最高裁判決への逐次的ツッコミ作業がまだまだ残っているが、今日は疲れたので短い文章で。というか随想的に。
この最高裁判決に限らず、入学式や卒業式における国旗掲揚・国歌斉唱の話になると、必ずと言っていいほど朝日さんや毎日を中心に、
「教育とは自由な場であるべき」
とか、
「国旗・国歌は強制になじまない」
なる「現場の声」が紹介される。しかし、こういう発想自体が、「国旗掲揚」「国歌斉唱」という事象に、毎年毎年、必死に政治的な意味を付与し続けようとする「不断の努力」なんだということに気づいている一般人はどのくらいいるのだろうか。
昔、産経や読売の社説にも出ていたと記憶しているが、あれほど「儀式における国旗掲揚と国歌斉唱は強制すべきではない」と言い続けている朝日さんが、自社主催の甲子園での高校野球大会では、甲子園球場に立派な「日の丸」を掲げている。これはどういうことかと産経や読売がつっこんだ(直接朝日さんにつっこんだのは産経だったか)。
これに対し、朝日さんは、
「甲子園での国旗掲揚、国歌斉唱は強制はしていない」
という主旨で必死に反論していたが、これもよーく考えれば、ケツが丸見えのお粗末な反論である。朝日さんは、観客や選手に国歌斉唱や国旗掲揚時の起立を強制していなかっただけなのであり、朝日さんは、会社として、自社社員が甲子園で国旗を掲揚すること、自社社員が国歌の伴奏テープを流すことは「職務」として「強制」している。でなければ、年が変わり、担当者が変わるときに、
「いや、私は政治信条として日の丸が嫌いなので、私が担当者のときには甲子園では国旗を掲揚しません!」
ということが必ず生じるはずなのに、実際には戦後一貫して、1年としてそういう年がないことの説明ができないからだ。これだけ、東京都教育委員会などによる公立学校教員への「強制」を嫌う社員ばかりそろっている朝日さんが、高校野球大会の担当だけは、必ず「日の丸君が代大好きな社員」を据えられるわけがなかろうに(笑)。
残念ながら、産経はこういう角度からのツッコミができなかったが、こうして考えれば、あの朝日さんでさえ、自社社員には「儀式」として甲子園球場には日の丸を掲揚し、初日には国歌斉唱の伴奏テープを流す。それが嫌なら朝日さんの新聞社をやめろという「慣例」を「社風」として「強制」しているわけだ。それに「抵抗」する社員がいないであろうから、「強制」という側面が見えなくなっているだけである。
それと同じことを、私たちは公立学校でやれと言っているだけなのに、朝日さんと毎日は頑なにそれを拒否し続ける。どんだけ自己矛盾しているんだよ(笑)。
こういう角度からのツッコミが、産経や読売だけでなく、いわゆる「知識人」たちからもなされて来なかったのは、
・入学式・卒業式にでの国旗や国歌は「特別」
という「意味づけ」が、陰に陽に繰り返されてきたせいで、産経や読売でさえ、その呪縛から解き放たれていないからなだけである。しかし現実には、卒業式や入学式は単なる「儀式」に過ぎないわけだ。その証拠に、東京都教育委員会が入学式・卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱を「強制(これも、そもそも『抵抗』する者がいるから『強制』せざるを得ないだけなのだが)」したせいで、公立学校における国旗掲揚・国歌斉唱は見事に「儀式」となった。職務命令違反者が「強制」によって「激減」したことで、国旗掲揚・国歌斉唱が「外見上」「つつがなく」行われるようになったのだ。
それでも日の丸や君が代に反対したい連中は「裁判所」や「教室」で戦えばいい。そういう思想や信条を戦わせる場は、入学式や卒業式という「儀式」であってはならないのだ、という東京都教育委員会の狙いは、これだけ日の丸や君が代に関する訴訟が裁判所で繰り返されていても、当の「現場」では、その儀式性が見事に体現されるようになったことで、見事に具現化された。東京都教育委員会や石原慎太郎都知事としては見事に「メシウマ!!」状態である。
その結果として、儀式はより儀式らしくなった。保護者や生徒に起立しない者や斉唱しない者がいくらいてもかまわない。それこそ「自由」の範疇なのだから。しかし、儀式を「主催」している「教職員側」は、主催者として、全員が外見上、つつがなく起立し、つつがなく国歌を歌う(ふりも含む)。そういう「慣例」ができ、それが長く続けば、それは最高裁の言う「社会観念」としても、
「公立学校の入学式・卒業式では、場内に国旗が掲揚され、国歌を斉唱するときは教職員が全員起立し、斉唱する」
という「外形的慣例」となり、最終的にはそれに抵抗しようとする教職員は、「社会観念として、減給以上の処分を受けても仕方がない」と判断されるようになるだろう。
「社会観念」とは、そういうものだ。
王様は元から裸だったんだよね。その王様があたかも服を着ているかのように騒ぎ続けている公立学校の教職員は、長い目で見れば消えていくだけだろう。
そして、こういう流れは、少なくとも橋下大阪市長は見抜いているんだろうね。いわゆる、将棋で言うところの「読み切った」という状態である。
振り返ると長くなってしまった(笑)。