣川古戦場/
・張山古戦場跡/古戸古戦場跡/駒場跡/一首坂/古館(安倍新城)

締めて12件。前回の更新から一か月。
…忘れてたわけじゃありません(忘れてたんか)
量がある割にはこまごましていますのでページにするとたった2枚ですが、結構書き込んでます。ホントに疲れました、これ作るの…
一番の見どころ(笑)は上衣川の一首坂になります。
このブログでも何度か紹介していますので、耳になじんできたという方も多いでしょうか(そう思いたい…)
衣川館を棄てて北行する安倍貞任と、それを追う八幡太郎義家が和歌の掛け合いをしたという伝承が残る所。
「年を経し糸の乱れの苦しさに 衣の縦は綻びにけり」
という下の句が八幡太郎、上の句が貞任のやつですよ。
衣の縦糸と衣川の館を掛けている古今著聞集に載っている和歌です。
…岩手はもう大分寒いのでしょうか。
一度雪の降る中尊寺を参拝したいなあと思いつつまた季節がめぐります。
お時間のある方はご覧頂ければ幸甚です。
とりあえず今回作った前九年の役関連の史跡案内はこれでストックアウト。
次は平泉の案内を作らなければ~ 何時になる事やら…

あー、あと史跡ページを大きく変えました。
といっても順番や構成は変えていないのですが、こちらは本当にすっきりしたのではないかと思います。
もうついでにやってしまえ!という事でWORKSのページも同じスタイルに変える。
…前回変えてからまだ一週間くらいなんですが…(笑)
今回でもう少しすっきり。いや、大分すっきり!多分!(笑)
大丈夫、見やすい見やすい!!多分!(笑)(誰に言ってんの)



先日友人と神戸で開催されていた大三国志展を見学に行った際、以前荀イクと郭嘉ならドリーム書ける!と勢いで書いた内容に突っ込みが入りました…
あははは。よく覚えてたねそんな内容(汗笑)
いやでも書けるんじゃないかと思うマジで(笑)と思う位魏が好きです。
昔は蜀が好きだったなー。今でも好きですが。
それに昔はどちらかというと武将が好きだったのですが(華やかで)、今は文官の方にも結構興味があります。
文官というより国家を支えるシステムに興味があります。
魏と呉は大体想像がつくんですが、蜀ってどうやって財政成り立たせてたんだろう…
劉備が益州を取るまで蜀は碌な戦争も無く過ごして来てましたので、それなりに豊かで税収もあったと思うのですが。
蜀錦というのは昔から有名ですが、友人によると法正なんかが茶の輸出に係わっていたらしい。当時お茶は貴重品ですので、それを考えると中々いい所突いてるのかなあと思いますが、輸出量にもよりそうですね。
私法正って結構好きで。
…マイナー?もしかしてマイナーですか?(笑)
計算高くて怜悧といったイメージがあるのですが、あんまり悪い印象を持っていない。

ちょっと話が飛んじゃいますが、大三国志展を見に行った日は酒見さんの「泣き虫弱虫諸葛孔明」で話が非常に盛り上がりまして。
その時に「蔡瑁がちょっと気の毒だった」という話になりました。
蔡瑁という人物が出てくるのは丁度赤壁の戦いの直前辺りです。
荊州の劉表に仕えていた人物で、姉が劉表に嫁していた関係でその側近となり、政治を動かす力を持っていた。
因みに蔡瑁のもう一人の姉は黄承彦に嫁しています。
さらに黄承彦の娘が諸葛孔明に嫁している。
一方鳳雛と評されたホウ統の従兄弟と孔明先生の姉が結婚している。
その従兄弟の父親をホウ徳公といってこれまた荊州の中央に割と顔のきく人物でした。
荊州の横のつながりは見ていると結構面白いです。
人脈から孔明先生はかなり荊州やそれを取り巻く政治状況を知っていたんじゃないかなあと思いますが、さて。

