もう騙されないぞ(Won't Get Fooled Again)

旅、音楽、日常・・・まったり雑談します

初めてのバックパック旅行(7)完

2004年09月30日 | 1997ネパール
カトマンズを夜遅く飛び立ったロイヤル・ネパール航空機は真夜中にバンコクに到着した。
イミグレーションを抜け、税関を通ったときにはすでに2時を過ぎていた。
途中白人旅行者からタクシーをシェアしてカオサンに行かないか、と誘われたが
僕が「今から行ってもカオサンに着くのは4時ごろだ。
一泊分の宿代を払うのが嫌だから、空港で夜を明かすよ」と言うと、
白人旅行者は "You may be right." と苦笑いしてタクシー乗り場に消えていった。
再びバンコクの空港で夜を明かすことになった。
空港からまだ一歩も足を踏み出していない。

翌日起きたときはすでに10時近くになっていた。
僕はエアポートバスに乗ってカオサンに向かった。
バックパッカー街カオサン通り周辺はカトマンズ以上に旅行者の街だった。
通りをホテルや旅行代理店、土産物屋、それにオープンカフェで囲まれており、
タイ人よりも欧米人や日本人のほうが多いように感じた。
僕はカオサン通りから少し中に入った宿に泊まることにした。
宿泊客のほとんどは日本人で、僕が泊まったドミトリーも全員日本人だった。

ドミトリーにはベッドに座りながら喋っているものや
昼だというのにまだ眠っている者、本を読んでいるものと様々であった。
僕は自分の荷物をベッドに置き、隣のベッドの旅行者と軽く挨拶してバッグの中身を整理していた。

すると、ドミトリーの奥のベッドの上でアグラを組んでいたヒゲもじゃの男が僕を呼んだ。
「おい。今ここに入ってきた奴」
見たところ20代後半か30代前半といったところで、
見た目の雰囲気や喋り方全てにおいて不快さを発していた。
「はい。なんですか?」僕はバッグを整理しながら答えた。
「お前、どこから来た?」
「ネパールからですけど」
「ネパールにはどれくらいいたんだ?」
「3週間くらいですかねぇ」
「3週間?たったの3週間でネパールをわかろうとしたのか、お前は?」
「たったって、僕は学生だから長期間の旅行は無理ですよ」

ドミトリーにいた他の旅行者は「またか」という表情で僕を同情的な目で見た。
僕の隣にいた旅行者も「相手にしなくていいよ」とぼそっと言って首を振った。
空港内で十分な睡眠が取れていなかった僕は次第にイライラしてきた。

ヒゲもじゃの男はなおも僕に突っかかってくる。
「学生?はっ。せいぜい2ヶ月かそこらしか休みが貰えない分際で
アジアを見て周ろうなんて思うことが舐めてるんだよ」
「じゃあ、あなたは学生旅行者を馬鹿にするほどの旅をしているとでも言うのですか?」
「ああ、俺はもう2年以上日本には戻っていない。カオサンには1ヶ月近くいることになるな」
カオサンに1ヶ月?ただの沈没じゃないか。

僕のフラストレーションは頂点に達した。
「ってことは、あんたカオサンで1ヶ月何もしてないってことじゃんか。
こんなドミの奥のベッドで寝そべってるだけだろ?時間の無駄もいいところだよ。
そんなんで他の旅行者を馬鹿にすんじゃないよ。旅の長さだけを自慢して何になる?
ただの自己満足だろ。人に説教たれてる場合があったらさっさと他の国にでも行けよ」
聞かないフリをしていた他の旅行者も、僕の口調が変わったことに驚いたようだ。
ヒゲもじゃはそれを聞いて顔を真っ赤にしていた。そしてこう言った
「何だと?お前、ちょっとこっちにこい」
僕はすでに臨戦態勢を整えていた。
「ああ、行ってやるよ」と叫ぶやいなや、
ヒゲもじゃのふところに飛び込み奴の顔面に数発パンチをお見舞いした。
不意を突かれたヒゲもじゃはうろたえ、
ベッドの上に仰向けになって僕の攻撃をただやみくもに防ぐしかないようでいた。

僕はどれだけ奴を殴り続けたのかわからない。時間にして30秒もないだろう。
気がついたときにはドミにいた旅行者だけでなく、他の部屋の人までが僕を押さえつけていた。
興奮していた僕はなおもヒゲもじゃにつかみかかろうとしたが、
数人の旅行者によってそれは防がれ、そして冷たいコーラを飲まされた。
やっと正気に戻った僕は、隣に座っていた旅行者の「別の部屋に移ったほうがいいですよ」
というアドバイスに従い、レセプションに行ってシングル・ルームに換えてもらうようにした。
ドミトリーに戻ってバックパックを取るとき、奥にいるヒゲもじゃは顔をタオルで押さえながら僕を恨めしそうに睨んでいた。
その視線に不快感を覚えた僕は奴のところに向かおうとしたが、勝負はもうついていたのでやめた。

シングル・ルームに荷物を置き、シャワーを浴びて一休みしていると
ドミにいた旅行者2人が僕の部屋をノックし、昼食を誘ってきた。
カオサンに出て3人で焼き飯を食べている途中、僕はあのヒゲもじゃについて聞いてみた。
「あぁ、あの人ね・・・僕があの宿に来る前からずっといるらしいんですよ。
日本を出て長いっていうのは本当らしいんだけど、
旅行期間が短そうな人にはああやって意味不明な説教を垂れるんですよね」

俗に一つの街で何もやることをせずにドミトリーの奥で仙人のように居座り、
勝手にドミトリー内のルールを作り上げ、自分のしていることの凄さを他人にアピールし
また、旅とは何かを「旅の素人」短期旅行者に説教を垂れる存在を『ドミ長』と呼ぶ。
まだバックパック旅行が一般的でなかった80年代にはそういう『ドミ長』はいたるところにいたらしい。
しかし当時は90年代の後半であった。
僕みたいな学生がバイトで貯めたお金を使って休みの間アジアを旅行するのが普通になった時代だ。

彼は彼で寂しい存在なのかもしれない。
「旅の長さ」でしか旅行者を計れず、自分の意見以外は耳を貸そうとしない。
殴ってしまったことは反省するようになった。あまりにも感情的になりすぎた。
翌日から僕は気分を入れ替えバンコク市内を観光した。
彼ははたして金色に輝く寺院をバンコクに来てから見たことがあるのだろうか?
旅の目的をすでに捨ててしまい、旅した時間だけが唯一の「旅の証拠」となった彼は
今後もアジア各国の安宿の奥でたたずみ、自分より期間が短い旅行者を蔑むのだろうか・・・
ワット・ポーで沈む夕日を眺めながら、
僕は旅から抜け出せなくなった旅行者のことを思い、同情した。

