というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
■最後の火酒
□後記
最後の火酒
1
__どういうんだろうか、ある時期からのあなたというのは、実に鮮明なんだけど、それ以前のあなたはとても見えにくい。頭の中で像が結びにくいといったらいいのかな。ある時期っていうのは、ほとんど手術をした前後と重なっているんだけどね。何を訊いても、わからない、考えていなかった、そればかりでしょ?
「そうだね。でも、感じてないはずはないんだからね。まったく、どういうんだろう。自分でもわからないよ」
__手ざわりというか、手がかりがないから、逆に、無感動に歌っていたあなたと、ぴったりするところもあるんだけどね。あの頃、デビューした前後の頃のあなたはどういう少女だったんだろう。
「えーと、まず髪を染めていましたね」
__そう言えばそうだ、茶色に染めてたなあ。そう、そのことも、最初ぼくがあなたを好きじゃなかった理由のひとつだったんだ。あなたが〈新宿の女〉でデビューしたとき、髪を染めているのがいやだったんだ。そうだ、思い出した。
「ローカルっぽくて?」
__ハハハッ、ローカルっぽくて。
「フフフッ、クラブっぽくて?」
__染めなくたってよかったのに。せっかく、そんな綺麗な髪を持っているのに、もったいない。
「顔がきついから、そのうえ髪が黒いと、さらにきつく映るからって、いつでも美容師さんに言われるの」
__あの茶色の髪って、あまりよくなかったよ。
「でも、初めてだよ。あたしの髪が茶色かったって覚えていた人。みんな、白いギターに黒く長い髪が印象的で、なんて必ず言うからね。みんなそうだよ」
__人の記憶って、そんなものなんだろうな。
「髪も染めてたし、化粧も濃かった」
__化粧は気がつかなかったなあ。
「若いときはどんなに化粧が濃くてもおかしくないからね。齢をとって濃いとおかしいけど」
__逆じゃないの?
「ううん、そうじゃないの。若い頃は素肌が綺麗だから、どんな化粧をしてもおかしくないんだよ。それに、齢とってから濃いと、人に何を言われるかわからないからね。いい齢して気持悪いとか。楽屋でも、30過ぎて濃いと、もう許されないって感じで罵られるから」
__ハハハッ、そいつはおかしい。しかし、昔の、その化粧の濃かった頃のあなたの顔は、かなり生意気そうに見えたなあ。
「そんなことないよ。可愛かったよ。気性だって、いまと同じくらいよかったよ」
__ほんとですか。
「ほんとだよ」
__その頃のあなたに会ったとしたら、ぼくはその藤圭子を好きになっただろうか。
「どうだろう。たぶん、なったと思うよ。そんなにいやな子じゃなかったから、好きになってくれたと思うよ」
__しかし、言葉は通じたかな。
「えっ?」
__さっき、スペインのマラガの話をしたでしょ。そのとき、あなたは、すごく素直に反応してくれたよね。それでぼくは思うことができた。この人には言葉が通じる、ぼくの言葉が通じるって。あなたの反応に、少し感動したんだよね。
「そうか、あのときだね。いままで、あんな話をしてくれる人はいなかったんだ。外国の話といえば、どこでヴィトンを買ったとか、そんなのばっかし。マラガの居酒屋の話、あたしにはすごく面白かったんだ」
__以前のあなたに、そういう言葉が通じたろうか。
「もしかしたら、そういうことには興味を持たなかったかもしれないね」
__そういうことでなくても構わないんだけど、通じたかな。
「そう、通じなかったろうね。人を内面から理解しようなんて思ったことがなかったから。たとえば、男の人を見るんでも、外見的に自分の好みかそうじゃないかっていうことだけで、まったく何ひとつ見ていなかったみたい。いったい、男の人のどこを見ていたんだろう、いままで」
