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子どもたちの「空虚な日本語」

2012-04-19 22:53:10 | 教育関連

生徒の言葉づかいがおかしいな~と感じていたところに平積みになっていたのがこの本。

 

子どもを蝕む空虚な日本語
齋藤浩
草思社

 

筆者は現職の神奈川県の小学校教員。この本を読めば、この本の筆者も含めて、いかに今の学校教員がヘタクソな学級運営しかできていないかがよくわかる。反面教師という意味で推薦する。

ただ、ここに収録されている生徒の言葉づかいは、記録としては大変貴重なものなので、それをアーカイブした点では高評価。たとえば以下のようなやりとりは、手に取るようにリアルだと実感できる。やや長いが引用する。

 

◆後輩の苦労

 A小学校に野川先生(仮名)という男性教師が勤務する。彼は、私が今までの教師生活で知っている中でも、確実に三本の指に入るほど優秀な教師である。休日は終日授業研究に時間を費やし、平日も朝は7時から出勤していた。当然、授業技術もとても高く、現在だけでなく、子どもの10年後まで考えて教育実践ができる確かな目を持った教師であった。その手腕は「野川マジック」と言われたほどである。

 その彼が学校に行かれなくなってしまった。何かやろうとするたび、子どもが否定的な言葉を発し、授業にならないということが連続してのことである。

「それでは、今から説明文の読み方を教えます。いくつかのテクニックを身につければ、だいたいの説明文は読めるようになるので、ちょっと大変でも頑張りましょう」

 こんなことを言うと、帰ってくる言葉は決まっていた。

「どうせ、できるわけないよ!」

「何で、そんなテクニック、勉強する必要あんの?」

「今までそんなことやってないのに、何で急にそんな勉強始めんの?」

 挙げ句の果てには、こんな言葉が返ってくることもあったという。

「国語なんかいいから、外でドッジボールやろうよ。去年もそうしてたよ」

 それでも彼はがんばったという。自分の授業が至らないためだろうと考え、より授業研究に時間を費やすようになった。私が授業プランを聞く限り、とても魅力的な授業が展開されるはずであった。だが、子どもたちは否定的な言葉を繰り返した。

「先生、何言ってんだか、わかんねーよ」

「授業なんかいいから、何か楽しいこと話してよ」

 否定的な言葉を発する子どもたちの思考は、相手の話していることに対して否定的である。つまり、やってみる前に、すでに相手の情報をシャットアウトしているのである。これでは、授業をいくら工夫しても、効果はない。

 

◆エスカレートしていった子どもたち

 子どもたちは、彼にだけ悪態をついたわけではなかった。心配して様子を見に来た学校長に対しても、遠慮なく罵声を浴びせた。

「校長、マジ、ウザイ」

「校長、来なくていいよ」

 隣のクラスの担任に対しても、その態度は変わらなかったという。面と向かって言うことはなかったらしいが、その陰口は散々なものであったと聞いた。

「福田(仮名)、いらないし・・・」

「福田、マジ、自分の言いたいこと通すし・・・」

「これじゃ、福田のいいなりじゃん」

 こうしたことが三ヶ月続き、彼は学校に行けなくなってしまった。代わりに担任になった教師に対しても、同様の態度であったという。臨時保護者会を何度も開いたという。しかし、子どもたちはさらにエスカレートしていったようであった。

 子どもたちは、生まれたときから言葉を操っていたわけではない。最初は、何も話せなかった。こうした否定的な言葉というのは、産まれた後に手に入れたのである。

 彼らは手に入れなくてもいい言葉を手に入れてしまった。人間は、感情から言葉を生み出すのではない。言葉で物事を考えたり感じたりするのである。そうした否定的な言葉が身についてしまった子どもたちは、必然的に否定的な感情や感覚を身につける結果になってしまう。一体彼らはどこでそんな言葉を覚えてきたのだろうか。

 A小学校の児童は、その後中学に進み、今でも中学校の教師に迷惑をかけているという。同じような否定的な言葉を並べ、同じように悪態をついているのだ。一度手に入れた否定的な言葉を手放すことは至難の業である。彼らは、その後高校に進学し、そこでも自分たちの欲求をエスカレートさせていくだろう。そうして考えると、彼らにその言葉を与えた者に対し、怒りを感じずにはいられない。(ここまで)

 

ここに挙げられている言葉を、「否定的な言葉」と十把ひとからげにしている点が、この本の筆者の授業技術がヘタクソ、さらに言えばこの「野川先生(仮名)」の授業技術も、この人が評価するほどではないといういい証拠だ。例えば、上に挙げた中で、

「国語なんかいいから、外でドッジボールやろうよ。去年もそうしてたよ」

「授業なんかいいから、何か楽しいこと話してよ」

という発言は、「授業そのものを拒否する意図を持った発言」と一応見なせる(ただ、こういう言い方で、授業に対する不満を表している可能性はある)。しかし、

「何で、そんなテクニック、勉強する必要あんの?」

「今までそんなことやってないのに、何で急にそんな勉強始めんの?」

これらは、教師が明確に説明しなければならないものである。まさに、こういう声を

「今○○君がこういうことを言ったが、他の人はどう思う?」

などと材料にして、なぜ説明文の読み方というテクニカルなことをする必要があるのか、そこから「授業」にすべきである。

※まさか「テスト対策」だなんて言えないよねセンセイ?日教組や全教のセンセイたちは、「競争をやめたら学力が上がる」と思ってるんでしょ?「フィンランド式教育法」とやらに、「説明文の読み方」なんてあるのかねぇ?

