日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

大塚家具分裂 

2017年06月25日 10時32分36秒 | 社会問題
結局、大塚家具は分裂の道を選んでしまったようです。

もし、大塚久美子氏に父を尊敬する気持ちがあれば、大塚家具から独立して低価格路線の新ブランドを立ち上げ、父と長男率いる高級志向の大塚家具と切磋琢磨できたことでしょう。

それを中途半端に「大塚家具」のブランドのまま、低価格路線に移ってしまったから従来の客も新しい客も失ったのです。


 だが、2016年12月期決算は過去最悪の45億円の最終赤字を計上。17年1~3月期も8億円の最終赤字に沈んでいる。「低価格路線に転じたと誤解され、従来の顧客が離れた」。久美子氏はこう反省の弁を述べたが、半端な改革ではニトリなどに太刀打ちできないとの見方は強い。

大塚家具「創業地戦争」1年 続く親子げんか…共倒れ懸念も

6/24(土) 8:15配信 SankeiBIZ

 経営方針をめぐり、創業家の父と娘が対立した「お家騒動」に揺れた大塚家具。創業地の埼玉県春日部市で父娘対決の“第2ラウンド”が始まってから今月29日に1年を迎えるが、歩み寄りの兆しは見えない。「壮大な親子げんか」とも揶揄(やゆ)された対決の最終的な軍配はどちらに上がるのか。両者が火花を散らす最前線・春日部を訪れて探った。

 ◆従業員より少ない客

 「あの呪縛から、もう逃れたい。新しい姿を見てほしい」

 経営権を争った父娘対決の第1ラウンドに勝利した大塚家具の創業家長女の大塚久美子社長は騒動について、こう内心を吐露する。

 だが春日部には、同社の創業者で父の大塚勝久前会長が設立した高級家具販売「匠大塚」の旗艦店「春日部本店」が昨年6月にオープン。数百メートル離れた場所には、大塚家具の「春日部ショールーム」があり、今もにらみ合いが続く。

 春日部駅(東武伊勢崎線・野田線)東口より徒歩7分の匠大塚の旗艦店を今月の週末の午後訪ねると、来店客は10人余りと従業員よりも少なく店内は閑散としていた。

 同店は西武春日部店の閉店跡に入居。7階建て建物の1~5階を使った売り場は約2万7000平方メートルと家具店としては国内最大級で、約1万8000点の家具が間取りをイメージしやすいよう余裕のある並べられ方をしている。勝久氏が大塚家具時代にこだわった会員制は採用されておらず入りやすい。ある男性客(65)は「頻繁に買い替えるわけでないから、良い家具をそろえたい」と熱心に品定めしていたが、国内外からえりすぐった100万円超の高級品が売りとあって、大にぎわいというわけにはいかないようだ。

 一方、駅西口から徒歩2分の大塚家具のショールーム。1フロア約2700平方メートルという1~4階の売り場を見渡せば、客層は若い印象だ。

 店内には3月から本格始動した中古家具のコーナーもあり、新品より2~6割安く購入できる。「リユースでも質が良いならお得感がある」(30代女性)と、客の反応は悪くない。

 ただ、客数は匠大塚より若干多いといった程度。会話の糸口を探る従業員のハングリーさは、こちらの方が強い。匠大塚について従業員に聞くと、「互いにリスペクトしながらやっていければ」とだけ答えた。

 ◆業績非開示の勝久氏

 果たして“春日部戦争”の勝者はいずれか。地元の商工関係者によれば「両社とも繁盛しているとはいい難い」という。「(春日部から電車で約30分の)新三郷のイケアやニトリに流れる客は少なくない」(地元飲食店)との声も聞かれた。そもそも、久美子氏と勝久氏が対立した背景には、低価格の家具やインテリアを販売するニトリやイケアの台頭がある。久美子氏が業績不振に陥った勝久氏の高級路線からの脱却を図ったことが対立のきっかけだった。

 勝久氏の匠大塚は業績を開示していない。ただ、春日部の旗艦店に先立ってオープンした東京・日本橋のショールームも含めて基本的に大塚家具の高級路線を引き継いでいる。そのため「富裕層を中心に一定の顧客基盤を保っているはずだが、それを長男・勝之社長が広げられるかどうかは未知数」(アナリスト)だ。

 ◆過去最悪の最終赤字

 これに対し、久美子氏率いる大塚家具では、勝久氏が築いたマンツーマンの接客や会員制販売を、顧客の心理的な負担となるとの理由で取りやめたほか、高価格帯の売り場を減らし中価格帯を手厚くした。

 だが、2016年12月期決算は過去最悪の45億円の最終赤字を計上。17年1~3月期も8億円の最終赤字に沈んでいる。「低価格路線に転じたと誤解され、従来の顧客が離れた」。久美子氏はこう反省の弁を述べたが、半端な改革ではニトリなどに太刀打ちできないとの見方は強い。

