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Pray for

2011-09-17 | ヒストリ:平安の風

前九年の役が終結した日ですな。
今日は安倍貞任、藤原経清の命日になります。 
初夏に散々書いていたのでかなり今更でもありますが、経清は平泉を築いた藤原清衡の父、そして貞任は清衡の伯父にあたります。
経清の妻、つまり清衡の母が貞任の姉妹になる。
貞任と経清は義兄弟になります。
古代東北にド嵌りしたのは貞任が原因でして、そういう意味ではまあ御命日…あ、今日だなとはいつも思います。

前九年の最後の決戦地は厨川柵、現在の盛岡市になります。
地名にも前九年町とか安部館町とか歴史の名残がある。
…のですが随分前に訪れた時道を教えてくれた地元の方は名前の由来を知らなかった。
「前九年町って変わった名前だとは思ってたんだけどね」
私からすりゃなんて羨ましい住所なのと思うんですが、そんなものなのか…
分かる気はするけれども。住んでたら日常すぎてそんなもん。
 
安倍氏は北上川沿いの要衝に柵を設け、そこに安倍の子弟を柵主として配置していました。
貞任が預っていたのはこの厨川で、貞任は厨川次郎とも言われている。
ちなみに貞任の弟宗任は鳥海柵を守っていたので鳥海三郎、黒沢尻柵の柵主だった正任は黒沢尻五郎。
貞任は『次郎』なんですな。
実は井殿という兄がいたものの盲目で出家していたようです。

厨川次郎と言いながら盛岡には貞任の名残は柵の辺りしかない。
盛岡では彼や安倍氏にまつわる伝承は残っているのでしょうか?
岩手の他のまちと比べると盛岡はあまりに都会で、そういう昔話や伝承が生きているような隙間が感じられない。
知らないだけかな。
岩手のあちこちに安倍氏や貞任の伝承はあるけれど、やっぱり衣川が本拠だったのだなーと思ってしまう。
   
 厨川柵擬定地(@天昌寺)
  
康平6(1062)年9月17日、10年以上に及ぶ戦争が終結。
結果は書く迄もないですが、安倍方の敗北です。
『陸奥話記』によると、刀を抜いて戦っていた貞任は鉾で貫かれ、恐らくこれが致命傷だったかと思われます。
大楯に乗せられ官軍側の総大将源頼義の前に連れて来られる。
随分大きな人であったようで、身長は180cm越え。運ぶのは6人がかりだったそうです。
腰回り2.2m(!?)い、いや…腰回りはいいんです…聞こえないぞそんな数字!
『陸奥話記』をそのまま受け取ると、姿も顔つきも立派な人物であったようですな。
頼義は死に瀕している貞任に向かい今までの罪を問責するも、貞任は「一面して死す」、ちらと頼義を見てそのまま逝った。
 
藤原経清もまた生捕りにされ、頼義の前に引き出されます。
この両者のここまでの行き掛かりは長すぎるので省きますが、頼義は経清に裏切られた恨みを、鈍刀で苦痛を長引かせるという行為で返している。
 
数多い安倍兄弟は決着が着いた後、降伏したものの、命は許されています(配流)。
ただひとり、重任という弟は戦死していて、貞任、経清の首と共に京の都に送られている。
京都に到着したのは翌年の2月、それから西獄の門前で晒し首にされている。
貞任の首が晒されたのは確かですが、他のふたりがどうなったのかはいまいちよくわからない。多分晒されてると思うけど…

いつも思うのですが、幾ら冬を挟んでいるとはいえ半年、流石に腐敗が始まっていたのではないだろうか。
遺体の保存方法は2パターンありまして、ひとつが塩漬け、もうひとつが酒漬け。
源義経の首が平泉から鎌倉に送られた時は後者でした。
水分抜けるし、ふやけるし、どちらにしても…うん…

余談ですが、
江戸時代ではシーボルト事件の重罪人となった高橋景保(書物奉行並天文方)、大塩平八郎の遺体が塩漬けにされています。
高橋は伝馬町に収監中に病死し、大塩平八郎は潜伏先で火薬を使っての自決。
どちらも幕府による罪状確定前の死で、こういう場合は遺体を塩漬けにして保存しておきます。
判決が出た段階で、遺体を前に判決を述べるんですな。
大塩は磔になっていますがそれが大体1年後の事になります。
大塩は爆発物による自決ですし、その時点でもう自決したのが大塩本人であるのか分からない状態であった。
それをさらに1年塩漬けですから、貼り付けされているのももう全く誰かわからない状態であったと言います。
高橋景保の方は死罪になっている。
…遺体はそのまま廃棄だったのかな…
切腹申付なら塩から出して腹を切るそうですが、嫌な役目だ。

京都市右京区、といっても亀岡付近の山の中ですが、貞任峠という峠があります。
陰陽師が貞任の首級をそのまま処分するのは良くないという事で、遺体をバラバラにして埋めた。
そこが貞任峠、その他。
陸奥国から京都へ持ち帰られたのは首級だけでしょうし、まあ地域伝承なので、その辺りは色々な話が伝わっているのだと思います。

貞任峠、行ってみたいのですが、車じゃないと無理そうだし女子がひとりで行くには危険を感じる。
ただ、私としては関西に貞任所縁の地があるというのは、少し嬉しい…気もするのですが、内容が内容なので喜ぶに喜べない。
それに貞任はやっぱり岩手じゃないとな、と思うんです。

