★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

菊王丸の墓を訪ねる(香川の神社220)

2022-09-04 22:22:03 | 神社仏閣




能登殿、其処退き候へ矢面の雑人原、とて差し詰め引き詰め散々に射給へば矢庭に鎧武者十余騎ばかり射落さる、中にも真先に進んだる奥州佐藤三郎兵衛嗣信は弓手の肩を馬手の脇へつつと射抜かれて暫しも堪らず馬より倒にどうと落つ。能登殿の童に菊王丸といふ大力の剛の者萌黄威の腹巻に三枚甲の緒を締め打物の鞘を外いて嗣信が首を取らんと飛んで懸かるを、忠信傍にありけるが兄が首を取らせじと十三束三伏よつ引いてひやうと放つ。菊王丸が草摺の外れ彼方へつつと射ぬかれて犬居に倒れぬ。能登守これを見給ひて左の手には弓を持ち右の手にて菊王丸を掴んで舟へからりと投げ入らる。敵に首は取られねども痛手なればや死ににけり。


源氏軍の佐藤嗣信を、平教経(能登殿)が射貫いた。この人は清盛の甥である。で、教経の雑用係であった菊王丸という怪力少年(18?)が嗣信の首を取ろうと飛びかかると、嗣信の弟・忠信がそうさせじとこれを射貫いた。

この佐藤嗣信の墓は、安徳天皇社のちょっと北の方にあるのだが行きそびれた。ちょうど安徳天皇社を真ん中に合戦のあった海にむかって鳥が羽を広げるように左手に佐藤の墓、右手に菊王丸の墓がある。平家物語によると、佐藤嗣信は、義経を狙った平教経の矢にあたって死んだ。彼は奥州から義経についてきていた人物で、討たれても簡単にはくたばらず、ベルディのオペラなら軽く10分程度は、義経の胸の中で歌っていたでもあろう。

就中に、 『源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひける者、讃岐国八島のいそにて、主の御命にかはり奉ッてうたれにけり』と、末代の物語に申されむ事こそ、弓矢とる身には今生の面目、冥途の思出にて候へ」


これに比べると「犬居」の姿勢で討たれてしまった菊王丸の哀れさよ。能登殿は咄嗟に右手で菊王丸を摑んで舟のなかに放り投げる。こういう、死ぬまでの二人のコントラストが劇的にできている「平家物語」は、もちろん勝者と敗者の二者に死者が跨がっているからそうなっているのである。事実はどうであろうと、地元の人々は、佐藤殿も菊王丸も墓をつくらざるを得まい。その間に安徳天皇をまつりながら。天皇は、死者たちを跨ぐ要の死者である。

安徳天皇社を訪ねる(香川の神社219)

2022-09-04 19:26:51 | 神社仏閣


もと「壇ノ浦神社」。寿永2年、ここに京から遁れた安徳天皇の御所が置かれたという。『香川県神社誌』には、「讃州府志」を引用し「土人こゝを内裏と呼ぶ」とあり。







周辺にあった、平氏の死者の墓を集めたものといわれる。



本殿。

訪ねて分かったのだが、ここはなかなかの眺めのよいところで、――屋島の古戦場というのは、屋島の山腹からみると屋島と牟礼の間の湾自体、恰も海の京都という感じがある。安徳天皇が入水した壇ノ浦はむろん別の場所であるが、「海の中にも都はありましょう」という女人の言葉は、なんとなく古戦場を上から見ているとそんな気もしてくるから不思議である。

「君はいまだ知ろしめされさぶらはずや。前世の十善戒行の御力によつて、今万乗のあるじと生まれさせたまへども、悪縁に引かれて、御運すでに尽きさせたまひぬ。まづ東に向かはせたまひて、伊勢大神宮に御暇申させたまひ、その後西方浄土の来迎にあづからむと思しめし、西に向かはせたまひて御念仏候ふべし。この国は粟散辺地とて心憂き境にてさぶらへば、極楽浄土とて、めでたき所へ具しまゐらせさぶらふぞ。」

 と、泣く泣く申させたまひければ、山鳩色の御衣にびんづら結はせたまひて御涙におぼれ、小さくうつくしき御手を合はせ、まづ東を伏し拝み、伊勢大神宮に御暇申させたまひ、その後西に向かはせたまひて、御念仏ありしかば、二位殿やがて抱きたてまつり、

「波の下にも都の候ふぞ。」


鳥居の右端には壇ノ浦養豚組合による「支那事変紀念」の碑があり、前面の鳥居も昭和13年のものであった。戦争は昔の戦争にも碑によって繋がっている。しかしほんとにつなげる必要はなかった。そして、戦われたのはもっと広い海でのことであった。