__いや、外見で見るというのも、決して悪いことじゃない。
「うん、そう、そうなんだけど、外見にも内面が必ずあらわれるはずじゃない。その、どこを見てたんだろう、と思うの」
__なるほどね。あなたも変わってきたんだね。ぼくから見ると、その変り方というのは、人間として、決してよくない方向に行っているとは思えないけどな。
「どうなんだろう」
__あなたは、初期の頃の自分は無心でよかった、とよく言うよね。確かに歌手としてはその通りかもしれないけど、ひとりの女の子としてはどうだっただろう。果してよかったかなあ。
「いいんじゃないかな。それはそれなりに、ぜんぜん幸せだったんじゃないかな」
__それで、いまは?
「しんどいね。こんなに考え込むようになっちゃうと」
__いろいろと悩んだり、迷ったり、考えたり……それが人間として普通だとは思わない?
「思わない。こんなに神経質になって、いろいろ細いことを気にするのは、やっぱりよくないよ」
__そんなに考え込んでるの?
「あっ、そうか。もしかしたら、実はちっとも考えてなんかいないんじゃないって気が、 いまふとしてきちゃったよ」
__ハハハッ。でもさ、何も考えてない女の子なんて存在するのかな。するとしたら、怪物みたいで気味が悪いけど。
「それが存在したんだよ」
__そうか。もしかしたら、あなたは、ある意味で怪物だったのかもしれないね。それが、少しずつ人間になっていった。だから、そんなふうに苦しんだのかもしれない。そうかもしれないね。
「どうなんだろう……」
__いま、どんなことを考えているの、そんなに苦しむほど。
「毎日、毎日、歌っているわけだよね。仕事して歌っている。でも、歌っても歌っても満足できないんだ。昔は、何も考えずに歌っていれば、お客さんがいいとか悪いとか勝手に判断してくれたけど、いまは自分で、ああでもない、こうでもないって考えちゃうんだ。どうしても満足できないから。でも、自分で考え考えしながら歌なんて、とっても歌えるもんじゃないよ」
__考えることといえば、仕事のことが多いの?
「ほとんど、みんな」
__そう。それはしんどいかもしれないね。
「うん」
__私生活の悩みなら、まだ幾分か救われるかもしれないけどね。
「そう、私生活ならしれてるんだけど。こういう世界に生きて、仕事に満足がいかなかったら、つらいよ」
__そうだろうね。
「仕事を25日やって、5日休むとするじゃない。その5日が私的な生活かっていうと、そういうわけには、どうしたっていかないでしょ。その5日だって、仕事のことが頭を離れないし、やっぱり毎日が仕事なんだよね」
__さっき、ノイローゼみたいになったとか言ってたよね? あれは、仕事のことで? それとも、やっぱり、彼とのトラブルが原因で?
「どうなんだろう。みんなは、あの人とのことが原因だと見てただろうけど……それもこれも、みんな、ワァーッと一時に押し寄せてきちゃったんだよね。すべてが虚しくなって……もう、どうでもいいっていうような気持になってぼんやり、死のうかな、なんて思うようになりはじめて……どうやって死ぬのがいちばんいいのかとか、夜になると考えるようになったんだ」
__しっかりしてくれないと、そんなつまらない男のために……。
「だから、それだけじゃないんだって。歌っても歌っても絶望なわけじゃない。歌うのがつらすぎるようになっちゃったんだ。それがいちばんひどくなってしまったのが、デビュー十周年の舞台」
__ああ、日劇でやったという?
「そう」
__大事な舞台だったわけだよね。
「そうなんだけど、舞台恐怖症みたいになって上がれなくなっちゃったんだ」
__そんな感じ、初めてのこと?
「2年前に一度、それと似たようなことがあった。歌を忘れそうになるの」
__歌って、歌詞を?
「歌詞だけじゃなくて、メロディーも忘れそうになるの。全部、わかんなくなっちゃう。舞台に立つと、突然、忘れてしまうんだ。それは、〈新宿の女〉だろうが、〈夢は夜ひらく〉だろうが、おかまいなく、急にやってくるわけ。そういうことが、4度か5度、続いたんだよね。自分で自分が怖くなった。もう、恐怖なんだよね、また忘れるんじゃないかって。そう思うと、舞台で体がすくんじゃうんだ。ほんと、そうなると、どうしていいか、わかんなかった」