明日の便で僕は日本に帰る。
そして翌日からレストランでバイトを再開し、週明けには学校も始まる。
人にとって旅は日常の中の一つでしかないのだ。

初めてのバックパック旅行(6)

2004年09月29日 | 1997ネパール
ポカラからカトマンズに戻ってきた僕は
ダサインという祭りを見たり、パタンの町を観光した以外は
いつものようにタメル地区でダラダラと過ごしていた。

カトマンズとポカラ以外にもう1箇所どこかに寄ってからネパールを出よう。
そう思った僕は手元の「地球の歩き方・ネパール」を眺め、
カトマンズからバスで数時間のところにナガルコットという避暑地を見つけた。
ヒマラヤを眺めながら紅茶をすするっていうのもいいな。
僕はさっそく近くの旅行代理店に足を運んだ。
代理店の男は「ナガルコットか、あそこはグッドプレイスだ」と笑顔で言ってたが、
電話でバス会社と話をしている途中、急に不機嫌な顔になり
受話器を置いてこういった
「マイ・フレンド、バッド・プロブレムだ」

インドと国境を接しているためか、
ネパール人も多少めんどうなことでも「ノー・プロブレム」と言うのだが、
「バッド・プロブレム」と真剣な顔で言われるのは初めてだったので、
どういうわけか笑いがこみ上げてきた
僕は笑うのを我慢しながら、どうしてバッド・プロブレムなんだと聞くと
「お前がナガルコットを出る日はバス会社のストライキ・デーだ」と言う。

ストライキか、それは困った。
僕はナガルコットを昼過ぎに出て、夜の便でバンコクに行く予定をたてていたのだ。
ナガルコット滞在を1日縮めてもよかったのだが、
避暑地にたったの1日しかいないというのもなんか無駄な気がする。
タクシーも考えたが、カトマンズまでいくらかかるかわからないし、お金もそれほど多く残ってない。
ナガルコットでタクシーが確実に拾えるのかもわからない。
結局僕はナガルコットに行くのを断念し、
ネパール滞在の残りをカトマンズで過ごすことに決めた。
もう動く気力が失せてしまったのだ。

ネパール滞在最後の夕食はまたしても「味のシルクロード」でだった。
レストランで定食を食べ終え、そばの服屋で仲良くなった店員と喋っていると
予約したタクシーが時間通りにやってきた。
市内から空港まで歩いていくにはちょっと遠い。
バスのストライキのため、タクシーは強気に値段交渉してきたが、
服屋の店員が僕に協力してくれたおかげで、それほどお金を払わずにすんだ。

タクシーに乗り、服屋の店員にお礼を言うと「窓は閉めたほうがいいよ」と言ってきた。
僕は彼の言わんとしていることが理解できなかったが、タクシーの運転手も同じことを言ってくる。
僕は運転手にその理由を聞くと
「今日はストライキだ。住民が石を投げてくるかもしれん」
どうしてバスのストライキでタクシーが被害を受けるのか理解できなかったが、
僕は彼らのアドバイスに従い窓を閉めた。

タメル地区を抜けて住宅街を抜けようとしたその時こぶし大の石が投げつけられた。
どこからか叫び声が聞こえ、またもや複数の石が投げつけられた。
運転手は窓を少し開けて怒鳴り、そして速度を上げてその場を抜けた。
ますますわからない。ストライキとタクシーと投石の奇妙な因果関係。
僕は運転手にそのことを聞いてみたが、僕の英語がうまく伝わらなかったせいか
運転手はずうっとバス会社の悪口を空港に到着するまで言っていた。

ストライキと住民の投石で僕のネパール滞在は終わった。


初めてのバックパック旅行(5)

2004年09月28日 | 1997ネパール
バックパッカーで満員のツーリストバスはカトマンズを朝7時に出発した。
僕の席は窓際だったため、ネパールの町並みや山を見ながら移動することができた。
途中カーブの続く峠で何気なくガケ下を見てみると、
そこにはトラックやマイクロバスの残骸が無残にも横たわっていた。
前日にタメルの旅行代理店で深夜バスはあるのかと聞いたところ
「ローカルバスならあるがやめとけ。死ぬぞ」と言われた。
その時はまさか、としか思わなかったが、
いざ残骸を見るとあながち脅しで言ったわけではないのかなと思った。

ポカラには昼過ぎに到着した。
ポカラはカトマンズの西に位置し、ネパール第2の町である。
町は湖に横たわるように位置し、宿やレストランも湖面に面しているタイプのものが多い。
ポカラの安宿エリアはレイクサイドとダムサイドに分かれており
湖面に近く、にぎわっているのがレイクサイドで
湖からはちょっと歩くけど、そのぶん静かなのがダムサイドである。
欧米のバックパッカーはレイクサイドを好み、日本人旅行者はダムサイドに集中する。

僕はレイクサイドにある宿を選んだ。
別に日本人とつるみたくないとかそうではなくて
ただなんとなく「レイクサイド」の響きにひかれただけだった。
僕が選んだ宿は湖に面した道路から一本中に入ったところにあるため
湖に出るには少し歩かなければならなかったが
別に湖で何かをする目的があるわけではないのであまり問題にならなかった。

ポカラもカトマンズ同様旅行者が必要としているものはほとんど揃っているうえ
うるさい物売りの数も少なく、のんびりするにはいい場所である。
ただポカラにはこれといった見所がない。
アンナプルナ周辺をトレッキングする人には、ここが拠点になるけど
僕はトレッキングをするためにネパールに来たわけではないので、
サランコットの丘という、町から数時間で行ける丘に登って
雲がかかったヒマラヤ山脈を眺めただけであった。
冬になればポカラの町からでも雄大なヒマラヤの山並みを望めるが
あいにく夏の時期は運が良くなければ山頂はおがめない。

丘登りとチベット村訪問の観光を終えた僕は
カトマンズ同様レストラン巡りをして一日をつぶしていた。
湖畔のレストランで湖を眺めながら朝食をとり、
昼はダムサイドのジャーマン・ベーカリーで日本人旅行者と雑談し
途中仲良くなった旅行者の部屋で音楽を聞きながらガンジャを吸い
夜はレイクサイドのレストランで軽くつまみ
宿に戻って眠くなるまで古本屋で買った本を読む。
本当はインド国境近くにあるルンビニーという、仏教の聖地に行こうとしたが、
数日前に日本人の僧侶が殺害されたというニュースをネパール人から聞かされ
その後も数人のネパール人からも今は危ないからやめておけと言われ、結局行くのを断念した。

ポカラには一週間以上滞在した。
いい加減何もやることがなくなった僕はカトマンズに戻ることに決めた。


初めてのバックパック旅行(4)

