光市母子殺害事件に関しては、2007年に以下の記事として書いた。
「冤罪」と「やったもん勝ち」の間-光市母子殺害事件の弁護側の主張
だから今日は、別ネタについて書こうと思っていたが、やはりこの件についても少し書いておきたい。
<昨晩のニュースジャパンより。被害者の夫である本村洋さん。
「犯罪が起こった時点で みんな敗者なんだと思います」>
事件が起こったのが1999年。足かけ13年に渡り、犯罪被害者の感情を正直に、かつできるだけ多くの人に伝わるように、そのつど自分なりの言葉を探しながら自分の主張を続けてきたのが、この本村洋さんである。
産経の記事より、一部抜粋。
>「事件からずっと死刑を科すことを考え、悩んだ13年間だった。20歳に満たない少年が人をあやめたとき、もう一度社会でやり直すチャンスを与えることが社会正義なのか。命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか。どちらが正しいことなのかとても悩んだ。きっとこの答えはないのだと思う。絶対的な正義など誰も定義できないと思う」
この発言からも、本村さんは、この13年間、ずっと被告人の死刑を一貫して要求してきたわけではなく、彼なりに何度も何度もその正しさを、気が遠くなるほど自問自答し続けてきたのだろう。愛する妻と娘をきわめて残酷に殺され、妻は強姦までされながら。
2007年に書いた記事にも書いたかも知れないが、この事件が起こった当時の、未成年に対する法曹関係者の声はほぼ一色に染まっていた。それは、
「死者には、死んだのだから人権はない。
犯罪被害者の家族は、犯罪当事者ではない。
犯罪被害者の家族が、少年対象審判に介入すること自体が、冷静かつ前向きな審理を妨げるものだ。
報復として、あるいは償いとして刑罰を課すという考え方は、文明国の発想ではない。」
これらの意見である。今振り返って見ても、開いた口がふさがらない。
だから、マスコミや法曹関係者、そしてこの事件を好奇の目ばかりで見ている市井の人々から、2000年代初頭まではかなり厳しく小突き回されたことを覚えている。しかし本村さんは、自分自身が正しいと信じる、
「殺人者として己の罪を痛感し、反省し、なおかつ償いとしての死刑を受け入れよ」
という主張を、気の遠くなるほどさまざまな角度から考え直し、言い直し、その主張をし続け、ようやく昨日、その努力が最高裁判決という形で、終わったわけである。
まだ、死刑が実際に執行されるまでは、この事件はあらゆる意味で終わったとは言えないと私も考えるが、とりあえずは、被害者サイドでありながら、これほど厳しく小突き回されてきた本村洋さんに、心から、
お疲れさまでした
と申し上げたい。
こんな事件さえなければ、ただの会社員として、ただの家族を、誰にも必要以上に干渉されずに、ただ楽しむことができたであろうに。しかし本村さんの人生の何割かは、この事件によって、
「死刑を訴える人」
という位置づけから逃れることができなくなった。この点が、この事件に関して、本村洋さんに対して一番気の毒だと感じることだ。
これも以前どこかで書いたことかも知れない。これももう10年近く前になるが、北朝鮮の拉致被害者であった蓮池薫さんが帰国した前後で、薫さんの兄である蓮池透さんの顔が一般人にかなり知られるようになったとき、透さんが普通に町を歩いていても、
「あ!拉致の人だ~!!」
と、無邪気に言われたとのこと。それに対し、
「いや、私は拉致の人じゃないですよ。普通の人ですよ。」
とラジオで言っていたことが印象に残っている。「普通」が、「有名人ではない」の意味ではなく、「本人に過失がないのに有名にならざるを得ない、というわけではない」の意味だとすれば、蓮池透さんは、弟さんが北朝鮮によって、もっと正確に言えば金正日によって拉致されたことによって、
・普通じゃない人
にならざるを得なくなったわけだし、本村洋さんも、犯人を死刑に処することを望むという意味で、
・普通じゃない人
にならざるを得なくなったのだろう(=自分の主張を社会に広めるためには、自分に過失がなくても、有名にならなくてはいけない。そのために、自分の「本業」をも犠牲にしなければならなくなった)。