__思い出そうとして、焦っちゃうのかな。
「違うの。頭の中が空っぽになって、無になって、ボォーッとしちゃうんだ。あっ、またなる、またなる、また病気になる、って。ほんとに悩んだよ。怖かった」
__怖かった?
「怖かったよ。何度、舞台から逃げ出そうとしたかしれないよ。舞台が終って、付き人の艶ちゃんなんかに訊くの。ちゃんと歌ってた、あたし? ええ、って艶ちゃんが言うから、ほんとに、ってまた訊くわけ。どうしてそんなこと訊くんですか、ちゃんと歌ってましたよ、って言われるんだけど、そんなはずない、と思うわけ」
__それは確かに、少しひどかったね。でも、そういうことは、人前に身をさらす仕事をしている人には、起こりうることなんだろうけどね。
「日劇のときはそれよりひどかったんだよ。そのショーではね、オープニングは、あたしがセリで舞台に出ていくということになっていたんだけど、舞台にどうしても上がりたくなくて、逃げ出したくなっちゃったんだ」
__セリで上がるときに?
「そう。もう、開演のベルは鳴っていて、お客さんは、さあ、と待ち構えているのに、どうしてもいやだって、大声で泣き叫んじゃったんだ」
__奈落で?
「そう。近くの柱にしがみついて、出たくない、もう歌いたくないって。艶ちゃんも、泣かんばかりに、どうか出てください、なんて言って、大変だったんだよ」
__驚きですねえ、その話は。
「信じられないでしょ。でも、自分でも混乱してるのがよくわかっていたんだけど、どうしてもいやだったんだ」
__で、どうしたの?
「そこがあたしの駄目なとこなんだけど……みんなに迷惑がかかるわけじゃない、わがままを通せば……それを思って、どうにかセリに乗ったんだ」
__そうか……。
「ところがさ、セリが上がると、舞台でパッと決められたとおりのことをしちゃったりして。歌手っていうのは恐ろしいですねえ」
__ハハハッ、恐ろしいです、まったく。
「日劇が終ったときは、ほっとしたよ」
__そんな状態がしばらく続いたわけだね。それはいつ頃のこと?
「この春から夏にかけて……」
__大変だったね。
「夜になると、じわっと死ぬことが頭の中に入ってくるんだよね。あたしが死んだら、お母さんはどうするだろう、なんて、そんなことばかり考えちゃうんだ。いま考えれば、阿呆みたいだけど、ね」
__どうやって突破したの、その、かなり深刻な落ち込みを。
「うん。まず、馬鹿らしい、と思ったんだよ。こんなことで悩むのは馬鹿らしい、ってね。だってそうじゃない、男の人はつまらない人ってわかったわけじゃない。それは、あたしに男の人を見る眼がなかった、というだけのことでしょ。歌を歌うのが辛い、絶望だ。だったら、やめればいいわけじゃない。簡単なことではないですか。そう思ったの。そう気がついたの。歌わなくなれば、お金が入ってこなくなる。確かに、それはそう。でも、昔は一銭もなくたって、生きていけたんだよね。それがいまは、半年か1年、食べていかれるだけのお金を持ってる。それだったら御の字じゃないか、と思ったんだ。御の字だよ。明日、一日だけでも暮していけるお金があるなら、ありがたいくらいなことではないですか。沢木さんも、そう思うでしょ?
__思うね。
「だったら、何をビクビクする必要があるんだろう。確かに、ここ何年か贅沢をしてきたよ、あたしは。ネックレスも指輪もブレスレットも増えた。でも、もういらない、と思ったの。この、お母さんに貰ったネックレスひとつあれば、あとはもう何もいらないじゃないか、と思ったんだ。どんなことしたって生きていける。それなら、歌をやめることを恐れることはない……」
__あなたは実に健康的な人ですねえ……。
「洋服だって、宝石だってほしくない」
__そういえば、あなたは、身になにもつけていないもんね、装飾品を。ネックレス以外……それかな、お母さんにもらったというのは。
「うん。そのとき以来、身につけるのはこれひとつで沢山だ、と決めたわけ」
__シンプルで、すごく似合ってる。
「ありがとう」
__しかし、それにしても、よく決心できましたね。やめるっていうことは、あなたがいま言っているほど、簡単なことじゃないだろうからね。
「やめることは、もうずっと前から考えてたんだ。喉の手術をしたあと、ずっとね。でも、そこでやめても、家のローンが残っていたし、暮していけないじゃない……暮していけなかったの」
__いまならやめられる?
「なんとかね。でも、あたしはやめるつもりで、お母さんにはずいぶん前から話してあったんだ。引退発表なんかしないで、静かにそっとやめていきたかった。仕事をやらなくなれば、藤圭子、ああそんなのいたっけなあというくらいで消えていくことができるでしょ。そうすればいいと思ってた」
