できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

アクティブラーニング世代の動き方がひどすぎる件について

2019-07-22 23:19:33 | 教育関連
昨今、いわゆる「アクティブラーニング世代」の子どもたちの言動がおかしい率が有意に高いので、それについて書く。

何がおかしいかって、どの科目でも、「これこれこういう理由で、こう考え、答を導くのが最短距離だ」と各教師が一生懸命教えているにもかかわらず、

「私はこう考えたので、私の意見を聞いてください」…①

だの、

「私の考えでこの答案を作ったんですけど、計算が難しくてこの先が進められないので、先生が代わりに式を整理して答を出してください」…②

的な言動が、笑えるほど多い点である。

①については、生徒がわざわざ、自分で誤答だとわかっていて、それでも誤答を作ってきて、なぜこれが誤答なのかを教師の前で延々と演説したがる生徒である。

…あのさ、自分でわざと誤答を作るって、そんなもん、無限通りの作業が可能だろうがよ。そんな作業は、少なくとも有限の時間で答案を作らなければならないという、各種試験(すなわち、高校入試や大学入試に限らない、全ての試験である)の大前提を置いてものを考える限り、「ムダ」以外の何物でもない、という「視角」ないし「発想」が、驚くほど欠けている。

そんな「視角」「発想」なんかより、

「私がこう思ったのだから、教師はその『私の思い』を聞く『義務』があるはずだ!」

という、100%の自己肯定感に満ちており、にもかかわらず全く偏差値が上がらないのが、昨今とみに増えた、「アクティブラーニング世代」の典型的な動き方である。

②については、「そうやって、君らが『正攻法』と思う方法で立式すると、xの8次式になって、その数式を整理したり解くことそのものが不可能になるから、これこれこの前提条件を満たしている問題のときは、こういう解き方が、そういうハマり方をしないという理由で有効である。だから、この解き方でまずは解け」と、教師がさんざん指導しても、こういう「自称質問」が湧いてくるありさまである。


日本の、頭の悪い文科省が、慶応の安西あたりにそそのかされて「アクティブラーニング」とやらを導入した建前は、議論を大切にすることで思考力を上げてきた、いわゆるスウェーデン式教育を見習うためであろう。違うのか?

だとすれば、スウェーデン教育の「キモ」を、全く理解していない点が、文科省が「頭の悪い文科省」であると指摘せざるを得ない理由そのものである。

すなわち、スウェーデン式教育の「キモ」とは、

★世界との競争で負けたら、君たちはただのたれ死ぬだけだ。君たちはのたれ死にしたくないだろ?だったら、「『意味のありそうな問題、ツッコミどころ』を探し、そこについて『よりよい解』を『正しい考え方』で追求すること」が、君たちがこのグローバル社会を生き抜く必要条件だろ?と、まずは徹底的に弱肉強食の価値観をすり込むこと

である。

だからこそ、論理的思考法としての命題論理や、自分が得ようとしている情報には偏りができるだけ少ない方がいい、という問題意識に基づく「メディアリテラシー」が、結局は近道なのだよ、という「現実」に、生徒たちが気づくから、その後の学年においても、そういう価値観に基づいた上で議論をしようとする。だから、その子どもたちは、今まで接したことがない問題に対しても、できるだけ正しいアプローチでその問題を解決しようとする「習慣」が身につくのだ。それが、いわゆる各種試験における「思考力の高さパラメーターの上昇」として表れている。

その因果関係を見抜けないのか、高をくくって「そこまではしなくていいかも」と頭の悪い文科省が思っているのか、はたまた、「文科省は理想としてそこまでは現場に指示を出しました。実現できないのは現場の責任です」という無責任論理に逃げる気マンマンなのかはわからないが、いずれにせよ、こんないちシロウトに、ここまで足下を見透かされている時点で、国家公務員試験って何なの?とトコトンバカにされても仕方ないレベルに堕している。文科省の知的レベルは。

現場に対する管理部門である文科省が、この前提は絶対に現場にも達成してもらう、という決心と行動なしに、「教育委員会に訴えてやる!」というクレームを何より恐れる現場の学校および学校教員たちが、進んでそんなイバラの道を進むわけなかろう。だから、こういう現実を達成できていない責任のほとんどは、管理部門の文科省にあると言わざるを得ないわけだ。

