できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

いろいろ考えたけど・・・やっぱり、ケータイゲームにはまってる奴って、バカなんだろうね

2011-06-29 12:02:02 | 教育関連

昨日、電車に乗っていてぶったまげた風景。

どう見ても中3か高1ぐらいの子が、普通にリラックスして、西村健太氏の『苦役列車』を読んでいる・・・。

その子は、いわゆる「いいとこのぼんぼん」にも見えず、夏服のせいでどの学校かもよくわからず。ただ、ホントにふつ~に読んでいた。私の向かい側の席である。

 

私が何にぶったまげたか、大方の人にはご理解いただけない・・・かな?

例えば今私が担当している高3~浪人生(50人とする)に手を挙げてもらうと、きっとこんな答えが返ってくるだろう。

・「芥川賞」を知っている人・・・7割くらい

・芥川賞受賞作を読んだことある人・・・50人中多くて1人

 

その高1くらいの少年が、「芥川賞受賞作」と意識して『苦役列車』を読んでいたのかはわからない。古いというかムリヤリぎみな漢字の使い方が目立つにせよ、文章自体は大変読みやすいからだ。

また、私は正直に言って芥川賞自体にそんなに価値を見いだしていない。数年前の受賞作の川上未映子『乳と卵』がひどすぎたからだ。こんな文章が芥川賞を取る時代なのだか基準なのだか知らないが、だったら好きな小説を好きなだけ読めばいいとさえ思っている。

したがって、「普通なら今の子どもは手に取りさえしないだろうなという本を、中3ないし高1が普通に読んでいたことにぶったまげた」ということになるか。

 

ただ、その一方で、目線をふと横に向けると、学生やらサラリーマンはニンテンドーDSやケータイゲームやメールプチプチなんぞをやっている。アクリルの半透明ブリーフケースに「憲法」と書いてある本とノート2,3冊を下げ、ボケッとつっ立っている学生もいた。

 

何を言いたいのかというと、まず、数年前に、「希望格差社会」という本が話題になった。山田昌弘氏によるものである。その本のポイントの一つが、

・昔と違い、今は、日本国内での正社員としての働き口が狭くなってきているので、「個人の努力が報われない社会」になりつつある

というものであった。この主張の裏には、うっすらと、2004年あたりにも吹き荒れた「自己責任否定の風潮」があるように感じられる。なぜなら、

・「個人の努力が報われない社会である」ならば、「個人が努力しても報われないことがあるのだから、そういう際に『自己責任だ』という批判は意味がなくなる」

こういうロジックがありうるからだ。実際に、社民党や、少し前の民主党でさえ、「とにかく雇用を作る、正社員を増やす政策を!」と叫んでいた。これは、もう個人は努力しすぎるくらいしているのだから(人的資源供給の面)、その個人を受け入れる働き先(人的資源需要の面)を増やそうという前提に裏打ちされている。

 

ところが、昨日見た車内の風景においては、「どうでも良いことに時間を潰す層」と、「理由はわからないが、大人なら読むだろうな、という本を読んでいる中3、高1の層」にきれいに分かれていた。私はって?たまたまだが、英語リスニングの勉強を黙々としていた。

モバゲーやグリーなどの携帯ゲーム、あるいはDSやPSPなどのポータブルゲームを車内で使うことで、特にラッシュ時のストレスがまぎれる効果は高いので、そのこと自体を非難したいわけでもないんだな。人によっては、勤務時間に死ぬほど働いて、行き帰りの車内ではゲームを思い切り楽しむという「メリハリ型」の人もいるだろうし。

 

しかし、確実に言えることは、今の日本社会は「個人の努力が報われない社会」ではなく、「そもそも個人の努力量に大きな格差がすでに存在している社会」に変わりつつある、ということだ。

きっかけはなんであれ、ある本に関心を持ち、勉強に役立たなくてもその本を読み、そこに書かれている人生(特に、『苦役列車』に書かれている人生は、中高生にとってはかなりえぐいものであろう)について思いをはせたり、自分ならどうするだろうかと考える。そんな「子ども」がいる。

その一方で、電車内での時間をただ「つぶす」ために、光と音に反応するだけの動作をひたすら繰り返す。そんな「子どもや大人」がいる(英語で "kill time" とは、よく言ったものである)。

このような、空いた時間の過ごし方が、1日数分であっても、これが1年、3年、10年と過ぎていったときの「脳みその柔らかさの差」というのは、どえらい大きな差として確実に出てくるだろう。満員電車タイムは除外するにせよ、ケータイゲームぐらいしか時間つぶしがない人間は、仕事もゲームと同様に、指示されたことしかできなくなるだろうし、中学生くらいから大人の世界を先取りして彷徨しつづけることのできる「好奇心に富む人間」は、就職するときに自分なりの生き方をリアルに組み立てることができるようになる可能性が高いだろう。まさに今、企業に限らず、どの世界でも求められている、「変化する環境に対し、柔軟に対応できる人間像」である。

 