テスト対策などという概念を持ち出さなくても、より短い時間で、筆者のいいたいことを正確に把握できると楽だろ?という発問などはすぐにできなければならない。

 

また、

「先生、何言ってんだか、わかんねーよ」

に至っては、少なくとも教師の話を聞こうとしているからこそ出てくる言葉である。生徒からの「わからないサイン」として重く受け止め、

「○○のところはどうだ?」

などと「切り分け」したり、

「今はまだ話の途中だから、後でそこで戻るからな」

などと、その子を放置しない声かけが必要なところである。

 

「校長、マジ、ウザイ」

「校長、来なくていいよ」

については、「なぜ校長がここで話をしているのかわからない」というサインであるとも受け取れる。そういうサインを、親の教育の貧弱さのせいで、上のような日本語でしか表現できないという可能性は、捨てきれないほどはあるわけだ。

 

「福田、マジ、自分の言いたいこと通すし・・・」

「これじゃ、福田のいいなりじゃん」

これらも、事実として、福田先生(仮名)という副担任の方針が、クラスのルールとして通されたということを認識した上での発言である。否定的な発言で、何でも否定しようとする発言として位置づけて良いものではない。

私も手のかかる低学年クラスを持つときは、生徒と「ボスザル合戦」をする。教師のいいなりにしたくない生徒たちを実力でねじふせ、「先生の言うとおりにやると勉強がわかり、できるようになるのだ」という「流れ」を作ることで、隙を見ては手を抜こうとする生徒を少しずつ撲滅していく。塾・予備校でもそういうレベルの戦いが繰り広げられているのだから、学校教育ではなおさらであろう。

「今日からはこの福田がこのクラスのボスザルだ!文句あるヤツは?」

ぐらいの「にらみ」があっていいところだ。それに対し不満があるなら、どういう不満なのかを後で丁寧に聞き出し、児童ができることからルール化していく。そういう「権力ゲーム」が、小中高のクラスでは繰り広げられるのが普通であるということが、この教師にもわかっていないという点が、残念ながら痛いところだ。

「子どもvs教師の権力ゲーム」という認識ができていたなら、

「福田、マジ、自分の言いたいこと通すし・・・」

「これじゃ、福田のいいなりじゃん」

という言葉に対し、「何が不満なの?言ってごらん」と発問することは十分可能だし、そういうやりとりを通し、不満なときの言葉の使い方を「指導」することもできるだろう。

 

 

したがって、こういう「きつい言葉問題」の本質は、そういう言葉そのものにあるのではなく、語彙として、そういうレベルの言葉しか発せられない教育、しつけしかしてこなかった家庭にある、とハッキリ言っていいだろう。親が教育委員会に訴えると言うのなら、どうぞどうぞ、いくらでも言って下さい。と言えばいいのである。「日の丸・君が代」問題については「お上」にあれだけ粘り強く抵抗する公立学校教員たちが、「教育委員会へ言いつけるぞ」という言葉には、笑っちゃうくらい「弱い」のはなぜなんだよ(笑)。私基準なら真逆だがな(苦笑)。

 

ちなみに、私が「生徒の言葉づかいがおかしいな~」と感じたのは、某英語があまりできない高校生が、授業後、廊下でたまたまその後ろを歩いていたときに、

「うちの部活、大雨なのに試合やったんだよな。ホント鬼畜だよ。」

と、普通のトーンで友達と話しているのが聞こえたことである。その文脈で「鬼畜」って使うか?とどえらいびっくりしたことを覚えている。もちろん、それをネタにその生徒を責めたりはしていない。その生徒が、「鬼畜」の辞書的な意味を知った上でそういう言葉を使っているわけではないということは、この文全体の意味自体から明白だからだ。

 

 

そう。『今の子どもたちにとっては、「鬼畜」の辞書的な意味を意識せずに、「記号」として「鬼畜」だの「ウザイ」だの「消えろ」だのと言える』と推測する方が、より真実に近いと私は思うわけだ。

そういう意味で、今の子どもたちが使っている日本語が、辞書的意味を参照せずに、仲間内で流行した言葉が加速度的に「単なる記号」として「流通」している現状に対し、「空虚な日本語」と捉え、危惧を持つこと自体には賛成である。

 

かく言う私も、近代文学などを読むときは国語辞典が離せない。「今の子どもが日本語を読むときって、こういう苦しさを感じてるんだろうな」と想像しながら読んでいる。

教育論としては、そこから始めなければならないということだ。

 

 

で、その横に同じく平積みになっていたのがこの本。

ワンピースの言葉が教えてくれること (ルフィと仲間たちに学ぶ「生き方」の教科書)
方喰 正彰
あさ出版

バラパラめくると出てくるわ出てくるわ、ゴミのような言葉(笑)が。

「冒険のニオイがするっ!!」

「人はなあ、忘れ去られたときに死ぬんだよ!」

「こいつらと心から笑い合うことなんて絶対にできないぜ!」

こういうレベルの「言葉」が、「人生の教科書」扱いになっているから、こういう本を高く評価する人間の精神年齢が、いつまで経っても小学生以下のままなんだよな。私が担当している中学生でさえ、

「冒険のニオイがするっ!!」

という言葉を、「人生の教科書となる言葉」として受け止めるであろう生徒は一人もいないと言っていいくらいだ。

 

しかしこの本、アマゾンレビューで10人レビューしてて、その全員が星五つって(笑)。

 

「ワンピース商法」などと、マーケティング用語に変換して「冷静」ぶってるバカ大人は、そういう「商法」を通して、少しずつ、日本人全体の国語力、想像力、洞察力が削り取られていっているということに、もう少し気づいた方がいいと思うよ。

 

ちなみに去年、本屋で一番笑ったのがこの本↓。

 

スラムダンク論語
遠越 段
総合法令出版

 

安西先生の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」は、論語で言うとあーだらこーだらと書いてあった。

いや、普通に論語勉強しろよ(笑)。

 

 



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