獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

藤圭子へのインタビュー その27

2024-03-06 01:55:29 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
■最後の火酒
□後記


最後の火酒

   4

__あなたの引退をテレビで知ったとき、星、流れるって、思ったんだ。

「星、流れる?」

__小説家でね、玉砕という言葉を使って〈玉、砕ける〉っていう題名の小説を書いた人がいるんだよ。

「玉砕って、負けちゃうこと?」

__そう、玉というのは中国の宝石で、その玉が粉ごなに砕け散ってしまうことなんだけど、ぼくはね、流星って言葉が思い浮かんだんだ。

「流星……流れ星?」

__流れ星。あなたを、流星ひとつ、と声に出して数えてみたいような気がしてね。

「流れ星か……あたし、まだ、見たことないな」

__えっ?

「一度も見たことない、流れ星を」

__ほんと?

「ほんとだよ。流れ星を見たら、願いをかけるとか、みんな言うじゃない。でも、あたし、見たことない」

__だって、あなたは旭川で育ったんでしょ。

「そうだよ」

__空は澄んでいたでしょ?

「さあ……どうだったかなあ」

__あなたは、子供時代、何を見ていたんですかねえ。

「何も見ていなかったのかもしれないね」

__これだからなあ。ほんとに参りますね、インタヴュアーとしては……。

「それがあたしの子供時代だったんだから、仕方がないよ」

__それはそうだけど。

「北海道は……もう雪だろうな……」

__帰りたい?

「帰りたくない」

__やっぱり、東京がいい?

「わからないけど、もう北海道には住みたくない」

__寒いから?

「うん……」

__雪は嫌い?

「嫌い。降ってるときはいいんだよ。でも、あの雪解けのときがいやなんだ。汚いんだよ」

__でも、北海道は故郷でしょ?

「あたし、北海道が故郷とは思えないんだ。故郷なんて、どこにもないんだよ、あたしには」

__そう……。

「もう冬だね。……小さい頃、よく手伝わされたなあ。北海道って、冬のくる前に、やることがいっぱいあるんだよね。薪なんか、よく拾いに行ったなあ」

__薪拾いか。

「あたしたちは、薪拾いだと思ってたんだよね、あれは工場に薪拾いに行ってるんだ、って。でも、いま考えてみると、その薪は工場の所有物じゃない、それなのに拾いに行ってこいと言われて……持ってきちゃったわけだよね、結局」

__ハハハッ、つまり、失敬してきていたわけだ。

「子供だから、薪拾いを手伝ってると思っているわけ」

__暖房用?

「うん、薪ストーブの頃だね」

__北海道は、あなたにとって、もう遠いのか……。

「うん……そうだ、でも、このあいだ、友達と会ったんだ、中学時代に仲のよかった友達2人と」

__そう。

「偶然なんだけど、2人とも札幌に出て来ていて、同じ会社に勤めている男性と結婚していたの」

__社内結婚?

「ううん、旦那さん同士が同じ会社だったの、偶然に」

__偶然に?

「二人とも知らなくて、会って驚いたんだって」

__へえ、面白いね。

「それで、このあいだ、札幌で仕事があったとき、3人で会って話したの。もう歌をやめようと思うって言ったんだ、その友達に」

__彼女たちは、何と言ってた?

「よかったね、純ちゃん、もう十分に働いたんだから、今度は純ちゃんの好きなことしなよ、って。ほんといいじゃない、北海道に帰っておいでよ、そうしたら、昔みたいに、みんなで近所に住んで、仲よく暮していこうよ、って。よかったね、いいじゃない、って言ってくれた」

__それは嬉しかったね。

「うん、嬉しかったなあ、ほんとに……」

__でも、帰らないんだろ? 帰らないで、どうするの? ハワイに行くとか聞いているけ ど……。

「そうなんだ、ハワイに行くつもりなんだ」

__ハワイでどうするの?

「勉強したいんだ」

__さっきも言ってたよね、勉強したいって。でも、どういった勉強?

「中学までしか行かれなかったから、もう一度取り戻したいとかって、そういうんじゃないんだよね」

__じゃあ、どういうの?

「あたし、中学はちゃんと卒業してるんだよね。でも、この齢になって、もっと本格的な勉強をしようというのは、やっぱり無理なんだよね。そうじゃなくて……英語を習いたいんだ」

__英語か……それでハワイに行きたいわけなのか、そうなのか。

「みんなには、少しのんびりしたいから、と言ってあるんだけど、ほんとは英語の勉強したいんだ。でも、そんなこと、人には言えないでしょ、恥ずかしくて」

__恥ずかしいことなんかないよ。

「でも、記者の人なんかに訊かれて、少しのんびりしたいんで……なんて言うと、いいですねそんなことができる人はうらやましい、なんて嫌みを言われて……」

__そんなのはほっとけばいいよ。でも、どうして英語なの?

「英語って、いいじゃない。外人の人たちがしゃべっていたりするのを聞いていると、とてもいいんだ。耳にとても気持がいいんだ。とにかくひとつのことに熱中して勉強してみたいから……英語が少しでもわかるようになれば嬉しいというくらいだけど、いい機会だからハワイに行って学校に入って、やってみたいんだ」

__そいつはいい、ぜひ頑張るといい。

「ありがとう」

__歌をやめるというあなたに、もう余計なことを言う必要もなさそうだな。あとは、健康で、頑張って、と言う以外にないんだけど……。

「だけど?」

__だけど、ひとつ、言うことがあるとすれば……というより、心配なことがひとつある、といった方がストレートかな。

「どんなこと?」

__いま、あなたは、とりあえず仕事を持っているでしょ? たとえそれに満足していなくとも、ぼくたちから見れば、歌っている瞬間に、あなたがキラキラするのを感じることができる。しかし、その仕事をやめたとき、あなたが、その、もしかしたら平凡かもしれない、その生活の中で、煌めく何かを持てるだろうかという……。

「そんなこと、少しも心配してないんだ、あたし」

__でも、普通の人たちは、その人なりに、その普通の生活の中に煌めくものを、何か持っているわけじゃないですか……。

「あたしは楽観している。平気だよ」

__それならいいんだけど。

「たとえば、あたしは歌手をやめるけど、やめても藤圭子をやめるわけじゃないんだ……」

__どういうこと?

「あたしね、阿部純子と藤圭子ということで言えば、デビューするとき、藤圭子っていう名前をもらったとき、生まれ変わったと思ったんだ」

__なるほど。

「違う名前を持つというのは、そんなに生やさしいことじゃないんだよね。生まれ変わるみたいに大変なことなんだと思う」

__そうだね。その二つの世界を往き来するなんて器用なこと、本当はできやしないんだよな。

「そうなんだ。だから、あたし、その二つのうち、どっちかといえば、藤圭子の方を大事に思いつづけてきたようなんだ。いつも思っていたのはね、あたしの本当の誕生日は7月5日だけど、デビューした9月25日の方が、あたしが実際に生まれた日のような気がする、っていうことだったの」

__あなたは、これから藤圭子であることをやめて、お母さんの姓の竹山純子に戻るってことに、一般的にはなるわけだけど、やはり依然として藤圭子でありつづけるという感じが、残っているわけだ。

「うん。もう、竹山純子には戻れないと思うよ」

__歌を歌う、歌わない、 にかかわらず?

「だって、いったん藤圭子に生まれ変わっちゃったんだから、戻るってことはできないんだよ。いろんな人に、これから阿部純子さんに戻るんですね……みんなは両親が離婚したんで母方の竹山姓になっているの知らないから阿部さんなんだけど……阿部さんに戻るんですね、って言われて説明してもわかってもらえそうにないから、ええと言っているけど、自分ではそうじゃないと思っているわけ。藤圭子をやめたいんじゃない、歌をやめたいだけなんだよ。藤圭子であるかぎり、何をしようと変らないはずだよ」