2004年09月27日 | 1997ネパール
カトマンズ2日目からは本格的に市内を歩きまわった。
ダルバール広場横にあるクマリの館に仲良くなったネパール人のコネでタダで入らせてもらり
スワヤンブナートやボダナートといった市内から少し離れたところにも歩いていった。
いったん観光モードに入ると僕は短期間で全て見てしまう行動派に変身してしまうので、
カトマンズ市内の観光はわずか2日で終了してしまった。
やることがなくなった僕は、タメル地区内をブラブラ歩き回ることにした。

カトマンズの安宿街・タメル地区には旅行者に必要なものが何でも揃っている。
宿やレストラン、旅行代理店はもちろん、ネットカフェ、両替屋、カメラ屋。
日本語の本が多数を占める古本屋も存在する。
1970年代からヒッピーの間では人気のあったカトマンズが
世界中から来る旅行者を魅了する理由のひとつに、
居るだけで世界各国の料理を安く食べることができることがある。
イスラエル料理やアイリッシュ・バーもあり、毎日どこで食べようか迷ってしまう。
当然日本食レストランも数多く存在する。

僕はアジアのいろんな国で日本食を食べたけど、
ネパールほど味のレベルとコストパフォーマンスに優れた国はないんじゃないかと思う。
僕が現在住んでいる「味覚音痴の国」アメリカでも
ある程度のレベルの日本食を食べることができるが、
その場合はあれ程度のお金を支払わなければいけない。
日本で600円払えば満足できるレベルの味を$5程度ではアメリカでは期待できない。
ネパールでは、物価の違いがあるにせよ、300円程度で美味しい日本食が食べられる。

カトマンズにあるバックパッカー向け日本食レストランといえば
味のシルクロード、ふる里、古都といったところが旅行者に人気があった。
僕は宿からいちばん近い味のシルクロードに足を運び、2日前の日本の新聞や情報ノートを時間をかけて読みふけっていた。
情報ノートというのは、その国だけでなく、いろんな国の情報
(例えばパキスタンで取るイランビザとかミャンマー・インレー湖のおすすめゲストハウスなど)
をバックパッカーが思い思いの文章で書き連ねたもので、
中にはバンコクで買ったタイ人女にあてた読む気を無くさせるポエムや
タメルでのマリファナの適正価格なども書いてある。
つい3日前まで日本にいたのに、レストラン内のまったりとした雰囲気と
美味しい料理に魅了された僕は、カトマンズ滞在中しょっちゅう味のシルクロードに足を運んだ。

バックパッカーの間では、一つの町にとどまり、
別段なにもすることもなくただぼーっと1日を過ごすことを『沈没』と言う。
3日4日の滞在では沈没とは呼ばない。
2週間や1ヶ月、ひどいときは数ヶ月間ひとつの町に居続ける人もいる。それが『沈没』だ。
カトマンズもいわゆる『沈没地』のひとつで、
その理由として先にも言ったとおり旅行者にとって何でも揃ってかつ物価が安いことにある。
それに加え、ネパール人は親切で人懐っこいので
過酷なインドを旅してきた者にとっては、見た目は同じであれ
インド人とのギャップにすっかり心を奪われて長い間ネパールに居続けたりする。

3週間しか滞在しない僕は、そういった沈没することにはならなかったけど
さすがにカトマンズ滞在が5日を過ぎた頃、ようやく次の目的地ポカラに移動することを決心し
適当な旅行代理店に入って翌日のポカラ行きバスを予約した。

初めてのバックパック旅行(3)

2004年09月26日 | 1997ネパール
バンコク・ドンムアン空港はエアコンがよく効いていた。
むしろ効きすぎていたくらいで、僕は何度も目が覚めた。
僕は結局16時間も空港内で過ごしたことになる。ベンチで寝てたため体が痛い。

朝8時すぎ、バンコクを飛び立ったロイヤル・ネパール機は数時間のフライトの後、
ネパールの首都カトマンズ国際空港に降り立った。
国際空港、である。
僕はそのあまりにもこじんまりとした空港のたたずまいに驚いた。
これが一国の首都の空港なのか・・・
(数年後にも僕はミャンマー・ヤンゴン空港で同じように驚くのだった)

入国審査もすんなり通り、空港のロビーを出た瞬間、僕は言葉を失った。
もの凄い人だかり。しかもみんなこっちを見てなにか叫んでいる。
「ハロー、ジャパニ。チープ・ルーム」
「コンニチハ。アナタニホンジンデスカ?」
「マイ・ホテル・イズ・ベリベリナイス。300ルピー」
「フジ・ゲストハウス、シッテマスカ?」
全て安宿の客引きである。
ゲートから出てきた旅行者に向かって必死に自分のゲストハウスをアピールしている。
僕はなんとなく客引きの群れに向かって右手を挙げてみた。
「ウオーーーー!」
歓声が巻き起こった。こりゃみんなが独裁者になりたがるわけだ。

群集の勢いにすっかり圧倒された臆病な僕は、
近寄ってきた一人のゲストハウスの客引きにいとも簡単に引っかかり、
トイレ・シャワー付きで$10という、明らかにぼったくられた値段で合意し
客引きの「トモダチ」と呼ばれる男の運転するタクシーに乗って
カトマンズの安宿街タメル地区へ向かった。

宿はまだ工事中で、フロントの前では下水工事の真っ最中で
悪臭を横切って宿に入らなければならなかった。
部屋に荷物を置いたそうそうに宿のオヤジが「ジャパニ、トレッキングツアーはどうだ?」
ともちかけるも、カネがないと言い張って部屋から追い出した。
残念だが僕はトレッキングしにきたわけじゃないんだ。

ジャワーを浴び、髪を乾かしたところで空腹を感じたので
タメルに出て適当なレストランに入って胃を満たした。
その後はダルバール広場に出て、塔の上から人々が行き交うのを日が沈むまで眺めていた。
途中、アクセサリー売りや日本に行って働きたいので何とかしてくれと懇願する者、
「ハロー、ワンルピー」を連呼する子供たち、「ハシシ、ハシシ」と耳元で囁く売人、
色んな人が僕の隣に座ってき、僕が興味がないのがわかると何も言わずに去っていった。
あぁ、僕は今一人で異国の地にいる。
何ともいえない満足感が僕を包む。
2日目にしてようやく僕のバックパック旅行は始まった。

初めてのバックパック旅行(2)

2004年09月25日 | 1997ネパール
9月に入ったにもかかわらずバンコク行エア・インディアには多くの旅行者が搭乗していた。
僕は窓側の席に座っていたが、隣に座った日本人も学生旅行者だった。
隣に座った旅行者はインドのデリーに向かうらしく、到着時刻が深夜になるのをしきりに気にしていた。
「なんか、白タクの車に乗せられて、あやしい旅行代理店に
連れて行かれるっていう話を聞くんですけど、どうですかね・・・」
「うーん。デリーで降りるのはあなただけじゃないはずだし、
他の旅行者と相乗りして安宿街に行ったほうがいいんじゃないですか?」
今の僕は自分の旅が始まったのが嬉しくて仕方がなく、
他人の心配を気にしている余裕などなかったので、適当なアドバイスを彼に送った。

