チーム流山のブログに流山地名由来の「赤城山」がでていたので、ここらでざざっと、もう一度まとめます。
徳川幕府の埋蔵金、あれは流山の「赤城山」にあると僕りんはふんでいるのです。パチパチ!
○一つあたり250㎏の金塊を、江戸城から人目に付かないように運ぶには、夜、船で運ぶしかない。流山までは江戸城から江戸川を使って容易に航行できた。
○将来幕府再起を図るなら江戸からそんなに離れちゃイカン。つくばエクスプレスでお分かりのように流山は江戸に近い。
○江戸を離れて最初に見える小高い古墳のような山が流山地名由来の地「赤城山」である。赤城山は江戸川からすぐ。
○隣の光明院(僕りんの師僧が住職。円東寺の本寺)は真言宗豊山派で徳川幕府の庇護を受けた宗派である。江戸時代は赤城山頂の赤城神社と光明院は一体。
○小栗忠順が群馬に遁世したことなどから赤城山だろう、いや、赤城山はダミーだという説は多い。しかし、写真の普及していない時代の事である。群馬の小栗忠順こそが替え玉かもしれないと、なぜ皆気付かない!本物の小栗忠順は頭を剃り名前を変え、光明院の住職に弟子入りし、末寺である市野谷円東寺の住職に収まったという(後半はウソ)
○なぜ、新撰組は最後の陣を流山にしいたのか。幕府の軍資金があったからだと考えれば合点がいく。近藤勇が闘わずして投降したのは流山の街を戦火に包まない為だったと言われているが、埋蔵金を官軍に奪われないためにではないか。
○かつて市野谷に土壇場(処刑場)があり、近年大勢の遺骨が発見された。こんな田舎になんで死刑になるような大罪人が大量に…?推測するに、これは埋蔵金の運搬に関わった人足が口封じの為に、以下略。
○そういえば、犬の散歩をしているとやけに吠えて動かなくなる場所があった(ウソ)
流山市立文化会館で来月『開運なんでも探偵団』なるTVの収録がありますが、真のお宝は文化会館なんかには無い!さあ、流山の赤城山へレッツゴー!
ゴールドラッシュで流山旧市街の知名度は一気に全国区へ。シャベルを持って、みんなで週末ホリホリ~(^^)
※注:赤城山は赤城神社の境内なのでホントに掘ってはいけません
| Trackback ( 0 )
|
|