__面白い。ぼくはわかるような気がするけど、一般的には理解しにくい論理かもしれないね。

「フフフッ、あたしもそう思う」

__しかし、とにかく、この世界とは、さよならするわけだ。

「それはね、そうだよ」

__とすれば……やっぱり、緊張した、あの藤圭子の煌きは、失なわれてしまうかもしれないな。

「それは違うよ。歌をやめても、キッチリと生きていけば、それが顔に出ると思うから、平気だよ」

__そうか、それならオーケーだね。

「いま、かりに、あたしが煌いていたとしても、自分で駄目と思いながら、人に芸を見せているのはよくないと思うよ。やめるべきなんだよ」

__そうか、やめるべきなのか。

「でも……12月26日に、最後の舞台をやるんだよね」

__どこで?

「新宿のコマ劇場。ほんとはやりたくないんだ」

__最後のコンサートなのに?

「うん。希望に満ちてこれからやろうという人ならいいけど、これでやめるというのにわざわざやることはないと思うんだ」

__そんなことないよ。みんな聞きたがってると思うよ。ぼくだって聞きたいんだから。

「それに、苦しいんだよね、最近。ああ、もうすぐやめるんだ、もう歌わなくなるんだと思うと、どんな場所で歌っていても、最後の曲に近くなると、胸が熱くなって困るんだ。まだ、1ヵ月も2ヵ月も前だというのに。それが最後の舞台ということになれば、一曲目からどうなるかわからないじゃない。そんなとこ、人に見せるのは恥ずかしいからね」

__あなたがデビューしたのは、1969年の秋だったよね。そうか、あなたは本当に70年代を歌いつづけてきたんだね。そのあなたが、1979年12月26日ですべてを終える。……ちょうど十年だったんだね。

「そうなんだね。区切りがよくて、いいね」

__やめるとなると、さみしい?

「十年もやれば、いいよね」

__そうだね。次の何かをまた見つければいいんだろうな。

「うん、そうする。また……何か……」

__それでいいさ。

 


解説
「藤圭子をやめたいんじゃない、歌をやめたいだけなんだよ。藤圭子であるかぎり、何をしようと変らないはずだよ」

歌うことをやめて、新しい人生に、英語の勉強を通して、前向きに生きて行こうとする藤圭子さんの意気込みが伝わってきます。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その26

2024-03-05 01:47:06 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
■最後の火酒
□後記


最後の火酒

   3


__ついさっきまで、あなたは絶対に歌の世界に復帰することはないだろうって感じがしてたけど、ふと、わからなくなってきたなあ。

「どうして?」

__あなたが、永遠に歌と縁を切ったままでいられるんだろうか……。

「いられるかいられないか知らないけど、絶対に戻らないよ」

__そうかなあ。

「いい加減な決心じゃないつもりだよ、あたし」

__それはわかってる。だからこそ、さ。

「いや、ここまで突きつめて、自分が決心したことだもん、戻れといっても戻れないよ、無理だよ」

__それは、逆かもしれないよ。そんな理詰めなんだから、自分を納得させられるきっかけが掴めれば、逆に戻りやすいんじゃないかな。

「そんな簡単なものじゃないつもりなんだ。だって、歌うたびに、自分で自分の傷口を拡げているような気がするんだよ。傷にさわりたくなかったら、歌わないことなんだ」

__でも、どうしても歌わなければならない理由ができたら……。

「ほかのことで悩んでいるわけじゃないでしょ? 一年休めば治るというわけじゃないでしょ? 精神的な疲れがとれればいいというふうなものでもないでしょ? 肉体的なものから来ていて、その肉体的なものは永久に治らないんだから。無理なんだよ、戻れないんだよ」

__ところが、いま、あなたが傷と思っている肉体的欠陥が……つまり喉が、何年かすると価値の基準が変わってきて、欠陥とは思わなくなるかもしれないじゃないか。

「うん、あたしもね、そんなふうに考えることがないわけじゃないんだけど……でも、やっぱり納得できないわけ。持って生まれた声なら、どんなに齢をとって声量が落ちても、下手になったとしてもいいと思うの。納得できると思うの。歌いつづけたと思うの。……でも、声が出なくなったとき、切っちゃったんだよね。休めば治るものだったのに切っちゃったんだよね。ガンなら切らなければいけないけど、持って生まれた喉を切っちゃったんだよ。あたしたちが無知なために、切れば早く楽になると思って、安易な道を選んじゃったんだ。切っちゃったんだから、傷があるんだよね、絶対。歌っていると、その傷の痕がはっきりわかるんだよ。歌に乗って、絵のように見えてくるんだ。歌うっていうことは、その傷口をさわることなんだよ」

__切ったことが、口惜しいわけだ。

「うん、でも、歌を歌うには確かに口惜しいことだけど、切ってよかった、だから歌をやめてよかったという人生が、これから送れるかもしれないし……わからないよ」

__そうだね、それは。

「それに歌いつづければいい、永く芸能界にいつづければいい、なんていうことはない、と思うんだ。永く歌っていたからといって、紫綬褒章だかなんだか知らないけど、国から勲章をもらって……馬鹿ばかしいったらありゃしない。その歌手はただ生活のために歌を歌っていたにすぎないのに。それだったら、どうしてお豆腐屋さんのおじいさんにあげないんだろう。駄目な歌は、もう歌じゃない。駄目な歌を歌う歌手は、歌手じゃないはずなんだ」

__厳しいことを言う……。

「だって、そう思うんだから」

__ひとりの歌手が、死ぬまで頂に居つづけられるということは、ないんだろうか?

「歌謡曲の歌手ではありえないね。まず声が飽きられるし……」

__そうだね、確かに、これだけ複製が出て、日々、膨大な量の声がテレビやラジオから一挙に流れ出るんだから……それは飽きがこないはずがないよね。

「やっぱり、食物と同じように、人は、声にだって飽きますよ。どんな好きな食物だって、毎日のべつ食べていれば飽きるじゃない。それと同じこと。男の人がよく言うじゃない、女房に飽きるとか、たまには違った味の女がいいとか……」

__ハハハッ、独身の婦女子にしては、ずいぶん露骨なたとえ方をしますねえ。

「エヘへ、ちょっと、はしたなかったかな」

__ま、いいでしょう。でも、そういうことはありうるな。

「うまいとかへたとか、そういうこととは関係なく、あるんだよね」

__そんな中で、とにかくあなたは、十年もやってきたんだから、すごいよ。藤圭子というスターをひとりで運営してきた、いわば藤圭子産業の社長をやってきたんだからね。たったひとりの会社だとしても、藤圭子産業は巨大会社だったからね。大変な業務だったと思うよ。

「心があると、大変だね」

__心が?

「こういう仕事をしていると、ね」

__人間的なものは、必要ないのかな?

「歌手として必要なだけの人間味はなくちゃいけないんだけど、ね」

__そうか……。

「業務用には心の取りはずしができなければ、やっていけないんだろうね」

__そうなのかな。

「そうだと思うよ」

__あなたは、一度、頂に登ったよね。その頂には、いったい何があったんだろう?

「何もなかった、あたしの頂上には何もなかった」

__何も?

「そこには、もしかしたら、禁断の木の実というのかな、そういうものがあったかもしれないんだ。下の方で苦労しているような人には、ほんと涎が出るような実があったかもしれないの。でも、あたしには、とうていおいしい味のするものとは思えなかったんだよ。もし別の人が頂に登ってきたら、もう絶対に人にあげたくないって、頑張るかもしれないんだけど、あたしにはまずかったの。あたしにとっては、何もないも同然だった」

__あなたは、その頂から降りるには、転がり落ちるか、他の頂に飛び移るかしか方法がないんだと言っていたよね。しかも、女にとって最も安全な飛び移りは結婚だって。結婚は、あなたにとって……。

「駄目だと思う。できないと思う、あたしには」

__なぜ?

「さっきも言ったけど、あたしぐらいの年齢になると、どうしたって、好きになる人は障害を持っていて、すんなりとはいかないと思うんだ。いい男って、どこにもいそうでいないし……」

__そう?

「うん。それに、あたしって、やっぱり、気が弱いんだよね。いつだってそうなんだ。電車で席が空いていると思って、知らないで坐ると、いつだって、前に疲れた人がいることに気がつくんだ。だから、慌てて立っちゃうんだ。気がつかなければ、そのまま坐っていられるのに。こっちだって疲れてないわけじゃないけど……でも、仕方ないんだ。坐りつづけている方が、もっとつらいことだから、ね」

__そうか……。

「もしかしたら、あたしって、ほんとに幸せが薄いのかもしれないね。なんとなく、この頃、そんなこと思うんだ。駄目なんだよね。知らないふりして生きていけないんだ、あたし、駄目なんだよね、きっと、そう……」

__いや……。

「ものわかりのいい、いまふうの、いい女のふりをしてれば、幸せなときが長く続くかもしれないけど、でも、そんなわけには、いつもいかなかったんだ」

__男らしい考え方だ……。

「それ、褒め言葉のつもり?」

__最上級の、ね。

「嬉しくないけど……嬉しいよ。でも、これから、どうなるのか……」

__あなたは、どう生きても崩れない。きっと崩れない。崩れないと思うよ。崩れかかっても、あなたの生命力が、それを修復して、カジをしっかりと取り直すに違いないよ。

「そうだといいな」

 