この、
文科省も無責任に「アクティブラーニング」を推進し、
現場である学校も無責任に

「とりあえず3,4人で話し合いをさせ、『ぼくはこう思う』という言明それ自体を、それがどれだけの質なのかを精査せずに、クレームを恐れてトコトン賞賛する」

という、文科省と学校現場の相互忖度の結果が、いま塾予備校業界で噴出しているように見える、

「私の意見を聞いてください!私の意見って、無制限に尊重されるべきものでしょ?それが『アクティブラーニング』でしょ?」

的に、巨視的に見ると何の意味もない問題を勝手に設定し、そこについてマニアックなほどに自分の「意見」を語りたがる。それどころか、「続きは先生がやって」と丸投げする。

生徒が設定した問題そのものの「質」を、生徒が最終的には自分で判断し、取捨選択できなければ、スウェーデン式教育になど勝てるわけなかろう。それどころか、あの悪評高いゆとり教育以上に、子どもたちが生きる力を文科省と学校現場が率先して奪い去っている。

実に皮肉すぎる結果が、あれほど学校教員どもが

「塾はテクニックを教えるだけで、『学問の本質』など教えていない!」

という言説が、ただ「塾外しをすると、自分たちの小さい自尊心を満足させられるから」という、実に安い、レベルの低い発想に基づくものに過ぎない点だ。一方で塾・予備校は、限られた教育時間で、そもそも有限の時間で最大の成果を出さなければ商売あがったりである「入試」に対し、とことん論理的に、それが意味がない作業である場合も、なぜそれが意味がないのか、徹底的に言語化することで生徒にわからせることで、結果的に、塾・予備校こそが、「学問の本質」に最も近い教育を行うことができている(というか、そうせざるを得ない)点である。

大学に入ってからの「学問」においても、先輩や仲間(peers)に、その問題意識または成果の重要性が理解されない論点は、そもそも「研究する価値がない」「論文にする価値がない」という理由で、残酷に却下(reject)される点は変わらない。そういう現実に照らせば、大学に入っての「学問」とやらの「本質」も、

★人生は限られた時間しかないのだから、できるだけ「研究する価値がある論点」を研究しなければならない

という価値観に裏打ちされたものであって、時間が有限であるという点において、各種試験を「解く」ことと、表面上においても、その「本質」とやらにおいても、何も変わらないものである。

おそらく、学校教員のほとんどは、大学学部時代や修士時代に、そういうシビアな世界で本気で研究する、という経験を積むチャンスがなかったのかね?いやあ、違うでしょ。学校教員を目指しているクセに、必要最小限の努力で最大の単位を取ろうとしてきたという、自分たちが現場に出たときには一番こき下ろす姿勢で、大学および大学院時代を過ごしてきたせいでしょ。

つまり、学校教員の現在の体たらくは、かなりの割合で、己らが大学時代に手を抜いてきた必然的な結果であるということだ。



さて。2020年1月からのいわゆる新テストの試行テストでも、国語や数学においては、実にどうでもいい回り道をしている生徒役の発言が文章化されており、その仮想人間の考え方が理解できないと当たらない問題が出題されている。

そういう、実にどうでもいい回り道をしている仮想人間の考え方が理解できる能力って、「学問の本質」に近づくために、何の役に立つのかね?

さらに言えば、今までさんざん強調されてきた、「未知の問題に対処する能力の向上」に、どんだけ役立つのかね??


本気で誰かに教えていただきたいのだが、理学も含め、「効率」を完全に無視して、「存在する多様性そのものが貴重なのだ」という発想を根本として設定している「学問」なんてあるのか??

文化人類学でさえ、文化相対主義の自己矛盾を謙虚に受け入れ、文化の多様性をどのように研究することが「より効率的か」という問題意識を前提にした上で、研究論文が評価されているんだが。

文化人類学は多様性そのものを珍重しているから、文化人類学学会では、毎行ごとに脱線してそれを「多様性」とアピールする、そういうゴミみたいな書類の山を「研究論文」として評価しているのか???

答は「断じてNO」である。


アクティブラーニングを珍重する教育のおかしさについては、今後も書く予定だ。


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