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移転しました(2014/1/1)

ボーン・アイデンティティ

2011-08-25 | ヒストリ:平安の風


※少々グロい
※”The Bourne Identity” ではなく ”The Bone Identity” 笑。

 
 「骨―日本人の祖先はよみがえる」という本を読んでました。
 
斜め読みも斜め読み、さらーっと興味がある所だけを拾い読みした感じなんですが、これが結構面白かったです。
地元の図書館で発見しておや、と思ったんです。
著者は鈴木尚という人類学の先生で、昭和25年に行われた奥州藤原氏4代の遺体調査に加わっている。
骨から日本人を探るという分野の先駆者というか、権威の先生(数年前に死去されてます)。
芝増上寺の徳川家の調査なんかでも名前を見ます。

奥州藤原氏4代の遺体が、平泉、中尊寺金色堂にミイラとして残されている事は有名です。
3代藤原秀衡の遺体は写真で見た事があります。最近の書籍では載ってないですな。
O脚というか、がに股のような状態で仰向けで棺の中に寝かされていました。
写真と言っても全体像が映る様に少し高い所から撮影されているようで、はっきりとは分からないのですが、随分傷んでいるような印象を受けました。

公表されているデータによると、
初代清衡の遺体は広範囲に白骨化、基衡も身体の一部が白骨化しているのに比べ、秀衡と泰衡の首はほぼ完全にミイラ化している。
ただ秀衡の遺体は鼠害がはげしいようで、やはり傷みが激しい。
この辺りは「金色の棺―藤原三代の謎を開く」(内海隆一郎/筑摩文庫)というドキュメンタリー小説でも詳しく取り上げられていました。
ただ、泰衡の首は非常に保存状態が良いらしいんです。
へえと思って。
首は桶に納められていたので、それが鼠害、虫害、黴害を免れた要因になっている。
  
藤原泰衡は文治五年奥州合戦の際、裏切りにあい、最後は斬首の上晒し首にされている。
それがどういう経緯を辿ってか、父秀衡の棺に共に納められる事になった。
中尊寺の寺伝では、この首は泰衡の弟・忠衡の首だと伝わっており、昭和25年の遺体調査までずっとそうだと信じられていた。
その伝承が間違いではと遺体調査で疑問視されたのは、八寸釘が打たれた跡があったからです。
泰衡は『吾妻鏡』から斬首の上晒し首にされた事が分かっています。
また、ミイラの歯の状態からみても年齢的に忠衡ではなく泰衡だろうと。

保存状態が良いという事はこの跡も鮮明に残っているんだろうと思っていたんですが、ビビる程鮮明に残っていた。
…ハイ…
本に写真が載ってたんです…
驚きました。
顔面にぱこーんと穴があいてる。

泰衡の首は1刀では落ちず何度も頭部に刀を打ちつけられていて、最後の2打で首が落ちた。
随分暴れた…抵抗したようで、それで傷が多いようです。
斬首と言うシチュエーションを考えると、首の後ろや後頭部に傷が集中しているのかと思っていたのですが、豈図らんや顔面にも結構な数の傷跡が。
長さ10cm程の傷が顔面の中央、眉間から上唇をぱっくりと割っている。
骨にまで達していてこれはかなりの痛手になったとのこと。素人目にもそうだろうと思うほどの大傷です。
…何といいますか…ちょっと江藤新平思い出した。
江藤も首だけの写真が残ってますが、初めて見た時は吐いた。
江藤は生前の写真もあるけど、泰衡は元の状態が分からないしな…
 
いつも思うのですが、なんで首は金色堂に収められたのかなあ…
下げ渡されたのか。
「只私の宿意を以て誅亡」(『吾妻鏡』、朝敵でもないのに個人的な恨みでもって滅ぼした)、
ついでに言えば文治五年奥州合戦で亡くなった人たちの霊を慰めるために永福寺を建立もしているし…
こういう所に何かあるのかとも思いますが。どうだろう。
 
 
あと読んでいてふーんと思ったのは、鎌倉の材木座から相当数の人骨が出てきた事。
戦の諸々の犠牲者と言う事ですが、由比ヶ浜からも相当出てますよね。数千体。同時期なのかな…
そう言えば福岡県(だったと思う)でもなかったですか、そういう話。南北朝時代、確か足利尊氏の頃ですが、その時の戦の犠牲者と思われる人骨が大量に出て来たとか。
あるんだな、やっぱり…
京都でもありました。その手の話。戦関係じゃなかったけど。
それに心霊話までついてくるというおまけ付きというか、曰くつきと言うか。
それだけ歴史があるという事なんだろう。