解説
__あなたが、永遠に歌と縁を切ったままでいられるんだろうか……。
「いられるかいられないか知らないけど、絶対に戻らないよ」

このように、歌手としての復帰は絶対にないと言っていた藤圭子さんですが、結婚し、子ども(宇多田ヒカル)が生まれると、住んでいたアメリカから日本に戻って生活費や子どものレッスン代を稼いだりするようになりました。
そして、宇多田ヒカルの才能を世に出そうと、日本で歌手として再出発し、娘のデビューを応援したのです。

人生って、分からないものですね。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その25

2024-03-04 01:44:17 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
■最後の火酒
□後記


最後の火酒

   2


「涙って、しばらく泣かないと、眼の裏にたまって、泣きたくなるんじゃないかなあ」

__そんなこと、あるだろうか。

「幸せで、なんにも悲しいことがなくても、何ヵ月も泣かないと、夜、ひとりで歌を聞いていると、涙が勝手に流れてきたりするんだ」

__どこで? あなたの家で?

「うん、自分の部屋で」

__自分の部屋で歌を聞いたりすること、よくあるの?

「あるよ。だって、歌、好きだもん。聞くの大好き。聞いていると、涙が出てくることがあるんだ。とても不思議なんだけど、どんなに好きでも、あれは不思議なんだけど、ダイアナ・ロスの歌じゃ泣かないんだよね」

__いろいろ聞くんだろうけど、誰の歌を聞くの、日本の歌手では。

「クール・ファイブとか八代亜紀さんとか……」

__やっぱり演歌なの?

「うん、そうだね……やっぱり、そういうことになるね」

__クール・ファイブか。藤圭子の歌は?

「聞くよ」

__泣ける?

「うん、初期の頃の歌を聞いているとね。もう、レコードになっていると、ああ、歌手の藤圭子さんが歌っているな、っていう感じになるでしょ。ここがいいとか、ここがよくないとかって、かなり突き放して聞けるから」

__夜、ひとりで音楽を聞いて、泣くんですか。

「胸の奥をさわられたような気がするんだよね。好きな男の人に体をさわられると気持がいいように、ほら、こうやってつねれば痛いって感じるように、歌というのは、心を、さっとさわるんだよね、あたしの胸の中を、ね」

__そんなに、はっきりと感じるの?

「うん、はっきりと。だから、自然と涙が出てくる」

__それは意外ですね。プロの歌手というのは、もう歌なんかに飽き飽きしていて、もっと鈍感になっているのかと思っていた。

「そんなことないよ。このあいだもクール・ファイブを聞いたんだよね。ほんとにすばらしかった」

__クール・ファイブを?

「うん」

__レコードで?

「ううん。日劇のショー」

__ほんと! 前川清の舞台をわざわざ見に行ったわけ? 別れた亭主のショーの会場に?

「うん。すごくよかった。馬鹿ばかしいコントなんかやっていて、まあそれはそれでお客さんと一緒になって笑っていたんだけど後半の歌のときになったら、ジーンとするくらいよかった。ああ、歌って、やっぱりいいもんだなと思った」

__なぜ見に行ったりしたの?

「来ないかって誘われたんだ。あたし前川さんの歌が大好きなの。あんなにうまい人はいないと思ってるんだ。昔も好きだったけど、いまも前川さんの歌は大好き。メドレーの最後の方で〈出船〉っていうのを歌ったんだ。それ聞いていたら、胸が熱くなって涙がこぼれそうになって、ほんと困っちゃったよ。あんなうまい人はいないよ。絶対に日本一だよ」

__日本一、か。

「うん、すごい歌手だよ、前川さんは」

__それだけ理解しているのに、別れてしまった。

「それとこれとは違うよ」

__そう、それはそうでした。

「前川さんはいい人だよ、それに歌も抜群にうまいよ、あたしはそう思ってる。でも、別れる別れないというのは、それとは違う話だよ」

__そうだね。日劇で歌を聞いて、そのあとで、前川さんと何か話したりしたわけ?

「話したよ」

__どんなこと?

「いろんなこと。あたしはもう歌をやめるつもりだとか……。そのこと、まだ発表してない頃だったから」

__そんなことまでしゃべったの?

「うん」

__そうしたら、彼は何と言った?

「それはよかった、って」

__祝福してくれたわけなのね。

「前川さんはね、以前からやめろといっていたの。おまえは芸能界には向かないからって」

__そうなのか。

「だから早くやめろといったろ、って言われちゃった。でも、あのときはそうはいかなかったんだよ」

__あのとき?

「結婚したとき」

__なるほど、そうか、前川さんは結婚するとき、引退して家庭に入れと言ったのか。

「でも、あのときは家族のこともあったし。そう言ったら、そのくらいのことは男なんだから当然するつもりだった、って。あたしはいやだったんだよね、そんなことをさせるのは。悪くて、そんな、家族のことで前川さんに面倒かけるなんて。ようやく引退しても何とかやっていけそうになったからなんだと言ったら……困ったことがあったら、何でもまずぼくに相談しに来いよと 言ってくれて……嬉しかったな」

__それは、よかったね。

「そのとき、前川さんにね、ぼくと別れてからあまりいいことなかったろ、と言われたから、うんと答えたんだ」

__そんなこと、正直に答えたの。

「だって、本当のことだから仕方ないよ」

__馬鹿正直ですねえ。

「ぼくと別れてからロクな男にぶつからなかったろ、と言うから、それもうんと答えた」

__前川さんの方が、ずっといい男だった?

「うん」

__それがわかったんなら、いまでも遅くないから前川さんと再婚すればいいのに。今度は、あたからプロポーズして。

「違うんだったら、そういうことじゃないって、さっきから言ってるじゃない。前川さんはすごくいい人。嘘ついたり、裏切ったり、傷つけたりは、絶対にしない人。あとから知り合った人たちとは比べようがないほどの人……格が違うんだよ」

__格?

「男としての格が違うと思うの。でも、やっぱり、前川さんは肉親みたいな気がしちゃうんだ。一緒にいると、こんなに心が落着く人はいないんだけど、心がときめかないんだよね。どういうわけか……」

__他の、格下の男には胸がときめくのに?

「そう。いくら周囲の人が、あの人はよくない、悪人だって言っても、あたしの胸がときめいてしまったら、それで終りじゃない。前川さんには初めからそういう感じがなかったんだ」

__そういうことは、ありうるんだろうね。しょうがないのかな、それは。

「しょうがないよね? やっぱり前川さんとは合わなかったんだよ。どこがどうって説明はしにくいんだけど、やっぱり一緒には暮らせなかった」

__にもかかわらず、前川さんは他の男と比べれば、ランクが上なわけだ。

「絶対、上。あたし、きっと、つまらない人と付き合っていたんだね」

__つらいことを言っていますね。

「つらいね。そんなこと聞くのいやだよね」

__いやとは思わないけど……。

「五味康祐っていう人、いるでしょ、占いやる人」

__ハハハッ、占いやる人はないぜ、あの人は作家だよ。

「うん、そうらしいんだけど、手相なんかテレビでよく見てるじゃない」

__うん、やってるね。

「あたしも番組で見てもらったら、とても男運が悪いって言われちゃった」

__男運が悪いって? 結構、当っているじゃないですか。

「信じないよ、そんなの。男運が悪いなんて、信じない。男の運が悪いんじゃない、とあたしは思うんだ。ただ、あたしが悪いだけなんだ。眼がないあたしが悪いだけ」

__そういうのを、男運がないと言うらしいよ、世間では。

「ううん、あたしは運だなんて思いたくないわけ」

__そうか、それならわかる。

「うん、そうなんだ。いままでは、どうしても、芸能界の人しか知り合う機会がなかったけど……」

__これからは、違いそう?

「うん、そう思ってるんだ。大いに希望を持っております、なんてね」

__昨日もあなたの歌を聞いていたんだけど、聞けば聞くほど、やめる必要はない、と思うんだよね。もっと聞きたい、というかな。繰り返しの愚痴になるけど、続ければいいのに。

「あたしが他人だったら、藤圭子にそう言うかもしれない。どうしてやめるんだよ、あなた、贅沢だよ、って」

__贅沢とは思わないけど……。

「でもね、これから先、どんなに続けても、いまのような状況じゃあ、いい歌が歌えるはずないんだよ。いい歌を歌うには、いい舞台が必要なんだ。でも、そんな舞台が作れるのは一年に何度もない。クラブや慰安会に出て、いいバンドもつかず、ひどい照明の中でいつも歌わなくてはならないんだよ」

