それは、松山の一番町と勝山通りの交差するエリアの近くにある、よくある飲食店の雑居するビルの4階にあった。
店名はサクラ、10席ほどのカウンターしかない、さくらという名のママが一人で経営するごく小さなスナックで、それでもいつもお客さんの絶えない店だった。
俊輔がまだ40代だった頃、ある団体の纏め役として、月に一回は、その会議の為に松山まで出向いていた。
そして、たまには懇親会の流れで夜の街に出向くこともあった。
そうした流れの中で、初めて訪れたのが、サクラだった。
一度に訪れた5.6人の来店客をこなすさくらを、なんとなく眺めながら、ボーっと思い出したのが、かつての
ケイの面影だった。
何処が似ているというのではない、敢えて言えば、雰囲気だ。
中肉中背でスラっとしたスタイルに、ほんのり下膨れ気味の瓜実顔に、やや長めで、ほんのりマロン掛かったカラーの入ったサラサラとしたボブ。
それがさくらだった。
その夜は、あるゲストの接待めいた集まりだったので、俊輔もそれなりに場を持ち上げる気働きはしつつ、その合間にママに向かってそっと、「なんて呼べばいいの?」と。
「サクラのさくらです、よろしく」と、型通りの挨拶をくれた。
「そっか、さくらちゃん、オレ、キミとよく似た子を知ってる」
「まあ、古い手を使うこと、で、あなたはなんてお呼びすればいいのかしら?」
「楠俊輔、名刺は山と貰ってるだろ、だから渡さない」
「ご挨拶ねえ、いいわ、俊輔さんね、初めまして」
後は、グループの纏め役をこなして、その店を後に。
支払いを済ませて店を出る瞬間に「また来てね」と、そっと手を握ってくる。
そんなことはよくあること、所謂ビジネストークだ。
だが、決して悪い気はしない。
だから、ビジネストークは肝要だ。
それから数か月経って、やはり同じ会議で松山に出向いた折、今度は、二次会の流れからそっと逸脱する。
そうさ、言わずと知れた、ビジネストークに従うために。
時刻は22時、店内には、先客が二人一組、その接待から振り向いたさくらは、「来てくれた!俊輔さん」と。
「覚えてくれてたの?」
「そうよ、私を何だと思ってるの?」
それから二人は、先客をほったらかしにして、お互いの情報を交換する。
それを真に受けるほど俊輔は子供ではなかったが、それでも、さくらは俊輔の三つ年下で、10年ほど前に結婚したが、1年も経たずに離婚して、以後、生活の為にその世界で暮らしているという。
「ねえ、俊輔さん、あの歌歌ってくれる?」
「あの歌?」
「そう、この前歌ってた、シルエットロマンス、私、あの歌がとっても好きなの」
「いいよ」
シルエット・ロマンス 来生たかお オリジナル版/Silhouette Romance Takao Kisugi 1982
そうして時は過ぎ、先客も帰った後、時刻は翌1時に。
「もう店閉める時間かな?」
「うん、ごめんなさい、でも、この後、二人で飲みに行く?」
「いいよ、でもオレ、松山はようわからん」
「私に任せてくれる?」
「勿論」
そうして、さくらに手を引かれ、二番町の奥のしっとりしたバーへ。
仕事柄、酒の蘊蓄には事欠かない俊輔のリードで二人は静かに盛り上がった。
それもやがて、そこも閉店の時刻。
数階分のエレベーターが降りる、ホンの僅かな時間、二人は見つめ合った。
そして、どちらからともなく唇を合わせる。
それは、ごく軽いフレンチキスだった。
それでいいんだ、俊輔には、その先へ進む勇気はなかった。
だから、次は無いと決めていた。
結局、シルエットロマンスの歌詞とは真逆の、それこそ、影のようなすれ違いで終えた女性がさくら。
でも、その刹那の状況、感情、触角は、年老いた今の俊輔にとって、未だにシルエットロマンス・・・ってか?