エア・インディア機は予定どおり夕方にバンコク・ドンムアン空港に到着した。
デリーに行く彼に「よい旅を」と言って別れ、空港内に足を踏み入れた。
バンコクの空港はエアコンがよく効いていた。効きすぎているといったほうがいいかもしれない。
イミグレーションの列に並んでいると、一人の日本人が僕に声をかけてきた。

「あのぅ、これからタイですか?」
「ええ。でも、明日の便でネパールに行きます」
「僕、これからチェンマイまで飛行機で行くんですよ。国内ターミナルってどこにあるんですかね」
「うーん。たしかもう一つのターミナルが国内用だったと思うんですけど」
「もし暇でしたら、一緒にその国内ターミナルに行ってもらえませんか?」
「え?まぁ、明日の朝まで暇といえば暇なんですけど・・・」
「お願いします。実はこれが初めての海外なんで、不安なんですよ」
「そうなんですか。僕も一人で海外は初めてなんでちょっと不安でねー」

そういうわけで、僕と日本人旅行者(この人も学生だった)は国内ターミナルまで移動した。
念のために言っておくが、この旅行者は男性である。
もし女性であったら、僕は喜んで彼女の願いを受けとり、
時間が許すまで近くのカフェテリアで喋っていたことだろう。
しかし現実は、メガネをかけた、商学部風の芸術系大学の男子学生だった。
僕にはそれを断る理由はあったはずだ。

ごめん、今日は疲れてるからバスでカオサンに行って宿で寝たいんだよ。
ほら、明日は8時の便でネパールに行かなきゃ行けないし、今だってもう17時になろうとしている。
もし空港で時間をつぶし、夜になってカオサンに行っても
ひょっとしたら宿が全て埋まっているかもしれない。
今はもう9月だけどこんなに旅行者がいるからね・・・

結局どういうわけか、僕は彼と国内線ターミナル内にあるケンタッキー・フライド・チキンで
彼が乗るチェンマイ行きの便が出るまでとりとめもない話をして盛り上がった。

彼を見送った後、僕は時計をもう一回確認した。20時を過ぎてる。
今からバスで安宿の多いカオサンに行っても、着くのは21時を過ぎる。
明日の便は朝8時だ。せめて5時にはカオサンを出なければいけない。
僕は早起きが大の苦手だ。初めての海外一人旅というのもあってか、疲れている。
5時に出るということは、4時に起きなければいけない・・・

結局僕はドンムアン空港内で夜を明かすことに決めた。

東南アジアを代表するハブ空港であるドンムアン空港は夜になっても
飛行機の離着陸が続き、搭乗予定の客も数多くいた。
20時過ぎといってもまだ眠気はおきず、僕は手ごろなカフェを見つけてテーブルにつき、
日本ではまずやらない日記を書き始めた。

日記を書き終え、夜食もとった僕は寝床を探し始めた。
幸い空港内には人が横になれるようなベンチがいたるところに存在する。
しかし、あまりにも人気のない場所で寝ると、貴重品を取られる心配があるので、
なるべく明るくて人もいる場所を選ぶことにした。
空港内をとぼとぼ歩いていると、CNNを流しっぱなしにしているテレビの前に
ベンチが数列並んでいたので、そこで寝ることに決めた。
最初は横になりながら英語で話されるニュース映像を眺めていたのだが、
30分置きに同じニュースをやるので、いい加減飽きてしまい、
僕はいつの間にかバックパックを枕にして眠っていた。

初めてのバックパック旅行(1)

2004年09月24日 | 1997ネパール
僕が初めてバックパックを背負って海外を旅したのは大学4年の夏だった。
それまでは日本国内を旅行しており、小さい頃は田舎の九州まで新幹線や寝台列車に乗りながら、
たまに広島や大阪で途中下車して、ちょこっと観光して帰ったりしていた。
大学に入ってからは国内旅行のサークルに参加し、北海道や四国を旅した。
日本国内をある程度見て周ったこともあり、今度は海外を旅したい気持ちが高まっていた。

初めての海外は大学3年のときにゼミ旅行で行った韓国と中国である。
本来ならば北朝鮮にも行く予定だったんだけど、直前になってキャンセルされた。
ゼミの教授は北朝鮮がキャンセルされたことについて、
向こうとのスケジュールを合わせるのが困難だったと言っていたが、
本当の理由は僕がパスポートを取得するのが遅かったからじゃないかなと思っている。
そりゃパスポートを取得したのが旅行の1ヶ月前なら、予定を立てるのも難しかっただろう。
教授は他のゼミ生にもこの事実は伝えていないせいか、僕を責めたてる人間は一人もいなかった。
今から思えばさっさと取得しておけば北朝鮮に行けたのかもしれない。
大変もったいないことをしたものだ。

北朝鮮に行けなかったことは残念だったが、グループ旅行とはいえ、海外の地を初めて踏んだ僕は
「これなら一人で旅行するのも容易だな」と安心した。
人にこのことを話すと不思議がられるのだが、僕は臆病な人間なのだ。
物事に関して好奇心は強い。だけど臆病ではじめの一歩が踏み出せない。
バックパッカーの存在は沢木耕太郎の「深夜特急」、五木寛之の「青年は荒野を目指す」に加え
蔵前仁一や下川健一の旅本を読んでいたので、どういうものかは知っていた。
ただ、一人で海外を旅するという不安感を捨てることができないでいた。
治安は?コトバは?もし病気になったら?
「なんとかなるさ」というおおらかな考えに乏しかった僕は
結局大学3年に教授に連れて行かれるまで海外とは無縁の旅をしていた。

さて、初めての一人旅である。
6月に運良く就職先が決まった僕は、夏休みを利用して海外を一人で旅行することに決めた。
目的地はアジア。期間は1ヶ月。
観光地のレストランでバイトをしていて稼ぎ時の7~8月に旅行することは困難だったため、
9月初めから大学の後期が始まるまでの3週間のあいだに旅行することにした。

次は目的地である。
臆病だから初めてでインドはつらいな。
中国?なんか列車のチケットを取るので1日かかるっていうぞ。
ネパールがいいな。行った人の評判はかなりはいいし。
というわけで、バンコク経由でネパールを旅行することに決定した。