__そういうことか……。

「テレビだって、そうだよ。コントやったり、ドタバタをやったり、せいぜい特集といって、2、3曲うたわせてもらうのが、精一杯なんだ。昔の、NHKの〈ビッグショー〉みたいな番組は、どんどんなくなっていくばかりだし……。続けていても、仕方がないよ」

__〈ビッグショー〉っていうのは、そんなにいい番組だったの?

「あたしたち歌い手にとっては、ね。だって、45分間、ひとりで歌わせてくれるんだから。それもコマーシャルなしに。 民放だったら一時間番組ということだよね」

__なるほど。

「少しずつ情感が盛り上がってきて、いい歌が歌えるんだ、とても」

__そうだろうね。

「3度、出たのかな。みんなビデオにとってあるけど、自分でも好きな方だよね」

__見直すこと、ある?

「時々ね。3度目に出たときかな、そのとき……これはつまんないことだけど……視聴率がよかったんだって、とても。〈ビッグショー〉って、ひとりの人のものでしょ。だから、視聴率にもピンからキリまであるわけ。ポップス系の人のはあまりよくないらしいんだけど、最低7パーセントから最高15パーセントくらいまで、すごく差があるわけ。そのときのあたしの視聴率は、ピンというのかキリというのか知らないけれど、最高の方の部類だったらしいの」

__かりにヒット曲が出ていなくても、藤圭子という人のファンは多いだろうからね。

「それでね、日劇で前川さんと会ったって、さっき言ったでしょ、そのとき、前川さんが言うんだよね。おまえ、おまえが出た最後の〈ビッグショー〉がとても視聴率がよかったこと、知ってるかって。うん、会社の人に聞いて知ってるよ、って答えたら、ぼく、すごく腹立てたんだよな、そのことで、って言うわけ」

__どうして腹なんか立てたんだろう。

「その年の暮、前川さんがNHKの芸能の人とゴルフしたんだって。その人から、藤圭子の視聴率はよかった、って聞いたらしいの。それで、前川さんが喰ってかかったんだって。それならどうして藤圭子を紅白歌合戦に出さないんだ、他の、まるで下手な歌手を出して、なぜ藤圭子を出さないんだ……そう言ってくれたらしいの」

__前川さんも、別れても、あなたの歌の力は認めてくれているわけだ。紅白なんてどうでもいいだろうけど、でも、それは嬉しかったね。

「うん。へえ……と思ってね。そのNHKの人は、しかしいろいろあってとか、なんだとか言ってるんで、前川さんが腹を立てたらしいんだ」

__そうなのか……。

「6年前か7年前……あたしと離婚して……前川さんが紅白に出られないことがあったんだ。あたしは出ることになっていたんだけど。前川さんが出ない、出られないって聞いて、泣いたことがあるんだ、あたし。そこは事務所で、雑誌社の人なんかもいたんだけど、あんな歌のうまい人が出られないなんて、そんなのはないよ、って」

__それを、今度は、前川さんが言ってくれたわけだ。

「あたし、そのとき、口惜しくて、ワンワン泣いたの。前川さんよりうまい人がどこにいるのって」

__そうか……。

「そういうことがあった」

__しかし、前川さんという人は……いい男だね。

「うん、そうだね」

__それにしても、そういった番組もなくなり、いい舞台もなかなかできず……状況はどんどん悪 くなっていくばかりなのか……。

「年々ひどい状況になってるね。それは確かだなあ。クラブなんて、ひどいんだよね。昨日の店もひどかったなあ、ほんとに。舞台が狭いし、バンドは音が出ないし、照明が悪いときてるんだから。照明が悪いと、客席を動きまわるボーイさんたちが気になって、どうしても集中しないんだよね」

__それは仕方がないんじゃないかな。そういう状況でも頑張るのがプロだという言い方もあるし。とりあえず金をもらっているんだからね。

「いくらお金をもらってもいやだね、ああいうところで歌うのは。でも、他の人たちはみんなやってるんだよね。わがままなのかな、あたし。そうじゃないよ、やっぱり歌が好きなんだよ。歌を歌いたいんだよ、あたしは。ああいうとこは、歌を歌えるような場所じゃないよ、いやだよ」 

__いやですか。

「いやです。たまになら、まだいいよ。客が喜んでくれているんだから、我慢して頑張ろうと思うんだけど、そういうのが増えてきてるんだよね。いやなんだ、あたしは。……なんて言うと、なに言ってるんだい、昔はドサまわりして、バンドなしで歌ってたじゃないかと言われるかもしれないけど、やっぱりそのときのあたしとは違ってきてるんだよね。十年前は十年前、いまはいま。いまのあたしは、いまのあたしに合った歌の歌い方しかできないんだよ。それができないんだから、やめる。それでいいと思うんだ」

__最近、そんなひどいクラブで歌うことがあるの?

「歌ってると、酔っ払いが、よろよろと倒れかかってきたりするんだよ。歌えないよね……どうしょうもないんだ」

__そうか……。

「いつだったかな、北陸へ行ったとき、信じられないようなクラブがあってさ。田舎の古いクラブなんだけど、舞台に出ていってびっくりしたの。バンドが4人しかいなくって、マイクがリカちゃん人形の附録みたいなマイクで……」

__ハハハッ、リカちゃん人形のマイクはよかった。

「笑いごとじゃないよ。まったくひどかったんだから。マイクの線は延びないし、照明の設備がないもんだから、勉強机に置いてあるようなスタンドをボーイさんが持って、パチッなんてつけて、舞台の前を走りまわっているの」

__ハハハッ、おかしいね、想像するだけでも……。

「そのスタンドに紙を貼って、色つきの、ほら……」

__セロファン?

「そう、セロファン! セロファン貼ったスタンド持って……忘れられないよ、ほんとに。さあっ、と思って舞台に出ていったら、それだもんね、ちょっといやになるよ」

__それはそうかもしれないね。

「演歌って、どんなひどくても、ショーになっちゃうから、そういうことがありうるんだよね」

__なるほど。

「田舎で歌ったりすることは少しもいやじゃないんだ。一度、田舎の体育館で歌っていて、終ったんで帰ろうとしたら、通路がひとつなんで、お客さんと一緒にゾロゾロと歩いていたの。そうしたら、座布団をかかえたおばあさんが二人、やっぱり藤圭子はいいねえ、とか言いながら、満足そうに前を歩いていたんだ。あたしにはぜんぜん気がつかないで。それは、ああ、歌っていて よかったな、なんて思うよ」

__舞台でほんとにうまく歌えたときって、とっても気持がいいもんなんでしょ?

「それは、もう、気持いいなんて、そんなもんじゃないよ。舞台で歌うのはいいんだ。いいマイクで、いい音響で、そういう舞台でやると、自分の声が聞こえてくるんだ、綺麗に返ってくるんだよ……」

__もう、そんな気持よさを、味わえないんだね、あなたは。

「そう。これから、何を楽しみに生きていけばよいのでありましょう、この子は」

__ほんとだ。

「たとえば、藤圭子が一生懸命うたっているのをビデオで見るとするでしょ。すると、ジーンとするんだよね。あの人を聞いているあたしは別の人間だから、ああ頑張ってるな、声が違っちゃっているのに、雰囲気だけでどうにか歌っているな、つらいだろうに一生懸命やってるな、と思ったりするんだ」

__なるほど。

「いまね、歌っていて、いちばんつらい歌は〈聞いて下さい私の人生〉っていう歌なんだ……」

__どうして?

「その中の歌詞が、どうしても、歌うたびに胸につかえるんだ。

  聞いて下さい 私の人生
  生れさいはて 北の国
  おさな心は やみの中
  光もとめて 生きて来た
  そんな過去にも くじけずに
  苦労 七坂 歌の旅
  涙こらえて 今日もまた
  女心を ひとすじに
  声がかれても つぶれても
  根性 根性 ひとすじ演歌道

終わりの方にさ、声がかれても、つぶれても、っていう歌詞があるでしょ」

__ああ、そうか、そうだ。

「曲が好きだから歌うけど、つらいんだ。本当は、これは自分の心とは関係ないんだ、これは曲なんだからって、割り切ればいいんだろうけど、駄目なんだ。声がかれても、つぶれても、歌いつづけ……ないわけだから。あたしが言ってるんじゃない、曲が言ってるんだって、思おうとするけど、つらくて……」

__馬鹿ですね。

「馬鹿だよね。あたしって、いつでもこうなんだ。迷って、迷って、つらくなる。お客さんには、すまないなあ、ごめんなさい、って歌っているんだ」

 


解説
「いまね、歌っていて、いちばんつらい歌は〈聞いて下さい私の人生〉っていう歌なんだ……」

こんなつらい歌詞でも、嫌でも、歌わされていたのですね。
以前のように「歌を殺す(封印する)」こともできずに。
これでは、歌手をやめたくもなりますね。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その24

2024-03-03 01:39:48 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
■最後の火酒
□後記


最後の火酒

   1

__どういうんだろうか、ある時期からのあなたというのは、実に鮮明なんだけど、それ以前のあなたはとても見えにくい。頭の中で像が結びにくいといったらいいのかな。ある時期っていうのは、ほとんど手術をした前後と重なっているんだけどね。何を訊いても、わからない、考えていなかった、そればかりでしょ?

