とは、「影丸」の言葉である。ヴェルヌだったか、誰だったか、そんな言葉を吐いてた様な気がするし、マルクスも「だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけ」とか『経済学批判』で言っていた。永禄年間なのに、殊勝なことである。つまり白土三平の物語は、ヴェルヌやマルクスのようにある種の未来をかいているのである。安保運動を背景にしたのではなく、運動の未来を空想したのである。ほとんど読んでないが、そんな気がするぞ。
この前「必殺仕事人Ⅲ」の再放送を見たのだが、あれも庶民の絶望的な夢であろう。わたくしも、越後屋みたいなやつと悪徳役人が死んで非常にすっきりした。しかし、水戸黄門や将軍、あるいは暗殺集団しか悪を処罰できないとは考えてみりゃひどすぎる。だいたい、悪人は殺すしかねえよ、と思ってしまう我々の社会はあまりにもまだ根本的には封建的であり、抑鬱感を処理する方策が「殺し」や洗脳みたいな「癒し」しかないのはいったいどういうことであろうか。この調子では、アメリカや中国にたいしても、殺しか癒ししか求めないのではないかと疑われる。ちょっかいを出してくる隣人に対しては、警察に頼む、お裾分け、など、いろいろなやり方をすべきで、仕事人や将軍に頼んではならない。世界はそんなやり方はとっくに悲しみとともに放棄しようとしているのである。……ともあれ、最近は、こういう殺しの物語すらなくなって、越後屋悪代官と絆的コミュニケーションをとってしまいそうな勢いであって――、まあそれはただの屈従である。この憤懣はいずれ必ずどこかで爆発するであろう。
とはいえ、マルクスの言うことはまあ正しく、憤懣を晴らす言葉が「安倍は辞めろ」とか「憲法壊すな」となってしまうのは、それ以上のことがどうやら問題に出来ないほど困難であるから、というのが本当のところかもしれない。しかし、庶民は一歩一歩出来そうなことを行って密かに進む。知識人は……白土やマルクスのようにちょっと夢を付け加える。たぶん……。