自分に過失がないのに、自分のメッセージを一般大衆に知らせるために、有名にならざるを得なくなった人生というのは、つくづく痛ましいと思う。本村洋さんの場合は、それだけでなく、その自分のメッセージに対して、心ない批判でサンドバッグにされたことも多かった。まさに、本来の意味での「バッシング」である。
・「罪を憎んで人を憎まずって言うじゃないですか~」
・「犯人を死刑にしても、奥さんとお子さんは戻ってきませんよ」
・「いや、キミは少年法の『精神』が全くわかっていないね」
・「そもそも死んだ人には人権なんかないからね。法律を『勉強』しなさい」
こういう言葉で、本村洋さんを批判してきた人々は、自分の家族が同様の殺され方をしても、同じことが言えるのであろうか。というか、そういうシミュレーションをした上で、こういう言葉を彼にぶつけてきたのだろうか。何回考えても、上のような批判は私には全く理解できない。
ただ、つっこんで話すと、いわゆる自称「法律を勉強した人」の考え方としては、こういう反論もスルーできてしまう。すなわち、自分の家族が同様の殺され方をしたときに感じる「当事者の怒り」を、第三者的視点から、「客観的」に捉え直すことで、公平で中立な刑事事件の判断が初めて可能になる、という考え方である。この考え方に立てば、本村洋さんの、当事者としての怒りさえも、自称「法律を勉強した人」にとっては、簡単にスルーできてしまうどころか、いかにも上から目線の「諭し」も簡単にできてしまう。例えば、
・「本村さん、あなたの気持ちは痛いほどわかりますが、日本という国は、刑罰を報復としては捉えていないのです。しかも対象が少年であればなおさらです。ここは涙を飲んで、『理性的』な解決を求めようじゃありませんか。」
という発言によってである。こういう発言をする人間は、本村さんの気持ちを、少なくとも「痛い」ほどにはわかっていない、わかろうとしていないのだが。
かくして、「犯罪被害の当事者」と、自称「法律を勉強した人」、あるいは「(本人としては考えているつもりなのだが)犯罪被害者の気持ちを全く考えようとしない法曹関係者」との考えは、永久に噛み合うことがなく、ねじれの位置のままですれ違いを繰り返してきた。
本村洋さんのこの13年は、こういうことに対する徒労感が9割以上だったのではないかと、僭越ながら愚考する。
だからこそ、単なる第三者としてではなく、「いつ同様の犯罪被害者になるかも知れない、潜在的な仲間」という気持ちで、心から改めて、これまでの心労を労わせていただきたい。
本村洋さん、お疲れさまでした。
と。
「お疲れ様でした」だけしか、言えないです。
本村さんの苦悩は、経験していない者には到底わからないと思います。だから、何もコメントできません。本村さんが今後どう生きていかれるのか、私たちはそっと見守っていくしかないように思います。
私は親から虐待を受けて育ちました。犯人サイドからものを見たときに、社会に対して反抗心があるのは、理解できなくはないんです。幼少期の経験を克服するのは大変難しく、固い殻に覆われた傷つきやすい心は一生背負っていくのかも、と感じたりもします。
でも、犯罪はしたくありません。自分が不幸だったからといって、他人の幸せを奪っていい、などとは考えません。
神様はいるのかも知れないとふと思いました。
Heaven helps those who help themselves.
天は、自ら助くる者を助く。
英語の有名なことわざです。私は宗教には懐疑的ですが、今晩くらいはこのことわざの意味を考えながら眠りたいと思います。本村さんにも贈りたいですね。
天は、自ら助くる者を助く。
良い言葉ですね。犯人の生い立ちは本当に気の毒だと思います。同じではないけど、似た経験をしたから、ちょっぴりだけだけど理解できます。けれども犯人にも、「自らを助く」チャンスはたくさんあったのではないかと思います。
私も最近、とてもお世話になったある方から、とても感動的な言葉をもらいました。
「私に感謝しなくていいから。今後、あなたが困っている人に出会ったら、同じように親身に力になってあげて。そういう形で感謝を返していってほしい」
こういう気持ちを、一人でも多くの人が持てたらよいのに、と思います。