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福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2009.10.24(土) 京都・北野天満宮に詣でる

2011-09-30 | 旅行記

太宰府天満宮とともに天神信仰の中心地である京都、北野天満宮に詣でた。

続いて京都に現存する最古の仏堂遺構という大報恩寺(千本釈迦堂)を訪ね、

相国寺では有名な鳴き龍を見て、その鳴き声を聞いた。

また源氏物語の執筆地で紫式部邸宅址といわれる蘆山寺を訪ねて今回の

京都旅行を終えた。

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北野天満宮楼門(南門)

北野天満宮の参道脇の駐車場から、さざれ石越しに楼門(南門)を望む

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楼門(南門)を後ろに参道脇の駐車場を見る

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北野天満宮 三光門(中門)  重文

後西天皇の宸筆という「天満宮」の勅額を掲げてある三光門。豊富な彫刻の

中に日月星があるから三光門の名があるという。

もっとも星は見当たらず「星欠けの三光門ともいわれ」北野の七不思議の

ひとつという。

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北野天満宮・三光門(中門)から後ろに絵馬所を見る

南方に見る絵馬所を左に行き、また南に行った所に楼門(南門)がある。

この配置が北野の七不思議のひとつ「筋違いの本殿」であるという。

もちろん本殿は、この写真の後方(北方)にある。

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北野天満宮 社殿(本殿)  国宝  左近の松 右近の梅

主祭神・菅原道真を祀る本殿は桃山建築の代表で、この社殿は慶長12年

(1607)、豊臣秀頼の造営になるという。

古来神社祭祀は庭上で行われて来たので壮大な殿内で祭典を執行し得る

現社殿の出現は神社建築史上画期的なものという。

八棟造と称される総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴く絢爛豪華な

桃山文化を今に伝えている。

楼門(南門)をくぐった正面には地主神社があり、菅公を祀る本殿はやや西に

位置している。この地主神社は北野天満宮鎮座以前の承和3年(836)に祭ら

れており、天暦元年(947)6月9日天満宮創祀の際、地主神社の正面を避けて

建てられたためという。

「筋違いの本殿」といわれる北野の七不思議のひとつである。

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北野天満宮本殿   国宝

北野天満宮は平安時代中期、国を鎮め守る神として、多治比文子(道真の

乳母という)らによって京都北野の右近馬場に菅原道真の霊を祀ったのが

始まりとされる。

永廷元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ

「北野天満宮天神」の神号を得たという。

文子天満宮は車で京都駅に向う途中の駅に近いところで見た。

京都市下京区間の町通花尾町下る天神町に在って祭神はもちろん

菅原道真である。

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大報恩寺(千本釈迦堂)  国宝

瑞応山と号する真言宗智山派の寺院である。承久3年(1221)藤原秀衡の

孫・義空上人が猫間中納言光隆の家卒・岸高より寄進を受けたこの地に

小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが起こりという。

当初、倶舎、天台、真言の三派の霊場として、堂塔伽藍も整い壮麗を極めた

というが、応仁の乱をはじめ、度々の災火で堂宇を焼失した。

現在唯一残る本堂(千本釈迦堂)は京都市に現存する最古の仏堂遺構という。

毎年二月にはおかめ福節分会、七月には六道まいり、十二月には大根焚きなど

多彩な行事が営まれ、その賑わいが季節の風物詩として全国にテレビ放映されている。

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相国寺(しょうこくじ)法堂  重文   京都市上京区今出川通烏丸東入

相国寺(しょうこくじ)は金閣寺、銀閣寺等の末寺を擁する臨済宗相国寺派の

大本山だそうだ。 この法堂(重文)は慶長10年(1605)豊臣秀頼が建立

したもので、桃山時代の遺構で一重裳階付入母屋造りの唐様建築の我国

最古の法堂という。

足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命を受け、明徳三年(1392)に、

夢想国師を勧請開山として完成したという。

その後、応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したという。

後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の

法堂を建立し、慶長十四年には徳川家康も三門を寄進した。

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相国寺法堂

桃山時代の遺構で我国最古の法堂という。一重裳階付入母屋造りの

唐様建築で、天井の蟠龍図は狩野光信(永徳の嫡子)筆。

蟠龍図の周りを歩くと、龍の眼がついて来た。蟠龍図の下の所定の位置で

両手をたたくと、龍が鳴いた。

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相国寺方丈  法堂の北側に建つ  文化四年(1807)再建

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蘆山寺  源氏物語執筆地、紫式部邸宅址  京都市上京区寺町広小路上る

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蘆山寺   源氏物語執筆地、紫式部邸宅址

この地は紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(877~933)から伯父の

為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であったという。

それは鴨川の西側の堤防の西に接して営まれていたため「堤邸」と呼ばれ、

それに因んで兼輔は、「堤中納言」の名で知られていた。

紫式部は百年ほど前に兼輔が立てた旧い家で一生の大半を過ごしたと

いわれ、この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子

(かたこ・大弐三位)を育て、源氏物語を執筆したと伝わっている。


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