「未来世紀ブラジル」はあまり好きではなかったが、この前見直したら結構よかった。10年前から、同じ監督の「バロン」の方は好きであった。後者が、逃げたら帰ってきて又逃げるという運動性があるのに、前者は、結局逃げられなかった話だから、二十代の私には鬱陶しかったのである。
情報局みたいなのが社会全体を管理し、書類のタイプミスが現実化してしまうような社会の話である。そこでは、役所から降りてきた情報だけが「現実」である。
見直してみると、描かれている管理社会はダクトでつながれた巨塔とその他という感じであった。主人公は最後、パノプティコンですらない、巨大な筒状の空間の底につながれているが、このイメージは面白い。おそらくこれは、作品の世界を管理していたところの、指令が通過するパイプや、空気清浄のダクトを象徴するものでもあろう。人間はそのパイプやダクトを使用している気になっているが、その「なか」にいるに過ぎない。普段は、ダクトが垂れ下がる狭苦しいところに住み、役所も狭い個室なのに、主人公がとらわれている空間は広い。それは閉じられた砂漠のようなものである。支配は一見自由と似ているわけだ。上の空間は空いているらしく、だからこそ主人公は、友人のもぐりダクト修理屋(デニーロ)が上方から助けに来てくれると妄想してしまう。しかし、いつも上方から来るのは、上からの情報の通達であり、逮捕しに来る警察官であったはすだ。空に向かって舞い上がり天使のような女の子と飛ぶ夢は、上方からの通達に怯える管理社会に生きる者の逆説的な上昇志向に過ぎなかったのではあるまいか。管理社会はパイプやダクトのように上方は空いているように見え、希望がそこにあるような気がする。しかし気がしているだけである。
で、主人公は、夢にでてくる彼女に似た現実の女の子とは上方ではなく横に逃げたのであったが……、ただ逃げりゃいいものを、彼女を書類上死んだことにするという、いつもの情報現実化を逆手に取ろうとした結果、つかまってしまう。
ただ、横に逃げるべきである。
「バロン」では、ミュンヒハウゼンは気球に乗って飛んでゆくが、あれは実際は上空への上昇ではなく、月に行ったのを除けば、横に移動するための手段なので、同じことだ。