Forth!

移転しました(2014/1/1)

偏執の軍医

2012-08-22 | ヒストリ:近代MTS

(※何日か書きためてたら大変長くなった)
    
森鴎外の話です。
『鴎外最大の悲劇』という本を先日読み終わったのですが、いやー…
実に胸糞悪い(下品ですいません)。
「文学者森鴎外」ではなくて「陸軍軍医森林太郎」としてどういうことをしてきたのかは勉強して来たつもりでしたが、改めて見ると本当に胸糞悪い話だった…
直近ではこのブログのエントリ「鴎外の屈折」でかする程度に書きましたが、詳細を御覧になりたい方はサイトの「日本人なら麦を喰え」からどうぞ。


要するに明治期の軍隊の脚気論争(兵食論争)です。
脚気は偏食からくる栄養障害で江戸~大正にかけて大流行した2大国民病のひとつ。
都市部や軍隊での「多量の白米と粗末な副食」というバランスの悪い食生活が原因で(ビタミンB1不足)、当時は青壮年男子に患者が多い病気とされていた。
 
江戸時代ではこの病気、大都市から田舎や農村部に帰れば不思議と治るので都市名を冠して江戸では「江戸患い」、大阪では「大阪腫れ」なんて言われていました。
白米と沢庵だけという極端な食事がザラであった都市部に対し、農村部ではそもそも白米を食べない所が多い上新鮮な野菜が豊富。
そうした経験から、脚気の治療法は原因が分からないながらも江戸時代の末期には確立していました。

しかしながら明治維新後は西洋医学の正式導入により漢方(東洋医学)が全否定されてしまい、脚気の治療はゼロからのスタートになった。
そこからしてまずうーん…という感じですが。

海軍では軍医高木兼寛が食事の内容に原因があるとして対処。
彼の掲げた理論は実際には間違っていたけれども、それまでの実験と経験から最終的に白米と麦を混ぜた混合飯(以下麦飯)を食べさせることになり、明治18年には脚気をほぼ撲滅させていました。
 
一方の陸軍では脚気=伝染病だと考えていた。
海軍がイギリス、陸軍がドイツを主に模範とした事はよく知られていますが、医学も同じで陸軍軍医はドイツで学ぶ。
または東大医学部でドイツ医学を学ぶ。
日本に来ていた医学関係のお雇い外国人にはドイツのベルツとショイベがいますが、彼らが一番初めに伝染病だと結論したのですな。

しかしながら、そもそも脚気は西洋には無い病気でした。
食生活の違い(パンと米)から彼らは脚気という病気を知らず、日本に来てからが初見でしかも後世からみたら誤診(?)だよ…
が、東大医学部と陸軍軍医局ではそれがずっと引き継がれていきます。
伝染病なので食事の内容なんて関係ない。
麦メシにしたら脚気減った?そんな訳ない。カロリー的には白米の方が優れているのでそれで問題ない。白米でOK。
海軍の結果全否定。そんなこと言っても実際に脚気なくなったんだけどね。
  
とはいえ各地の師団では独自に麦飯を支給しとる訳です。
何故って麦飯にしたら脚気患者減るから。
結果から言うと中央(医務局)の考えがどうあれ、明治24年頃までにはほぼ全ての師団で麦飯が支給されおり、この頃までには陸軍でも脚気はほぼ撲滅に近い状態になっていました。

ところが明治27年日清戦争が起ると状況が変わり、兵食の調達が中央での一元管理になると白米しか支給されなくなってしまった。
現地からは脚気患者が出ている、どうにかして麦飯を支給してくれという声が上がるも医務局は黙殺。
進言しても無視。麦飯を給与するという稟議が通るも何故か握り潰されている…
そんな無視したりの側のひとりが森鴎外ですが、彼は現場の軍医から他人の偉勲を嫉妬するあまり言を左右して上官に取り入り、麦飯給与を妨げているのではないかとまで言われていた。
その結果がこれですよ…



では10年後の日露戦争ではこの教訓は活かされたかと言いますと、活かされ陸軍の兵食も麦飯に方向転換する見込みが立っていたんですが、前医務局長であった石黒忠悳と森がそれを叩きつぶしている。
日清戦争の教訓は最終的には全く生かされず、日露戦争が始まった当初に麦飯支給の上申が来ても一蹴しています。
その結果。



