できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

「冤罪」と「やったもん勝ち」の間-光市母子殺害事件の弁護側の主張

2007-05-25 09:08:25 | Weblog

07.05.25夜 加筆修正

 

 色々なことを同時に考えなければならないせいで、今まではどうしても記事にできなかったのがこの件である。

なぜかこの問題では「読売九州」がよくヒットする。

光母子殺害で検察、死刑妥当性改めて主張…差し戻し審初公判(読売九州、07.05.24)

 山口県光市で1999年4月に起きた母子殺人事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死などの罪に問われた元会社員(26)の差し戻し控訴審の初公判が24日午後、広島高裁(楢崎康英裁判長)で始まった。最高裁は昨年6月、2審・広島高裁の無期懲役判決を「量刑不当」と破棄しており、犯行時に18歳1か月だった被告に対する死刑選択の是非が焦点になる。差し戻し審では、検察側が改めて「死刑の妥当性」を主張し、弁護側は量刑だけでなく、殺意を否認し、傷害致死にとどまるなどと事実認定を含めて全面的に争う方針。

 この日の初公判で、検察側は、死刑相当とする理由を陳述。これまで強姦目的の計画的犯行で、確定的な殺意をもって母子を絞殺、年齢は死刑回避の理由にならないなどとしている。

 弁護側は、昨年の上告審弁論で「殺意はなかった」と傷害致死罪の適用などを主張していた。今回の裁判で、最高裁判決後に独自に行った「死因」や精神、心理の三つの鑑定結果を、「新しい証拠」として採用するよう請求。さらに被告人質問で、反省の深さや更生の可能性も主張していく。

     ◇

 遺族の本村洋さん(31)は午後1時過ぎ、妻弥生さん(当時23歳)とまな娘の夕夏(ゆうか)ちゃん(同11か月)の遺影を抱いて広島高裁に入った。302号法廷で同1時半から始まった公判では、入廷した元会社員の背中を、傍聴席から遺影を持ったまま、厳しい表情で見据えていた。

 

 この事件に関して語りたいことはたくさんあるのだが、まずは、この差し戻し審の報道に脳髄反射をするのではなく、ここまで至った経緯について少しずつ調べながら考えることが重要であると考えている。そこで、この差し戻し審を決定した、昨年6月の最高裁判決にさかのぼる。

 昨年6月に最高裁が下した判決(原判決を破棄した上、広島高裁へ差し戻し)はこちらで、そして、この判決に関する冷静な感想文がこちらのブログで読める。ぜひご一読頂きたい。

光市母子殺害事件最高裁判決の感想 (元検弁護士のつぶやき 様)

こちらのブログ様でも、判決をお読みになり、

>これによって、差戻審では、犯行当時の事実関係について弁護人が争う余地が封じられたと考えられます。

と判断なさっている。つまり、最高裁の意図としては、この最高裁が認定した事実の範囲内で、再び高裁で審理をやり直せということなのであろう。私も同様に考える。

 しかし、それにもかかわらず、上記引用記事にはこのようにある。

>差し戻し審では、検察側が改めて「死刑の妥当性」を主張し、弁護側は量刑だけでなく、殺意を否認し、傷害致死にとどまるなどと事実認定を含めて全面的に争う方針。

 さらに、ネットにはまだ出ていないが、今日の読売の朝刊にはこうある。

<差し戻し控訴審の争点>

殺害方法 弁護側

大声を上げる弥生さんのあごを右逆手で押さえたが、首にずれてしまい窒息死。夕夏ちゃんを泣きやませるため、首にひもをちょうちょ結びにして死亡させた。

殺意・計画性 弁護側

殺意を持って、弥生さんのけい部を圧迫したことはなく、傷害致死にとどまり、夕夏ちゃんの首のひもはリボン代わりだった。当初から乱暴も計画していなかった。

犯行時の年齢 弁護側

精神状態は著しく未成熟で、自分が行った深刻で重大な結果をしっかりととらえることができなかったが、反省としょく罪を深めており、更生することができる。

 

