日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

共産主義と国民社会主義の違い~格差に対する考え方

2016年10月21日 21時34分31秒 | 愛国社会主義/ファシズム(結束主義)
なぜ、「共産主義と国民社会主義の違い」かと言えば、ネット・リアルの両言論で「国民社会主義は共産主義の一種」「ナチスと共産党は同じ」みたいな論調があるからです。









しかし、国民社会主義(国家社会主義)共産主義は全く異なります。

その一つが格差に対する考え方と対策です。

☆格差は良いことか? 悪いことか?

結論から言えば、
もし、世界に完全に格差が無いとすれば人々は努力を止めてしまうでしょう。

どんなに良い仕事をしても、適当な仕事をしても給料が同じという世の中では誰も頑張ろうと思いません。
(現実に東西冷戦において共産主義国が資本主義国に勝てなかった敗因です。)

この点が共産主義国家社会主義が似て非なるところです。

国民社会主義の場合は、

「私は私有財産の保護に全面的に賛成だ。個人がその労働収入の一部を家屋敷の取得、拡張のために使いたいと願うのは当然だ。その屋敷内に工場があったと仮定しよう。原則としてこの工場は国家が経営するより、その家族で経営した方が上手くいく。」
(アドルフ・ヒトラー著「ヒトラーのテーブルトーク」より)




「もし1万2千マルク以上の収入はすべて税金として取り上げられるということになれば、1万2千マルク以上儲ける者がいなくなるだけじゃなく、1万2千マルク儲けようという者もいなくなるだろう。」

「誰でも、能力の大きい者は高い賃金を得るべきであるということを理解する。自分の労働努力で得たものは、公益を害しない程度で、自分やその家族の為に使われるべきである。さもなければ我々は働くことを止めるだろう。」

「あるいは、もし国家が我々に労働を強制するならば、我々は嫌々ながら機械的に、今日のロシアにおけるような、奴隷労働に従事するかも知れない。しかし、その結果、かかる労働は公益にとって何らの成果ももたらさないだろう。」
(ヒャルマル・シャハト著「防共ナチスの経済政策」)





このように、各人の努力による労働報酬を認めるのが国民社会主義です。


共産主義の場合は、

「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」

「共産主義社会は社会的再生産に支障が出ないようあらかじめきちんとした計算がなされるだろう。」


(マルクス著「資本論」)



つまり、労働を共同で行って、報酬も共有するというのが共産主義です。
(これではやる気も起きませんし、サボろうという気持ちにもなります。)

また、「需要と供給」という概念が存在していません。
「あらかじめきちんとした計算」で社会が動くと考えています。

その「きちんとした計算」が外れた結果は全て大飢饉です。


ソ連のホロドモール(ウクライナ大飢饉)


中国の大躍進政策


北朝鮮の千里馬運動


☆共産主義では格差は無くならない
現実に「労働・生産・報酬」を共有することを目指した共産主義国で「格差」は無くなったでしょうか?

ロシアでは、ロマノフ王朝から「赤いツァーリ」に変わっただけ。
支那では、大清帝国から共産党王朝に変わっただけ。
北朝鮮では、李氏朝鮮から金氏朝鮮に変わっただけ。


他にもルーマニアのチャウシェスクやカンボジアのポルポトなどロクな奴がいません。





スターリン以下、歴代ソ連指導者も中共の幹部も、金王朝もみんな人民を貧乏にして自分だけ金持ちになりました。
(日本共産党でも労働者の一般党員に対し、「赤旗」で稼いでる幹部は金持ちです。)





共産主義とは「貴族を吊るして、自分たちが貴族になる。」ためのシステムでしかないのです。

例外として、旧ユーゴスラビア、キューバ、ベトナムでは「共産主義」の理念はある程度実現されました。
少なくとも、指導者のチトー、カストロ、胡志明は皆清廉潔白で真面目な人物でした。(愛国者)


(ヨシップ・ブロズ・チトー)


(フィデル・カストロ)


(胡志明)

彼らの場合、根っからの共産主義者と言うより「愛国者」として「共産主義」を手段として選びました。

チトーの場合は、多民族国家のユーゴスラビアをまとめるため。
カストロの場合は、キューバをアメリカから独立させるため。
胡志明の場合は、ベトナムをフランスから独立させるため。


目的のために「共産主義者」になる方が都合良かったのです。
そのため、これらの国々の指導者は本気で人民に尽くし、人民生活を向上させました。

彼ら「愛国的な共産主義者」というのも国民社会主義の一種ではないかと考えています。

☆「乗り越えられる格差」と「乗り越えられない格差」

格差が存在するからこそ貧者は富者を超えようと努力する訳です。

「乗り越えられる格差」は努力するためのモチベーションになります。

しかし、新自由主義によって超格差社会が進展すると、努力をしても超えられない格差が生じます。







「乗り越えられない格差」では人心に諦めが生じます。

そこで国民社会主義が登場します。

「戦争が終わっても経済のコントロールは政府の手に残しておかねばならない。もし経済が政府の手から離れるようなことになれば、またぞろ私企業は自分の利益のみを追い求めるようになるだろう。」

「人間とは元来エゴイストだ。ゆえに政府による命令、統制なくしては、国家経済が能率的に機能するのは不可能なのだ。」

(「ヒトラーのテーブルトーク」より)

国民社会主義とは異常な「乗り越えられない格差」を是正し、適正な「乗り越えられる格差」を維持する経済思想なのです。


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