約100万人の出征数の25%、死者数の34%、傷病者数の70%が脚気。
しかしながらこれは正確な数字が医務局により隠蔽されていて、実数はついにわからずじまい(パーセンテージでしか出ていない)。
しかも脚気に関係する病気に数が振られている形跡があり、実際にはもっと患者は多かったと考えられています。
30万人越えてたんじゃないの?という人もいる。

ちなみに海軍でも両戦役では脚気患者は出ていたけれども、暴発はしていません。
脚気患者は出なかったという人がいるけれどもそれは間違いで、出てます。死者もいます。
なので「暴発」はしていないというのが正しい。
こちらもほかの病気に割り振るなど数値を誤魔化している形跡があるのですが、陸軍と比べるとはるかにまし。
(戦線拡大で規定された食糧補給が難しくなった)
 
旅順攻略戦の際、大本営参謀であった上泉徳弥海軍中佐が同地に視察に来た事があるのですが、そこで見た状況は
 ・兵員のほとんどが脚気に罹っている
 ・米俵は雨晒し。その醗酵した米を炊き、副食は言語に絶する粗悪なもの
派遣されてきた海外武官たちは脚気でふらつく兵士たちを見て、恐怖を忘れるために酒を飲んで突撃していると思っていた…

海軍から脚気がほぼなくなって既に20年。
いまだに米しか与えられず、その上内科系患者の殆どが脚気というのは、上泉の目には異常に映ったと思われます(内地に帰って山縣有朋に上申している)。
それに旅順には海軍の陸戦隊もいましたが、こちらは海軍の規定により食事が供給されているので脚気患者は1人も出ていない。

白米が支給されていても食事のバランスが良ければ脚気には罹りません。
つまり主食と副食のバランスが良ければ特に問題はない。
日露戦争中の陸軍の糧食規定を見ると肉野菜の供給も指示されているのですが、状況が状況だけに調達が難しい。
それに副食に対する陸軍のそもそもの考え方が「白米を食べやすくするもの」(本当にそういう記述が公式記録にある)。
栄養は問題視されていない。
白米を腹いっぱい食べさせられればOK。(それに軍隊に入るメリットは白米が食べられるということのみという問題点もあり)
その程度の考えでした。
 
本当にね…
この状況を見てなぜ麦飯給与ができんのかと思うんですが、”脚気は病原が不明。麦飯でなぜ脚気が減るかは 学 術 的 に分かっていないので、麦飯を給食する必要はない”んですよ。
陸軍医務局では脚気は病原菌による病気、というスタンスだし。

脚気の原因は日露戦争当時でもまだ解明されていません。
それに高木が唱えた理論は間違っているということは、当時から証明されていた。
だから脚気=病原菌だという説を唱えるのも理解できるし、それはそれでいいと思う。
でも脚気の原因論争なんて戦場ではどっちでもいいんですよ。
患者が出なければ。治りさえすれば。
脚気の原因は病原菌かもしれないけど、予防できると分かっているなら麦飯に切り替えるべきだろうし、それが軍医(医務局)の役目だろう。
方法が分かっているのに、それでもかたくなに拒否できる神経が分からん。
 
特に森鴎外と乃木希典とは長年の友人であり、当時漢詩会か何かで乃木と会っていた記憶がありますが、その神経がすごい。
この状況で遊びに興じられるというのもすごいけど、自軍及び第3軍の状況を見てなーんも思わなかったんでしょうかね。
何の改善策も取っていない所を見ると思わなかったとしか思えませんが。

国内では後送される兵士から脚気の話はかなり広まっていたようで、夫や息子や兄弟を徴集されている国民から随分突き上げがあった。
議会でも問題になり、そして何よりこの脚気の暴発を見て陸軍省が驚愕。
既に医務局の面子とか原因が不明とかそうしたレベルの話じゃなくなっており、結局は医務局の頭越しに陸軍省が動いた。
医務局は最後まで麦飯供給を認めなかった。

