★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

水論の加速

2022-09-06 23:13:20 | 文学


然も水論は。正保年中。六月はじめつかたの事なるに。両村の大勢。千貫樋にむらがり。庄屋とし寄。一命を捨て。あらそひして。今ぞあぶなき折ふし。日の照最中に。ひとつの太鼓なり。黒雲まいさがつて。赤ふどしをかきくる。火神鳴の来て。里人に申は。先しづまつて聞たまへ。ひさしく雨をふらさずして。かく里々の。難義は。我々中間の業也。此程は。水神鳴ども。若げにて。夜ばい星にたはぶれ。あたら水をへらして。おもひながらの日照也。おのおの手作の。午房をおくられたらば。追付雨を請合と申。それこそやすき事なれと。あまた遣しけるに。竜駒に壱駄つけて。天上して。其明の日より。はやしるしを見せて。ばらりばらりと。痳病けなるに。雨をふらしけるとぞ。

「神鳴の病中」は、諸国ばなしの中でも傑作のひとつだと思う。遺産相続の争いの中に刀に執心する奴がいて、それが水争いのときに爺さんか誰かが使ったなまくらで、人を切れなかったために裁かれずに助かったのだ、――という話が続き、なんの教訓だろう、と読者が油断していると、水争いの元凶である神鳴り様のお出ましである。仲間が夜這いをしすぎて腎虚になったので雨が降らないんだ、とくる。で、ごぼうをくれよというので民がごぼうをやると、淋病の小便のように少し降ったらしい。

太宰のような自意識が1ミリもない素晴らしい加速的な話である。

「加速して参ります」とかいう政治が悪事だけを加速させるのと、太宰の小説はにている。

もしここに平和という言葉があり、戦争という言葉がある。あるいはどんな言葉でもいい、一つの観念も政治的なスローガンであるうちはいいが、それが政府が強制した言葉になった場合、その政府が強制した言葉を我々が使わなければならない場合は、その言葉の意味内容というものは自由に変えられる。

――三島由紀夫「学生との対話」(早稲田)


上の部分は、早稲田での講演のポイントの一つだが、こういうのは当時の学生がいわなきゃいけなかった。三島こそが意味を変えてると。しかしそうじゃなかったので、いまや「対話」やら「SDGs」やらなにやらで、意味がスポイルされ変えられた言葉を強制されるはめになっている。要するに、言葉とは、比喩でもなんでも自意識がくっつき始めると、意味が逆にも何にでもなってしまう。それは文学の成立させる性質でもあるが、文学を殺す性質でもある。まずは、欲望だけに忠実な言葉がはかれなければならない。

さっき新聞が届いて、一面に「国葬反対」「保守性と宗教、底なしの夏」とででんとあって、ついお腹がへんな音立ててしまったが、『図書新聞』だった。こういうときのこういう新聞の言葉は生き生きしている。意味以外の意味がないからだ。我々はソ連の「プラウダ」(真実)という新聞を笑うけれども、「週刊実話」とか「週刊大衆」もたいがいプロレタリアート独裁的真実的な何かを感じるのであって、下ネタと同等の革命や擾乱の欲望を残しているからだ。週刊誌が唯一ジャーナリスティックになっているのは当然である。ほかの言葉たちは、もう何かの隠れ蓑にしかなっていない。

いまの自民党の堕落は、かかる言葉の堕落とも相即的である。かれらが明確な反共みたいな「思想」をもっていたらまだましなのである。いまは実際それもない。そもそも、自民党は成立事情からしても保守ではなく、「反共」政党だったからである。しかし、対立する共産主義をやつらは狂信的だ一種の宗教だとか言ってるうちに、みずからも、マルクス主義が敵視するところの「宗教」=「反共」みたいな意味の混淆を体現することになってしまったのだ。この混淆は錯乱をいみせず、むしろその自覚を疎外するのである。宗教はアヘンと変わらない。別に自分で吸ってるわけではないからアヘンだと気付かないアヘンである。

育てよ、浦島さん

2022-09-06 09:55:14 | 文学


旧家の長男というものには、昔も今も一貫した或る特徴があるようだ。趣味性、すなわち、之である。善く言えば、風流。悪く言えば、道楽。しかし、道楽とは言っても、女狂いや酒びたりの所謂、放蕩とは大いに趣きを異にしている。下品にがぶがぶ大酒を飲んで素姓の悪い女にひっかかり、親兄弟の顔に泥を塗るというような荒んだ放蕩者は、次男、三男に多く見掛けられるようである。長男にはそんな野蛮性が無い。先祖伝来の所謂恆産があるものだから、おのずから恆心も生じて、なかなか礼儀正しいものである。つまり、長男の道楽は、次男三男の酒乱の如くムキなものではなく、ほんの片手間の遊びである。そうして、その遊びに依って、旧家の長男にふさわしいゆかしさを人に認めてもらい、みずからもその生活の品位にうっとりする事が出来たら、それでもうすべて満足なのである。
「兄さんには冒険心が無いから、駄目ね。」とことし十六のお転婆の妹が言う。「ケチだわ。」
「いや、そうじゃない。」と十八の乱暴者の弟が反対して、「男振りがよすぎるんだよ。」
 この弟は、色が黒くて、ぶおとこである。


――「浦島さん」


「ウルトラQ」の「育てよカメ」の内容は忘れてしまったが、たしか乙姫もかわいらしかった気がする。太宰の浦島は、生ざとりの不気味さを表現したもので、やはり子供の魂は失ったものであった。太宰はなんでこんなに無垢にこびを売るのかわからない。