単位取得のために夏休みの期間にあるサマークラスを取っていたとき、
同じ学部の女の子とキャンパス内で出会った。
簡単な挨拶をし、お互いの就職活動状況を聞いた後、女の子がこう聞いてきた
「ねぇ、○○君は夏休みに卒業旅行とかする?」
「うん。ネパールに行こうと思ってる」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は頭の中で「?」を浮かべているような表情になった。
恐らくネパールがどこにあるのか、脳内地球儀をグルグル回して探しているのだろう。
「それで、ネパールにどのくらい行くの?」
「約1ヶ月。だいたい3週間くらいかな」
ここでも頭に「?」が浮かんだらしい。ネパールという国に1ヶ月?
彼女はさらに聞く「で、誰と行くの?」
僕は答える「誰って、俺一人でだよ」
彼女の頭からクエスチョン・マークは消え、そのかわり同情的な表情に変わった。
彼女は困ったような同情的な表情を浮かべてこう言ってきた

「○○君・・・友達いないの?」

僕は言葉を失った。友達がいない?
その問いかけに僕はどう答えたのか覚えていない。
僕の行ってた学部は他の学部と比べて帰国子女や
語学留学目的のホームステイ経験がある学生の数がかなりの割合を占め、
英語のクラスでは英語が出来ない僕はいつも肩身の狭い思いをさせられた。
僕に同情してくれた女の子も海外に数年住んでいた経験がある子だ。
そういった学生の中では「海外=欧米」という図式があるように思える。
彼らの多くがアメリカやカナダの英語圏か、ヨーロッパで生活していた期間が長い。
欧米以外で生活していた学生もいたけど、それでもシンガポールや香港であった。
現在ではそういう図式のままの学生はいないと思うけど、
僕の学部では(それでも6~7年前の話だ)そういう人が多かった。

一人でネパールに行く俺って友達が少ないって思われているんだなぁ・・・
そんな重い気持ちを抱えながら僕はバンコク行きエア・インディアに乗り込んだ。

三波春夫でございます

2004年09月23日 | 音楽
洋楽を聞くようになったのは中学生のころだったと思う。
FMやFEN(現AFN:在日アメリカ空軍が放送するAM局)を聞いて
気に入ったバンドのアルバムをレンタルCD店で借りてはカセットテープにダビングしていた。
ある程度バンド名や曲名を覚えたころから、一つだけ気になっていたことがある。
フィル・コリンズについてだ。

フィル・コリンズはイギリスのプログレ・バンド「ジェネシス」でドラマーとして加入し、
ボーカルのピーター・ガブリエルがバンドを脱退してからは
ドラムとボーカルの二束のわらじを履き、どちらもそつなくこなしてバンドの人気を高め、
その一方でソロ活動を開始して大ヒットを連発し、ドラムをもっと叩きたいなーと思ったのか、
ブランドXというジャズロック的バンドを結成して、これも好評を得る。
とまぁ、ロック界で大成功を収めているうちの一人でもある。

僕がフィル・コリンズを知ったときはすでに彼の頭髪は後退を始めていた。
若い頃はフサフサでヒゲもたくわえていたのが、その頃にはちょっと寂しくなっていた。
高校生だった僕はフィル・コリンズのジャケットの写真を見て、ふと思った。
「この人、誰かに似ている・・・」
イギリス人?いや、外国人じゃない。
日本の芸能人?たぶんそうだと思う。だけど名前がわからない。
どうでもいいことなんだけど、そのことが頭から離れない。
同級生に聞いてみたいところだが、16~7で洋楽の、
それも70年代や80年代を好んで聞いている奴なんて僕の友人には一人もいなかった。
「ジェネシス?何それ。それよりもボンジョビ聞かないの?」そんなかんじだ。

いつのまにかフィル・コリンズが誰に似ているかなんてことはすっかり忘れていた。
彼のやジェネシスのアルバムはその後も購入し続けたが、彼の写真を見ても、
「誰かに似ているんだよな」とふと思うだけで、以前ほど気に留めることはなくなっていた。
彼が誰かに似ていようが、もうそんなことはどうでもよかった。

そんなある日のこと
僕はいつものように何気なくインターネットでニュースやらサッカーの結果を見ていた。
ある音楽系掲示板をクリックし、ジェネシス関連のスレッドをみていると、こんな書き込みがあった。

フィル・コリンズ = レツゴー一匹

紅茶を飲みながらネットサーフィンをしていた僕は
その画面を見た瞬間紅茶を画面にぶちまけた。
レツゴー三匹のじゅんだ!
10年ぶりに謎が解け、さぞかし嬉しいことと思いきや
紅茶色に染まったディスプレイをタオルで拭くことのほうが先だった。
あぁ納得。
レツゴー三匹はリアルタイムで見た経験はないけど、
懐かしのテレビ番組系でその姿は見たことがある。
そういえば、テレビでレツゴー三匹を見かけたことなんて、ここ10年なかったなぁ。
せめて一回でも画面で確認できたならもっと早く知ることができたのに。

とりあえず長年抱き続けていた謎の一つが解明できたので、ちょっと嬉しい気分だ。
余談だけど、ずうっとレツゴー三匹のことを
レ「ッ」ツゴーだと思っていた。
実際は小さいツはいらないんですね。


ベトナムサンドイッチを待ちわびる日々

2004年09月21日 | 日常生活
最近は自習するため近くの図書館まで歩いて行っている。
近くといっても徒歩でゆうに30分はかかる。
車を持たず、しかも自転車に乗る機会がほとんどないので自転車も持っていない。
バスなら5分で行ける距離なのだが、乗るたびに片道$1.50も払うのはしゃくなので、
運動がてら歩いて図書館に通っている。

今日もいつものように帰っていると、ふとある店の前でこんな貼り紙を目にした。
"Lee's Sandwitch" "Coming Soon!"
これを目にした瞬間、ベトナムサンドだ、と確信した。
おぉ、ついに我がアパートの近くにもベトナムサンドイッチの店ができるか。
通りすがりの白人のオヤジが不思議そうに見るなか、僕は貼り紙を前でにやついていた。

ベトナム風サンドイッチ。
それはインドシナを旅する者にとっては何度となくお世話になった食べ物である。
フランスの支配下にあったためか、使われるパンはフランスパン。
それを縦に細長く切って、あいだにキュウリ、人参、ダイコン、青パパイヤ等の野菜。
そして好みにより鶏肉や豚肉を加え、ベトナムの魚醤ナンプラーをかけ、
そして青唐辛子とパクチー(コリアンダー)を大量にのせれば完成。
僕はベトナムに足を踏み入れたことはまだないけど、
カンボジアにいる間は毎朝サンドイッチ屋台に足を運び、
鶏肉入りサンドイッチを買って、向かいのジューススタンドで練乳たっぷりの
ベトナムコーヒーを飲みながら相席した旅行者とだらだらと会話を楽しんだ。

僕が住むベイエリア一帯では、サンノゼやフリーモント周辺にベトナム系が多く住んでいる。
ということは当然サンドイッチ屋も数多く存在するわけで、
ルームメイトと一緒にサンノゼに寄った際には必ずサンドイッチ屋に寄り、
豚肉入りサンドイッチとベトナムコーヒーを買って帰った。
店によっては豚まんや海老入り生春巻が売っているので、ついついそれまで買ってしまう。

