Forth!

移転しました(2014/1/1)

文豪と脚気(しつこく…

2013-07-23 | ヒストリ:近代MTS

暑いね。
雨降るよ!雷鳴るよ!って言ってたくせに雨降らないし雷音だけだし。
東北や関東の方では天気が随分不安定のようで。ここ何年か、夏の天候何だかおかしいよね…
 
随分前の話になるけど、『鴎外と脚気―曽祖父の足あとを訪ねて』を読みました。
森鴎外の子孫の方(医者)が森鴎外と脚気については世間に多大なる誤解がある、それを正したいとして出された本。
半分位は脚気とは関係のない鴎外についてのエッセー。
前に一度この本に触れた時に、贔屓の引き倒しじゃないかと推測した覚えがありますが、ま、まあそんな感じだった…

要点はこう。
・森鴎外の脚気に関しての批判の多くは筋違い
・森鴎外には上司がいる=責任を取るべきはその上司
半分真実だけど半分間違ってると思うのは私だけか…
森鴎外は確かに最終的な責任者ではなかったけれど、責任なしというのは違うと思う。

それに脚気撲滅に積極的だった、脚気病調査会も作ったと書かれてあったけど、それだってそもそも日露戦争が終わった数年後。
日清日露戦争での事が問題になっているのに、戦後の話を持ち出されてこんなに頑張りましたと言われてもなあという感じは否めない。
しかも調査会の話を出しながら、寺内正毅陸相に

日清戦争時に於いて、余(※寺内正毅)は運輸通信部長の職に在りしを以って、吾が軍隊に麦食を給したりしに、
当時石黒男(※森の上司)は何故に麦飯を支給するか、麦飯が果たして脚気に効果あるかなどゝ詰問され
遂に麦の供給を中止したる経歴もあり、当時は此席に居らるゝ森局長の如きも亦石黒説賛成者にして、
余を詰問せられし一人なり
(「脚気病調査会」『医海時報』734号/M41/7/11)


こう、第1回目の調査会の挨拶で言われた事については触れられていなかったり。
「此席に居らるゝ」と上にあるように、森はここに出席してるんですよ。
そりゃ勿論栄誉ある(だろう)第1回目ですし。脚気調査会の会長は森ですし。
こういうことをこういう席で言われるというのは、普通に思えば面罵近いと思うのですが。
 
うーん。
確かに森鴎外、脚気の件ではネームバリュー故に全責任を負わされる様な空気になっていて、それは間違っていると私も思う。
そうは思うけれども、この本の書きようはなんて言うかちょっともやっとする。
そりゃ鴎外だって脚気撲滅したかったと思うよ?
でも、だったらなんであんなことになるまで学術的理論に固執したのかが知りたい所で。
子孫として弁護弁明したい気持ちは分かるけどなあ…

あと医者でもない人間が脚気云々言うのはどうか云々っつーのはどうなんだろう…^^;
医学の医の字も知らん人間が口を出すなという話になると思うんで、「それを言っちゃおしまいよ」的な感じがしないでもない。
専門性が高くて、「歴史学者でもない人間が歴史を云々」なんてのとは相当にレベルが違うんだろうとは思うけど。
それに、森鴎外(や陸軍)を批判する殆どの人は彼らの脚気論や医学の正しさどうこうじゃなくて、現実的に効果があるものを目の当たりにしながら、それを握りつぶしたり、無視し続けたという事を批判してると思うんだよね。
脚気の話については、なんてーかなーという感じでした…
 
ただ、読んでてそうだったのかと思ったことがひとつ。
それが海軍のこと。
海軍は明治10年代後半で脚気をほぼ根絶して、日露戦争でも少な目の脚気患者を出しただけで済んだのだけれど、その後は精白率の高い麦だったり缶詰だったりと、ビタミンが不足がちな食事になっていき、脚気患者、相当増えていたそうです。
これはその後譚として触れとかないといけない話だなーと思いました。
 
その後の話は盲点だよね。
大体が日露戦争後、脚気調査会、ビタミンの発見で話が終わってるから。
海軍は増えたって事だけど、じゃあ陸軍はどうだったんですかね。
そこまで鴎外が頑張ったんなら陸軍では撲滅出来たんですよね、きっと(厭らしい…)
なーんて(^^;
折りを見て、また関係書でも見てみたいと思います。  



最新の画像もっと見る