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戸塚ヨットスクール事件と体罰

2006-05-06 09:06:25 | 教育関連

 たまたま今朝、よみうりテレビの「ウエークアップ」を見ていたら、戸塚宏校長の(実刑を受けた後の)釈放のニュースを扱っていた。

  ゲストとして来ていた福島瑞穂社民党党首は、例によって「やっぱり体罰は良くない」の繰り返しで、体罰がなぜ、どのように、どの場合に悪いのか、そしてどのような場合でも普遍的に体罰が絶対悪であるならば、なぜ絶対悪なのかを全く説明しようとはしていなかった。驚きだったのは、司会の辛坊治郎氏も、他のゲストも「体罰を少しでも肯定すると風当たりが強くなるだろうが」という気持ちで、びくびくモノでコメントをしていた点だ。

 戸塚ヨットスクールのやり方にどれだけの効果があるのか、あるいは戸塚宏校長の考え方がどれだけ正しいかは、情報が部分的なものに限られるので私には判断し切れないが、この問題に対するマスコミの扱い方には決定的に欠けている点がある。それは「程度」の問題である。

 例えば、授業を成立させるための最低限の「秩序」( 1.全員が椅子に座っている、2.教師が話すときは生徒は私語をしていない この二つだろうが)を生徒が成立させていない場合は、口頭で注意・指導してもらちが空かない場合に限り、肩や手をつかみ、強制的に席に座らせるなどの「肉体的に接触する行為」は必要だろう。現時点では、こういう行為によって、例えば生徒の肩にアザができたとしても、生徒が「肉体的苦痛を感じた」と訴えれば、法務省の見解によると「体罰」となるのである。そりゃ学級崩壊も起こるわけだ。

 重要なことなので繰り返しておこう。法務省としては、「肉体的苦痛=体罰」という判断なのだ。 「苦痛は良くない」という発想で体罰を禁止しているのであれば、「生徒を叱ったりすることで、生徒が「苦痛」を感じる」という論理で、生徒を叱ることすら禁止となるはずなのだが。法務省の役人はこの程度のことすら想像できないのが痛々しいが、この点については別の機会にゆずる。

※体罰については、学校教育法に関連した法務省の見解がここに紹介されている。 

 あるいは、体罰は禁止されていることにつけあがる子供に対しても、体罰は必要だろう。辛坊治郎氏は、小学6年くらいになれば、「殴れるモノならなぐってみーや。教育委員会に訴えるで」と挑発する子供が出てくることを紹介し、そういう時には「殴ってもらった方がいいのになあ」という言い方で、実に控えめに「体罰もときにやむなし」という意見を述べていた。しかし、そう言う辛坊氏でさえ、体罰をめぐる「状況判断」や「程度」の問題には触れていなかった。

 つけあがる子に対しては、つけあがることは何の得にもならないということを教えることが「指導」であり「教育」である。体罰が行えないことを盾につけあがる子に対しては、体罰を加えること以外、つけ上がることをやめさせる有効な手だてがないのであるから、体罰を行うこと自体が「指導」や「教育」になる。したがって、そういう状況においては、体罰は必要だ。実に簡単な論理である。 

 しかし、だからといって教師がどんな体罰をふるっても構わないというわけではない。あるクラスを担当し始めた時から、教室での授業は集団で行うものであり、ゆえに最低限の秩序(実際には別の言葉でかみくだくわけだが)が必要であること、そして、生徒の集中力が持続するようなリズムや口調、授業の展開法を研究することも当然のごとく必要である。授業はひどいのに、秩序が保てないからと言って、平気で生徒に体罰を与える。こういう方針には私も絶対に反対だ。

 かく言う私も、体罰を行ったことは一度もないのだが、しかし、だからと言って「いい授業をしてさえいれば体罰を行う必要は絶対にないはずだ」などという楽観的な見解を持つつもりも絶対にない。電車に乗っていてもおわかりになるだろうが、親がそばについていながらも、全くしつけを受けていないようなクソガキ+クソ親のペアは、無視できない割合で厳然と存在しているのだ。あなたが学校の教師だとして、そのクソガキの方があなたの担当する教室にいて、授業中まともに座り続けることさえできないとすれば・・・そういう想像力は、上記のような楽観論をふりかざす連中にはないのであろう。これもきわめて嘆かわしい現実だ。

 こう考えていくと、体罰の是非を巡る問題は、「体罰が行われる状況と程度を細かく判断し、そのつど行き過ぎかどうかを判定する」、これに尽きるのだ。一つ一つのケースを丁寧に振り返り、教師の「懲戒権」の範囲内と考えられるような「最低限の体罰」とでも呼べるような合意を作ることから始めることが必要である。この点では、現状の法務省の見解は間違っている(=学校教育を成立させるためにかなり有害だ)ので、これらの合意に基づいた法的整備も必要になるだろう。 

 この立場に立てば、現場の教師は嫌がるだろうが、教室にカメラを設置し、いざという時のために、教室内を必要に応じてモニター/録画できるようにしておくことも必要だという主張にもなる。学校では「考えられないこと」かも知れないが、実は予備校業界では当たり前のことである。本部が経費をケチっていない限り、どの教室にもカメラが設置されている。まぁいつ見られても困らない授業をしていれば、いつ見られても何も困らないはずだが(笑)。

 とまあ、私などは考えるのだが、話を番組に戻して、釈放された戸塚校長を取材したVTRでも、体罰を肯定する戸塚氏に対して「でも訓練生が死にましたよね」という質問の仕方を繰り返し行う(or放映する)。その尋ね方は、まるで「体罰を行えばまた死人が出るでしょ」と言わんばかりである。視聴率が欲しいために、少しでも強烈な聞き方をした方がインパクトが出るだろうというディレクターの下劣な根性には開いた口がふさがらない。そういう聞き方をするのなら、「戸塚校長のやり方は、これからも続ければ必ず死人が出る」と推定できるだけの材料をそろえ、それらを丁寧に確認しながら聞くべきであろう。それだけ丁寧に聞くつもりがあればの話だが。

 マスコミですら、「体罰肯定論者=悪の権化」という枠組みでなければ体罰を考察できない。これが、現状の体罰をめぐる貧困な言論(?)の状況だ。だからどのコメンテーターも、「状況と程度による」とはっきり言えなかった、もしくはそういう発想自体を忘れていたのであろう。

 いわゆる「平塚五遺体」の事件も重要なのだろうが、どのニュースやワイドショーでも、ひたすらこのネタを延々と流すヒマがあったら、こういうテーマをじっくり扱って欲しいものだ。特に、体罰については現場の教師の悲痛な叫びがいくつもあるであろうし。

 

 このようなことを書いてきたが、体罰における程度や状況の問題を一切語らず、ただ「体罰は教育だ」と断言する戸塚氏の主張にも私は全面的に賛同するものではないことを断っておく。



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