もう騙されないぞ(Won't Get Fooled Again)

旅、音楽、日常・・・まったり雑談します

有馬温泉

2005年08月26日 | 日常生活
ここ2週間ほど体がだるくてしょうがない。
朝起きると全身に生ぬるいタオルを巻かれているような感覚におそわれ、
聴覚(ラジオをタイマーがわりにセットしている)だけがやけにはっきりしている。

いかんなぁ、夏バテだな。
仕事中はそれほど支障をきたさないが、ある日はたまらなく体がだるくて、
コンビニで久しぶりに健康飲料(リポビタンD:僕のお気に入り)を買って飲んだ。

夏バテ解消のためにネットで検索していたら、どうも僕の症状はエアコン病っぽいとのこと。
エアコン病ねぇ。たしかに9時から18時ごろまでビルの中で仕事をしてはいるけど、
僕の会社のビルは他のビルと比べて空調がちょっとおかしい(と思う)。
このあいだ会社を訪れたお得意先の方が
「このビルはエレベーターがいちばんエアコンが効いてますなぁ」と意外そうな顔で言っていた。
その意見には僕も同意する。
このビルは、どういうわけか午後1時を過ぎると突然空調が効かなくなり、
2時前になるとじんわりとした蒸し暑さをいやおうなく感じる。
そのくせ15時を過ぎると再び空調が効いてくるわけだが、
昼過ぎに空調を切る(切っているのか?)理由がこれまたわからない。

それはともかく、エアコン病のハナシ。
とにかく、僕のオフィスはバンコクのデパート並にエアコンが効いているわけではない。
と、なると、自分の部屋ということになる。
自慢じゃないが僕の部屋にはエアコンがない。
まぁ、元から付いているようなおしゃれで近代的なアパートではないので、
近くの家電店でいつでも買える機会はあるんだけど、それでも買わない。
理由は部屋が6Fにあるため、風が吹いてエアコンの代わりになるだろうという目論みからだった。
実家のマンションも6Fにあり、周りに高層マンションもないので、
夜は風がびゅーびゅー入ってきて非常に気持ちがいい。
それを期待して6Fのこの部屋を借りたわけだが、コンスタントに風が吹いてくれない。
海から数百メートルしか離れていないため、海風がやってくるわけだが、
海風って思った以上にし湿気を含んでいるので、どうもベタベタする印象がある。
それでも、部屋を閉めて寝るよりかは大分マシなのでベランダの窓を開けっぱなしにし、
その前に布団をしいて寝ている。

結論から言えば、窓の前で夜風に当たりながら寝ていたのが体調を崩した原因であった。
エアコンの前で寝ているようなものだからなぁ。
インドでも部屋の天井でぷわんぷわん弱々しげに回転する扇風機を
点けっぱなしにしながら寝たら風邪をひいたしなぁ。
寝ている間に体温を奪われていた、ということか。
心臓が弱い方だと命を奪われかねない、というから笑い事ではすまされない。
だからといって、窓を閉めるか窓から離れて寝るか、と言われてもどっちも勘弁してほしい。

夜の寝場所は置いといて、とりあえず夏バテ解消のために温泉に行くことにした。
どこかのサイトに「温泉で夏バテ解消!」と書いてあったので、それに惹かれただけのことだ。
ちなみにそのサイトは、夏バテと温泉の関連性については一言も述べられていない、
ただのてめぇが行った日本の温泉紹介しまーす的ウェブサイトであった。

神戸で温泉と言えば有馬温泉。
というわけで電車で有馬温泉に行ってきた。
今週は昨日今日と夏休み休暇をもらって休んでいる。

JRで新長田へ行き、そこから地下鉄に乗り、
北神急行、神鉄と乗り継いで1時間ちょっとで有馬温泉に到着。
地下鉄新神戸からは北神急行という、
新神戸と谷上の1駅区間しか運行していない列車に乗り継ぐ。
新神戸から10分の谷上駅は緑も多く、新興住宅地っぽい割には
まだ開発途上な感じで静かな環境にあった。
谷上に住めばよかったかな。三ノ宮まで15分だし。

谷上からは神鉄で有馬温泉へ。
神鉄は田舎の私鉄という感じでなかなか良い。
初めて来た有馬温泉の印象は、以外と狭いな&駅は自動改札なんだな。
さっそく「金の湯」に入りに行く。
名前の通り、金、というか、赤だしの味噌汁の色。
湯に浸かっていると、まるで自分がわかめか豆腐にでもなったような感じになる。
効能は?知らん。たぶんリウマチや成人病に効くんだろ。

