できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

オウム真理教事件:「なぜエリートが」という問いの立て方自体がまちがっている

2011-11-22 21:15:38 | Weblog

昨日のニュースではどこも地下鉄サリン事件や松本サリン事件など、一連のオウム真理教事件を特集していた。そこで判で押したように繰り返されたフレーズが

「なぜエリートがこのような危険な犯罪に加担したのか」

である。

この問い自体がくだらない。答えは簡単で、

「エリートだからこそ、自分の損得勘定に敏感だったから」

である。しかし、昨日のニュースで、こういう角度からこの事件を語ってくれた「識者」は一人もいなかったように思う。

私が今でも覚えているシーンがある。まだ村井秀夫が刺殺される前の話だ。オウムは「原始仏教への回帰」をキャッチフレーズに、信者に厳しい戒律を課していた。食べるものも全て麻原が指示した、肉や魚を排除した食事のはずだったが、テレビが外出した村井秀夫を追いかけると、なんとステーキハウス「ハングリータイガー」に入っていった。しばらく経ったのち、村井が出てきたところをテレビクルーが追いかけ、

「何を食べたんですか」と聞くと、

「ステーキです。」

との返事。

「オウムでは肉や魚は食べないんじゃないんですか?」

とクルーが聞くと、

「いや、ある程度ステージが上がると、食べたものを体内で解毒できるんですよ」

とあっさり答える(いやマジでマジで(笑))。

村井だけでなく、上祐史裕も含め、一事が万事こういうやりとりだった。「ああ言えば上祐」という言葉が、当時の私の仲間たちでは流行語になっていたくらいだ(苦笑)。

オウムの本質は、今山岡賢次が批判されいるマルチ商法、ネットワークビジネス、ネズミ講と全く同じで、

「早く偉くなればその分だけ他人に指示を出せる、儲かる、トクをする組織」

にすぎなかった。それを、必死に「原始仏教」というメッキで塗り固めただけのことだ。その象徴が、何の仏教的根拠もない、「偉くなれば肉も体内で解毒できる理論」である。話はそれるが、当時オウムは「殺生がダメだから、肉や魚を食べない」と自慢していた。ならなぜ植物は食べて良いのか。植物を食べるのも、立派な殺生である。にもかかわらず、菜食主義を偉そうに自慢していた当時の信者たちはどれだけバカだったのか。


オウムの本質はまだある。その二つ目は、中沢新一を始めとする「一部の識者」が、麻原が吐くペテンにきれいに乗っかってしまったせいで、中沢新一を宗教学的オーソリティーとして信頼している「他の識者たち」も連動して

「あのオウムが地下鉄サリン事件なんか起こすわけないでしょ!」

と本気で言っていた点だ。

詳しくは言えないが、当時私は、今をときめく某経済学者と話をする機会があった(当時は学生だった)が、警察の強制捜査が入るまで、

「いやあ、あのオウムが地下鉄サリン事件を起こすなんて、絶対ないよ。何バカなこといってんの。オウムってのは原始仏教をかなりリアルに再現しようとしているまじめな宗教で、あの中沢新一だって評価してるんだから。警察ってバカだね~。」

の一点張りだった。強制捜査が入るまで少なくとも数週間あったと記憶しているが、ずっとこのセリフを言い続けていた。

その後、警察による強制捜査が入ってからは彼の発言は一転し、

「いやあ、カルトってのはああいうことやるんだよね。アメリカでも(以下省略)」

と、いかにも「初めから私は疑ってました」モードに乗り換えていた(笑)。オイオイ、たった一晩で「原始仏教をリアルに再現しているまじめな宗教」から「カルト」に早変わりかよと、その手のひら返しぶりにアゴが外れるほど呆れたのでこのことを覚えているくらいだ。


この一例だけを見ても、中沢新一という「自称宗教学者」までもが麻原&そのトリマキにだまされていたわけで、彼がだまされていたせいで、彼を信頼する「自称識者」の集団までもが同時にだまされていたという側面も、この事件がこじれる重要な原因となっていた。マスコミであれば、今こそ、中沢新一にインタビューをし、

「なぜ当時は麻原たちにだまされたのか」

を、できるだけ正直に語ってもらうべきだろう。しかし残念ながら、昨日のマスコミで、こういうことをした社を私は知らない。

もしも、中沢新一がそういう取材を受けていながら断ったとすれば、それは「自称宗教学者」の名折れである。中沢に刑法上の罪があって追及しているわけではない。あくまでも、第二、第三のオウムを生み出さないための教訓として、中沢は正直に語る義務があると私は考える。それが、他者に大きな影響を必然的に持つ「学者」の社会的な責務の一つだと私は考えるからだ。

私は宗教学者でも何でもないが、警察がサティアンに強制捜査するずっと前からオウムのインチキ臭さはわかっていた。なぜなら、オウムが「再現している」としている仏像が、どう見ても、模造紙をノリで固めたような「ハリボテ」レベルにすぎなかったからである。パッと見ても不潔感満載。画像が見つからないのでお見せできないのが残念だが、あんなもの、高校生でさえもう少し美しく作れる。仏教にとって重要な仏像だからこそ仏像を作っているわけで、その仏像のクオリティが、大の大人が作っていても高校生レベルに届かない、しかも原始仏教では「仏像」自体が、偶像崇拝につながるから、作ることを禁じられていたということでさえ、高校の「倫理」レベルで学ぶことである。

この程度のことに、中沢新一ともあろう「学者」が、全く気づかないということが、当時の私でさえ全く信じられなかった。何の理屈もなく中沢新一を信じていた某経済学者(当時は違っていたが)に対してはなおさらである。

その頃からだろうか、「学者」だの「教授」だの、肩書きで人を判断するととんでもないことになりかねないということを感じたのは。だから今でも、例えば放射線の危険性については、複数の論者の主張を比較し、合理的に説明ができる方の説を採るという、きわめて原始的な方法で私なりの結論にいたる次第だ。

オウムについてはまた語りたいことがあるが、ここまでで一記事としておく。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。