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神戸と伊藤博文像

2013-10-08 | ヒストリ:近代MTS

神戸に大倉山公園という公園があります。
楠正成を祀る湊川神社のすぐ北側。
明治の初めの時期に陸軍の鎮台分営が置かれていたのですが、後年その土地の大部分を大倉喜八郎が買い取って別荘を立てている。
大倉喜八郎は大倉財閥の大倉ね。帝国ホテルとか、オークラホテルとかの大倉。

とは言えこの別荘、大倉よりも懇意にしていた伊藤博文がよく使っていたそうです。
伊藤博文は明治42年に暗殺されましたが、その後伊藤顕彰の場として公園にして市民に解放するという条件で、大倉は土地と別荘を神戸市に寄付した。大倉山の名称はここから来ています。
戦前には伊藤の記念館もあったらしいのだけど、残念ながら今はなし。
銅像も建っていたのだけれど、戦時中に供出されて今は台座だけが残っている状態。
   
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/00/af1823d552ef3b3fbae5bbf72675399f.jpg?random="d8e469a5bfa98ab1849b48428b837359"

実は伊藤博文像は2体作られていて、こちらは2代目、明治44年建立の方。
1体目は日露戦争前の37年で、湊川神社の境内に置かれていた。

44年の方はね、銅像が作られた理由は分かるんですよ。
公園自体が伊藤の顕彰のためなので銅像位あってもおかしくない。

 44年の
 
よく分からなかったのは37年の方で、これ、まだ本人生きてるし…
流石に本人に無断で制作するという事もないだろうと思い、でも伊藤あんまりそういうの好きじゃなさそうなのになーと秘かに思っていた。
しかも37年て2月から日露戦争じゃん。時勢的にもちょっとねえ。
 
暫く前に『郷土百人の先覚者』という郷土史関係の本を見る機会があって、それにその話載ってたんだよね。
ちなみに伊藤博文は我が兵庫県の初代県知事です。えへ。伊藤大好きなので嬉しい。
その本には伊藤の項目は無かったのだけれど、関わりのあった人の話がいくつか載っていて、そこで見つけた。
 
詳細はうろ覚えだけど(……)、桂太郎とか大倉喜八郎といった周辺の人々が話を進めて、話が殆ど固まった段階で伊藤に話したらしい。
多分銅像作りたいけどいい?じゃなくて、銅像作ってるんで宜しく、的な。
勿論伊藤は良い顔をしなくて(やっぱり)、いや嫌だって言われてももう銅像制作頼んでるし、んじゃしゃーねーなーどうせなら湊川神社に置いてよ俺楠正成のファンなんだ、的な。
こらそこ適当とか言わない。本当にこんな感じだった。
あの時代の人、大抵楠公好きだよなー。

ちなみに湊川神社は明治になってから作られた神社です。神社としての歴史は新しい。
境内には伊藤博文、江藤新平、大木喬任が寄進した石灯篭があったり(神社にお願いしないと見られない)、宝物館には明治天皇や徳川慶喜、東郷平八郎の奉納品があったりと、数は少ないけど阪神地域では珍しく貴顕・高官の名前を見る事が出来る場所でもある。

ただ37年に作られたこの銅像、翌38年のポーツマス条約の講和条件を不満に思う神戸市民によって引き倒されてます。
神戸でも日比谷焼き打ち事件みたいな暴動が起ってたんだね。
どーやら紐か何かを掛けられて、これまた伊藤博文が県知事をしていた時に認可した福原遊廓の辺りまで引き摺られて、あわや海へドボン!というところで警察に回収された。
当時の兵庫県知事が長州藩出身の元志士だったというのが大きいようで、長いことこの方の別荘に保管されたのち、山口県萩市に送られています。
で、萩の伊藤博文実家の前に据えられたのだけれど、これも戦争中に供出の憂き目に遭っている。
ただそれの後、萩焼の陶像で作りなおされまして、現在も伊藤博文旧宅の前に建っています。

 これ。
 
伊藤の身長そのままで作られている。
159センチ。ちなみに体重は49.5キロである。

流石に神戸から萩に行ったとは思わなかったので、知った時はかなり驚いた。



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