これでわざわざ30分も歩いてまで図書館を往復する面倒な作業が
ベトナムサンドイッチで報われるのであれば全然気にならないものよ。
もしこの Lee's Sandwitch がサブウェイみたいな無駄に大きいサンドイッチしか売らないようであったら、
という不安もあるけど、まぁそれは開店までの楽しみとしておくとしよう。
願わくばサンドイッチだけでなく、コーヒーや豚まんや生春巻も売ってください。
お願いしますよ、リーさん。

700→714→755 (868)

2004年09月20日 | 日常生活
ピーター・フランプトンのアルバム"Comes Alive"を聞きながらぶっかけうどんを食べていると、
ベランダで何かがカンカン音を立てているのに気が付いた。
ベランダに出てみると、久しぶりに雨が降っていて、空き缶に響く雨音であった。

昨日、頭痛と鼻水に悩まされながらも、バスに乗って電気代とネット代を払いに行った。
途中寄ったファストフード店の脇に置いてある新聞スタンドを見ると、
17日夜に通算700号ホームランを達成したサンフランシスコ・ジャイアンツの
バリー・ボンズの写真がデカデカと掲載されていた。
最近TVを見ていないので、それが昨日であったことが少し信じられなく感じた。

25セントコインを1枚新聞販売機に入れて1部取り出す。
僕が買った新聞は地元の新聞 San Jose Mercury News。
スポーツ・セクションではボンズが今までに放ったホームランの詳細(打った日時、対戦チーム、打たれた投手)が
第1号から第700号まで載っていた。MLBマニアには嬉しい記事だろう。

MLB史上3人目(ベーブ・ルース、ハンク・アーロン)の700HR達成者のボンズに
大半の記事が費やされていたのだけれど、一つ気になったことがある。
どこにも王貞治について書かれていない。
王さんの868本のホームランはアメリカの野球ファンの中でも広く知られている事実なのだが、
ボンズが700号の記録を達成した翌日の新聞には王さんの"Oh"の字も"868"の数字もない。
「ボンズの前には714本のルース、755本のアーロンが残されただけだ」と記事にはあるが、
サダハル・オーの868という数字をどうして無視する?
リッキー・ヘンダーソンが福本豊の通産盗塁記録を、
カル・リプケンJrが衣笠祥雄の通産連続試合出場の記録を抜いた時はちゃんと紹介されていたという。
それともボンズがルースとアーロンを抜き、王の記録を破るそのときにようやく記事にするのだろうか?

新聞記事を読み続けていると、一人の記者の名を発見した。
ティム・カワカミ(Tim Kawakami)・・・ん、日系人?
おいおい、日系人ならサダハル・オーの名前を載せろよな。
まぁ、王さんは日本人ではないのだけれど・・・
"Bonds has made himself bigger than any number,
with the possible exception of 755, Aaron's all-time mark."
なんて嬉しそうに書いてるのならば、ついでに王さんの記録のことも書いてくれよな。
それとも、「いくらボンズが700号を達成し、ルースやアーロンの記録を抜こうとも、
サダハル・オーにはかなうまい、ムフフ」とでも思っているのだろうか?
いや、まさか・・・

Book of Saturday

2004年09月19日 | 日常生活
どうやら風邪をひいてしまったみたいだ。
朝起きたら頭痛がして鼻水がでる。のども痛い。
原因はわかっている。窓を開けっ放しにして寝たからだ。
それともう一つ、今日から涼しくなるという天気予報に気が付かなかった。

僕の住んでいるサンフランシスコやサンノゼ一帯の、
俗に言うベイ・エリアは連日の猛暑に悩まされていた。
どこにいっても昼間の最高気温が95Fを上回り、
ひどい時は100F以上を記録する日が数日間続いた。

Fとは華氏のことで、Cの摂氏とは数値が異なる。
華氏から摂氏に変えるには、
(華氏-32)×(5/9)=(摂氏)
この数式を用いる。
たとえば、昨日の気温が95Fであった場合、
(95-32)×(5/9)=35
摂氏になおすと35Cだったことになる。
ちなみに華氏100度だと摂氏37.8度になる。

カリフォルニアは日本のように湿度は高くない。
海風が少しでも吹けば、自分がまるで北海道にいるかのような心地よい気分になれる。
しかし、カリフォルニアは日差しが強い。
日中はなるべく建物の中で過ごしている僕だが、
たまにベランダで本を1時間ほど読むだけで腕がジリジリと焼かれていくのがわかる。
8月末にカリフォルニア大バークレー校にあるコンサート・ホールでレゲエのコンサートを楽しんだときは
13時から19時まで日なたにいたため、顔がびっくりするくらい真っ赤になっていた。

しかし、日が落ちれば一気に涼しくなる。
風のない日中は暑いだけだが、夜は涼しい風が吹き、
エアコンが必要になることなど全くない。
窓を開けて寝てしまっても、朝日とともに気温が上がるので問題ない。

ただ、僕にとって問題だったのは、今日はまったくの曇りであることだ。
朝起きたら涼しいどころか、むしろ寒い状態。
さっき地元の天気を確認したら66Fという。摂氏19度だ。
昨日まで35度以上が続いていたのが、今日になって20度前後に。
体調を崩すのは当たり前である。
この曇り空は週明けいっぱい続くという。
せっかくの週末が・・・と愚痴をこぼしたいところであるが、
僕は週末でも歩き回らない性格なので、極端なハナシ
嵐が来ようが雪が降ろうが関係なかったりする。
けど、今週末までに電気代と電話代、それにインターネット代を支払わなければいけないので、
鼻水+頭痛のまま外に出るのはなんとも億劫だ。

明日の天気くらい、新聞やTV,ネットでいくらでも確認できるのに、
それを怠った自分が情けない。
夏風邪は馬鹿がひくと言うが、基本的な日常を送っていればひかないのだ。
その基本的なことを怠る愚か者が風邪をひく。
今日はお粥を食べて、本でも読みながら大人しく過ごそう。

トランジット タイランド

2004年09月18日 | バックパッカー
さっき自分のメールアカウントを開いたら
千葉に住む友人からメールが来ていた。
友達と2人でタイを旅行し、昨日戻ってきたという。
一週間の旅程の割には、チェンマイでトレッキングをやったり
コ・チャンのビーチでまったりしたりと、けっこう忙しく動き回っていたようだ。