主語は医務局で森ではありませんが(日露戦争当時森は第2軍の軍医部長として出征)、白米至上主義で麦飯供給を排除して来た中心人物のひとりは森です。
「森はロシア兵よりも多くの日本兵を殺した」
そういう評がある。

この人ね、ずいぶんな事してる。
脚気患者の統計を出すのに、日清戦争の時は一番被害が酷かった台湾を外したり、日露戦争の時は旅順にいる第3軍だけはじいたり。
患者数が少なくなるよう、わざと期間や対象人員数を操作してる。
これは知らなかったのだけれど、こう言う話もあったらしい。

沙河の会戦の直前、第2軍と第4軍の兵站監部は遼陽にあったが、戦闘と共に第4軍に傷者が増え患者輸送に手が足りない。
小池正直衛生長官(※この人は陸軍軍医のトップ)が余裕のある第2軍兵站部に応援を指示するも頑として動かない。
そこでその上司たる第2軍軍医部長森に指示するも動く気配なく、傷者の雑踏は忍び難いほどに。
「衛生長官の憤懣其極に達し、第二軍兵站軍医部長を招致して、烈火の如き怒を含み」命令、初めて進展した。

そして旅順が陥ちた際の森の様子と言えば、
「旅順攻略を箱入娘に譬えて、どうしても靡かない娘が正月の屠蘇機嫌で口説いたらぽろりと落ちたといった『旅順の箱入娘』といった戯作の軍歌をつくり、『雪の進軍』の曲にあわせて兵に歌わせて士気の高揚を図ったりする軍医部長であった」(『鴎外最大の悲劇』)

すごいわこの人。

「独文の『兵食論』<略>「日本のコレラと脚気』でも自説を補するものはなんでも拾ってでも取り上げる一方、自説に反するものは一切黙殺するか居丈高な文辞で圧殺してきた」
「鴎外森局長に私淑する山田弘倫にしても、医局内に『彼れは曲学阿世の徒だ』という声があったことを併せて録さずにはおられなかったであろう」(同上書)

あちらこちらに話が飛ぶことが多い脚気論の話、そんな中でこの本の特徴は森鴎外ひとりに的を絞っている所だと思います。
軍医として脚気に関わった森と、文学者としての森、どちらにもスポットを当てている。
どちらも見た上で受けた印象は「曲学」の徒。世に阿ってはいないと思うので阿世とはちょっと違う気がする…

森は子供の頃から神童と呼ばれるほど優秀で、森を勉強させるために一家総出で東京に出て来た。
東大医学部を最年少記録で卒業(いまだに破られていない)した後は陸軍に入り、小倉に左遷された時期を除けば医務局の中枢にいたエリート中のエリートです。
そういうのもあるんだろうな…
自尊心の塊、批判されたら何倍にもして返さずにはいられない。
それも論点をずらして、相手が立ち上がれなくなるほど叩きのめす。
脚気への対応を見てみてもちょっと人間性疑ってしまう。…病気じゃないかと思う…

ご存じの通り日露戦争では兵員と弾薬の不足が帝国陸軍の慢性的な悩みでした。
100万人のうちの25万人が脚気患者ってどう思う?脚気での死者2.8万人ってどう思う?
前者は12個師団分、後者は1.5個師団分だよ…
これ、麦飯給与で予防可能であった事を考えると本来ならものすごい責任問題になる筈です。
でも誰一人として責任を取っている人がいない。
すごい官僚組織ですな。

で、森鴎外ですが明治40年には軍医総監(中将相当官)にまで昇進し、医務局長を務めた。
官位的にも職務的にも軍医としての最高位についている。
なんで?
鴎外は常盤会(歌会)を通して山縣有朋と繋がりがあったので、そういうこともあったのではないかと思う。
その関係で明治末の陸軍の増師案の原稿を書いたりしているし。
その一方麦飯供給を強く主張した人たちなんかは左遷されたりしてるんだぜ…(日清戦争の頃)
陸軍の脚気の問題は森鴎外だけのせいではないですが、森と長らく彼の上司であった石黒忠悳、殆どの責任がこのふたりにあると言えると思う。

もちろん鴎外にも良い面はあるんです。
あるんだけど、がっつり負の面を説かれるとそれが一気に吹き飛んだよ…
文学者森鴎外としての喧嘩の売り方もチンピラにしか見えなかった件orz
久々に強力なブローだった。 



