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移転しました(2014/1/1)

相、対する@平泉

2011-07-26 | ヒストリ:平安の風

平泉の話、まだ続く…
中尊寺の宝物は多くが重要文化財であるとか、国宝に指定されています。
平安時代の文化と言えばやはり京都でしょうが、政治の中心地だけに戦火に巻き込まれたりもしていますので…
そういった面で、平安時代の文化、工芸が金色堂という形でワンセットで残っているというのは珍しいのだと思います。
  
4代御館泰衡が平泉から落ち延びる際に火を放っているので、火事にはなったのでしょうが、それがどの程度の規模だったのか…
平泉館だけで済んだのかな?寺院が焼亡したような感じではない。
御館がいなくなった後は平泉の僧侶たちの訴えを受けて源頼朝も先例に従えという事を指示しています。
先例に従う、つまり秀衡泰衡時代と同じようにする、ということ。
頼朝自身も平泉には感銘を受けた事もあり、鎌倉勢よりの蹂躙をを免れています。それだけ凄かったんでしょうね… 
   
 
  
ただそれ以降何もなかったかと言えばそうではなく、建武4(1337)年に起こった火災により中尊寺はその大規模が焼失している。
毛越寺も何度か火災に遭っていますし、平安時代から現在まで残っている平泉の建築物は金色堂だけなんです。
(ちなみに毛越寺の浄土庭園と伽藍の遺構は当時のままです)
  
  
先日「中尊寺建立願文」を紹介した際、写本が2本残っているだけ、と書きました。
1本が藤原輔方(輔方本、1329年)、もう1本が鎮守府将軍北畠顕家(顕家本、1336年)。
研究からこのふたりは同じものを筆写しただろうこと、また顕家の時代には既に原本が失われていただろうという事も言われている。

北畠顕家は『太平記』に興味がある方には、お馴染みかと思います。
『神皇正統記』を記した北畠親房の長男になります。
わっかいのよ!鎮守府将軍として東北に来た時は17、8歳!
亡くなったのも20歳くらいで、戦死地は大阪阿倍野の辺りになります。阿倍野神社、北畠神社が所縁の地。
破軍の星』(北方謙三)が懐かしい。笑。
  
顕家は「願文」に目を通した上、これは不慮の事故で失くしてはならないものだ、として自ら書写した事が分かっています。
当時は南北朝の戦乱の真っただ中で、しかも遠い都からやってきた公卿の子供ですよ。
随分豪胆というか、機動力のある人物だったようですが、これを知った時は驚いた…
そういう事をできる余裕を持っていた事に驚いた。
というか親房の総領息子だもんな…さすがというか。
 
私の親友に北畠顕家を大好きで南北朝時代にのめり込んだ子がいるのですが、思わずお礼を言った。笑。
現在平泉にある「願文」はこの顕家の筆跡(て)によるもので、重要文化財とされています。
原本だったら国宝だったのかな。
  
「願文」は重文ですが、「紺紙金銀字交書一切経」、所謂「中尊寺経」は国宝に指定されています。
  

   
色の金銀互にいた一切経。だから紺紙金銀字交書一切経。
清衡発願のもので清衡経なんて呼ばれたりもする。(秀衡発願のものは紺紙金字一切経)
 
平泉の地に中尊寺を建立するのと並行して、清衡はこの一切経の書写を始めます。
その場所は分かっていまして、江刺の益沢院になります。
えさし藤原の郷の近くになるのかな?私は行った事がないので…
藤原の郷を挟んで豊田館と五位塚(藤原経清墓所)と益沢院、逆方向にあるんです。
つい豊田館と経清のお墓参りを優先してしまう(笑)
 
清衡のブレーンとも言われる自在房蓮光をリーダーとし、200人、約8年の歳月をかけて書写。
出来たのが5300巻と言われています。
それが中尊寺の経蔵に安置された訳ですが、現在こちらに伝わっている数は僅か20巻弱程になる。
これ、15巻とか16巻とか17巻とか言われているのですが、どれが正しいのかよく分からない。
 