「そうだね。でも、感じてないはずはないんだからね。まったく、どういうんだろう。自分でもわからないよ」

__手ざわりというか、手がかりがないから、逆に、無感動に歌っていたあなたと、ぴったりするところもあるんだけどね。あの頃、デビューした前後の頃のあなたはどういう少女だったんだろう。

「えーと、まず髪を染めていましたね」

__そう言えばそうだ、茶色に染めてたなあ。そう、そのことも、最初ぼくがあなたを好きじゃなかった理由のひとつだったんだ。あなたが〈新宿の女〉でデビューしたとき、髪を染めているのがいやだったんだ。そうだ、思い出した。

「ローカルっぽくて?」

__ハハハッ、ローカルっぽくて。

「フフフッ、クラブっぽくて?」

__染めなくたってよかったのに。せっかく、そんな綺麗な髪を持っているのに、もったいない。

「顔がきついから、そのうえ髪が黒いと、さらにきつく映るからって、いつでも美容師さんに言われるの」

__あの茶色の髪って、あまりよくなかったよ。

「でも、初めてだよ。あたしの髪が茶色かったって覚えていた人。みんな、白いギターに黒く長い髪が印象的で、なんて必ず言うからね。みんなそうだよ」

__人の記憶って、そんなものなんだろうな。

「髪も染めてたし、化粧も濃かった」

__化粧は気がつかなかったなあ。

「若いときはどんなに化粧が濃くてもおかしくないからね。齢をとって濃いとおかしいけど」

__逆じゃないの?

「ううん、そうじゃないの。若い頃は素肌が綺麗だから、どんな化粧をしてもおかしくないんだよ。それに、齢とってから濃いと、人に何を言われるかわからないからね。いい齢して気持悪いとか。楽屋でも、30過ぎて濃いと、もう許されないって感じで罵られるから」

__ハハハッ、そいつはおかしい。しかし、昔の、その化粧の濃かった頃のあなたの顔は、かなり生意気そうに見えたなあ。

「そんなことないよ。可愛かったよ。気性だって、いまと同じくらいよかったよ」

__ほんとですか。

「ほんとだよ」

__その頃のあなたに会ったとしたら、ぼくはその藤圭子を好きになっただろうか。

「どうだろう。たぶん、なったと思うよ。そんなにいやな子じゃなかったから、好きになってくれたと思うよ」

__しかし、言葉は通じたかな。

「えっ?」

__さっき、スペインのマラガの話をしたでしょ。そのとき、あなたは、すごく素直に反応してくれたよね。それでぼくは思うことができた。この人には言葉が通じる、ぼくの言葉が通じるって。あなたの反応に、少し感動したんだよね。

「そうか、あのときだね。いままで、あんな話をしてくれる人はいなかったんだ。外国の話といえば、どこでヴィトンを買ったとか、そんなのばっかし。マラガの居酒屋の話、あたしにはすごく面白かったんだ」

__以前のあなたに、そういう言葉が通じたろうか。

「もしかしたら、そういうことには興味を持たなかったかもしれないね」

__そういうことでなくても構わないんだけど、通じたかな。

「そう、通じなかったろうね。人を内面から理解しようなんて思ったことがなかったから。たとえば、男の人を見るんでも、外見的に自分の好みかそうじゃないかっていうことだけで、まったく何ひとつ見ていなかったみたい。いったい、男の人のどこを見ていたんだろう、いままで」

__いや、外見で見るというのも、決して悪いことじゃない。

「うん、そう、そうなんだけど、外見にも内面が必ずあらわれるはずじゃない。その、どこを見てたんだろう、と思うの」

__なるほどね。あなたも変わってきたんだね。ぼくから見ると、その変り方というのは、人間として、決してよくない方向に行っているとは思えないけどな。

「どうなんだろう」

__あなたは、初期の頃の自分は無心でよかった、とよく言うよね。確かに歌手としてはその通りかもしれないけど、ひとりの女の子としてはどうだっただろう。果してよかったかなあ。

「いいんじゃないかな。それはそれなりに、ぜんぜん幸せだったんじゃないかな」

__それで、いまは?

「しんどいね。こんなに考え込むようになっちゃうと」

__いろいろと悩んだり、迷ったり、考えたり……それが人間として普通だとは思わない?

「思わない。こんなに神経質になって、いろいろ細いことを気にするのは、やっぱりよくないよ」

__そんなに考え込んでるの?

「あっ、そうか。もしかしたら、実はちっとも考えてなんかいないんじゃないって気が、 いまふとしてきちゃったよ」

__ハハハッ。でもさ、何も考えてない女の子なんて存在するのかな。するとしたら、怪物みたいで気味が悪いけど。

「それが存在したんだよ」

__そうか。もしかしたら、あなたは、ある意味で怪物だったのかもしれないね。それが、少しずつ人間になっていった。だから、そんなふうに苦しんだのかもしれない。そうかもしれないね。

「どうなんだろう……」

__いま、どんなことを考えているの、そんなに苦しむほど。

「毎日、毎日、歌っているわけだよね。仕事して歌っている。でも、歌っても歌っても満足できないんだ。昔は、何も考えずに歌っていれば、お客さんがいいとか悪いとか勝手に判断してくれたけど、いまは自分で、ああでもない、こうでもないって考えちゃうんだ。どうしても満足できないから。でも、自分で考え考えしながら歌なんて、とっても歌えるもんじゃないよ」

__考えることといえば、仕事のことが多いの?

「ほとんど、みんな」

__そう。それはしんどいかもしれないね。

「うん」

__私生活の悩みなら、まだ幾分か救われるかもしれないけどね。

「そう、私生活ならしれてるんだけど。こういう世界に生きて、仕事に満足がいかなかったら、つらいよ」

__そうだろうね。

「仕事を25日やって、5日休むとするじゃない。その5日が私的な生活かっていうと、そういうわけには、どうしたっていかないでしょ。その5日だって、仕事のことが頭を離れないし、やっぱり毎日が仕事なんだよね」

__さっき、ノイローゼみたいになったとか言ってたよね? あれは、仕事のことで? それとも、やっぱり、彼とのトラブルが原因で?

「どうなんだろう。みんなは、あの人とのことが原因だと見てただろうけど……それもこれも、みんな、ワァーッと一時に押し寄せてきちゃったんだよね。すべてが虚しくなって……もう、どうでもいいっていうような気持になってぼんやり、死のうかな、なんて思うようになりはじめて……どうやって死ぬのがいちばんいいのかとか、夜になると考えるようになったんだ」

__しっかりしてくれないと、そんなつまらない男のために……。

「だから、それだけじゃないんだって。歌っても歌っても絶望なわけじゃない。歌うのがつらすぎるようになっちゃったんだ。それがいちばんひどくなってしまったのが、デビュー十周年の舞台」

__ああ、日劇でやったという?

「そう」

__大事な舞台だったわけだよね。

「そうなんだけど、舞台恐怖症みたいになって上がれなくなっちゃったんだ」

__そんな感じ、初めてのこと?

「2年前に一度、それと似たようなことがあった。歌を忘れそうになるの」

__歌って、歌詞を?

「歌詞だけじゃなくて、メロディーも忘れそうになるの。全部、わかんなくなっちゃう。舞台に立つと、突然、忘れてしまうんだ。それは、〈新宿の女〉だろうが、〈夢は夜ひらく〉だろうが、おかまいなく、急にやってくるわけ。そういうことが、4度か5度、続いたんだよね。自分で自分が怖くなった。もう、恐怖なんだよね、また忘れるんじゃないかって。そう思うと、舞台で体がすくんじゃうんだ。ほんと、そうなると、どうしていいか、わかんなかった」