最新の画像もっと見る

11 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ジゴロウ)
2012-08-23 17:31:29
土原さんの文をみて、鴎外が、鳥居耀蔵に見えました。

鴎外は、地位とかのためではないでしょうけど、プライドのためにやってるように見えるのがより始末に負えないというか…

以前の情報握りつぶしの話もそうですが、こういうところは、江戸時代というか日本人の体質なんでしょうね。

返信する
>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2012-08-24 06:31:28
鴎外の場合は陸軍医務局(と東大医学部)という組織の面子があったため(もちろん自分のプライドもあったと思いますが)、最後まで認めることができなかったという側面があると思います。
気の毒だと思う所もありますが、何にせよ人を殺しすぎました。

情報軽視したり、都合の悪い情報を握り潰したりというのは本当に日本の悪い伝統のように思えます…
返信する
脚気論争の皮肉 (やまひこ)
2012-09-10 14:36:45
 いつも良質な記事をありがとうございます。

 日露戦争の脚気については、当時の資料よりかなり問題が大きかったことが伺えます。
 特に私が皮肉に思うのは、森軍医部長が属していた第2軍では名古屋第3師団の被害が特に大きく大問題になっていた記録を目にしました。
 名古屋第3師団には静岡連隊が含まれ・・・・脚気論争に終止符を打つ鈴木梅太郎博士の地元も含まれます。
 森鴎外さんについては光と影のコントラストが激しい方のようです。
返信する
>やまひこさん (ヒジハラ)
2012-09-11 05:17:52
こちらこそお世話になっています!
 
日露戦争中の脚気は本当に大変な問題であったと思います。
何せ出征前から患者が出ていまして、日清戦争の際の惨事を覚えている人なんかはその時と変わっていない糧食規定に初めから嫌な予感しかしなかったんじゃないかと。
やまひこさんの地元の連隊が第2軍でしたか。もう気の毒と言うしか…;
部隊ごとの話は私では分かりませんが、同じように他の軍でも問題になっていたと思われます。
しかし鈴木博士の地元の連隊も、というのは初めて知りました。何か思う処があっての研究だったのでしょうか。
とまれ、仰る通り鴎外は本当に光と影の差が大きな人物だと思います。
返信する
Unknown (池野中)
2012-09-13 07:15:26
第三軍が脚気患者が多かったという点は疑問です。
なぜなら、第三軍は脚気患者対策のため、早くも8月には麦飯支給を開始しているからです。

旅順攻囲戦と明治三十七、八年日露戦役給養史 NO.1
http://stanza-citta.com/hime/2010/06/15/367

「第一師団
① 攻城準備期間の給養
主食は脚気予防として精米定量の四分の一の割麦を混用」
「第九師団
② 第一回総攻撃中止後の給養
脚気予防の為麦飯を用い来りしも此の時期に在りては尚腐敗の恐れあり故に夕食は午後六時朝昼二食は午後十一時前後に運搬し変敗を防かしむることとせり」
「第十一師団
① 攻城準備期間に於ける給養
此の時に方り各部隊共脚気患者の続出するありて師団軍医部長は麦飯給養を企望せる為八月六日より米五合、麦一合の割合を以て混用を励行したるに変敗速にして到底三食を一時に分配する能はす依て一食は重焼麺麭を用いしめ尚第一線部隊に限り炎熱の間強て麦飯を励行せしめさりき」
返信する
Unknown (池野中)
2012-09-13 07:45:23
脚気対策でもっとも効果のあったのは豚肉であったようです。
牛、鶏などのビタミンB1は意外と少ないのでした。
牛缶、役に立たなかったのですね・・・。