有馬温泉は特に見どころのような場所は(自分にとっては)なさそうなので、
周辺をぶらぶら歩いただけで観光は終了。
どういうわけか韓国と台湾からの観光客が多かった。
足湯に浸かってお喋りしながらおにぎりを食べるのは別にいいけど、
ゴミをその場に捨てるなよ。
無言でゴミを拾ってゴミ箱に捨てたら「ドモアリガトゴザイマス」だって。
日本語で言ってもわからんだろうと思い、英語で「ゴミはゴミ箱に捨ててね」
と言ったけど、まったく理解できていない表情だったのであきらめてその場を去る。
台湾には悪い印象は持っていないけど、
どこでもゴミを捨てる根性は大陸からのDNAをしっかり受け継いでいるんだな。

有馬温泉では「金の湯・銀の湯」入湯チケットが850円で売られている。
今回銀の湯には入らなかったけど、チケットは1年間有効なので
また次の機会にでも行こうかな。

ビールと首振り人形の8月15日

2005年08月15日 | 日常生活
会社の人と夕食を食べて8時過ぎに帰宅。
なんとなくNHKにチャンネルを合わせるとみんなで討論をやっているではないか。
みなさんの熱い、暑い議論を聞きながら電子レンジで肉まんを温めて食べる。

櫻井よしこ女史はいつ見ても素敵だ。
僕はMではないし年上が好きなわけではないけど、
櫻井さんになら一度あの声で説教されたいと思っている。

なんだか観客の拍手が意図的だなぁ、と思ったら「アジアの」方々がいらっしゃるのか。
どうせならオージーやオランダ人も呼べばいいのに。
あの方々も嫌な目に遭わされただろうに、特にオランダ人。
インドネシア人の横に座らせて、「日本とオランダどっちがマシでした?」って聞いてみたい。
あの観客の中にインド人はいるのかな?
いちおう日本軍はインパールくんだりまでお邪魔したのだから、
アッサムやミゾラムに住むインド人も呼んでほしい。

さっきから司会者が映るたびに気になっているのだが、
司会者の男性アナウンサーの向かって左後ろに良く出来た首振り人形がいる。
胸元に「島○ 大学生」というプラカードをつけ、
しかめっつらをしながらアナウンサーのコメントにいちいち大げさにうなずく人形。
司会者の前のテレビカメラのランプが点くと
自動的に微妙なカメラ目線で首を振るように細工されているのだろう。
だってそれ以外の人が喋っている時は下向いたりしているし。充電中?
こんな狭っくるしい場所なんかにいないで、地球博のロボットと一緒に躍らせればいいのに。
首を振るだけじゃないぞ、突然泣き出したりもする。

携帯アンケートをとったって「アジアの」方々を呼んで「外の」意見を取り入れたって、
所詮はテレビの中の出来事。
彼らは責任の所在を「自分のそばではないどこか」へ求め、
僕は安食堂で飲めもしないビールを片手に上司の笑い話を聞く。
あぁ日本の8月15日。
あの人たちにとって60回目の、僕にとっては30回目の8月15日。

2003年7月21日 ニラベリ

2005年08月11日 | 2003スリランカ
6時半起床。
ホテルの広場に出ると他の旅行者も揃っていた。
7時過ぎにホテルを出て、トゥクトゥクでバスターミナルへ。
8時ちょうどのトリンコマリー行きのローカルバスに乗り込む。

アヌラダプーラから東部にかけては、これといった観光地もなく、
また、「タミルの虎」と呼ばれるゲリラの基地があったりするため、
「地球の歩き方」では危険だからあまり近づかないように、とか書かれている。
たしかに、トリンコマリーに近づくにつれて検問所の数も増え、
それらの間隔も短くなっていった。
トリンコマリーはタミルの虎にとっては東海岸の要所であるため、
政府軍のチェックも厳しいものになる。
とはいえ、検問所を通るたびに銃を構えた軍人が乗ってきて、
外国人はパスポートを求められたりするわけではなく、
窓越しにカメラを向けるとニッコリ笑ってポーズまでとってくれた。
おいおい、軍関係施設は撮影禁止じゃないのか、ふつう?
世界有数の爆弾テロ多発国家のわりにはこういうところがのんびりしている。