話は少し変わるのですが、源頼義、義家親子の本拠地は大阪府羽曳野市になります。
河内源氏というだけに、本拠地は河内にあった。
さらにその大本は兵庫県川西市で、ここから源氏は始まった。
源氏のルーツは兵庫県にあり!なんです(誇らしげ)(笑)
小学校低学年より八幡太郎義家のファンだった私としては(※八幡太郎=私を歴史好きにした張本人)、そらーもーこの辺りの史跡巡りは外せない。
ちゃんと歩きました。
 
源頼義、義家親子の館があった場所には現在壷井八幡宮が建っていますが、そちらが宝物を持っている。
公開はされていないのですが、電話でお願いして見せて頂きました。
だってそこには伝安倍貞任所持の太刀というのがあるんですよ。
これがすごかった。
長さ1.8mくらい。
太刀というより薙刀のような感じで、長すぎるので最早鞘から抜けない。笑。
これが貞任のだなんて流石に私も思いませんが、大きかったと言われる貞任なら、こういうのも簡単に振り回せそうだなーと不思議と納得したのは覚えている。
触らせて頂けて心が震えるほど嬉しかったのも、よく覚えてる。

そして宮司さんと話弾む。
「『炎○つ』の頼義の描き方は酷過ぎる」
意見一致!(^^ゞ
私は頼義が総大将として優れていたとは思わないけれど(凡将だと思う)、あれはちょっとないなーと思います…
ただ岩手の方からするとそれまでの安倍方の扱いが扱いだったという事もありその反動もあるんだろうなーとも思うし、原作者が地元出身ということで、どうしても安倍藤原アゲアゲになるのは心情からして仕方ないとも思う。
ただ御祭神をあんな風にされてしまったら、小説とはいえ神社としては辛いよなぁ。

そういう事もありましたが、なんというか、関西に貞任所縁の、というのが嬉しかったです。
首級とかではなくて…
まあこれも源氏ゆかりの神社に伝わっている辺り戦利品という位置付けになるかと思うのですが。

で。
あんた安倍と源氏一体どちらが好きなの、という感じですが(笑)、結局どちらも好きなんです。
守る安倍氏には安倍氏の正義が、攻める源氏には源氏の正義があったと思うんですよ。
勿論途中参戦した清原氏にも、清原氏の正義があったと思う。
歴史なんて何が正しくて何が悪いかなんて言えるものもないだろうし。
後世の私たちから言うと、官軍であった源氏が正しかったわけでもなく、朝敵になった安倍氏が悪かったわけでもない。
両者とものっぴきならない事態に陥り戦争になっただけであって、好悪を決めるような事でもないなーと。 

何にでも言える事なのでしょうが、偏り過ぎない、バランスのとれた物の見方は大事だと思う。
一般的に教えられるのは「中央から見た政治史」が多いと思うし、私もどうしてもそういう見方をしてしまうんですが(近代で政治史に興味持つと余計に…)、古代東北史からはもっと違う側面から歴史を見ることも大事、という事を教えられました。
そういう意味では安倍貞任や藤原清衡との出会いは大きかった。

自分の中で大切にしている歴史上の人物は数人いますが、今日亡くなった貞任はその中のひとりです。
  

>感謝です。 さん

あーやっぱりそうですか。
写真まで載っているのに原文がないというのは著作権しか無いなとは思っていたんですが。
写真部分については8割方釈文が載っているようなものですし、自分で落とし込みしておこうと思いつつ、ついつい先延ばしで今まで来てます。笑。
 『京在日記』がもう一冊あったらしいなんて初耳です。
行方の分からなくなっている史料は沢山あるものですね。
鹿児島も戦災に遭っていますし、存在が分かっている史料なんて氷山の一角なのでしょうが…
ホント、早く発見されて欲しいですね。


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2 Comments

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Unknown (ジゴロウ)
2011-09-18 02:57:47
いつから、どこを境かで、と色々ありますが、東西の史観て違うな…って時があります。

権力の力だったり、伝承すり人の数だったり、埋もれたままになっている話を掘り起こしたときに、どちら側の人間が掘り起こしたか…

様々な見方を分析する能力が問われますよね。

自分はメジャーどころでいったら、義経→頼朝→清盛と、『凄い人』の順位がかわったのは、進歩かどうかわかりませんが、長く歴史に付き合った結果だと思います。
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>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2011-09-18 03:23:21
個人的にはそれぞれの人によって見方が偏るのは、ある程度は仕方がないと思っています。
考え方や感じ方は、生れた場所とか、勉強して来た事に少なからず影響を受けるでしょうし。
ただあまりにそれが偏頗していると、やはり「え?」と思うような事が…

何を以て偏るとするか判断するのは難しいですが、感情的になり過ぎるのはアウトかなと。
仰る通り、分析する力というか…
良い悪い好き嫌いから少し離れて、一歩離れて冷静に起きた事を見ることが大事かなと思っています。
 
自分にそれが出来ているかと言われたら、そうありたいとは思うんですが、難しいです。
 
すごい人順が変わるというか、実はすごい人だったのかと感じる事はままあります。
それは私も歴史とある程度付き合った結果だったり、自分がその人物と出会った時からは時間が経っていて、その時と今とではものの見方が変わっていたからだったり。
…かな、と。
それが成長だったら、個人的にはありがたいですが。笑。
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