 少子化と新設住宅着工戸数の減少により、家具の需要は縮小が続く。こうした中でも好調なニトリや良品計画について、ドイツ証券の風早隆弘シニアアナリストは「ソファに合わせるクッションから本棚に飾る観葉植物まで選べる『ライフスタイル提案』が支持されている」と分析し、大塚家具は「一朝一夕にはまねられないだろう」とみる。

 父娘の対立が続けば、いつまでも負のイメージが払拭できないとの指摘もあり、このままでは「共倒れ」の懸念もくすぶる。(山沢義徳、黄金崎元)

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(↑一番、正論だと気に入ったコメントです。)

大塚家具問題については2年前に記事にしたことがあります。

大塚家具内紛と豊田綱領
http://blog.goo.ne.jp/shishisamurai/e/7c65785ca9c03d78c8c9e385c05b7a76


大手家具メーカー大塚家具で、経営方針の対立から創業一族が分裂しようとしています。

大塚家具の歴史

1928年(昭和3年) - 創業者大塚勝久の父で桐箪笥職人の大塚千代三が春日部で桐箪笥工房を立ち上げる。
11月 - 株式会社不二越銃砲火薬(後の株式会社大塚家具)設立。
1953年(昭和28年)5月 - 大塚千代三の箪笥を専門に扱う合資会社大塚箪笥店を春日部に設立。
1969年(昭和44年)
3月 - 大塚勝久が大塚箪笥店から独立し、埼玉県春日部市にて、社員24名の株式会社大塚家具センターを設立、代表取締役社長に就任。
4月 - 春日部駅西口に1号店開店。
1972年(昭和47年)8月 - 販売部門を株式会社桔梗として設立し、春日部駅東口で営業を開始。
1978年(昭和53年)
7月 - 休眠会社だった株式会社不二越銃砲火薬店が株式会社大塚家具に商号変更。
12月 - 株式会社大塚家具が、株式会社大塚家具センター、株式会社桔梗及び不動産業になっていた合資会社大塚箪笥店の3社を吸収合併。東京都板橋区に本社を移転。
1979年(昭和54年)7月 - 東京都千代田区九段北に本社を移転。
1980年(昭和55年)6月 - 株式を店頭登録。
1993年(平成5年) - 会員制導入。4月の日比谷ショールーム開設を皮切りに、10月までに全店舗を会員制に転換。「IDC大塚家具」の商標の使用を開始。
1996年(平成8年)3月 - 本社を現在の所在地である東京都江東区有明の東京ファッションタウンビルに移転。
2006年(平成18年)9月 - 非連結子会社として秋田木工株式会社設立。
2007年(平成19年)5月8日 - 証券取引等監視委員会が、大塚家具が配当予想の修正を行うという重要事実を知りながら公表前の2006年2月10日から22日にかけて自己株7万9000株を買い付けたというインサイダー取引を行ったとして、金融庁に3044万円の課徴金納付命令を出すよう勧告。
2009年(平成21年)3月 - 創業者の大塚勝久の娘である大塚久美子が社長に就任。
2014年(平成26年)7月 - 大塚久美子社長が解任され取締役に、父の勝久会長が社長を兼任。
2015年(平成27年)1月 - 大塚久美子取締役が社長に復帰。



大塚家具内紛の構図

【会長陣営】

・大塚勝久氏(現役職 大塚家具会長) → 父
・大塚勝之氏(現役職 大塚家具専務) → 長男
・大塚千代子 → 母


【社長陣営】

・大塚久美子氏(現役職 大塚家具社長) → 長女
・佐野春生氏(現役職 大塚家具取締役) → 三女 智子の夫
・大塚雅之氏(現役職 大塚家具執行役員) → 次男
・舞子 → 次女
・智子 → 三女



2015年2月25日に急きょ開かれた大塚勝久氏の記者会見。

大塚家具中の重役たちを背に、会長の大塚勝久氏はこう語る。

「現在 企業価値が棄損」
「このままでは大塚家具の存続にかかわる」
「娘に社長をさせるべきではなかった」
「大塚家具の業績は娘に任せてどんどん下がっている」
「何回アドバイスをしてもいう事を聞かない」


大塚勝久氏曰く、自らが歩んできた高級路線こそが大塚家具の本当のあるべき姿で、今の社長大塚久美子氏が行っている安売り路線は単なるブランド価値の棄損であると明言。


一方、大塚久美子氏も翌日2月26日に記者会見を開き当然反撃をする。


「業績が一時的に下がったのはリーマンショックがあるから」
「むしろ、あのリーマンショックを切り抜けて今は業績が上向き」
「父が言っている高級路線で一部をターゲットにするより、これからは幅広い消費者に大塚家具を知ってもらうべきだ」
「大塚家具としても変貌の時だ」




両者一歩も譲らない戦いに、世間では「大塚家具 内紛問題」としてしばらく騒がれ続けています。


しかし、このような経営難にある時は対立ではなく団結することが筋ではないでしょうか?