そしてええええと思ったのは縄文人。食人してたそうで。
世界東西関わらずそういうのがあるそうです。
細かく切断された人骨に付いた鋭利な器具の行きかう跡。ぎこぎこ。
焼いた跡が認められるものもあるそうで、明らかに食されている。
今ならちょっと絶句してしまいますが、そもそもカニバリズムがダメ、なんて倫理?、いつ生まれたんでしょうかねえ。
 
ただこの手の話を見て思い出す事はふたつ。
ひとつは三国志。
吉川英治の三国志で、やってきた劉備玄徳をもてなせなかった男がその妻を殺して食べさせるシーンがある。
劉備は驚いて謝するのですが、こちらからすると男と劉備、そのあまりにも斜め上過ぎるリアクションにドン引きです。
ただこの場面には流石に註が入っていた。
曰く、この時代にはこういうもてなし方は最高の云々。
マジか。
これが史実として本当にそう考えられていたのかというのはちょっと分かりませんが、ものすごく印象に残っている。
  
もうひとつは、まあちょっとね、薩摩思い出すんですよね…ひえもんとりとか。
幕末関係の本でも結構触れられていますが。
何年か前、確か食文化関係の本で詳細を読んだのですが、き、き、き、気持ち悪い……
尚武の風とはいえ、これは尚武に繋がるのか…
薩摩は男色の話と言い、こうした尚武に関する話(ひえもんとりとか、鉄砲の話とか)といい、
……なんで?
と思うほどエキセントリックな気がします。
薩摩って書籍を通じて感じる印象と実際は随分違うのではないだろうか。
 
男色文化なくして中々理解できないのでは?とも思うけど、男色自体が現在ではタブーに近いから、まずそういう点で幕末維新に真面目に触れる事が少ない気がします。
まあ正直に言えば下世話な好奇心もありますが、真面目な話、薩摩に限らず日本史における男色は重要だと思うんだけどなあ…
BLとかじゃなくてさ。
空海以降、男色がアブノーマルである期間はアブノーマルでなかった期間よりも遥かに短いんだし(100年そこそこである)。

…オチがない。


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4 Comments

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Unknown (ジゴロウ)
2011-08-26 10:25:00
頼朝くらいまでの時代って、井沢元彦じゃないですが、被害者=加害者に祟る=怨霊みたいのが、結構信じられてたから、それを頼朝が利用したって説が、結構すごいな…と。

要は、義経や藤原氏の怨みを一身に受けるようにして(それが個人の怨みを晴らした発言に繋がる)、幕府や家来は守るぜ=自分の地位をより強く、みたいな。


江藤の生首ですが、あれブロマイドにして売られていたんですよね…
昔の武家の子は、首斬りをみながら弁当食わされたとか、死体の試し切りなんてのも、やってましたし…

酒見賢一の『周公旦』にも、人肉食の話ありましたし、ここ20年前後の中国で、落盤で生き埋めになって、仲間を食って生き延びたってのもありましたし…佐川さんとか…

男食で印象的なのは、宴会の席で、信長が前田利家とやった話したら、家臣が、利家を羨望の眼差しでみたというのが…

自分は無理です。
返信する
>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2011-08-27 06:27:19
うーん…私は井沢元彦はちょっと…;
祟りとか怨霊ということよりはもっと現実的に奥州地方に対する慰撫と人心の掌握、朝廷のGOサインなく藤原氏を滅ぼした後ろめたさとか、そういう辺りかと思っています。

酒見賢一の本でも記述がありましたか。知らないだけで意外とあるのかもしれないですね。
事故でというのは非常事態なので習慣とは違うかと思いますが、遭難下での食人はそう珍しいことではないようです。
そういえば昔『生きてこそ』という映画もありました。
 
男色は私は全く平気なんです。笑。
歴史を見ていると普通にある事なので別段偏見もありません。
というか愛は男女間のみで育むものと言う考え方がに近代で、それ以前は両刀が普通である事が多いので。
政治が男色関係で左右される例もあり、また関係を結べるというのは一種ステータスで出世が約束されたりと(利家もこのパターンかと)
避けては通れない筈なんですが、一般的には面白半分な触れられ方が多いのが残念です。
まあ気持ちは分かるんですが。
返信する
今の感覚ではぎょっとしますけどね。 (MV)
2011-08-27 09:10:59
人々が生活する足元に死体が……というのはヴェネツィアで慣れました。
もともと家を建てる土地さえ杭を打って造成しなければならなかった所なので、墓地のための土地など作ってられなかったんですね。
近くの島を墓地専用にしてますが、ペスト流行など大量の死者が出たときは、街中の広場に埋めていたようです。
(防疫上は良くない措置だと思いますが、当時はそういう知識がなかったんでしょう。)