検問所でいちいち停車させられた割には、3時間半でトリンコマリー到着。
バスターミナルからトゥクトゥクでニラベリに向かう。
ニラベリまでは200Rsと聞いており、トゥクトゥクのドライバーに
「200Rsで行ける?」と聞くと、すんなり「Yes」の返事。
観光客ずれしていないのか、固定プライスなのかわからないが、
とにかく、苦労せずにトゥクトゥクに乗れたのは初めてかもしれない。

ニラベリに向かう道にも数箇所検問所があったが、
ここも形式的なチェックだけで、こっちが手を振ると笑って手を振り返したり、
「ハロー」と言って(なぜだか)握手を求める軍人もいた。
お前らいっぺん自衛隊の演習に参加せんかい。

僕たちが宿泊するのはニラベリ唯一の「高級」リゾートホテル、Niraveli Beach Hotel。
2人部屋で1泊2食(バイキング形式)3600RS!1人1泊1800Rsとなる。
1800Rsは日本円に換算するとだいたい2000円。
はぁ?1泊2000円のどこが高級ホテルだ!?
しょうがないだろ、観光客なんてほとんど来るような場所じゃないんだから・・・
・・・というのは間違いで、観光客はわんさかいる。
本来は予約しなければいけないのだが、今回運良く2部屋開いたので宿泊できたのだ。
部屋の種類もバンガローやコテージ形式、一般的な横に長い2階建てのビルと、
好みや予算に応じて選ぶことが出来る。
僕たちの泊まる部屋は一番安いレベルの部屋であったが、
必要最低限のものはちゃんと揃っている。
どういうわけかエアコンがなかったが、夜はそれほど蒸し暑くなく、
海を通ってきた夜風が非常に心地よかった。

チェックイン後さっそく浜辺(ホテルのプライベートビーチになっている)に繰り出し、
ボディボードをやったりハンモックの寝っ転がって読書したりとまったり過ごした。
4人の日本人のうち、永田町の某省に勤めている男性は、
10日のスリランカ旅行を無駄なく満喫しようと、
沖合いに浮かぶ島(「ピジョン・アイランド」とホテルのスタッフは呼ぶ)まで
ボートを1人でチャーターして観光しに行っていた。

夜はレストランでバイキング形式の食事を楽しむ。
正直、地方のビジネスホテルのそれとあまり変わらない味でちょっとガッカリした。
明らかにのびてるだろうスパゲティに手を出し、
「あぁこのスパのびてるよぉ」と愚痴をこぼす僕。相変わらず阿呆だ。

国家公務員氏と東京でベリーダンスを踊る女性は明日ニラベリを発つという。
僕とニラベリ行きを誘ってくれた女性はここでもう1泊することにした。
ところで、ベリーダンサーさん(20代・細身)はチェックイン以降夕食時も白ビキニ
(もちろんパレオなどという素敵な腰巻きのたぐいなどつけていない)で
食事を取りに行き、寝る時も「面倒くさいから」とビキニのまま眠ったそうだ。
ここまで豪快(場違い)な女性も滅多にいない、ということで
けっこう目の保養になったのは僕と国家公務員氏とスリランカ人スタッフとの秘密である。

***

「地球の歩き方」でもニラベリの扱いはほんの数行だったと思う。
そのせいか、純粋な日本人観光客は僕ら4人だけだった。
なぜ「純粋」なのかというと、実はもう2人日本人宿泊客がいたのだが、
彼らはJICAだか協力隊だかのスタッフで、口コミでニラベリを知ったそうだ。
ホテルの宿泊客は裕福そうなスリランカ人家族とフランス人がほとんどだった。
どういうわけかスリランカで会う欧米人旅行者はフランス人が圧倒的に多かった。
理由を聞いても、「どうしてだろうねぇ」と首をかしげる。
この年のフランスは異常気象で夏は40℃を超える日もけっこうあったという。
「パリに比べたらスリランカのほうが快適だよ」
とはバカンスでニラベリを訪れていたフランス人家族のお父さん。

2003年7月29日 アヌラダプーラ

2005年08月10日 | 2003スリランカ
6時半起床。
7時前にチェックアウトをし、YMCAの近くでトゥクトゥクを捕まえ、バスターミナルに向かう。
歩いても行ける距離ではあったが、
トゥクトゥクの相場を念のために知っておきたかったのであえて乗ってみた。
50Rs。まぁこんなもんか。

