できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

でもいわゆる「お受験」には反対なんだな

2011-06-30 04:16:00 | 教育関連

いきなりこのページにたどり着いた方へ。この日記は、昨日の日記の続きである。

 

昨日、受験生になってからの「成績の伸びしろ」は、低学年での過ごし方でかなり決まってしまうと書いたが、だからと言って、我が子を必死に有名小学校や有名中学校に入れ、エスカレーター式に早稲田や慶応に合格できるような「事前の整え」をやることがいいとも思っていないんだな。

そりゃ親としては、自分の子どもが余計な苦労をしなくていいように、早稲田や慶応の付属校に早めに入れるのなら、昨日言ったような意味で「のびのびと」自分のやりたいことに打ち込めるであろうから、理想的な大人に育ってくれるだろうと思いたくなる。その気持ちはわかる。

 

しかし、ポイントは、その「余計な苦労」って何なの?ってところだ。

高校入試や大学入試のために、必死で勉強することが「余計な苦労」だと考えているとすれば、苦労の意味がわかっていない。なぜなら、高校入試や大学入試で「やらされる学習項目」は、大学に入ってからは、「ほぼわかっていて/できていて当然」のこととしてカリキュラムが進むからだ。たとえば学部レベルの経済学を修めるのに、微積がスラスラできる必要はないが(まあできるに越したことはないが)、変化率であるとか接線の傾きなどの、「数学的なイメージ」についてアレルギーを持っていないことであるとか、分数の計算や文字式の計算ができる程度の数学力は必要である。今の子どもの多くは、ケータイのおかげ(皮肉)で短期的な記憶ばかり発達しているせいで、そういう「数式の処理」を大学入試のために鍛えられないと、そのレベルすら満たせないのがごまんといるのだ。

ということは、早稲田や慶応の内部進学者でも、そういう数式の処理であるとか、数式がどういう関係を意味しているかなどの「思考力」がない子どもであれば、大学に入ってから「自分が全然わからないことなのに、周りはみんな理解している!」と焦り、大学で落ちこぼれることとなる。その結果、次第にバイトやサークルばかりに明け暮れるようになり、周りが就職活動をするからそれに合わせて就職活動をする。その結果内定が取れないと。昨日と同様の結果になるのだ。

英語で言っても、高3や浪人生のくせに、前置詞と接続詞の区別ができない生徒は普通だ。

例えば、I am proud of he won the prize. という文が、訳せるからという理由で、文法的に間違っているということを理解できていない受験生は、もう一度繰り返すが、「普通」である。

だから、大学入試では、「正誤判定」や、「一語余る/一語足りない」タイプの整序英作文が出題されるのだ。そういうタイプの問題を出すことで初めて、その子が「英語」という「仕組み」を理解しているかがある程度正確に判定できるのだ。

語彙力、いわゆる「単語力」も崩壊している。高3でscold「叱る」という動詞を覚えているのは半分以下、上の文のwonが、winの過去形であるということを理解している生徒は1/3程度、 prizeの意味が、イメージ的にでも、何となくわかるという生徒は1/4いれば良い方。1学期の段階ではこんな状況である。こういう連中が、冗談ではなく、本気で早稲田とかに合格できると思っているのである。

 

こんな状態の子どもたちが、テレビなどに出てくるバカコメンテーターなどが、現状も知らずに

「高校では、文法文法と細かいこと言わずに、どんどん英語を話したり聞いたりすればいいんですよ!」

と「受験英語批判」を展開する、その表面だけをマネして、一向に単語を覚えようとしない。曰く「楽しくないんだからやらなくてよい」という哲学(笑)である。子どもは手を抜く工夫をすることにだけは粘り強く、きわめて創造的であるから、「やらされている=苦しい=これは本当はやらなくていいんだ!」というふうに勝手に思考をスライドさせ、その一方で自分だけが「浮く」ことへの恐怖心だけは大人の数倍植えつけられているから、人間現関係を維持しなければという強迫観念を無意識に持ちつつ、友人と意味のないメールを大量に送り合って、一日が終わる。

そりゃ学校の授業が眠くなるわけだ(笑)。

 

おい、語彙力もないのに、この前見た映画の感想とかを、どうやって英語で語り合うんだよ(笑)。どうせ very goodの連呼しかできないんだろうが。それじゃあ相手(English speakers)からは、「very goodしか言えない痛い人」という扱いしかされないんだよ。

 

そんなわけで、中高一貫であるとか、私立大学へエスカレーター式に進学できる附属高校の生徒たちも、8割は似たような状況である。この割合は、実は公立の子どもたちとそんなに違うわけではない。公立の子どもたちでも、意識が高ければ、上記のレベルは高2終了時点で軽くクリアしている。むしろ、中高一貫の方が、落ちこぼれへのフォローが全くないせいで、公立の子どもたちよりさらに全く何もできないという状況は毎年のように見てきた。例えば海城とか双葉でも、落ちこぼれて放置されている層は、高3のくせに、実質的な学力は中1と何ら変わりない。

 

だとすれば、重要なのはどの中学/どの高校に入るかというより、できるだけ若いときに、どういうことに興味・関心を持つか、そしてそれを、どのレベルまで達成できるかという「見極め」を、親やごく近い人が、しっかり観察し、なおかつ先回りしてお膳立てするのではなく、本人が次のレベルに進みたいと言ってきたときに、

「それを達成するには、逆にこれが犠牲になるが、その覚悟はあるか」

と、本気で考えさせることぐらいなものであろう。例えば中学で野球やサッカーにトコトン没頭する子は、高校入試のために本当に使える時間は、入試直前の4,5ヶ月しかない。その間に徹底的に勉強に打ち込めるのか。そういうシミュレーションを、部活を決めるときに、あるいは、1年が終わる頃に、親子でしておくのである。その方が、子どもがたまたまお受験に成功し、エスカレーター式にどこかの大学まで進めても、「苦労をした上での成功体験」がないせいで、現実社会の厳しさに打ち勝つことのできる耐性がない、非常にかわいそうな「年を取った子ども(old children)」で終わる場合より、はるかに幸福な人生を歩める確率は上がるだろう。

 

ここまで考えてみると、お受験に成功したからと言って、特に有利な点は何もない。昨日書いた「たまたま桜蔭に入ってうんぬん」の話は、桜蔭に入れるほどの激しいトレーニングに、小学生のうちから耐えることができる、ごくごく少ない、きわめてまれな例外だと考えた方がいいだろう。まあ東大理Ⅲ合格者の集団が、全日本的にきわめてまれな存在でできているわけだが。これが東大理Ⅲにこだわらず、東大の理Ⅲ以外であるとか、全国の国公立の医学部、ということであれば、状況はかなり変わる。上記のような「近い未来のシミュレーション」をある一定の時期ごとに行い、その上で、ほぼ全ての科目に対して、極端な苦手意識を持たない程度のフォローをするだけで、公立でもかなり可能性は高くなるだろう。その「フォロー」が、予備校や塾なわけである。

 

ま、現状を見ると、公立の子たちの学習に対する意欲の低さは笑えるほどすごいが、それは私立でも国立でもそんなに変わりませんよ、ということはぜひできるだけ多くの人に知っていてほしいところだ。その現実さえわかっていれば、自分の子どもにそのキャパシティがないのに、必死にお受験としてねじ込もうとするという、家族全体にとっての悲劇は回避することができるだろう。

 



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