__思い出そうとして、焦っちゃうのかな。

「違うの。頭の中が空っぽになって、無になって、ボォーッとしちゃうんだ。あっ、またなる、またなる、また病気になる、って。ほんとに悩んだよ。怖かった」

__怖かった?

「怖かったよ。何度、舞台から逃げ出そうとしたかしれないよ。舞台が終って、付き人の艶ちゃんなんかに訊くの。ちゃんと歌ってた、あたし? ええ、って艶ちゃんが言うから、ほんとに、ってまた訊くわけ。どうしてそんなこと訊くんですか、ちゃんと歌ってましたよ、って言われるんだけど、そんなはずない、と思うわけ」

__それは確かに、少しひどかったね。でも、そういうことは、人前に身をさらす仕事をしている人には、起こりうることなんだろうけどね。

「日劇のときはそれよりひどかったんだよ。そのショーではね、オープニングは、あたしがセリで舞台に出ていくということになっていたんだけど、舞台にどうしても上がりたくなくて、逃げ出したくなっちゃったんだ」

__セリで上がるときに?

「そう。もう、開演のベルは鳴っていて、お客さんは、さあ、と待ち構えているのに、どうしてもいやだって、大声で泣き叫んじゃったんだ」

__奈落で?

「そう。近くの柱にしがみついて、出たくない、もう歌いたくないって。艶ちゃんも、泣かんばかりに、どうか出てください、なんて言って、大変だったんだよ」

__驚きですねえ、その話は。

「信じられないでしょ。でも、自分でも混乱してるのがよくわかっていたんだけど、どうしてもいやだったんだ」

__で、どうしたの?

「そこがあたしの駄目なとこなんだけど……みんなに迷惑がかかるわけじゃない、わがままを通せば……それを思って、どうにかセリに乗ったんだ」

__そうか……。

「ところがさ、セリが上がると、舞台でパッと決められたとおりのことをしちゃったりして。歌手っていうのは恐ろしいですねえ」

__ハハハッ、恐ろしいです、まったく。

「日劇が終ったときは、ほっとしたよ」

__そんな状態がしばらく続いたわけだね。それはいつ頃のこと?

「この春から夏にかけて……」

__大変だったね。

「夜になると、じわっと死ぬことが頭の中に入ってくるんだよね。あたしが死んだら、お母さんはどうするだろう、なんて、そんなことばかり考えちゃうんだ。いま考えれば、阿呆みたいだけど、ね」

__どうやって突破したの、その、かなり深刻な落ち込みを。

「うん。まず、馬鹿らしい、と思ったんだよ。こんなことで悩むのは馬鹿らしい、ってね。だってそうじゃない、男の人はつまらない人ってわかったわけじゃない。それは、あたしに男の人を見る眼がなかった、というだけのことでしょ。歌を歌うのが辛い、絶望だ。だったら、やめればいいわけじゃない。簡単なことではないですか。そう思ったの。そう気がついたの。歌わなくなれば、お金が入ってこなくなる。確かに、それはそう。でも、昔は一銭もなくたって、生きていけたんだよね。それがいまは、半年か1年、食べていかれるだけのお金を持ってる。それだったら御の字じゃないか、と思ったんだ。御の字だよ。明日、一日だけでも暮していけるお金があるなら、ありがたいくらいなことではないですか。沢木さんも、そう思うでしょ?

__思うね。

「だったら、何をビクビクする必要があるんだろう。確かに、ここ何年か贅沢をしてきたよ、あたしは。ネックレスも指輪もブレスレットも増えた。でも、もういらない、と思ったの。この、お母さんに貰ったネックレスひとつあれば、あとはもう何もいらないじゃないか、と思ったんだ。どんなことしたって生きていける。それなら、歌をやめることを恐れることはない……」

__あなたは実に健康的な人ですねえ……。

「洋服だって、宝石だってほしくない」

__そういえば、あなたは、身になにもつけていないもんね、装飾品を。ネックレス以外……それかな、お母さんにもらったというのは。

「うん。そのとき以来、身につけるのはこれひとつで沢山だ、と決めたわけ」

__シンプルで、すごく似合ってる。

「ありがとう」

__しかし、それにしても、よく決心できましたね。やめるっていうことは、あなたがいま言っているほど、簡単なことじゃないだろうからね。

「やめることは、もうずっと前から考えてたんだ。喉の手術をしたあと、ずっとね。でも、そこでやめても、家のローンが残っていたし、暮していけないじゃない……暮していけなかったの」

__いまならやめられる?

「なんとかね。でも、あたしはやめるつもりで、お母さんにはずいぶん前から話してあったんだ。引退発表なんかしないで、静かにそっとやめていきたかった。仕事をやらなくなれば、藤圭子、ああそんなのいたっけなあというくらいで消えていくことができるでしょ。そうすればいいと思ってた」

__お母さんは、やめると言ったら、何とおっしゃった?

「純ちゃんがそれで幸せになれるなら、お母さんは反対しないよって」

__それ、本音かな。

「本音だと思う。お母さんは、やっぱりあたしの幸せが一番大事だと思ってくれているんだ。酔えばもう少し違うことも言うかもしれないけど……でもね」

__酔えば、どんなことを言うのかな?

「あたしの月給って、何百万円かあるわけでしょ。それが銀行に振り込まれるんだけど、月給日になると銀行の人が札束を持って、お母さんのところに来るんだ。お母さん、眼が見えないでしょ、それを手に取って、数えるわけ。札束を手にするというのって、それはとても気持がいいんだって。ああ、もう、あと1回か2回しかあの気分は味わえないんだね、なんて酔うと冗談で言うの」

__そうか。それは気持いいだろうからね。

「やっぱり、少しは不安になるらしいよ。だから、お母さんには絶対に心配はかけないから、いざとなったらなんでもするから、と言ってあるんだ」

__でも、できることならそっと消えていきたかったわけでしょ。それがどうして記者会見なんかすることになったの?

「スポーツ新聞に、藤圭子引退か、と出ちゃったの。ぜんぜん、そんなこと洩らさなかったのにね。それで仕方なく、やろうということになって……」

__どこから洩れたんだろう。あなたがしゃべったわけじゃないんでしょ?

「それはね、あの人たちがやっぱりすごいんだよね。あたし、今年いっぱいでやめようと決心していたから、来年以降の仕事はとらないでって事務所の人に頼んであったわけ。だから、スケジュールが真っ白なわけよ。それで出入りの芸能記者が、これはどういうことか、ということになったんじゃないかな」

__そうか、少なくとも、事務所の人は知っていたわけだ。もちろん、誰がしゃべったというわけじゃないけどさ。

「うん。カルーセル麻紀さんも、同じ事務所なんだよね。とても仲がいいの。さっぱりした男みたいな人で……えーと、そういう言い方ってあるのかな、もともと男の人なんだからね、でも、とにかく気持がいい人なの。その麻紀さんが、事務所の人から聞いたんだけど、って引退発表のだいぶ前に心配して来てくれたことがあるの。麻紀さんはね、絶対にやめたらいけないというわけ。純ちゃん、やめたら駄目よ、あたしたちみたいな貧乏人がようやくこうして贅沢ができるようになったんじゃない、おいしいものをどんどん食って……麻紀さんは食ってって男みたいな口調で言うんだけど……綺麗なものじゃんじゃん買って、そうやって生きていけばいいじゃない。あたしたちみたいな貧乏人の生まれが、やめるなんていったら絶対にいけないよ、疲れたなら休むと言えばいいの、休みなさい、って真剣な顔で言われたんだ」

__彼女の言うことはよくわかるな。

「そうなんだ、あたしもよくわかる。でもね、あたしもできる贅沢はしたし、よい品物と悪い品物とはどう違うのかってことがわかるくらいには、高価な物も買ったけど、結局、あたしには、そんなに高い物は必要ないし、贅沢のために居たくないところに居る気はしないんだ。居たくないっていうことに気がついたんだよ。でも、麻紀さんの言うことはよくわかるから、そのときは、うん、と言っていたんだけど」

__彼女にとっては、贅沢というのが人生のひとつの目的であるわけだ。

「うん、それでね、その翌日だったかに一緒にテレビに出たんだ。二人で行動しているのを隠しカメラでとるとかいう、ちょっとどうでもいい番組なんだけど、二人でカメラの人たちをまいちゃって銀座に出たの。麻紀さんが洋服を見るから一緒に来てというので行ったわけ。いかにも高そうな店に入って……あたしはただ麻紀さんについて行っただけだけど……麻紀さんがほしそうに見ている服が一着あるの。あたしが見ても素敵なんだよね。何気なく値札を見て、ああ7万円か、まあまあいいな、なんて思ってもう一度よく見ると、ゼロが一個多いの。70万なんだよね。でも、麻紀さんは、いいわ、それもらうわって言うわけ」

