★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

現代版「三教指帰」の要請

2023-03-21 23:49:17 | 思想


子謂子夏曰。女為君子儒。無為小人儒。

この二年ほど、仏教と儒教を勉強したが、――やっぱり日本での道徳があり得るとしたら「三教指帰」みたいな〈形〉をとらざるを得ないんじゃねえかという気がする。我々はヘーゲルなどのように自分に対して鞭打たずとも、おもったよりも弁証法的な揚棄を強いられており、そこからしか道徳を導き出すことはない。だから、新たな儒教や道教や仏教に相当する何かが入ってきた時代の知識人たちは悲惨である。とにかく揚棄の前にがぶ飲みしなければならない。そして、まだうまく説明出来ないが、空海がやったような形式的な教えの束である儒教のようなものの揚棄は、たしかに最初に必要であるが、――これが出来るには時間が経ってからでないといけない。空海はたぶんタイミングもよかったのである。

仁を体現する君主を頂点として、その周りを教養人(君子儒)、更なるその周りを知識人(小人儒)が支えているという構図は、君主が頂点としてあり、指導者としての君子儒、ただの知識人としての小人儒は、それを助けるものに過ぎないという意味で、君主がコミュ力=基体としての人民に変わったとするといまのある種の知的状況にそっくりである。コミュ力が知識よりも大事みたいな理屈は、サイエンスでも哲学からでもなく、こんな構図から発想されているにすぎない。これは説教としては有効だが、君主や人民に対する権威主義に堕するのは目に見えている。コミュニケーション至上主義者がどことなく権威主義者なのは当然なのである。

道教なんかはどことなくサイエンスじみているから、上の説教を否定出来るようにみえる。しかし、まあ、いまも似たような状況はあるが、なにやら細かいエビデンスが出てくるだけで、一向にどうすりゃいいのかわからない場合も多い。かくして我々の社会は日進月歩でスピード感だけがある論文漬け薬漬けみたいな状態となる。

実際、専門家は案外欺されるが、わかりやすく書かれた〈科学的〉論文は出来がいまいちだとやべえほど素人に論破されているのである。逆にややこしい小説や文学や哲学の論文といえば、読ませても大概睡魔を呼び寄せてしまうから論破されることはない。で、意味が分かるのは、三〇年後みたいな感じである。長く生きなければ分からない著作は意味がないのか?あるのである。分かりやすい論文とは、即効性があるが、ということは、論文にハラスメントを受けている状態なのである。長く生きて分かる著作は、あくまでも主体的な理解を要するということだ。それは活きて働くみたいな、嘘をつかなければエビデンスとならない妄想ではない。とにかく嘘と嫌がらせをやめる練習をするだけでも大学は意味がある。逆に嘘と嫌がらせの練習している変態もいるが。

主体性には、未来において現れるのだが、はやく呼び出す方法がある。現実の否認である。たとえば、村神と大谷様をドラゴンズによこせ。さすれば明日は応援してやってもいい、こういう態度である。しかしこれも、しみったれたやり方だとあまり好感は得られない。例えば、保田與重郎は日本浪曼派のことを「夜の橋」だと言ったけど、とにかく「コギト」時代以来の彼らの書くもんをみるととにかく「夜」というか「暗い」。対して彼らを批判する人たちは、条件反射的に明朗で昼的になる。この対立はあまり生産的ではなかった。だから三島由紀夫は保田に批判的だったのであろう。


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