__お母さんは、やめると言ったら、何とおっしゃった?
「純ちゃんがそれで幸せになれるなら、お母さんは反対しないよって」
__それ、本音かな。
「本音だと思う。お母さんは、やっぱりあたしの幸せが一番大事だと思ってくれているんだ。酔えばもう少し違うことも言うかもしれないけど……でもね」
__酔えば、どんなことを言うのかな?
「あたしの月給って、何百万円かあるわけでしょ。それが銀行に振り込まれるんだけど、月給日になると銀行の人が札束を持って、お母さんのところに来るんだ。お母さん、眼が見えないでしょ、それを手に取って、数えるわけ。札束を手にするというのって、それはとても気持がいいんだって。ああ、もう、あと1回か2回しかあの気分は味わえないんだね、なんて酔うと冗談で言うの」
__そうか。それは気持いいだろうからね。
「やっぱり、少しは不安になるらしいよ。だから、お母さんには絶対に心配はかけないから、いざとなったらなんでもするから、と言ってあるんだ」
__でも、できることならそっと消えていきたかったわけでしょ。それがどうして記者会見なんかすることになったの?
「スポーツ新聞に、藤圭子引退か、と出ちゃったの。ぜんぜん、そんなこと洩らさなかったのにね。それで仕方なく、やろうということになって……」
__どこから洩れたんだろう。あなたがしゃべったわけじゃないんでしょ?
「それはね、あの人たちがやっぱりすごいんだよね。あたし、今年いっぱいでやめようと決心していたから、来年以降の仕事はとらないでって事務所の人に頼んであったわけ。だから、スケジュールが真っ白なわけよ。それで出入りの芸能記者が、これはどういうことか、ということになったんじゃないかな」
__そうか、少なくとも、事務所の人は知っていたわけだ。もちろん、誰がしゃべったというわけじゃないけどさ。
「うん。カルーセル麻紀さんも、同じ事務所なんだよね。とても仲がいいの。さっぱりした男みたいな人で……えーと、そういう言い方ってあるのかな、もともと男の人なんだからね、でも、とにかく気持がいい人なの。その麻紀さんが、事務所の人から聞いたんだけど、って引退発表のだいぶ前に心配して来てくれたことがあるの。麻紀さんはね、絶対にやめたらいけないというわけ。純ちゃん、やめたら駄目よ、あたしたちみたいな貧乏人がようやくこうして贅沢ができるようになったんじゃない、おいしいものをどんどん食って……麻紀さんは食ってって男みたいな口調で言うんだけど……綺麗なものじゃんじゃん買って、そうやって生きていけばいいじゃない。あたしたちみたいな貧乏人の生まれが、やめるなんていったら絶対にいけないよ、疲れたなら休むと言えばいいの、休みなさい、って真剣な顔で言われたんだ」
__彼女の言うことはよくわかるな。
「そうなんだ、あたしもよくわかる。でもね、あたしもできる贅沢はしたし、よい品物と悪い品物とはどう違うのかってことがわかるくらいには、高価な物も買ったけど、結局、あたしには、そんなに高い物は必要ないし、贅沢のために居たくないところに居る気はしないんだ。居たくないっていうことに気がついたんだよ。でも、麻紀さんの言うことはよくわかるから、そのときは、うん、と言っていたんだけど」
__彼女にとっては、贅沢というのが人生のひとつの目的であるわけだ。
「うん、それでね、その翌日だったかに一緒にテレビに出たんだ。二人で行動しているのを隠しカメラでとるとかいう、ちょっとどうでもいい番組なんだけど、二人でカメラの人たちをまいちゃって銀座に出たの。麻紀さんが洋服を見るから一緒に来てというので行ったわけ。いかにも高そうな店に入って……あたしはただ麻紀さんについて行っただけだけど……麻紀さんがほしそうに見ている服が一着あるの。あたしが見ても素敵なんだよね。何気なく値札を見て、ああ7万円か、まあまあいいな、なんて思ってもう一度よく見ると、ゼロが一個多いの。70万なんだよね。でも、麻紀さんは、いいわ、それもらうわって言うわけ」
__すごいね、70万もする服を着るわけか。
「贅沢だって思う?」
__ぼくなんか、パンツや靴下を入れたって、この服装全部で1万円もかかっていないからね、やはり70万の一着というのは驚異だよ。
「でもね、麻紀さんにとっては、70万の服を着てるってことが、生きるハリなんだよね。それを着て、シャンとしたいから、働いているんだよね。それはちっとも悪いことじゃないと思う」
__もちろん、誰も悪いなんて言えないさ。
「あたしはそういうことのために働くつもりはない、というだけなんだ」
__しかし、あなたのその思いは、人にはなかなか伝わらないだろうな。
「そうなんだ。なぜやめるの、と訊かれて、正直に答えるんだけど、誰にも信じてもらえない。愛情のもつれですか、なんて当人に訊くんだからマスコミの人っていうのもすごいよね」