クルネーガラ行きのバス(というかワゴン)に乗る。
途中ぼんやりと外を眺めていると、なにやら黒くてごつい塊とすれ違った。
同じく外を見ていたスリランカ人に「エレファント?」と聞いてみる。
「イエス、エレファント」野生の象(しかも親子)にあっさりと出会えた瞬間。

2時間半でクルネーガラに到着。
ロンリー・プラネットの市内地図を見ながらRajapilla Rest Houseを目指す。
だが、地図でホテルの場所らしきところに行ってもホテルが見当たらない。
周囲の人にホテルの名前を言うと、
ある人は「あの道を左に曲がったところじゃないかな」と言い、
またある人は「そのホテルはもうないよ」と言う。
散々歩き回ってもホテルらしき看板も建物もないということは、
おそらくもう潰れたんだろう。

別の宿を探そうとするも、この街には安宿が極端に少なく、
しかも観光ポイントが岩山のてっぺんに鎮座する「コンクリート製の」仏像くらい。
しかもその仏像も修復中ときたものだ。
(バス停から修復中の仏像がはっきりと見える)
この街に宿泊することをあきらめ、アヌラダプーラに向かうことにする。

さっきと同じワゴンのバス(今回はエアコン付)でアヌラダプーラへ。
これまた2時間半ほどで到着。
バスターミナルを出ると、1人のスリランカ人が声をかけてきた。
自分はLake View Hotelの客引きだと言う。
あぁ、そのホテルは一応宿泊候補なんだよね、と言うと、
ウチのホテルはビューティフルでチープだから是非来い、
ツーリストもいっぱい泊まっているぞ、と言うのでついて行くことにする。

オールド・バスターミナルから歩いて20分ほどでホテルに到着。
道路から少し奥まったところにあって静かだし建物もさっぱりしている。
シャワー・トイレ別のシングル300Rsに泊まることにした。

チェックイン後客引きのおやじがトゥクトゥクでアヌラダプーラ周辺の観光を勧めてきた。
暑い中歩き回ったりチャリンコにのるのは面倒だったので、
700Rsで明日の午前中いっぱいをトゥクトゥクで観光することで合意。
やることがないので洗濯をする。
15時から洗濯するのはちょっと遅いかな、と思ったが、
相変わらず日差しは強かったのでTシャツやタオルはあっという間に乾いた。

建物横の食堂で夕食を食べていると、1人の日本人女性が声をかけてきた。
その人としばらく話をしていると、あとからもう2人日本人旅行者がやってきて、
そのまま4人で夜遅くまで食堂で喋っていた。

最初に会った女性が「明日ニラベリに行きませんか?」と言う。
島の東部にあるトリンコマリーから北へ30分ほど行ったところにあるビーチで、
日本人には知られていないスリランカの「穴場リゾート地」だそうだ。
ロンリー・プラネットをめくってみると、どうやら欧州人には知られているようで、
なかなか好意的な文章で紹介されている。

まぁ、30日もスリランカにいるので別に行ってもいいかな、
僕がそういうと、他の2人も乗り気なようで、
結局4人で翌日ニラベリに行くことに決めた。
明日の朝一に客引きのおやじにトゥクトゥク観光のキャンセルをしなければ。

***

スリランカ旅行の楽しみの一つに「野生の象に会う」ことがあったわけだが、
いとも簡単に野生の象を見ることができた。
それ以降、イヤと言うほど道端で象を見ることになる。
もちろん、街中で野生の象を見ることなどまずないが、
バスで移動していると広めの草っぱらで水浴びをしている象の親子をよく見かける。

2003年7月19日 コロンボ

2005年08月09日 | 2003スリランカ
バンコクからの飛行機は24時に到着し、
僕はイミグレを出たところの両替所前のベンチで横になっていた。
ふと目を覚ますと1人の白人旅行者が隣に座っていた。
彼もまた深夜の便でコロンボに到着し、夜が明けるまで空港内ですごすつもりらしい。

目が覚めたので彼と話をする。
彼はイギリス人で、スリランカに来る前はオーストラリアでサーフィンをやっていたという。
スリランカに来たのも当然サーフィンが目的で、
コロンボには泊まらずそのまま南西部のヒッカドゥアへ、
そして南東部のサーフィンのメッカ、アルガム・ベイを目指すと言う。