旅順攻囲戦と明治三十七、八年日露戦役給養史 NO.3
http://stanza-citta.com/hime/2010/06/17/373

「「牛缶」牛肉は脚気に対して何らかの効果があると思われていたのであろう。しかし、実際のところ「味付け缶詰」100g(汁も含む)に含まれるビタミンB1はわずかに0.03mgである。ちなみに鶏もも(皮つき)で0.09mg、羊(ロース マトン)で0.06mg、山羊で0.07mg、鶏卵(ゆで)で0.07mgである。
「豚肉」戦場になった土地がらか食肉としてはもっとも用いられている。豚ばら脂身なし(中型種)で100g当たり0.52mgのビタミンB1を含有している。ビタミンの存在を知らなかったとはいえ、実は中国の豚さんが多くの日本兵の命を救ったのである。」
返信する
Unknown (池野中)
2012-09-13 09:28:43
ふと思って調べたところ、麦飯に使う大麦もビタミンB1が少ないのですね。
100gあたりわずか0.06mgですか。

http://www.eiyoukeisan.com/calorie/nut_list/vitamin_b1.html

「ビタミンB1の含有量 大麦(押麦) 0.06mg」

日本兵の一日の食事は精白米六合(約1ℓ)ですから、もし米:麦=7:3の比率だと300gの大麦を食べることになります。
つまり副食なしだと一日0.18mgのビタミンB1がとれるわけです。
・・・豚肉50gにも劣りますね。
返信する
>池野中さん (ヒジハラ)
2012-09-13 21:49:25
はじめまして。
 
第3軍では6月~7月頃に脚気患者が増加し、8月から予防措置として麦飯(米と麦の混食)が支給されています。
それは御紹介頂いた資料の通りです。
この資料に記された通りに8月以降も麦飯供給が続けられていたら脚気患者の発生は少なかっただろうと想像されますが、実はこの話には続きがあります。

然レトモ各軍皆ナ追送困難其ノ他作戦上ノ関係ニ因リテ屡々割麦供給ノ中絶ヲ来セリ<略>
第三軍第四軍及ヒ鴨緑江軍ハ(※注:明治三十八年)四月、五月頃ヨリ(※注:麦飯が)一般ニ普及スルニ至レリ
但シ第三軍及ヒ第十一軍ハ旅順開城後北進奉天戦後迄約三、四箇月間殆ト純米食給養ヲナセリ
(『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』陸軍医務局)

戦線の拡大や戦争という非常事態の中で糧食給与には大きな困難が生じており、規定通りの糧食さえ補給が難しい状態でした。
ましてや脚気対策の中心になる医務局が白米供給を命じているため、麦飯を供給し続けるというのは難しかったと思われます。
 
明治38年の4月5月というと陸軍の戦闘は既に終わっている時期です。
上資料には「3・4ヶ月は殆ど純米食(白米)」とあり、1月の旅順開城、3月の奉天開戦で確かに期間は3ヶ月ほどになっています。
しかし明治37年12月の全軍の脚気患者数の統計からは意味不明の理由で第3軍の数字だけ丸ごと抜けている等、かなり作為的な数字の操作がなされていたりと、それ以前からの患者数の増加が考えられる状況であり、原典資料を読むにしても注意が必要になります。

日露戦争時の糧食規定を見ると、肉や野菜の供給も決められています。
実際にはバランスの取れた食事でありさえすれば白米であっても問題ありませんでした。
ただ色んな問題が重なり続け酷い状況にまで陥ってしまっています。
現地調達された豚、多分本当にいい仕事していたと思います…
返信する
Unknown (池野中)
2012-09-13 23:07:00
第三軍のいる旅順は、補給拠点である大連に最も近いわけですから、補給面での不備は他の軍に比べてかなり軽減されるはずなんですけどね。
そもそも、白米支給の勅令を作ったときの陸軍のトップは、寺内陸軍大臣と山縣参謀総長ですよね?
なぜ寺内が麦飯派とされてるんでしょうね。
陸軍の麦飯配給を阻止したことの最大の責任者じゃないですか。
返信する
Unknown (池野中)
2012-09-13 23:33:23
>但シ第三軍及ヒ第十一軍ハ旅順開城後北進奉天戦後迄約三、四箇月間殆ト純米食給養ヲナセリ

それなら第三軍の脚気患者数は、統計上増減をくりかえしたと推測できますが、統計ではどうなっていますか。

>ましてや脚気対策の中心になる医務局が白米供給を命じているため、麦飯を供給し続けるというのは難しかったと思われます。

当時の医務局でそれを命じたのは誰なのでしょう?
返信する