20巻弱というのはこの清衡経の近年の調査に関わった方が出されている数字なので、それによりました(『特別展平泉 みちのくの浄土』/09)。
まあ、平泉には清衡経は20巻前後しか無い。
 
 経蔵。修復中だった。笑。
 
後の膨大な巻数は何処へ行ったのか、という話ですが、それは高野山にあるんです。
高野山金剛峯寺に4297巻。その麓観心寺に百数十巻、その他にパラパラと。
消失したものも含めると、やはり5千数百巻はあったと考えられるそうで。

で、なぜ平泉から高野山に?という話ですが、これは豊臣秀吉の時代になります。
奥州仕置の際、平泉の諸寺院が寺領安堵(確認?)のためとして、この地方の仕置をしていた浅野長政に嘆願書を出したそうで。
何という皮肉か、それが平泉にどれだけの宝物があるのかということを示す事になり、
「中尊寺、毛越寺の宝物を見たい」→持ちだし

中でも一番大規模であったのが、
「秀吉に上覧する」という理由での豊臣秀次の中尊寺経の持ち出しで、恐らく関西にある中尊寺経の殆どがこれだと思われます。
中尊寺のえらい人たちが必死になって懇願したけれど、聞き入れてもらえなかった。
  
この豊臣秀次という人物は古典籍のコレクターというか愛好家というか、あちこちで同じような事している。
平泉中尊寺の他に、足利文庫からも金沢文庫からも古典籍持ち去って京都に運んでいます。
修復したり複製した上朝廷に献上もしていたようなので、コレクターとは少し違うかもしれませんが。
それに、こういう事があったから大規模な散逸を免れて現在に残っているという側面があると思います。
そういう意味では、ある意味功労者というか… 功績なんだろうなあ。
  
たださぁこういうの、見ていて本当に…何というか。人情として腹立たしいというか。
こ、心狭くてごめん…
つい北畠顕家と比べてしまうんです。
あれだけ大変だった時期に顕家がした事と、ある程度日本が整った時期に豊臣方した事を。
寺宝の持ち出しなんてあちこちで見られたありふれた事だと思うので、特別な悪事だとは思わないんですが、まあ…思い入れの深さでしょうか…

ただ好きでもなかった豊臣秀吉が更に好きではなくなったのは確か ^^ゞ
「関西人は豊臣秀吉が好き(→好きじゃない)」というのと
「住んでいる地域に甲子園がある=阪神ファン(→興味ない)」という自動変換がものすごく迷惑なヒジハラです…





コンビニに売ってないんだね、金色(こんじき)ヨーグルト…。やっと見つけた@成城石井
金色堂にあやかってのネーミング。小岩井乳業の。小岩井は盛岡に近いからなー余計かな。
ちなみに小岩井は
小…小野なんとか(ごめん。笑)
岩…岩崎弥之助(弥太郎の弟)
井…井上勝(長州ファイブ。東京駅前の銅像の人)
の3人共同で農場を作ったんですな。その頭文字をとって小岩井農場。
ちなみにこのヨーグルトの販売数量1個当たり1円を被災地の「子供の笑顔作り支援」に役立てる、とのこと。
本当に身近でできることだなあと思って。


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2 Comments

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Unknown (ジゴロウ)
2011-07-26 23:17:52
本当に宝物、特に書物はよく焼けたり、場所変わったりますよね。しかも、長いのだと、読むの時間かかるから、結局借りっぱなしな逸話もみたことありますし(涙)

結構最近まで、火事になったら、まず持ち出すのが本だったのもわかります。

細川元総理の、この間の戦争→応仁の乱で、焼けちゃったというのも、そうして有名無名の宝物が消えたことへの残念さがありました。
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>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2011-07-27 21:49:29
借りっぱなして!(笑)
貸した方からするとエライ迷惑な話ですね^^ゞ

そう言えば綿の入った布団も貴重品だったようで、火事となればこちらも真っ先に運び出していたようです。これは近世かな?

細川元総理は近衛文麿のお孫さんですからねえ…近衛家…
どうしようもないとはいえ、やっぱり火事/戦火さえなければ、と思ってしまうのは人情ですね…
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