実を言うと、僕はタイ国内をほとんど旅行したことがない。
過去に訪れた国の中では文句無しに一番多いのであるのだけど、
記憶をほじくり返してみると、どうも僕にとってのタイという国は
バンコク・ドンムアン空港と安宿街カオサンの往復でしかなかったようだ。
いつも他の国へ移動するときの中継点になっている。
ドンムアン空港の利用回数だけなら成田空港よりも上回っている。
そういえば、空港のイミグレーションで僕の過去のタイのスタンプを見た係員が
「お前はいつも数日しかタイにいない。そんなにタイが嫌いか」と聞いてきたことがある。

果たして僕はタイが嫌いなのか?いや、決してそんなことはない。
アジアを旅してみたいという人がいたら、僕は決まってタイを薦める。
飯はうまいし人間もフレンドリー。ゴーゴーバーの女の子は可愛い。たまに男だったりするけど。
北部でトレッキングもやりたいし、南の島で波の音を聞きながら過ごしていたい。

ではどうしてタイ国内を旅行しようとしないのか?
理由はシンプルなもので、いつでも行けるから先延ばしになったままなのだ。
日本からほんの数時間で行けるし、1ヶ月間ならビザはいらない。
世界各国へのアクセスも多く、旅の途中に立ち寄ることもできれば、
旅仲間との待ち合わせ場所にも最適な国、タイランド。
この「いつでも行ける」利便性が物事を先延ばしにしがちな怠惰な僕と奇妙な化学反応を起こした結果なのである。

本当にタイはどこにも行ってないのか?
記憶を掘り起こしてみる。
最初にタイを訪れたのは大学生のときだ。
あの時はネパールに行く中継点であったため、バンコク市内にあるお寺巡りしかしていない。
それ以降はどうだ?
コ・ピピに行こうとしたが、船に乗るのが面倒くさくて対岸のクラビーでごまかしたり、
カオサンでウロウロするのはもう飽きたので、バンコクからバスで2~3時間で行ける
「終わったビーチ・リゾート」パタヤで、ミニスカートをはいた中年がサーブするレストランで
うどんのようなスパゲティを食べたりした程度だ。
うどんスパゲティを食べながら読んだ村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」は、
つげ義春の漫画を読んでいるかと思うくらいみじめで不幸な雰囲気を醸し出した。

これではいけない。
アユタヤすら行かずに「タイはいいよ~」なんて言ってる自分はただのペテン師だ。
決めた。今度の旅行はタイにしよう。
見所は多くのバックパッカーから聞いているし、綿密な計画を立ててなるべく多く見て回ろう。
メーサイからはミャンマーに1日だけ入国できるらしい。
それだったら以前2週間しかいかなかっせいで
インレー湖やラーショーに立ち寄らなかったミャンマーにもう一回行きたい。
ラオスもビザは取ったけど、結局行かなかったんだよな。ラオスなら2週間て十分だろう。
ベトナムもまだ行ったことない。
それならカンボジアと中国の雲南省もつけて、インドシナを一周する旅も面白そうだ。
マレーシアやインドネシアもたいして旅行したわけではないから、あそこも候補だ。
バリの東のロンボク島にはまったりとしたビーチがあるらしい。

あれ?そうするとタイにいる時間がなくなる。
まぁいいや。タイにはいつでも行けるから・・・

ビーマン それは航空会社:その2

2004年09月17日 | バックパッカー
ミャンマーには2週間滞在した。ヤンゴンからトランジット地点のダッカへはまたしてもビーマンだ。前回のカメラで懲りた僕は、係員の「ノー・プロブレム」という言葉を無視してノースフェイスの35リットルバックパックを機内に持ち込むことにした。

イミグレーションを通過し、ゲート前で時間を潰している最中、ふと自分の搭乗券に座席番号が書いてないことに気が付いた。いちおう"Seat No."という欄は存在するのだが、空白のまま。近くの空港係員にこのことを聞くと、彼は一言"Any seats you can take."どこに座ってもいいのか。新幹線でも指定席を好む僕としては、このシステムはちょっとびっくりだ。

バンコク発ヤンゴン行のビーマンはたしかに座席が指定されてあった。成田発バンコク行も座席は指定されているという。この座席指定をする路線としない路線の扱いがよくわからない。そもそもこの飛行機はあなたたちの国へ向かうのだよ?

予想通り飛行機は数時間送れてヤンゴンに到着した。機内にはバンコクから搭乗している客が半分以上いたが、どうやら皆好きな席に移動しているようで、前方または窓側の席はほとんど埋まっていた。僕には後方の、トイレの斜め前方という素敵な席に座るしか選択肢がなかった。ダッカまで少し眠りたかったので、スチュワーデスに毛布をくれと言うが、毛布は置いてないとあっさり言われる。
素敵だ。

ビーマンでダッカを経由して他の目的地へ向かう乗客は、ダッカで一泊しなければいけない。これはほとんどのダッカ行旅客機が夜に到着するため、カルカッタやネパールのカトマンズに向かう人は朝の便まで待たなければいけないからだ。当然航空会社が旅行客のために無料のトランジットホテルをあてがってくれるのだが、空港でトランジットの手続きをしている途中、同じくインドに向かう3人の日本人旅行者に出会った。彼らはヤンゴンで僕がバックパックを持ち込んで機内に入ってきたのを見ていたらしく、「いつも持ち込むの?」と聞いてきた。僕がいままでの経緯を話すと、「それは不注意もあるよね。でもそんなことしょっちゅうおこるわけではないんだからさぁ」と、バンコクでの僕が思ったセリフを吐いた。

トランジットホテルへ向かうバスが来るまで2時間は待ったであろうか、ようやく空港正面入り口に数台のマイクロバスがやってきた。どうやら目的地によって泊まるホテルが違うらしい。カルカッタ組は日本人が4人とオーストラリア人が1人。バスに乗り込む前に、荷物を預けていた乗客はターンテーブルで拾うのだけれど、このターンテーブル、おそらく回転していないんじゃないかと思うくらいぼろっちい。それを強引に証明するかのように、旅行者の荷物は壁によりかかるように一つにまとめられていた。

どう見ても「捨てられた」ような印象を受ける。空港は工事中なためか、裸足の作業員が周囲を歩き、ところどころに盛り土がある。韓国の慶州の古墳群みたいだ。「なんなんだこの対応は・・・」と一人の日本人がつぶやく。まぁいいさ。バスに乗ってホテルに行けばあとは寝るだけだ。

夜の10時過ぎだというのに大勢のバングラデシュ人(彼らは入り口にある鉄格子に両手をかけながら目的もなくただ漠然と空港内部を見つめていた)がいる空港を出たバスは10分でホテルに到着した。中級のバックパッカー用ホテルといった感じで、なかなか快適に過ごせそうだ。ホテルのスタッフがやってきて、3部屋用意してあると言う。3部屋?我々は5人だぞ。僕たちは一斉に、今日はとても疲れている、シングルルームに泊まらせてくれ、と抗議する。ホテルのスタッフは困った顔をしていたが、部屋が足りないなんてことはない。このホテルは2階建てなんだから。

