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映画はもっと「画」と「背中」で語ってほしい。が・・・(永遠の0 少しネタバレあり編)

2014-01-15 20:08:56 | 映画などのエンタメレビュー

画をできるだけ美しく作り、なおかつ観客へのメッセージも込め、原作者である百田尚樹氏も満足してらっしゃるできなので、私もできるだけ高得点をつけたいと思ったが、観た結果としては75/100点。 むー25点マイナスである。これは、あと何回観ても変わらないだろう。

 

ちなみに私は原作は読んでいない。読む方はその前提でどうぞ。

 

原作に盛り込まれている内容が多いのだろうが、登場人物のセリフによる説明が多い。「彼岸に片足を突っ込んだような顔」というセリフに至っては、「悲しい顔」とか「怒った顔」レベルの表現に過ぎないレベルに感じられてしまう。原作にそういう言葉が仮にあったとしても、そこは映画なのだから、キャラクターの顔に語らせればよいことである。その代わりに、適切な間合いがあれば、「あの時代」の、喧噪と沈黙の混ざり具合(と制作者が思っているもの)を観客が思う存分に味わうことができたと思う。

 

他のブログ様では、司法浪人の三浦春馬が泣きすぎ!という声も散見されたが、私には、彼が泣こうが泣くまいが、「あの時代の一面」を受け止めるには、三浦の(役の上だとしても)年はどうしても若すぎると感じた。三浦春馬自身の、役者としての未熟さがそのまま出た、というところであろう。「だがそれがいい」という人はそれを好評価とするだろうが、私にとっては「三浦が感動するたびにやや興ざめ」という印象となり、ここも減点ポイント。

 

途中で合コンのシーンが入り、別の男から特攻を揶揄されて怒って帰るシーンも、発想として陳腐すぎる。中学生の学芸会レベル。これは詳しくはネタバレ編で書かなければならないかな。揶揄のしかたも平板だったし、その答え方もステレオタイプだった。ここは、三浦春馬と吹石一恵扮する兄弟による取材の足跡がわかるような「反抗」のしかたを、健太郎(三浦春馬)はすべきであった。あれじゃただの原則論にすぎない。このあたりも映画として未熟。

 

橋爪功さんの「それを今の言葉で『愛している』というならば~」のセリフもいらない。説明的すぎる。しかもそこを映画の中で別の形で繰り返すって・・・くどいよ監督!

 

 

 

 

<公式HPより>

 

この風景も、実際の映画に出てきたかどうかは覚えていないが、この朝が「あの日の朝」だとすれば、あまりにも美しすぎる。時間があればネタバレあり編で語りたいが、この朝はもっと淡々としていてほしい、というのが私の価値観だな。

 

 

これだけ減点ポイントがありながらも、全体として75点をつけたくなるのは、ネタバレなしでは語れない、「それ以外」のシーンがグッと来るからだ。例えば宮部久蔵(岡田准一)の泣き方。いつもではないが、ある時、彼は鼻水までダラダラ流しながら泣く。号泣というわけではなく、さめざめと泣く。しかしそのシーンを、演出としてはこれ見よがしに見せつけたりはしない。あくまでも自然な反応として、鼻水ダラダラの状態で泣く。こういう演出は、従来の日本映画や日本のドラマではほとんど見たことがなく、いつも目薬をさしただけの泣き方、という演出ばかりで辟易していた(今作では、たとえば井上真央の泣き方がそれだが)だけに、岡田准一なりの役作りであろうが、大変グッと来た。あの場面で泣くというのは、そういうことなのだろうと、それだけで胸に響いてくる。

 

あとは、この映画を現代の価値観で観るか、当時の価値観を想像しながら観るか、というところで、評価が分かれるだろう。この映画は、現代の価値観で観る方がむしろ評価が高くなるだろう。

というのは、現代の価値観でいえば、岡田准一扮する宮部久蔵の言う、

「生きて家に帰ることが何より重要なこと」

という価値観が、現代のそれと全く同じだからだ。

 

・・・これ以上の補足説明、いる?(笑)

だとすると、巷ではあの宮崎駿が、この映画を指してなのかどうかわからないが、

「零戦を神話化するような風潮はクソだ!」

という主旨で怒った(笑)話が本当だとしたら、

「宮崎ハヤオくん、頭だいじょぶ?」

とツッコミを入れずにはおれない。

 

宮崎駿「永遠の0」を嘘八百と批判!? 百田尚樹も「おこ」で零戦戦争勃発か(2013/9/26 19:30 J-castニュース)

(前略)

(宮崎駿の発言)

「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記をもとにして、零戦の物語を作ろうとしているんです。神話の捏造をまだ続けようとしている。『零戦で誇りを持とう』とかね。それには僕は頭にきてたんです。子どものころからずーっと!」

「相変わらずバカがいっぱい出てきて、零戦がどうのこうのって幻影を撒き散らしたりね。戦艦大和もそうです。負けた戦争なのに」

(後略)

 

戦記が架空かどうかを問題にするのなら、今までさんざんフィクション(架空戦記)を元にして金を稼いできた宮崎駿クン自身の自己批判にすぎない。問題は、戦記が架空かどうかではなく、宮崎クンが言うところの「『神話』の捏造」に、この映画はなっているのかどうかである。

 

で、今の価値観で観れば観るほど、この映画は、「神話の捏造」などしていないとしか言いようがない。宮崎クンのこの発言の時点で、『永遠の0』の小説版(原作)はすでに出版されていたのだから、それを斜め読みもせずに、こういう発狂ぶりをおしげもなくさらしている宮崎駿のサヨクかぶれぶりの方が格段に光る。

 

逆に、当時の価値観を想像して観れば、この宮部久蔵という零戦パイロットは、 一見自分の命が助かることを最優先に行動しているように見えるが、小隊長になったら隊員たちの命を救おうとし、教官になったら教え子たちの誇りと命を守ろうとし、最後は(ネタバレ)~~~するという点で、橋爪功扮する井崎が言ってた、

「あれほど強い人はおりましぇん!」

に尽きる。 途中で(ネタバレ)~~~されていたところは腑に落ちないが。

 

ただ、当時の価値観で観れば、いわゆる「他の隊員の士気を下げる発言が多かった」というより、

「状況をかなり正確に見抜いていながら、その意見を積極的には上官に上申しなかったこと」

を理由にして、やや批判されるかも知れない。しかしそれも、彼の当時の階級を考えれば無理もないことであろう。実際に、映画中でも、「少佐」に(ネタバレ)~~~されていたわけであるし。

 

三浦春馬の、ラストでの情けない表情、姿勢も、いかにも「現代っ子」っぽくてとてもよかった(これは「泣いているシーン」ではない)。ああいうところをできるだけリアルに撮ろうとする姿勢は、少なくともハリウッド映画では観たことがない。途中での合コンのシーンはいかにも作った、というものだったが。まあこれはネタバレあり編でなければ書けない。

 

さて、余裕が出てきたらネタバレあり編も書こうか。しかし今は・・・。

 



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