 全てを赤字で強調したいくらいだが、これだけ(開いた口がふさがらないくらい)、弁護側は、改めて事実面で争おうとしているということだ。しかも、最高裁で、事実認定に関しては、あれだけ制限が加えられているにもかかわらずだ(この主張を聞いたときの、被害者の夫である本村洋さんの気持ちは察するに余りある。被害者感情をどこまでえぐれば気が済むのだろう。例えば、子どもの首にリボンを結べば、その子どもにそのリボンが見えるなどと、この弁護士たちは本当に思っているのだろうか。「泣く子をあやすために、その子の首にリボンを結んだだけだ」という弁護がクソバカ級であると私が考える所以である。私ならいくらでも、そう言う弁護士を賞賛するために首にリボンを結んであげたいくらいだ。簡単に取れないように、しっかりとな(笑))。

 

 今日の朝ズバで、弁護士の大澤孝征氏が、

「弁護側がこれだけ『理解不能』な主張をしているのは、『これだけ不可解な行動を取った被告には、責任能力がなく、ゆえに、死刑には絶対にすべきではない』という捨て身の作戦を立てたからだ。」

という主旨のことを述べていたが、これには完全に同意である。彼は、「事実をねじ曲げてでも、何としてでも死刑を回避しようとするこの方針には、私は同じ弁護士として恥ずかしさを感じる」とも述べていた。

 最高裁で認定されたことが「事実」だとする限り、このようなコメントは至極もっともである(こういう言い方をしているからと言って、最高裁で認定されたことになにか含みを持たせているわけではない。あくまでもロジカルに言えばということである)。

 

 話を元に戻して、なんと21人による弁護団を組織した弁護側だが、これだけ被害者感情を逆撫でしながらも、とにかく結果として「死刑を回避」できたとしたら、彼ら21人の弁護士は、

「我々弁護側は、加害者の『更生』に役立てたのだから、この弁護活動は少年法や近代刑法の精神に貢献できたという意味で、有意義な弁護活動である」

と、心底から思えるのであろうな。そして、何より自分たちがそういう「達成感」を得るために、この21人は、ほとんど手弁当状態で、上記のようなあきれる「立論」をしたのであろうなぁ。

 

 さて、ここまでひどい、事実を強引にねじ曲げてでも、どうにかして加害者の量刑を少しでも軽くしようとする魂(スピリッツ、リビドー)はどこから出てくるのだろう。それは、いわゆる「法格言」として有名な、

「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」精神

であろう。この弁護団は、以下のように考えているのだろう。

今回の事件をめぐる報道は、時が経つと共に、被害者の夫である本村洋さんの被害者感情を前面に出したものが中心になりつつあるのだから、一般報道をそのまま受け入れているだけでは、単に、検察が、本村氏の希望通りに「絵」を描いて極刑を求刑しているという流れに飲まれてしまうことになる。したがって、この事件に関する一般報道は、できるだけ鵜呑みにしてはならない。だから、この事件を弁護するために、まずは一般報道で「事実」と認定されていることをまずは徹底的に疑っていくことで、「法格言」としての「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」精神を徹底的に具現化していくべきなのだ!

 このように弁護側が徹底的な「自己暗示」をかけることで初めて、弁護側はここまで最高裁判決を否定するような立論ができたのだろう(少なくとも私には、そうとしか考えられないくらいの、全身の毛が逆立つくらいの立論である)。そしてさらに、こういう精神こそが「弁護士精神」だと思っている今回の弁護士たちにとっては、今回のこのような精神は、いつ我々に降りかかるかも知れない「冤罪」を防ぐために、日々の努力として、全く問題ないどころか、むしろ賞賛すべき姿勢として、弁護士同士で支え合う価値が十分にある、きわめて重要な「価値観」なのであろう。

 

 そして、このあたりの「噛み合わなさ加減」が、我々一般人から見た種々の凶悪事件に対する量刑の軽さとして、時折報道されるのであろう。

 では、こういう精神は、追求することで、どのくらい有益な「結果」を社会にもたらすことができるのだろうか。

 