5時に我々は空港を出、広場でコロンボ市内に向かうバスを待った。
しばらくすると市内行きバスがやって来た。外はまだ暗い。
50分ほどで市内のバスターミナルに到着。
なんだかインドの雰囲気に包まれている。
やっぱりいいなぁ、この雰囲気は。

バスターミナルでイギリス人サーファーと別れ、歩いてYMCAに向かう。
レセプションの人間を無理矢理起こしてチェックインをする。
ドミトリー1泊125Rs。まぁそんなもんか。
部屋を見せてもらうと、屋内にベッドが4つ、そしてベランダにもう4つあった。
「好きなベッドを選べ」と言われるが、屋内のベッドはすでに埋まっている。
仕方がないので一番きれい(に見える)ベランダのベッドにバックパックを置き、
夜が明けたコロンボの街並みを眺める。
まるでインド。
夜が明けると周りも次第に暑くなってきた。
こりゃベランダの方が風もあるので涼しくて快適かもしれんな。

シャワーを浴びて10時過ぎまで仮眠をとり、YMCAの前の食堂でカレーを食べる。
ファラタと呼ばれる、インドのナンに近い平べったいパン状のものに
スープ状のカレーをつけて食べる。うむ、美味い。

適度に腹が満たされ、帰りの便のリコンファームをしにフォート地区にあるホテルを目指す。
フォート地区は金融機関や官庁があrうため、いたるところに銃を持った人が立ち、
車のスピードを落とすためのバンプが盛り上がっている。
さすが爆弾テロのお膝元、スリランカ。

コンチネンタルホテルに入り、タイ航空のオフィスを探すが、
レセプションの男性に「3年前に別の場所に移った」と言われる。
3年前かよ、間違ってるじゃないかロンリー・プラネット・スリランカ。
「タイ航空はリコンファームの必要はないですよ」とはホテルのスタッフ。
そういえば、ドンムアン空港のタイ航空のスタッフもその必要ないって言ってたな。
とりあえず彼らを信用するか。

銀行でトラベラーズ・チェックを両替する。$100=9529Rs。
ふうむ、空港の両替所のレートの方が良かったぞ。普通逆じゃないのか?
コロンボの新市街は別段見るべきものはなかったので、
YMCAでシャワーを浴びてベッドで横になって本を読み、
夕方にワールドトレードセンターと呼ばれるけっこうスリランカでは近代的な
(と思う)ビルの中のビュッフェ形式のレストランで夕食をとる。
エアコンが効いて清潔で、周りの客も裕福そうな家族とビジネスマンしかいない
レストランはそこそこ美味しいけど、やはり高かった。

***

コロンボの空港は一度外に出ると、
チケットを持っていない限りまた中には入れないようになっていた。
セキュリティに話を聞くと、やはりテロ対策だという。
9・11以降アメリカの空港のセキュリティは厳しくなったと言われるけど、
僕はコロンボ空港や新市街の警備のほうがよほどしっかりしているように見えた。
でも、それはけっこう表面上だったりして、
新市街で銃を構えた警備員はにこやかに話しかけてくれたものだ。
コロンボの安宿はYMCAとその隣の宿(名前失念)しかない。
あとはアジアで言うところの「$10以上もとるくせに安宿レベル」のホテルしかない。
市内も見るところはないと思うので、
日中にコロンボに到着したらバスで2時間ほど北のネゴンボか、
南に列車で3時間のヒッカドゥワに移動した方がよい。

2003年7月18日 バンコク→コロンボ

2005年08月08日 | 2003スリランカ
8時半起床。
窓のない部屋のため、あかりを点けるまでは真っ暗なまま。
本当に朝の8時半なのかもよくわからない。

宿の前でポーク・フライドライスとレモンシェイクを注文する。
「地球の歩き方・タイ」を熱心に読んでいた女性と喋りながら朝食をとる。
「タイのお薦めってどこですか?」と聞かれるも、タイはほとんど周ったことがないので、
旅仲間が「あそこは良かったよ~」と言ってた場所を数箇所教える。
「へぇ~。いろんなトコ旅しててうらやましいです~」
ごめんなさい。タイはあなたよりも知らないんです。