その蔡瑁ですが、彼が音頭をとって赤壁の戦いの直前に曹操に無条件降伏するのです。
戦わずして荊州を明け渡した。
そこで居場所のなくなった劉備達が荊州を出て行き、それを追う曹操と戦うはめになったのが長坂坡の戦い。
趙雲と張飛に惚れるところです(笑)
まあそういったわけで、酒見「孔明」では蔡瑁が冗談ながら何度も売国奴呼ばわりされている。
個人的には状況から見て蔡瑁が国を売ったというのは気の毒だなあと思うんですが、法正の方は、こちらは正真正銘国を売った人物になる。

とはいえ益州を劉備に「売った」主体は張松という人物です。
益州は劉璋という人物が治めていたのですが、彼では民の為にもならず先が無いと考えての行動でした。
結局はそのたくらみがばれて張松は処刑されるのですが、法正は生き残り劉備に仕えます。
非常に優秀だったそうで、劉備からも孔明先生からも信頼されていた。
ただ性格に難があり、受けたどんな些細な事でも忘れずやられたらやり返す。
…何倍にもして(笑)かなりこわーい人だったようです(笑)
それでも余りある才があったのか、特に劉備が厚い信頼を置いていたようです。
孔明先生とは仲悪かったみたい。ソリが合わなかったんじゃないかな。
まあそんな正真正銘蜀の売国コンビ(ヤな響きだ)なわけですが、彼らがどう酒見「孔明」で描かれるのか。それが今から非常に楽しみで楽しみでなりません。
分かってます。ものっそ歪んだ愛です(苦笑)
因みにその日彼女が法正を「キツネ」と呼び、私が張松を「チョロまつ」と呼んでいる事が判明した(トリビア)
あー早く続き出ないかなー

…書きたいのは魏の話だったのに…あ、あれ?おかしいな。

・岩倉具視・レッドクリフ・ヒロセ


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拍手ありがとうございます。元気の素ですvv

>なかむらきりのさん
こんばんわ!こちらこそご丁寧にありがとうございました。
個人的に兄弟の話というのはとても好きなので、書けたらいいなと軽い気持ちで思っていたのですが、本当に思わぬところで躓いてしまいました(笑)
いや、本当に勉強になりました。
しかしタクシー…せっかく訪れているのにそれでは…
お金を払っているのはこちらなのに何でだ!と怒ってしまいそうです(><
今回のご訪問、本当に幸甚でしたね!
平田しゃまに会われましたか~vv 骨太で素敵なご家老様ですよね。
私この方大好きで。羨ましいです。
一度千本松原に行かなければと思いつつずるずるしてます(笑)
ありがとうございました。

…どう?

2008-10-27 | ヒストリ:英雄追憶
…なんかアレですね。まーアレがなんですわ(?)。
云っちゃいけないんだろうなーと思いながら、「レッドクリフ」のトレイラー見るたびにこの映画ヤバいと思わずにはいられません(笑)
ちょっと「マスター・アンド・コマンダー」のトレイラー字幕問題思い出しました。
あれはかつてないほど酷かったので(御存じない方はググってみてください)、流石にレッドクリフはそこまではないですけど、三国志ファンの中には違和感持つ人も多いんじゃないかなー。
「演義に則ってるから」曹操が悪モノというのはありとしても「帝国が襲ってくる」てキャッチは何だあれ(笑)
曹操は当時後漢の丞相兼どこかの州の州牧(知事みたいなものです)だったと思うんですが。