企業内紛が長期化すれば、社員は不安を感じ、株価が下落し、消費者は離れていってしまうでしょう。



同じ同族経営でも、トヨタ自動車の例は尊敬すべきものです。


(従五位勲三等 豊田佐吉)


佐吉と息子喜一郎

佐吉と喜一郎の研究スタイルはかなり違っていた。佐吉は職人的な勘と努力で、喜一郎は科学的な分析から発明にたどり着こうとした。だが、この親子は発明という目的の前では、全く他のことは目に入らず、モノを作り出すことに最上の喜びを感じる人間であった。研究スタイルは違っていても、息子喜一郎は佐吉の遺伝子を色濃く受け継いだのである。

喜一郎の小学生時代は全く目立たない子供であった。成績も良くなかった。佐吉はそのような息子を心配したり、将来を考えることもなく、妻の浅子に任せていた。実際、佐吉は息子が学校を下りたら、家の工場の仕事でもすれば良いと思っていた。喜一郎自身は父の佐吉をどのように思っていたかはわからないが、表面的には互いに無関心な親子のように見えたことは間違いないであろう[38]。

佐吉は数多くの織機を発明した。最後の最大の発明となったのが無停止杼換式自動織機である。通常G型織機と呼ばれているものである。この織機の最後の研究をし、完成させたのは喜一郎であった。また特許の申請も喜一郎が行った。それでは自動織機の発明者は喜一郎であるかというと、それは違う。佐吉が職人的な勘と努力で造り上げてきた自動織機の最後の問題点を、喜一郎が科学的な知識を使い完成させたのである。自動織機の発明者はやはり父の佐吉であろう。大きな研究はチームで行わなければ進まない。喜一郎は佐吉と違いチームで研究する知識と才能を持っていた。

佐吉が喜一郎に「俺は織機をやったから、お前は自動車をやれ」と言ったという話を聞くことがある。しかし、そのようなことを言ったという確かな資料はどこにも見当たらない。これは多額の資金とリスクを持つ自動車部門への進出において、社内を押さえるための喜一郎の智恵であろう。

佐吉と思想

二宮尊徳が実践したことを、継承者が広めたものが報徳思想である。報徳思想は明治期になり、報徳社が各地に組織されて大きく広まった。特に静岡県では岡田良一郎により、報徳社が県下に多く開設された。

佐吉が生まれた湖西地区や湖北地区おいても、石原貞藏や袴田孫兵衛という有力者によって報徳社がつくられた。報徳思想では、至誠・勤労・分度・推譲を行うことが重要とされた。これは経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く考え方であった。豊田家においても父の伊吉は熱心に報徳思想を信じて実践した。佐吉自身も自らの規範として報徳思想を行動の原点としていた。

佐吉がもうひとつの心の拠り所としたのが日蓮宗である。代々の豊田家の菩提寺は日蓮宗日什門流八別格本山のひとつである妙立寺であった。そのため、小さい頃から日蓮宗は身近な存在であった。妙立寺には父の伊吉が寄附したことを記した大きな寄進板が掲げられている。日蓮宗の持っている現世救済の精神、あるいは国家主義的な教えを佐吉は常に心の中に持っていたと考えられる。晩年、病気がちであった佐吉は日蓮宗を心の拠り所の一つとしたかもしれない。

豊田利三郎、豊田喜一郎らが佐吉の遺訓としてまとめ、没後6年目の命日に発表されたのが「豊田綱領」である。

豊田綱領
一 上下一致、至誠業務ニ服シ産業報國ノ實ヲ擧グベシ
一 研究ト創造ニ心ヲ致シ常ニ時流ニ先ンズベシ
一 華美ヲ戒メ質實剛健タルベシ
一 温情友愛ノ精神ヲ發揮シ家庭的美風ヲ作興スベシ
一 神佛ヲ尊崇シ報恩感謝ノ生活ヲ爲スベシ


1992年に「豊田綱領」に替わって「トヨタ基本理念」が発表された。これは現代に合った言葉に改められたものであるが、「豊田綱領」の精神を受け継いだものである。

一、上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を拳ぐべし
一、研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし
一、華美を戒め、質実剛健たるべし
一、温情友愛の精神を発揮し、家庭的美風を作興すべし
一、神仏を尊崇し、報恩感謝の生活を為すべし


(参考)
豊田佐吉 wikipedia
トヨタ自動車ホームページ


大塚家具は今こそ「産業報国」と「研究創造」の精神に立った製品開発、「質実剛健」で「家庭的」な会社づくりを「報恩感謝」の心をもって断行するべきではないでしょうか。

(引用終わり)

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大塚家具は豊田綱領に学べ!

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