First Guest Houseを11:30にチェックアウトする。
カオサンをぶらぶらしたあと、49番バスでドンムアン空港に向かう。
バンコク名物の交通渋滞にはまったにもかかわらず、バスは以外とスムーズに進む。
2時間ほどで空港に到着。
コロンボに向かうフライトは21:45。
6時間近く空港で時間を潰すことになる。

コロンボ行きタイ航空は定刻通りに搭乗手続きが始まった。
僕の席の後方にかなりのスペースがある。
おそらく30人程度の座席が空いたままだ。

隣に座っていたシンガポール人のビジネスマンが、
「私はあそこに座って横になりながらスリランカに行くよ」と笑って席を立った。
だが、数分後彼は元の席に戻ってきた。
どうして戻ってきたの?と聞くと、
「どうやらあの席にも乗客はいるようだ。まだ乗ってきていないだけらしい」
そういえば、出発時刻の21:45になろうとしているのに、機体が動く気配がない。
みんなを待たせやがって、いったいどこの国の団体客だよ?日本か?香港か?

答えはスリランカだった。
みんな悪びれる様子もなく席に座る。
やれやれ、ようやくコロンボに向かうな・・・

大間違いであった。
遅れてきた30名のスリランカ人どもが席を立ち友人の席で立ち話をはじめるは
通路で記念写真を撮り始めるはサッカーボールでキャッチボールを始めるは
もうどうしようもない状態になってしまった。
タイ航空のスッチーやパーサーまでもが総出で彼らを着席させようとするが、
興奮しているのか(何に興奮しているのだ?)なかなか言うことを聞かない。

10分後ようやく全員を着席させ、飛行機は約20分遅れで離陸した。
離陸したらしたらで相変わらず奴らはうるさい。
頭上のシートベルト着用ランプが消えた瞬間、
「全員が」一斉に立ち上がり、みな思い思いに大声で立ち話を始めた。
周りの乗客は皆うんざりした顔をしたまま無言を貫く。
他の乗客は奴らに何を言っても無駄だということを悟ったのだ。
隣のシンガポール人は肩をすくめ、あらかじめ用意していたとしか思えない耳栓をつけて眠りに入った。

スリランカ人団体の狂乱は食事中も続いた。
1人が唄い始めると、数人の合いの手が入り、
何人かはナイフとフォークで容器をチンチンとリズムよく叩く。
僕は心の中で、機内に突然ハイジャック犯が現れ、こいつらを全員射殺してくれないかな。
行き先はもうスリランカでもアフガニスタンでもどこでもいい、と真剣に考えた。
もちろん正義のハイジャック犯など現れるはずもなく、なすすべもなく狂乱の宴が終わるのを待った。

もう客室乗務員達も彼らを止めようとはしなかった。
ところが、ある一瞬を境にあれだけうるさかった連中が突然大人しくなった。
一体どうしたんだ、と思って振り返ると、皆シートにぐったりともたれて眠っている。
狂乱の宴が終了したんだな。
ようやくゆっくりできる、と思った瞬間
「あと30分でコロンボに到着します」のアナウンス。
疲れがさらに溜まった。

コロンボにはどういうわけか定刻通り到着した。
空気を読んだ機長が一刻も早く目的地に行かせたのだろうか?
入国手続きを終えた頃、時刻は24時を過ぎていた。
いまからコロンボ市内に向かう交通機関はない。
空港内の銀行で両替をした後、横並びのベンチでバックパックを枕に朝が来るまで空港内にいることにした。

***

空港に5時間も6時間もいることは嫌いではない。
空港内を歩き回ったり本を読んだり軽食をとったりするだけなんだけど、
どういうわけか空港では無駄に時間を費やすことが多い。
空港内のベンチで夜を明かすことも何度もある。
ぬるいコーヒーを飲みながらベンチに座って
CNNヘッドラインニュースを何度も何度も何度も見ることも慣れっこだ。
利用客も減り、エアコンが効いた無機質な夜の空港の雰囲気が大好きだ。

2003年7月17日 バンコク

2005年08月07日 | 2003スリランカ
エアコン付きの部屋は非常に快適だけど、冷えすぎる。
付けっぱなしにして寝るので、寒さで夜中に何度か目が覚めた。
しかも、ダブルルームは道路に面しているので車やらトゥクトゥクやら馬鹿白人の絶叫で眠れない。