帝国って漢なんですが。

魏呉蜀というものの、赤壁の時点では魏だってまだできてない状態なんですがねー。
ついでに言えば魏は漢「帝国」の中の魏「王国」であって、息子が漢を終焉させるとはいえ曹操は生涯漢の丞相のまま。
フツーに三国志読んでりゃそれぐらいは分かるだろうよ。
…と思うんですが、あのキャッチは人を呼び込むためなのかな。
三国志読んだことない人が考えたのかな。あはは。
ブログでも何度か書いているような気がしますが、この手の話で愛の為にとか固い友情とか信じる心とかジャンプみたいなことを言い出した時点でわたし的にはちょっと引き気味です orz
いや別にそういう話は嫌いではないので否定はしませんし、赤壁でその手の話が無かったかというとあったと思いますが、映画で大々的にやるとなると余りにも現実離れしててちょっとなあ。
赤壁の戦いは小喬の為に起きたのかとか(そんな馬鹿な。しかも大喬どこいった)
蜀と呉が手を結んだとか。…蜀が取りすがったんじゃん(笑)
実際劉備は陸地うろついてただけで一兵卒も出してないしなー。
それじゃ呉(というか周瑜)が気の毒だよ(笑)

そんなこんなで、この映画大丈夫かなー不安だなーと思う事頻りなんですが、というか曹操好きの私としては曹操がまんま悪役ということを知った時点で100あったポイントが30位になってるんですが、他の三国志ファンの方はどうなんでしょう。
まー監督が監督なんで、個人的には内容よりも映像美、衣装、アクション重視だなと思ってはいますが。
トレイラー映像みているとカッコいいと思う所も結構ありますもんね。
微妙に心が揺れ動いてます(笑)
2部作に分かれているということですが、映画全体の落とし所はどこなんでしょうね。
曹操一行が華容道で関羽と出合う辺りまでは描くんでしょうか。
つか今週末公開の第1部では船は沈まないのかもしかして(笑)
…華容道で巡恋歌流してくれないかなー…(コラ)
私との事は遊びだったのねって言ってくれないかなー(オイ)
 (何故かはこちらこちら…(可哀想な子がいます))

あ、そう言えば「蒼天航路」が来年か再来年にアニメになるそうで。
凄いね。

・岩倉具視・レッドクリフ・ヒロセ


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拍手ありがとうございます。元気の素ですvv

>拍手レス、明日かえしまーす

小話@三国志

2008-08-06 | ヒストリ:英雄追憶
昨日に引き続き今日も物凄い雷雨でした。凄かった…
最近は滅茶苦茶暑かったり雨が降ったり、何だか極端な気がします。
昔はこんなに警報なんて出なかったよねえ

うーん。
なんかネタが浮かんだので書いてみました、三国志…
浮かんだというか、前からちらほら頭の中に浮かんでたSSなんスけど。
良かったら以下お進みくだされ。
孔明先生のイメージ壊したくないわーと言う方はまあ、バックオーライで。





ここにあったSSはサイトに格納しました





ポーカーフェイスを作る前にいきなり素を見られて恥ずかしい思いをするの巻。
殿が持った第一印象はかなり良かった模様。孔明先生は低血圧だといい(笑)
…本当はもっと酷い話にする積りでしたがそれだと余りにも可哀想なので(私が)こんな感じに(^^A
あー…テーマはアレです。
「孔明先生だって普通の人間でしょ」または「孔明先生にだって普通の若者っぽい所があってもいいじゃない」。
出盧した時、27歳ですもんね。
落ち着いて老成してる孔明先生もステキですが、そうじゃなくてもいいかなあと。
まだ幾かネタがあるんですが、読みたいと思われる方いますかね(笑)
どうだろ。
  

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>拍手頂きました方、ありがとうございます!

つれづれに

2008-07-15 | ヒストリ:英雄追憶
うっがあ!!
進まねえええー…困ってますよ詰まってますよ連載…!
佳境に差し掛かりつつあるのでアップするペース落としたくないんですがッ
いいのかなこれで、と思い始めるともうどうにも(何を今更)
書いて消し…たまま、書けません(苦笑)
アイデアの神様助けてー
ちょっと原点回帰の為に史料読みに帰ります。しょぼーん。

…とか言ってる傍から三国志(吉川英治の)出してきて読んでます…
ダメじゃん(笑)
話知ってるから読むスピードが物凄い早いのね。
取りあえず孔明先生の出てくるあたりからと思いながら何故か関羽千里行から読み始め…笑いました。