__ほんと、すごいよな。
「それとか……結婚」
__プロダクションの移籍、っていうのもあったよね。
「そう、それも多いね」
__ぼくの友人の、元・芸能誌記者に言わせると、新栄プロダクションがいやになったからではないかという説が有力だとか。
「いやになるね。どこでやっても同じ。そういうことじゃないんだから」
__記者会見じゃ、みんなからギャーギャーやられた?
「そうでもなかったよ」
__テレビで見ると、せきこむようにしゃべっていたようだったけど、上がっていたのかな。
「どうだろう。あとでVTRを見てみると、どういうわけかニコニコ笑ってるんだよね」
__そういえば、テレビのキャスターが、こういう場面には涙がつきものなんですが、とか不満そうに言ってたなあ。
「新栄の社長がね、自分は引退には反対していたが、こうして引退するということになってみると、むしろ嬉しいと言ってくれたの」
__その場で? でも、それはどういう意味?
「社長はね、やっぱり引退は思いとどまらせようとしていたわけなの。だから、前から一度ゆっくり食事をしながら話し合おうと言ってたんだけど、いろいろの都合で会えないうちに、こんなふうになってしまったわけ。引退発表をしてしまえばおしまいだから、社長も迷ったと思うんだけど、こう考えたんだって。別にうちをやめてよそのプロダクションに行くというわけでもないし、歌手というのはいつまでもダラダラ歌っていって、みじめになっていつやめたかわからないような消え方をするのが普通だ。でも、純ちゃんみたいにまだまだ歌えるのに惜しまれながらやめていくなんて、歌手としてこんな幸せなことはない。みんなそうしたいけど、できないままにボロボロになっていく。それなら拍手をして送り出そう、ってそう言ってくれたわけ。おめでとう、って」
__それはよかったね。少なくとも、事務所の人たちは理解してくれたわけだ。
「まあ、ね」
__それでも、もめてやめるより、よかったじゃないか。
「それはそうだね。言い出せば、いろいろあるんだけど……」
__でもいいじゃない、そんなの。どうせ、もうやめちゃうんだから。
「うん」
__これはもう、どうでもいいことなんだけど、やめる前に、もうひとつ、大きな花を咲かせてからやめよう、という気持はなかった? 要するに、一発ヒット曲を当ててから華々しくやめてやろう、というような。
「それはなかったな。そうすれば、ますますやめにくくなるだけで、あたしにとって、少しもいいことじゃないもんね」
__そうか、それはそうかもしれない。
「記者会見をして何日かして、タクシーに乗ったんだよね。運転手さんは個人タクシーのおじいさんだったんだ。乗って、しばらくしたら、話しかけてきたんだよね。ほんの短い距離だったんだけど、その、降りる間際に、急に話と関係なく言い出したんだよね。あの、歌い手の藤圭子っていう子も引退するらしいけど、無理ないよな、やめさせてあげたいよな、って」
__あなたが藤圭子だっていうことを知らずに?
「うん、ぜんぜん気がついていないの。あの子がやめたいっていうのは無理ないよな、ってあたしに話しかけるんだから」
__へえ。 でも、それは嬉しかったね。
「うん、嬉しかった、とても」
__きっと、あなたの話す声かなんかで、無意識に藤圭子を思い出したんだろうね。しかし、世の中、実に楽しいことが起きる。
「ほんとだね」
__ほんとだ。
【解説】
ある意味で怪物だったのかもしれないね。それが、少しずつ人間になっていった。だから、そんなふうに苦しんだのかもしれない。そうかもしれないね。
上手に歌を歌う、感情のない「怪物」だった少女が、大人になり、少しずつ人間になっていった。
いろいろクヨクヨ悩むようになり、とうとう歌を歌えなくなってしまう。
藤圭子が引退を決意するまでの心の動きが、伝わってきます。
獅子風蓮