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移転しました(2014/1/1)

平泉イベント月・清盛#44

2012-11-14 | ヒストリ:平清盛

原敬の話ちょっと待ってね。ごめんね。てか読んでる人いるんか…
今日はそれとは別の話。
 
秋田県横手市が去年から「平泉源流プロジェクト」を立ち上げています。
中尊寺や毛越寺を初めとする平泉の遺跡は昨年世界遺産に登録されましたが、それに連動して平泉成立以前に起きた後三年の役を平泉のルーツとして位置付け、同地の歴史文化をよりよく知って欲しいというプロジェクトらしい。(横手市/公式HP)
後三年の役については昨年このブログでも連載しましたが、合戦の舞台が横手辺りになるんですね。
 
(平安の風わたる公園@横手)

その横手のプロジェクトと連動して地元の民間団体(平泉源流プロジェクト応援団)が11月を”おもてなし強化月間”として色々とイベントを企画しています。
「絵巻物の世界を見て、触れて、感じるイベント」で、場所は横手市、美郷町、大仙市。
見れば義家が町を歩いていたり流鏑馬が行われたり、色々されているようです(流鏑馬は既にスケジュール終了)。
イベント開催日は基本各土日のようですがなんだか楽しそうな感じ。(イベント/公式HP)
近かったら通うんだけどね…秋田遠い…

後三年の役時に源義家が腐った豆を食べたのが納豆の始まりという話があり、また後三年合戦絵巻でも義家の食事のシーンがあることから、平安時代の食事に関する展示もされるとのこと。
平安の食事というとあれこれ調べて纏めた話を「平安ライフ」としてサイトに掲載しているのですが、それが分かりやすいという事で、現地での掲示資料として使用して頂く事になりました。
というかあちらの事務局、お忙しいのか、どこでどういった形での引用になるとか、お願いした連絡が全然来てないんだが…^^;
今伺っている感じとしては一部引用になるようですが、サイト名と土原の名前を入れて頂くようにはお願いしているので、もし御覧になった方がおられたらあいつかーと思い出してやってください。
何にせよ自分が作ったものを評価して頂くのはすごく嬉しいです。
 
平泉といえば、観光協会の公式HPを久しぶりに見ました。
いつもは1か月に数度更新があったら良い方なのですが、今月の更新具合すごい。笑。
何かと言えば紅葉情報です。
平泉は今が丁度見頃のようで、綺麗な中尊寺や毛越寺の写真がごろごろ!^^
そういや今月初めは秋の藤原まつりだったわーとか…
平泉的には今月はあっちでもこっちでもイベントですな。



「平清盛」は見たんですが何か書けるような状態ではなくてですねー
すいません。でもちょっとだけ。
 
安徳天皇の誕生、翌治承3年には盛子が死去、その約1ケ月後には重盛が死去、その後政変という事で、重要な出来事が一気に出てきました。

建春門院滋子が亡くなり、平清盛と後白河法皇の蜜月状態は終止符を打ったわけです。
その後に後白河が平氏にした事と言えば、自分の息子を高倉天皇の養子に、鹿ヶ谷事件、盛子に伝領していた摂関領の没収等関白基房と平氏に圧力をかけ、重盛の死後知行国を没収、平氏を排除するための強引な除目(人事)。描かれていなかったけれど、延暦寺への攻撃命令も平氏に下している。
その上後白河と関白が相謀って平氏を滅亡させようとしているという噂までが飛ぶ。
要するに後白河は平氏に執拗に圧力をかけていた。
ええ加減にせえよと言う事で、とうとう清盛の堪忍袋の緒が切れました。
これが治承3年の政変。

鹿ヶ谷事件では院近臣のみの処罰で済んだけれど、後白河自身は無傷でした。
今回も特に自分自身には危害は加えられないとでも思っていたのか、平謝りで謝れば今回も許されるとでも思っていたのか。
ただ清盛はそこまで甘くなかった…
清盛は数千騎の軍勢を率いて上京し、関白藤原基房・師家父子を解官した上大宰府に左遷、院近臣らを解官。
これに驚いた後白河は清盛に使者を送って弁解するものの、許しを請うにはやりすぎました。

