流雲片々   ~ 香川県・高松市 曹洞宗 祥福寺 ~

おりおりの風光とよしなし事を思いつくままに。栗林公園の南西、小高い山の中腹に閑居する禅寺和尚の雑記です。

森村泰昌モリエンナーレ

2010年09月06日 | 日記
4日、閉幕ギリギリになって
高松美術館で開催されていた
「森村泰昌モリエンナーレ・まねぶ美術史」に足を運びました


芸術がわかるか?といわれれば「さて?」となってしまう和尚ですが、
彼の写真シリーズに魅かれたのがきっかけで、以後、気にしている芸術家です
その彼のこれまでの軌跡をたどる展覧会ということで興味深々で出かけました

今日の一文
「まねぶとは、まなぶこと・まねること」という今回の展示場の入り口に掲示してあった言葉をメモしたので、少々お付き合いを・・・

美術を志すひとがいたら助言したい。やればなんとかなるさ、とね。

ひとつめ
ともかく熱中することだ。
へたでもなんでもいい。一生懸命やってみる。
この一生懸命の記憶が焼きつくと、死ぬまで忘れない。
忘れられなくなってしまえば、もうつきあっていくほかはないだろう。
一生懸命が運命の出会いを生むのである。

ふたつめ
くるしみを味わうこと。
私は子供を産んだことがないのでわからないが、でも作品を生むくるしみは、ずいぶん経 験してきた。
その苦しみに耐えられるかどうかが、わかれめだ。~中略~
逃げだすくらいなら、もう美術はやめたほうがいい。
あなたが美術にむいていないという証拠だから。

みっつめ
「まねぶ」こころの持ち主になること。
「まねぶ」とは、「まなぶ」と「まねる」、両方の語源となる古語である。
つまり、「まねる」ことと「まなぶ」ことは、本来おなじ意味なのである。~中略~
「あぁ、いい絵だな」と感じたら、おなじような絵を自分もやってみたくなる。
その絵を描いた画家の気分に自分もなってみて絵を描いてみたくなる。
模写ではないので似てなくていい。
似せるのが目的ではない。
似せるのは手段である。
目的は、気分を味わうことだ。
そうやって、自分の好きな画家が味わった感動をまなぶのである。
~中略~
まねて、まなんで、今の私がここにいる。

奇才、森村泰昌にしてこの言葉、もって銘すべし。と
入り口でかなりの時間を費やして、メモした言葉です。
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