『ついに、関羽は去った!
自分をすてて玄徳の許へ帰った!
辛いかな大丈夫の愛。――恋ならぬ男と男の義恋。
「……ああ、生涯もう二度と、ああいう真の義士と語れないかもしれない」
憎悪。そんなものは今、曹操の胸には、みじんもなかった。
来たるも明白、去ることも明白な関羽のきれいな行動にたいして、そんな小人の怒りは抱こうとしても抱けなかったのである。
「………」
けれど彼の淋しげな眸は、北の空を見まもったまま、如何ともなし難かった。
涙々、頬に白いすじを描いた。睫毛は、胸中の苦悶をしばだたいた。
諸臣みな、彼の面を仰ぎ得なかった。』

ここで笑わずしていつ笑う。

泣いちゃったよソソ様…(しかも捨てられてる)
いやーなんつーか。
人様の家臣にうつつを抜かす主君の姿(しかも泣いてる)を見せられてる部下の立場がないよね。
すごくいい場面なんだけどここだけ抜書きして読むと妙に恥ずかしい(笑)

「三国志」といって日本人の大半が思うのはこの吉川英治三国志とマンガの横山光輝三国志かなーと。
あーでもあれかな。最近は北方謙三とか宮城谷さんのもあるのか。これはどちらも読んで無いので何とも言えませんが。
上記2種は多分演義ベースで描かれているのだと思います(演義は劉備贔屓)。
なので劉備はめっちゃいい奴です。私も好き。
しっかし色眼鏡外してこの人がやってきたこと見ると、節操が無いというか、…偽善?
たまに劉備って君子面した偽善者だったんじゃないかなーと思います。
ま、それは言い過ぎかもしれませんけど。

それはともかく、劉備贔屓の演義ベースの話にしても、否応なく目につくのが劉備陣営の不安定さだと思います。
不安定というか…アンバランス。人的なバランスが悪い。
冷静に見ると劉備の下には悲しいほど人が集まらない。
20年位各地を流浪していたので本拠地が持てなかったというのが一番大きいようですが、関羽張飛といった義兄弟との間が余りにも近すぎたことがあるようです。

劉備、関羽、張飛といえば、三国志の一番初めに桃園の誓いをなす三兄弟。
張飛は義心に篤い一方で、粗暴の誹りを免れない行動が多く、酒の上の失敗がこれまた多い。最期は酒の失敗で部下に殺されています。
上を大事にする一方で、部下など下の者は軽んじて乱暴だったようです。

関羽は信義と義侠心に篤い武将として知られ、非常に人気のある武将の一人では無いでしょうか。
武で秀でる一方で学問も好むという文武両道の人物だったようです。
初期の劉備陣営は関羽でもっていた感が無きにしも非ず。
一見欠点のなさげな関羽ですが、己の武に非常に高いプライドを持っていたといいます。
うーん…誇り高すぎて、却って傲岸だったようですな。
また張飛と逆で下に篤く上に薄いとも言われます。

一癖も二癖もある武将が劉備の傍に常にいる。
しかもこの二人は言ってみれば劉備にとっては譜代みたいなもんです。
外からやってきた外様にあたる武将や文官は大変だったみたいですな。
劉備とサシで話をしたいと思っても、傍には小舅みたいなんがいる。
いっつもおんねん、近くに。
しかも見てるわけですよ、こっちを(笑)
中々難しいですが、これは劉備にとってもやや不幸だったんじゃないかな~とおもいますわ。
間に入りにくい。一対一の関係を築きにくい。
この人じゃなきゃ!と強く思える何かが無いと、劉備について行くのは難しかったんじゃないかなと思うのですが、どうでしょう。
そうは言ってもやってくる人はやってくるのですが。
しかし孔明先生、よく劉備陣営に来てくれたね。
何か劉備と通じ合うものがあったのかな、と思いますな。

岩手・宮城内陸地震被災地宛の義援金について

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