マルタでも、オスマン・トルコに包囲されたときは、戦死者を城壁外に埋葬しに行くわけにもいかず。広場に面した建物の壁に、この辺りに埋葬されていると書いてありました。


水野広徳の『戦影』には第三艦隊の根拠地となった対馬を紹介した章がありますが、元寇の時の話として、
「島の古老の話によると、当時纔に賊手を逃れて山中に隠れたる者も、嬰児の泣声に依って賊に発見せらるゝを恐れ、手づから愛児を絞殺し、終には食に窮して其の肉を食ふたとさえ伝えられる。」
とありますね。

また、『生きてこそ』の原作ノンフィクションは『生存者』ですが、同じ事故を取材した別のノンフィクション『アンデスの聖餐』では、生き残った人々にローマ法王が許しを与えていたかと思います。
(読んだの20年以上前なんで違っていたらスミマセン。)

生活の場への埋葬であれ食人であれ、非常時であれば、洋の東西を問わず容認されることであるようです。

習慣としては……どうなんでしょう。
詳しくはないですが、むしろ死者に対する敬意をもっている場合に、それを受け継ぐ行為として、ということかと解釈してますが。


もひとつ、男色について。
再び水野ですが、水野の書いた秋山好古の伝記に。
穏やかな少年であった好古の少年期における唯一の豪胆なエピソードとして、美少年であったすぐ上の兄が数人の年長者に襲われたとき、飛び込んで行って救い出したとありますね。
(好古自身も美少年だったんだから、下手したら自分もやばかったろうに。兄上想いのいい子だなあ。)

水野は「旧藩時代の遺習」「男色の蠻風」と書いてますから、明治以後の生まれかそれ以前かで分かれるのではないかと思います。
返信する
>MVさん (ヒジハラ)
2011-08-28 01:49:35
ヴェネツィアでは埋葬はどうしてたんだろうと思っていたんですが、そうだったんですか。
というか、ペストの時ほど他の島じゃないとと、今でなら思いますが、本当に知識あってこそですね。
ペスト流行がヴェネツィアの国力をすり減らした一因であったことを思うと、うーん…
恐ろしい。

元寇の際、対馬は元側にかなり酷く蹂躙されていますので、そういう恐ろしさもありそういう事があったのかもしれないです。
 
仰る通りローマ法王が問題にはならない旨を発表していました。
確か極限状態で生きるためであったから、とか、そういう事であったと記憶しています。
それに対し、では食人せずに亡くなった人は許されないのかという声も上がったようですが、なんだかうやむやで終わったようです。

個人的に思うのは、その極限状態にいなかった部外者が日常の物差しで測って云々出来る話ではないよなーという。
非常時過ぎて、倫理とか宗教とかそういう処を超越してしまう状態だと思うので…

習慣としてはホント、どうなんでしょうね。
食人と言っていいのかどうか、
江戸時代は首切り浅右衛門が首を切った人間の肝臓を薬として売ってましたし、
たしか薩摩でもひえもんとり(死刑囚の死体に噛み付き、肝臓を取り出した人間が勝ちという競技)関係でそういうのがあった筈です。
戊辰戦争でも薩摩藩では死んだ敵兵の肝臓を食べる話があり、うーん、これはどうなのか…
昔ちょっと調べかけて、気持ち悪くなって止めてしまったんですがorz
今の私たちとは随分違う感性で生きていた人たちではないかな、という気はします。 

秋山兄(笑)
同じ話が広瀬にもあります。笑。広瀬の場合は攻玉社の後輩ですが。
何かのテンプレがあるんでしょうか。笑。
 
明治期は、薩摩人が東京に男色を持ちこんだ事もあり、かなり盛んになった時期です。
特に学○院や軍関係の、学校の寄宿舎です。
確証はないですが、恐らく日露戦争前後辺りまでは。
また秋山兄が東京に上った時期なんかは、かなりそういった話があったと思われます。
 
男色絡みで誘拐紛いの事件や大乱闘等も起こっているので、
そういった面では、一般的社会から見ると『蛮風』以外の何物でもなかっただろうと思います。笑。

伝記は書かれた時期が昭和ですから、その頃は確実に蛮風視(というか変態性欲視か)されていたと思います。
ターニングポイントが大正期なので。
 
明治だと、明治以前以降というより環境による影響が大きいのではないかなーと。
川端康成は明治32年生まれですが、旧制高校時代(大正初期)に、友人(♂)宛てのラブレターを何故か先生に提出するという荒業をしてのけてます。笑。
それで特に咎められる事もなく、騒ぎ立てられる事もなく、本人も照れもせず随分あっけらかんとしている。
川端康成だけの例を見て、こうだとは断定できませんが、なんだかまあ不思議な世界です…^^ゞ
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