__すごいね、70万もする服を着るわけか。

「贅沢だって思う?」

__ぼくなんか、パンツや靴下を入れたって、この服装全部で1万円もかかっていないからね、やはり70万の一着というのは驚異だよ。

「でもね、麻紀さんにとっては、70万の服を着てるってことが、生きるハリなんだよね。それを着て、シャンとしたいから、働いているんだよね。それはちっとも悪いことじゃないと思う」

__もちろん、誰も悪いなんて言えないさ。

「あたしはそういうことのために働くつもりはない、というだけなんだ」

__しかし、あなたのその思いは、人にはなかなか伝わらないだろうな。

「そうなんだ。なぜやめるの、と訊かれて、正直に答えるんだけど、誰にも信じてもらえない。愛情のもつれですか、なんて当人に訊くんだからマスコミの人っていうのもすごいよね」

__ほんと、すごいよな。

「それとか……結婚」
__プロダクションの移籍、っていうのもあったよね。

「そう、それも多いね」

__ぼくの友人の、元・芸能誌記者に言わせると、新栄プロダクションがいやになったからではないかという説が有力だとか。

「いやになるね。どこでやっても同じ。そういうことじゃないんだから」

__記者会見じゃ、みんなからギャーギャーやられた?

「そうでもなかったよ」

__テレビで見ると、せきこむようにしゃべっていたようだったけど、上がっていたのかな。

「どうだろう。あとでVTRを見てみると、どういうわけかニコニコ笑ってるんだよね」

__そういえば、テレビのキャスターが、こういう場面には涙がつきものなんですが、とか不満そうに言ってたなあ。

「新栄の社長がね、自分は引退には反対していたが、こうして引退するということになってみると、むしろ嬉しいと言ってくれたの」

__その場で? でも、それはどういう意味?

「社長はね、やっぱり引退は思いとどまらせようとしていたわけなの。だから、前から一度ゆっくり食事をしながら話し合おうと言ってたんだけど、いろいろの都合で会えないうちに、こんなふうになってしまったわけ。引退発表をしてしまえばおしまいだから、社長も迷ったと思うんだけど、こう考えたんだって。別にうちをやめてよそのプロダクションに行くというわけでもないし、歌手というのはいつまでもダラダラ歌っていって、みじめになっていつやめたかわからないような消え方をするのが普通だ。でも、純ちゃんみたいにまだまだ歌えるのに惜しまれながらやめていくなんて、歌手としてこんな幸せなことはない。みんなそうしたいけど、できないままにボロボロになっていく。それなら拍手をして送り出そう、ってそう言ってくれたわけ。おめでとう、って」

__それはよかったね。少なくとも、事務所の人たちは理解してくれたわけだ。

「まあ、ね」

__それでも、もめてやめるより、よかったじゃないか。

「それはそうだね。言い出せば、いろいろあるんだけど……」

__でもいいじゃない、そんなの。どうせ、もうやめちゃうんだから。

「うん」

__これはもう、どうでもいいことなんだけど、やめる前に、もうひとつ、大きな花を咲かせてからやめよう、という気持はなかった? 要するに、一発ヒット曲を当ててから華々しくやめてやろう、というような。

「それはなかったな。そうすれば、ますますやめにくくなるだけで、あたしにとって、少しもいいことじゃないもんね」

__そうか、それはそうかもしれない。

「記者会見をして何日かして、タクシーに乗ったんだよね。運転手さんは個人タクシーのおじいさんだったんだ。乗って、しばらくしたら、話しかけてきたんだよね。ほんの短い距離だったんだけど、その、降りる間際に、急に話と関係なく言い出したんだよね。あの、歌い手の藤圭子っていう子も引退するらしいけど、無理ないよな、やめさせてあげたいよな、って」

__あなたが藤圭子だっていうことを知らずに?

「うん、ぜんぜん気がついていないの。あの子がやめたいっていうのは無理ないよな、ってあたしに話しかけるんだから」

__へえ。 でも、それは嬉しかったね。

「うん、嬉しかった、とても」

__きっと、あなたの話す声かなんかで、無意識に藤圭子を思い出したんだろうね。しかし、世の中、実に楽しいことが起きる。

「ほんとだね」

__ほんとだ。

 


解説
ある意味で怪物だったのかもしれないね。それが、少しずつ人間になっていった。だから、そんなふうに苦しんだのかもしれない。そうかもしれないね。

上手に歌を歌う、感情のない「怪物」だった少女が、大人になり、少しずつ人間になっていった。
いろいろクヨクヨ悩むようになり、とうとう歌を歌えなくなってしまう。

藤圭子が引退を決意するまでの心の動きが、伝わってきます。


獅子風蓮


藤圭子へのインタビュー その23

2024-02-27 01:35:43 | 藤圭子

というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。

(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
■七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記


七杯目の火酒

   4

__あなたは、お母さんがとても大事で、話をしてると、どうしてもお母さんが、多く出てくるよね。

「うん、そうだね、自分では気がつかないけど、そうかもしれないね」

__かりに……かりにだよ……お母さんと男と……あなたが惚れちゃった男がいて、そいつとどちらを選ぶか、という局面に追いこまれたとしたら……そんなことは起こりえないのかもしれないけど……そうしたら、どうする?

「うーん」

__そんな深刻な局面はありえないかな?

「いや、そんなことないよ。あたしも、どうするだろうって、考えたことある、それと同じことを」

__へえ。

「もし、嵐になって、船が転覆して、ボートに救いあげてもらえるとき、あとひとりしか乗れないとしたら、どっちを先にしてもらうかな、って。お母さんか好きな人か、って。やっぱりお母さんかな。もし、あたしもその人も助かったとしたら、生き残ったあとがつらすぎるからね。それに、あたしって、男の人を見る眼がないから、自信持てないよ」

__ハハハッ、見る眼がないのか、あなたは。

「感情に流されて、いつも失敗ばかりしているから」

__いつも、失敗しているの?

「うん。でも、自分が悪いんだから、納得してるけど」

__ハハハッ、納得しているの。

「そうなんだ……」

__今度も?

「えっ?」

__今度の、ほら、野球をやっている人の場合も?

「ああ……うん、そう。見る眼がなかった、あたしに」

__そして、そうやって納得してるわけか。

「そう、納得してる。納得してるけど……そんなにアッサリはできなかったけどね、いまみたいには」

__そのときは……いろいろあったわけですか、彼とは。

「そうだね……そうなんだ。あたし、ヒステリーを起こしたんだよね」

__誰に?

「お母さんに」

__いつ?

「4月頃」

__どこで?

「クラブで。クラブの楽屋で」

__あなたみたいな人でも、人並にヒステリーを起こすんですか?

「起こすんですよ、これが。すごいヒステリーを起こしちゃった」

__そんなにすごかったの?

「ここ10年で最大のヒステリー」

__ハハハッ、10年来のヒステリーか。でも、仕事をやる前はヒステリーなんか起こしたことなかったでしょ? それなら、10年来ということは、生涯最大のヒステリーということになるよね。史上最大のヒステリー……。

「そんなに馬鹿にしないでください。真剣だったんだから、ほんとに」

__ごめん。

「お母さん……あっ、またお母さんだけど……びっくりしたんだって。血の気が引くような思いをしたんだって。そのヒステリーの起こし方がとてもお父さんに似ていたらしいの。そっくりだったんだって。ああ、この子にもやっぱり、あのお父さんの血が流れているんだろうか……」

__そうか、それは血の気が引いたようになるのも、無理はないかもしれないね。泣いたり、喚いたり、物を投げたりしたんだね、きっと。

「エヘへ。そうなんだ」

__可哀そうに、お母さん。原因はどんなことだったの?

「営業で、ひどいクラブが続いていたんだよね。ほんとにお粗末なクラブなんだ。それでも我慢してやっていたんだけど、ある日、楽屋で爆発しちゃったの」

__どうして、そんなところにお母さんがいたの?

「それはね、一度舞台に出て歌ったんだけど、あまりお客さんがひどいんで、途中で引っ込んでしまったの。でも、そのまま帰るわけにいかないし……帰ったら困る人がいっぱいいるし……もう一度出て歌い直そうとしたんだ。でも、同じ衣裳じゃ出られないじゃない。もう一着、お母さんとお手伝いさんに急いで持ってきてもらったんだ。そんなふうに、一生懸命我慢していたんだけど、どうしても気分がたかぶって抑えようがなくて……ついに爆発しちゃったの。そういうことが続いていたんだよね。安っぽいキャバレーで……心が痛んでいるときに……変な客がいて、ヤクザみたいのとか、酔っ払いとかが、舞台に上がってきて……」