何度も目が覚めながらも9時半に起床。
シャワーを浴びた後、宿のオーナーにシングルにいつ移れるのか聞くと、
幸いなことに、シングルを利用していた旅行者はすでにチェックアウトしていたので、
すぐさま部屋を移ることが出来た。
新しい部屋は小さいながらもエアコンに加えてファンも付いていた。
昨日のダブルの部屋と比べるとエアコンの効き具合がちょっと弱いかな、
と思ったが、寒すぎて眠れないよりかはマシだ。
道路にも面していないので静かなのも良い。

Tシャツとパンツを洗濯し、屋上のスペースに干す。
お腹がすいたので10Bバミーを食べに行く。
昨日も10Bバミーを食べようとしたのだが、タイ人でいっぱいだったために席がなかった。
今回は時間帯がずれているせいか客も数人しかいなかった。
3年ぶりに食べる10Bバミーの味は全く変わっていなかった。
正直、どこの屋台で食べるバミーとそんなに変わりは無いのだけれど、
安さと店主の笑顔が素敵なのでしょっちゅう利用させてもらっている。

カオサン横の通りのシェーク屋台でレモンシェークを注文。
シェークができるまで屋台の女主人と話をする。
彼女曰く、日本人旅行者の数が少ないのはSARSのせいだ、と言っていた。
まぁ僕もSARSを恐れてラオス行きをやめてスリランカにしたクチだ。
あと2週間もすれば日本からいっぱい旅行者がやってくるよ、と女主人に言うと、
そうなると嬉しいね、と笑ってレモンシェークを僕に手渡した。

暇だったのでバスでイセタンに行こうとするが、乗るバスを間違えたのか、
いつまでたってもイセタン周辺にたどり着かない。
途中で降りてバスを乗り継いでみたが、自分がどこにいるのかさえも見当がつかず、
結局カオサン周辺まで行く49番バスを見つけてカオサンに戻る。

バミーとレモンシェークしか食べていなかったせいか、やけにお腹がすく。
以前よく言っていたレックさんラーメンがあった場所に行くが、店はもうやっていなかった。
誰かが移転したよ、とは言っていたが、移転場所を探すのも面倒なので
たまたま目に付いたバーガーキングに入るが、僕は何も注文せずに外に出た。
高すぎる。昨日の竹亭と比べても高いと感じる。

バーツが足りなかったので両替屋でUS$のチェックをバーツに両替する。
$100=4121B。

うだうだしていたらいつの間にか夕方になっていた。
僕は昨日と同じく竹亭に行き夕食を取る。
明日からスリランカに行くというのに、どういうわけか(日本の)カレーライスを注文する。
日本人のオーナーからも「明日スリランカなのにカレー?」と不思議がられる。
とにかく、今日はカレーなんですよ。よくあるでしょ、そういうのって?

4冊ある情報ノートに目を通し、スリランカ情報を探すが、ロクな情報が載っていなかった。
情報ノートというよりも「思い出ノート」と化している。

例その1
「2週間の予定でタイとカンボジアを周りました。も~最高!卒業旅行にタイを選んで良かったぁ~。○○ちゃん、卒業してお互い社会人になっても、仲良く2人で海外旅行しようね 竹亭最高!」
××大学 A美

例その2
「海外を旅して感じること。それは四方を海に囲まれた我々日本人が陸の国境を自分の足で越えることで感じる世界の大きさと文化の多様性。大学生になったら全員海外に出ると良い。なぜなら自分自身を更に深めることができるからだ」
▲▲大学▽▽学部~~ゼミ B介

楽しい記憶や自己陶酔哲学はいいから、安宿情報や食事スポットとかを書けよ。
情報ノートはてめぇらの日記じゃねぇんだよ。
情報を書いて思い出を書くのはまだ許す。

それにしても、バンコクからスリランカに行く旅行者って少ないんだな、と改めて感じた。

***

情報ノートには上記のように自分の楽しい思い出を
数ページ(!)に渡って書き連ねる輩が大変多いので
情報を求めてノートを読む旅行者にとってはなんだかなぁと思うのだ。
僕が1年間旅をした99年はインターネットが海外の観光地で爆発的に普及したころなので、
メールやネットで情報を仕入れる人もいれば、僕のように旅行中にメアドを取得して
仲の良い旅行者と待ち合わせたりすることが可能になって大変便利にはなったが、
情報ノートの情報はまだまだ有益性があった。
たとえそれが半年前の情報だとしても、情報提供者のセンスいかんで
それらは大変魅力的な「生の」情報になるのだ。
情報ノートの恩恵を受けた旅行者は、自分が得た情報をどこかの国の
どこかの宿やレストランにある情報ノートに書くことで情報提供の輪が生まれた。
中には情報ノートに情報を載せること生きがいにしているのでは?
と思いたくなる有名バックパッカーもいたりする。
僕が旅行していた頃はダメ人間友の会No.3のフクさんだった。
フクさんの情報には幾度もお世話になったなぁ。