スタッフは渋々了承し、5人がそれぞれ1人で部屋を使用することができた。その最中、一人の旅行者が自分のバックパックのジッパーが少し開いていることに気が付いた。幸いチェーンで囲っていたため、中のものは盗られてないようだったが、ファスナーが壊れている。彼は一言「明日ぜってー機内に持ち込む!」

翌日は空港で志村けんのようなギャグを係員にかまされつつも、問題なくカルカッタに到着した。4人の日本人はドミトリーのある安宿に宿泊することにした。宿につき、ベッドに荷物を置き、シャワーを浴びる。シャワーを浴びて部屋に戻ると、バックパックを預けた2人が怒っている。バックパックのジッパーをこじ開けられ、カギが壊されていたのだ。幸い彼らも貴重品は中に入れてなかったようで、大したものは盗まれてはいなかったものの、かなり悔しがっている様子だ。「あー、やられてるよぅ!やっぱ君みたいに機内に預けときゃ、バッグ壊されなくてすんだんだよぉ」
僕はタオルで髪を乾かしながら、ニヤニヤ笑ってこう言った。

「やっぱビーマンっすね」

ビーマン それは航空会社:その1

2004年09月16日 | バックパッカー
「こないだバンコク行ったときにビーマン使ってさぁ」と友人が言う。ビーマンとは、ビーマン・バングラデシュ航空というインドの東にあるバングラデシュの航空会社のことである。この緑黄色野菜に似た航空会社は日本人には馴染みが薄いように思えるが、ちゃんと成田から週に一便バンコク経由でバングラデシュの首都ダッカまで運航している。

利用客のほとんどがバングラデシュ人とバックパッカーと言われるくらい格安志向で一部では有名だった。1999年に1年間アジアを旅行した僕はタイのバンコクからミャンマーのヤンゴン、そしてバングラデシュのダッカを通りインドのカルカッタまでこのビーマンを初めて利用することになる。このビーマン、安いという以外にも「盗る」ことで名が知られていた。機内に預けた荷物をこじ開けて中身を盗むのは空港のスタッフなんじゃないの?と思ったりしたが、とにかく、ビーマンで物を取られた旅行者の話は直接会って話を聞いたわけではないが、数多く存在する。

バンコクから経つ前日の夜、旅行中に出会った旅行者とタイスキを食べながらビーマンの話をすると、一人が「ビーマンに乗るんならバックパックを機内に持ち込んだ方がいいよ」と言ってきた。彼は盗られた経験はないものの、やはりビーマンの悪評を何度も聞いていたようだ。「オーケー、ビーマンに乗るときは機内に持ち込むよ」そう言ってその日の夜、旅行者たちと別れ自分の宿に戻った。

翌日、バスでカオサンから空港に向かい、搭乗手続きを行なったのだが、バックパックを機内に持ち込むことをすっかり忘れ、荷物を係員に預けてしまった。手続きが終わった後に気が付いたので、今更バックパックを取り戻すわけにもいかず、「まぁ、盗られることはそう多いわけではないんだろうし」と、この時は次の国へ行ける楽しさで楽観的になっていた。機内に乗り込むまでの時間を同じくミャンマーを旅する旅行者と談笑しながらヤンゴン行き飛行機への搭乗が始まるまで時間を潰す。

ヤンゴンへは夕方に到着した。イミグレーションで悪名高き$300の強制両替をしぶしぶ支払い、すでに止まっていたターンテーブルに横たわる僕の赤のバックパックを持ち上げる。刃物で切り裂かれた部分もない。盗るのはあくまでもウワサでしかなかったんだな。僕は安心した。

数人の旅行者とタクシーをシェアして一泊$3程度の安宿に向かった。宿に到着後、ドミトリーに荷物を下ろし、水シャワーを浴びた後着替えのTシャツをバックパックの中から取り出そうとしたとき、ある異変に気が付いた。バックパック上部のフード部分の裏にあるジッパーが開いたままになってる・・・?まさかと思い右手をジッパーが開いたままのポケットに突っ込む。何も入っていない。本当にここには何も入れていなかったか?自問自答する。

カメラだ。

僕はバックパックをベッドの上にひっくり返して自分の荷物を確認する。やはりカメラがない。その瞬間、僕は「しまったぁ、やられたー」と叫んで天を仰いだ。バンコクから一緒にやって来た旅行者がどうしたと心配そうに尋ねる。向かいのベッドで寝ていた坊主の旅行者が「ビーマンっすね」と言ってニヤニヤ笑う。「ビーマンっすね」だぁ?ふざけんなクソ坊主、と思うも、自分の不注意が起こした単純なミスだ。怒るのは筋違いだ。油断大敵。旅をするうえで基本的なことを怠った自分が悪い。

反省はするものの、モヤモヤした気分がミャンマーを旅行中なかなか抜けなかった。ビーマン航空オフィスは「私たちに言われても知らない」と言われるし、ミャンマーには旅行保険のオフィスなどない。痛い授業料を払ったものだと思った。

1年間のアジア旅行で唯一被った災難は僕の不注意から起こった。

タージマハル旅行団

2004年09月13日 | CD紹介
最近、ひょんなことからタージマハル旅行団の「一九七二年七月十五日」というアルバムを手に入れた。
洋楽の中でもプログレッシブ・ロックといわれるジャンルが好きな僕は、
日本の(インドではない)70年代を代表するジャムバンドのタージマハル旅行団のことは名前だけは知っていた。
聞く前は、同じく70年代のジャパニーズ・プログレ四人囃子みたいな、
イエスとピンクフロイドを足したような音を聞かせてくれるのかな?と想像したが、
いざ聞いてみて驚愕した。初期のピンクフロイドに現代音楽を混ぜ合わせた、
これぞまさしく70年代初頭のトリップ音楽と感じた。

「七月十五日」を聞いた後、これをインドで聞きたいなぁと思った。
インドには99年に計4ヶ月滞在していた。
そのとき僕のウォークマンの中にはインドのレコード屋で買ったピンクフロイドの「神秘」、
グレイトフルデッドの「ライブ・デッド」、キング・クリムゾンの「クリムゾンキングの宮殿」、
それにマイク・オールドフィールドの「チュブラー・ベルズ」が入っていた。
どれもマリファナを吸うときのBGMとしてだ。
その中に、この日本のバンドのアルバムが入っていても何ら違和感がない。
むしろ英米の大御所たちをリードしているかのような感覚にもなる。

ただ、メンバーの小杉武さん曰く「『タージマハル』という名に特別な、思想的な意味はなかった。
『熱海ドラベラーズ』とか『熱海観光団』という案もあった」と語っている。
うーむ、たしかに「熱海~」というバンド名で、こんな音を出されたらなんか変だ。
熱海で聞くような音ではない。熱海には歌謡曲のほうが似合う。