__それが直接の原因だとしても、もっとほかに、いろいろあったわけだね、心が痛む、何かが。

「うん」

__どうして?

「えっ?」

__どうして心が痛むようなことがあったの、その、野球をやる人との恋愛で。

「……」

__どうして?

「……」

__なぜなんだろう……。

「……裏切られたんだ」

__えっ、珍らしい台詞を吐くね、あなたにしては。

「裏切られたっていっても、怨みとか、そういうんじゃないんだよ。ぜんぜん、そういうんじゃないんだ。自分の思いがね、自分で勝手に思い込んだ、その思いが、裏切られちゃったと言ってるの。それが、それが……痛かったって言ってるの。心がね、痛んだっていうのは、そういうこと」

__自分の思い、ってどういう思いだったの?

「男の人を尊敬したいって思ったんだ。女がどれだけ頑張っても、やっぱり女なんだよね。できることなら、女は、やっぱり男に支えられて、そうやって生きていくことが幸せなんじゃないか、と思ったの。尊敬できる男の人と、一緒に生きていきたいと思ったんだ……でも……駄目だった」

__その人と、一緒に生きていこうと、思っていたの?

「うん……結構、真面目に考えていたんだよ……結婚を」

__結婚?

「そう……」

__それは意外だね。だって、その前に付き合っていた人、グループのボーカルをやってた人、その人のときには、結婚しようなんて思わなかったんでしょ?

「うん」

__相手も?


「うん……でも……すぐにというんじゃなかったけど、しばらくしたら、みたいなことは言ってたけど」

__まあ、一緒に住むということでよかったわけだ。あなたも彼も。それなのに、なぜ、次の人とは結婚しようと思ったの? あなたが結婚したかったの?

「正直言うとね、どうして一時期にしろ、熱くなって、惚れたかというとね……最初はあまり好きじゃなかったんだ、あたし。好きじゃなかったから、初めのうちは、むしろ惚れられたりすると、ややこしくなって困るなって思ったくらいなの。それがそそっかしくてこっちが惚れちゃったんだけど……」

__ハハハッ。

「笑わないでよ、そんなことで。悲しい話をしてるんだから」

__ハハハッ。

「それがどうして必要以上に熱くなっちゃったかというと、みんなでハワイに行ったんだよね。遊び仲間の人たちと一緒にハワイで一緒に時間をすごしているうちに情が移っちゃったんだ。どうしたって移るよね。移っちゃって、日本に帰ることになって、帰ってきたとき……成田で気がついたわけ。そうだ、ここであたしたちはバラバラになるんだ、この人は家に帰るんだ、家には奥さんがいるんだって気がついたの。そうだ、そうなんだ、って。そう思うと急に寂しくなったんだ。それに、やっぱり、人間ってさ、自分のものじゃないというと、欲しくなったり、そういうことってあるじゃない。それがあったから、一時期、そんなふうになっちゃったんじゃないかな」

__あなたが執着したの、結婚に。

「ううん、向こうが女房と別れるからって言い出したんだ。別れて、あなたと……あの人はあなたじゃなくておまえというんだけど……おまえと結婚するというわけ。奥さんがいて、子供がいるのに、それほどまでしてくれるというなら、なんて思ったことは確かにある。第一印象は悪くて、なんだろうこの人は、なんて感じがして……。でも、最初の印象って、正しいんだよね、いつでも」

__いまごろ、そんなことを言っても遅いんですよ。

「エヘヘ」

__まったく、阿呆なんだから……。

「最初ね、変わった人だな、と思って呆れて見てた」

__どうして知り合ったの?

「去年のオフにね、泉ピン子ちゃんたちと呑んでたら、ジャイアンツの若い人たちが呑んでるから来ないかって誘われて、みんなで行ったの。そこにいたんだ。変な人でね、女の人と見ると、すぐチークで踊りたがるの。ピン子ちゃんの付き人の人でもなんでも構わず、チークで踊るんだ。馬鹿にして見てたの、あたしは。でも、それから、そのグループで、よく会うようになって……ちょうどその頃、前に暮してた人と別れたすぐあとで、苛々してたんだよね。誰もいなくて、寂しかったんだね。馬鹿だね、あたしって」

__まったく。

「結婚して、子供さんがいるというのに、そんな人と恋愛するなんて、女のくせによくないよ。いくら好きになったんだから仕方ないといったって、好きになる前に、そういう行動を取らなければいいんだから、やっぱりよくないよ。ずいぶんひどいことをしたなあって、本当に後悔しているの。理屈で考えても、許されないことだよね。馬鹿と言われようが、何と言われようがしようがない。だから、かりに結婚したとしても、幸せになれるはずがないよね」

__これがぼくの妹かなんかだったら、馬鹿、とか言うんだろうけど、男と女の機微なんて、当人同士でなくちゃわからないことだろうし。でも、聞いているのが、ちょっとつらい話だなあ。

「そう? やめようか?」

__うん、やめよう。もう、その話はやめよう……どういうふうに最終的に決裂したのか知らないけど、なんとなく想像はつく。それもつらそうな話のような気がするから。

「うん……」

__別れたあとだね? クラブの楽屋でヒステリーを起こしたっていうのは。

「うん……でも、いま考えてみれば、悩んで、苦しんで、ノイローゼになるほどの相手じゃなかった。非常につまらない人でね。悩む必要のない、つまらない、薄っぺらな人で……自分の付き合っていた人を悪く言うのは、自分のくだらなさを言うことと同じだけど……ほんとなんだ。ほんとに、信じられないようなひどい言葉を投げつけられて、それで終ったんだけど……でも、別れる前に、気がつくべきだったんだよね。自己中心的な人で知り合ったはじめの頃、付き合ってる女の子が妊娠しちゃったらしくてどうしよう、なんて言ってて、産みたいって言うの、って訊いたら、冗談じゃない、あんな女に産ませるもんか、ぼくの子供を、って言うんだ。絶対に堕ろさせる、って。そういうことはいくらも見たり聞いたりしてたのに、気がつかなかったあたしが馬鹿だというだけ。そうなんだ……」

__……。

「いま思えば、むしろ、よかった。あのまま、もしか、うまくいってても、不幸だったと思う。男の人にチヤホヤされて、いつもそうだったから、あたし勘違いしてたんだと思う。男の人って いうものを。勉強になった」

__ハハハッ、勉強になったってのも、おかしな言い方だね。

「でも、やっぱり、勉強になった。あたしがいやで、逃げ出したい逃げ出したいと思っている世界へ、その人は近づきたくて仕方がなかったの。華やかっぽい、芸能界とか、そういうとこへ近づきたくてしょうがなかったんだ。ファンの集いなんかで舞台に上げられて歌なんか歌わされるわけ。見ていて可哀そうだな、なんて思うわけ。きっと居心地が悪いだろうな、って。すると、歌って戻ってくると、どうだった、俺うまかった、なんて訊くんだよね。ほんとに、困ったことがある」

__そうか……。

「お母さんが言うんだよね。純ちゃんの周りには、とても立派で素敵な人がいるのに、どうしていつも、よりによって……」

__ロクでもないのばかり好きになるんだろう、って?

「そう。変なのを選って恋愛してる、って」

__変なのを選(よ)って、というのは面白いね。選ってるの?

「まさか。でも、確かに、立派な人はいるんだけど、そして好きなんだけど……どうしても恋愛感情だけは生まれなかったんだ、どういうわけか」

__惚れるのは、いつも変なのばかり、か。

「そう」

__しかし、惚れるだのなんだのっていうのは、筋書どおり、理屈どおりにはいかないからなあ、実際……。


「そうなんだよね」

__くだらない、駄目な男ほど、女の人にとっては魅力があるものなんだろうし……。

「そうなんだろうね、たぶん」

 


解説
「もし、嵐になって、船が転覆して、ボートに救いあげてもらえるとき、あとひとりしか乗れないとしたら、どっちを先にしてもらうかな、って。お母さんか好きな人か、って。やっぱりお母さんかな。もし、あたしもその人も助かったとしたら、生き残ったあとがつらすぎるからね。それに、あたしって、男の人を見る眼がないから、自信持てないよ」

だめんずウォーカーな藤圭子さんですが、「男の人を見る眼がない」と自覚はあったようです。
つまらない男と同棲を解消したあと、妻子ある野球選手と付き合うようになります。
でも、その男に裏切られて……

__惚れるのは、いつも変なのばかり、か。

DVのひどい父親を持ったことと関係があるのかもしれません。


獅子風蓮