2003年7月16日 バンコク

2005年08月07日 | 2003スリランカ
昨晩カフェで日本人旅行者に宣言したとおり、今の宿を移ることにする。
7時半に起床するが、夜中に何度も目が覚めたのでいまいち寝た感じがしない。
いくら夏のバンコクでも、明け方になると幾分涼しくはなるが、
やはりカリフォルニアにように心地よく眠ることは困難だ。

シャワーを浴び、8時過ぎにチェックアウトする。
新しい宿はカオサン通りをやや外れたFirst Guest House。
あいにくシングルはいっぱいで開いてなかったが、今日はダブル350Bに泊まり、
明日シングルが開くのでそこに移ることで交渉成立。

いやー、やはりエアコンがある部屋は快適で良い!
昼過ぎからカオサンで買い物をする。肩掛けバッグとTシャツを2枚買う。
100B程度のTシャツを280Bといい、かつほとんど値下げしない店もあって腹が立つ。
なんだかカオサンの物価も次第に上昇している雰囲気だ。
しょせん100B以下かその程度のものだろ?カオサンプライス。

昼食をとりにウワサの竹亭に行く。きれいな店内、だけど客が数名しかいない。
レックさんラーメンであれば昼でももう少し客がいたと思うんだけどな。
情報ノートを読みながらカツ丼を食べる。うむ、レベルが高い。
会計の時にカツ丼100Bと言われる。あれ?カツ丼は70Bじゃなかったっけ?
メニューをもう一回見せてもらったが、やはり100Bだった。
久しぶりの東南アジアの暑さにやられているのだろうか?

その後はカオサンのカフェでロンプラを読みながらフルーツジュースを飲み、
エアコンがガンガンに効いた宿の部屋でまったりと過ごす。
夕食はパッタイとすいかのジュースのみ。

宿に戻る途中、カオサンのコンビニの前で口ゲンカか始まる。
黒人対タイ人の異種格闘技戦か?肉弾対刃物か?
一触即発の雰囲気に思わず「やっちまえ」と声を上げるイスラエル人。
「どっちが強いと思う」とそいつに聞かれ
「1対1じゃ黒人だけど、東南アジアの連中は後から集団でやって来るからタイ人かな」
と、くだらない話で盛り上がっていると、警察官が2人やってきてその場を解散させた。
面白くない。
帰りにそのイスラエル人から「今ヘロイン持ってるけどお前もやらないか?」と聞いてきた。
「ガンジャだったら好きなんだけどね」と言って断り、バスでパッポンに向かう。

昨日と同じ店で昨日と同じ本上まなみ似の女の子にせまられる。
「店通さなきゃ800Bでいいから」と、昨日より200Bディスカウントされていたが、
今回は女の子と楽しむ予定ではないのでやんわり断る。
どうして楽しむ気持ちがない時に限って言い寄られるのだろうか?
マーフィーの法則バックパッカー編。

***

7月中旬のバンコクはまだ大学生の夏休みが本格的に始まっていないせいか、
日本人旅行者の数が思ったほど少ない。
まぁ、学生以外の長期旅行者は相変わらず多いが、
日本人以上に韓国人旅行者の多さが目に付いた。
カオサンで売り子のタイ人と喋っているときに
「お前、日本人と韓国人の見分けがつくか?」と質問してみた。
すると「ああ。サンダル履いて肩掛けバッグをしているのが日本人で、
スニーカーにデイパック、横に長い眼鏡をしているのが韓国人だ」と即答。
さすが商売人。それぞれの外見的特徴をうまく捉えている。
「日本人も韓国人もヨーロピアンみたいに値切らないけど、
そのかわり1~2個しか買って行かないからねぇ」とはその売り子の発言。