 例えば、この事件では、弁護側は「傷害致死」、検察側は「殺人」という点で対立が生じているが、傷害致死と殺人の違いは「殺意」の有無である。簡単に言えば、殺意が立証されれば殺人であり、殺意が立証されなければ、傷害致死となる。しかしながら、「殺意」の立証は、究極的には加害者の心の問題のはずであろう。しかし、加害者の心などというものは、自分に暗示をかけたり、ウソをつき続ければいくらでも隠せる。そこで、外形上は、物的証拠や証言などによる「客観的」な材料で判断しているのが現状というか、それ以外の判断のしようがないわけだ。

 ということは、突き詰めて考えれば、人を殺した後に、「自分には殺意がなかった」と自分に思いこませている加害者にとっては、「殺人」という罪名で断罪されることは、どこまで行ってもその加害者としては「冤罪」に他ならないのだ。これが、「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」精神の限界だと私は考えている。

 言い換えれば、「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」精神とは、たとえ実際に「殺意」を持って「殺人」を行った被疑者に対しても、「お前には殺意がなかったんだ!そう思いこめ!」と指導することで、「殺人」を「傷害致死」に変えることも厭わない精神ということである。実際に、今回の弁護士たちが行っていることは、要するにそういうことであるようにしか、少なくとも私には見えない。

 

 また、これだけ「事実をねじ曲げてでも加害者の量刑を軽くすることを『正義』と考えている弁護士がいる」ということが社会一般に広まると、「犯罪はやったもん勝ち」という価値観が、それと同様に社会一般に広まる可能性も高くなる。このことこそが、極めて危険なことであると私は考える。いわゆる成人式で新成人がバカ騒ぎした問題も、警察がしっかり取り締まるようになってからは少しずつ収束しているのがいい例である。

 つまり、弁護士がこのようにムリヤリがんばればがんばるほど、皮肉にも社会の秩序は低下していくというジレンマがあるのだ。 

 

 今日はここでやめておくが、どうだろうか。冤罪というものは、客観的に確定しうる事柄なのだろうか。この疑問に明確に「イエス」と答えられる論理が出てくれば、この事件や、今回の弁護団の方針に対する私の認識も変わってくるのだが…。

 と冷静に書いてきたが、私の根源的な思いの一つはこうである。この21人の弁護士は、自分の家族が同様な目に遭ったとしても、同じ弁護方針が取れるのだろうか?取れないとしたら、彼らは、自分自身に対しては決して行わない(行うつもりがない)ことを、平気で他者には行うことができているということだ。ここにも私は彼らに対する、救いようのない欺瞞を感じざるを得ない。

 

 


[PR] カルシウム



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (なるもにあ)
2007-05-26 11:46:02
記事内容にいたく賛同いたします。

私も弁護団の今更ながらの暴挙に
あきれています。
犯人の人権尊重ばかり主張し、
亡くなった被害者の人権を平気で踏みにじる
傲慢極まりない愚行が、
どうしても許せません。
(サリン事件の麻原の弁護もしているという、
中心弁護士独特の馬鹿げた延命措置なのでしょうが)

死刑制度廃止以前に、死者の人権を無視する行為を
廃止してほしいと思います。

※自記事内で紹介させていただきました。
 不都合ございましたらお知らせください。 
返信する
ありがとうございます (白河)
2007-06-03 03:36:07
実は「犯罪被害者に『人権』という概念はない」などという、恐るべき考え方が、2000年くらいまでは、法曹関係者の間では「普通」だったのですよ。

「刑法を復讐的に捉えること自体が、近代法の否定だ」などと言っているバカが普通でした(苦笑)。

犯罪被害者たちが発言し続けたことで、ようやく「犯罪はやったもの勝ち」という価値観が変わりつつあります。

しかし、「死者の人権」という概念は法律的に難しいでしょうね。「死者の尊厳」と言い換えるのがいいと思います。

今後とも、この問題は考えていきたいと思っています。その際はまたコメント等よろしくお願いします。

返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。