ドラマでは後白河は今までドラマや漫画で描かれてきたイメージのままと言うか。
確固たる信念を持って清盛に対峙、という感じだけれどもそういう感じではないよなあ…

弁解しに回る辺り、まさかここまでされるとは思わなかった、まさかこんなことになるなんて、そういう感じがありあり。
経済面、人事面でそこまでの嫌がらせをしたら相手がどう出るかとは考えないのだろうか。(素朴な疑問として)
特に当時、平氏は大きな武力を握っていて、武門は他にもあるとはいってもやっぱり対抗するのは難しい。
そういう相手を敵に回した時にどうなるかという想像が欠如しているとしか思えませんな。
   
後白河法皇は、この立場の人としては随分行動が軽率なように思います。
側近の要求を通して鹿ヶ谷事件、治承3年クーデター。
平氏が完全に斜陽になってからは木曽義仲を都に引き入れ、それが上手く行かなかったら頼朝に声を掛け、頼朝と関係を築いてからは義経に声を掛け…
平清盛だけでなく源頼朝ともだけれど、関係が後になる程こじれてくる。後白河の後先考えない行動が原因になっている所が多分にあると思う。
治承3年のクーデターで後白河は鳥羽殿に幽閉されますが、気落ち?何それおいしいの?
日々これ今様三昧。楽しそうでなによりです…
この人は責任感という言葉とは無縁なのじゃないだろうか^^;

重盛が死去しました。
清盛と後白河を繋いでいたのは建礼門院滋子でしたが、平重盛もまたそのひとり。
重盛は後白河により出世している所が大きく、また院の近臣とも非常に近い存在でした。
鹿ヶ谷事件で死んだ藤原成親の妹が妻だし。
重盛は平氏の棟梁ではあったものの実質的には清盛に従属している立場で、重要事があればやはり清盛に判断が委ねられる。
その上母親を早くに亡くして後ろ盾がおらず兄弟もおらず。
それだけでも平氏内部での立場は中々難しいのに、そんな中で起きたのが鹿ヶ谷事件でした。
首謀者が妻の兄と言う事で重盛の面目は丸潰れ、一族の中での地位もだだ下がり。
この辺りから重盛は政治に対する意欲を失っていたようです。

そして清盛と後白河の間に挟まれて一番苦しい思いをしたのが重盛だった。
板挟みで、かといって何ができる訳でもなく…
病気になったのはそうした状況もあるんじゃないかと想像。
ドラマでも「とく死なばや」(『愚管抄』)と言っていましたが、まあうん。本当に苦しかったと思う。
無力感通り越してもはや自棄…(;´Д`)


次回が以仁王の令旨かー早いなー


全然関係のない話ですが、「とく死なばや」の「とく」、漢字では「迅く」と書きます。
今ではあまり使わないよね。
多分古語でいいと思うのだけれど、「とく死なばや」で「早く死にたい」という意味になる。
高校生の時、古典の勉強をしている時にこの単語を覚えました。
問題集に乗っていた例題が面白かったんだ。
多分今昔物語に載っていたものと思うのだけど。

お姫さまが結婚に際して乳母(だったと思う)にその心得を聞くのだけれど、「ご飯をお代りをする時はどうするか」という話があった。
乳母「鶯のように言うのよ」
姫様「分かった」
で、本当にそういう場面が来る訳です。
旦那さまとご飯を食べていてお代りをお願いしようとした時、姫様いきなり立ち上がり鶯のように両手を広げてお代りを要求。(イメージ動画)(※嘘です)
姫さまその鶯とちゃう。
乳母が言うたんは「鶯のように(しとやかに小さい声でお代りちょーだいと)言うのよ」であって「鶯の真似して要求しろ」ではないのよー^^;
周囲( ゜д゜)ポカーン…
そうしたら「お代りまだー?反応が悪いよ!」と言う事でそのままの格好で「とく!とくとくとく!」
乳母血涙。

行間も空気も読めない姫様の結末はどうだったかなー
この十二単来た姫さまの鶯の真似っちゅうのが強烈過ぎて(爆笑した)、後はあまり覚えてないんだ。
話も今ではこんな感じだったという感じで、多分ディテールは随分違うんじゃないかと思うけど^^A
ただこの「とく」という単語は一発で覚えたわー。

学校で習う古典て紫式部とか清少納言とか、面白いけど勉強するのは結構苦しかった。
鴨長明とかもなぁ。
ただこの話読んだ時、平安時代にもこんな話あるんだ!わはは!とは思った。
そして古典の先生が「徒然草のアホな法師の話は大体仁和寺の話」と言っていたのが忘れられません。
古典って普通に読んでも面白い話が多いのに、難しいっていう先入観があって中々触れる機会がないんだよねえ。
勿体ない。



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