大学生の就職においても、これだけ不景気なのに、ことごとく内定が取れる「オール勝ち組」と、大学名はそこそこ有名なはずなのに、なぜかどこも内定が取れない「オール負け組」にきれいに分かれる理由が何となくわかる。それは、「全員努力しているのだが、ほんの少しの差で内定が取れる/取れないの差が出てくる」からなのではなく、

・小さな頃から、勉強に役立とうが役立つまいが、好奇心にあふれ、興味を持ったものに関しては区切りがよいところまでやりきり、それを今後の自分の生き方に生かす(フィードバックする)層と、

・小さな頃から、手を抜けるところはとことん手を抜き続け、ただ18歳になったから仕方なく勉強をし、ただ20歳前後になったから仕方なく就職活動をする層

この二層に、きれいに分かれつつあるからであろう。現場で高校生、浪人生を教えていてもつくづく感じる。今の受験生のマジョリティは、高校入試での努力が、大学入試に全く生きていない。高1,高2を勝手に「遊ぶ時期」と決めつけ、「受験勉強にとらわれない、本当にやりたいことに打ち込む=遊学する」わけでもなく、周りの「空気」とやらに合わせ、その日その日を「つぶす」だけである。そこでケータイメールが占める役割は大きい。高校生にとって、ケータイメールは、他者とのつながりを客観的に示す指標としてほぼ唯一の「頼りどころ」になっているせいで、1日50通も100通もメールを送り合うことで、「僕たちって友達だよね」という「つながり幻想」を維持することに必死なのだ。

こんな高1高2時代、そして浪人生にとってはこんな高校時代を送っていると、私はよく「脳みその筋肉=脳筋」と呼んでいるのだが、高3や浪人して「いざ勉強しよう」としても、脳筋の鍛え方が全くわからず、ただ「なにもわかりませーん」と開き直ることしかできなくなる。しかも、ケータイ文化独特の、「極端に短期的な記憶力だけ強化される」特性のせいで、「この3分に教えたことは理解できる/覚えている」が、「この1時間を通して何を教わった?」と聞いても、何も答えられない。すなわち、「一定の時間を貫く『筋』を見つける」という発想がトコトン弱いのである。こんな「脳筋」の状態で、大学入試レベルの勉強、すなわち、石を下から地道に積み上げるような勉強を1年間でできるようにしろと言っても、実際にはかなり厳しい。結局、低学年の時期に何をやっていたかで、受験生の1年間の「伸びしろ」は、かなり決まってしまうのだ。理想はどうあれ、これが、寺脇研が必死に推進してきた「ゆとり教育」の、厳然たる「現実的な結果」である。

 

 

話は変わるが、今時、早稲田/慶応レベルでも、内定が取れない層は確実に存在する。そういう層は、申し訳ないが、大学入試のときに、「早慶に合格するための最小限の勉強」しかしていなかったのだろうな。早慶に入っても、あくまでも「就職対策」という位置づけでしか資格を取っていない。このグローバリゼーションという荒波を乗り越えて生き抜くためには、「ある変化に対し、いかに柔軟で効果的な対策が取れるか」に尽きるのだから、小さな頃から、「一見ムダに見える好奇心」でも、それを大切にするような家族や学校の環境が重要なんだろうな。

しかし、そんなレベルのフォローを、大学がやってくれるってことはまずない(いくつかの女子大が最近そこに目をつけ、大学1年次からさまざまなケアをするようになってきたらしいが)。重要なのは小中時代。だから、桜蔭あたりにスポッと入って、勉強のおもしろみを感じながら、マイペースで勉強してたらいつの間にか東大理Ⅲ(医学部)に入っちゃった、というパターンが最近増えているのだろう(確か、東大理Ⅲにおける女子の割合は近年増えつつあり、もしかすると半分以上が女子かも知れない)。最近の東大合格者は、従来散見された「多浪・苦学型」はめっきり減り、中高一貫で先取り教育を受けているタイプか、あるいはSSS(スーパーサイエンススクール)などの、1年間を通して、自分が追求するテーマを決め、それを1年間追いかけ、それをきっちり「研究成果」として発表できるところまでケアしている高校を出たタイプになるわけだ。そりゃ納得である。中高一貫型も、SSS型も、子どもの好奇心をうまく引き出すカリキュラムになっていれば、生徒は自分で考え、自分で努力するように自然となっていくのだから。それはあたかも、複雑なゲームの世界に迷い込み、自力でそのゲームを解くような感覚にも近いのだろう。

 

こう考えていくと、やっぱり、空いた時間をケータイゲームで潰している連中は、概ね「バカ」なんだろうね。その「ゲーム」にしか関心を持ててないって、脳みそのシワが少なすぎるよと、昨日『苦役列車』を電車内で読んでいた中3か高1の少年なら突っ込むんだろうな(苦笑)。



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1 コメント

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Unknown (白河)
2018-05-29 12:44:20
その少年もここの、ローカルルールも読めずに必死にここに書き込もうとする、リテラシーゼロのクセに安いプライドだけは1.5人前の人にドン引きだろうなあ
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