できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

「保守」ぶっていながら、論法や姿勢がきわめて左翼的な竹田恒泰(その3)

2012-03-07 14:05:24 | Weblog

その1その2はそれぞれのリンクを。これがその3になる。

 

竹田による「データ攻撃」はまだ続く。

>次に示す図表12は、欧州放射線リスク委員会(ECRR)の2010年勧告を本文中に掲載した表で、ベラルーシのブレスト地域の3つの汚染地域と5つの参照地域における、10万人あたりの各種疾病の指数を示したものである。全ての項目について、汚染地区の指数が上回っている。そして、図表右欄のP値にも注目してほしい。

>P値とは統計用語の一つで、群間差が偶然に生じる可能性を示す尺度である。つまり、たとえば「総計」の欄のP値が0.0001とは、この結果が偶然に出た可能性は1万回に1回、ということになる。これをもって、「統計的に有意である」というのである。この調査結果により、低線量被曝はさまざまな疾病を引き起こすことを確認することができる。

 

で、その図表12。

 

いや、「低線量被曝は」っていう主語をつけて解説なさっているが、この図表のどこを見ても、調査対象者がどのくらいの低線量被曝をしていたか、全く記述がない。

そんな図表を見せられて、

>低線量被曝はさまざまな疾病を引き起こすことを確認することができる

・・・

 

・・・・・・

 

 

できません。

 

やはりここも、「チェルノブイリ=福島」というありえない前提を立てないと、全く理解不能な記述である。

 

次のデータ攻撃はこれだ。

 

>図表13は、ECRR2010が例示したチェルノブイリの研究リストである。徐々に研究成果が積み上げられていることがわかるだろう。それに従い、学会では低線量被曝のリスクを徐々に高く評価するようになりつつある。

 

で図表13がこれ。

あらら、その1,その2で批判した、バンダジェフスキーの論文やトンデル論文が堂々と入っているではないか。

 

この事実はきわめて重要で、バンダジェフスキーやトンデルレベルの、でたらめもいいところな論文が、ECRRでは「学術的論文」と判定されている、ということである。

デタラメニセ論文が、ECRRでは、「学術的論文」とされている、という事実は、もうそれだけで、ECRRという組織が、学術的団体としては、全く信用できない団体である、という確固たる証拠である。

 

しかし、きわめて放射脳な竹田恒泰君は、バンダジェフスキーやトンデルの論文を批判的に検討することができないせいで、

・「ECRRこそが、人間の安全性を真に考えた、真に信頼できる学術的団体だ!」

とでも言わんばかりの持ち上げ方をする。

 

申し訳ないが、アホが騒いでるだけにしか見えない。

 

そのアホが、さらにアホを上塗りする。もう見ていてかわいそうだ。

 

>政府が引いた、暫定規制値というボーダーラインは、とりあえず食品衛生法に放射性物質の規則に関する取り決めがなかったため、国際放射線防護委員会(ICRP)の基準を援用し、それよりだいぶ緩い線を政府が「勝手に」引いたものである。

 

オイオイ、「それよりだいぶ緩い線」という表現とは穏やかではない。ここまで丁寧に指摘してきたように、低線量被曝の危険性については、少なくともECRRは何ら学術的に信頼できるレベルの研究を提出できていない。

にもかかわらず、ECRRレベルの厳しさを勝手に「理想」と決めつけ、それより「緩い」基準を設けているICRPや政府の基準を、

・「だいぶ緩い線」を「勝手に」引いた

と表現することで、いかにも今の日本政府が設定している基準値が、「全く安全性が担保されない基準」であるかのような印象誘導をしている。

 

これも当ブログで以前書いたことだが、「よくわからないときは、より厳しい基準に」という発想は、一見もっともな規制原理に見えるが、その実は、その厳しい基準のせいで消費者が災害ストレスを余計に感じるようになったり、何より生産者にとって、しなくていい「基準クリア」を強要されることになる。あの群馬大のハヤカワ教授が、福島のコメ農家に対して、

 

>「セシウムまみれの干し草を牛に与えて毒牛をつくる行為も、セシウムまみれの水田で稲を育てて毒米つくる行為も、サリンつくったオウム信者がしたことと同じだ。福島県の農家はいま日本社会に向けて銃弾を打ってる。」7月11日 

であるとか(本当は、「撃ってる」だろうに。どんだけバカなのハヤカワセンセ?)、

>野田首相「私は官邸で、福島産のお米をおいしくいただいています。、、、国民も、安全が確認されたお米は口にしていただきたいと思います」死ねというとるんか、ボケ!

こういう発言が平気でできるのも、竹田と同様の「オレこそ正義」感があるからこそであろう。

 

 

かくして、日本国内で率先して「福島差別運動」を広げることで、風評被害を国内で自ら作り出しているのである。こんな体たらくでは、外国に、日本の物産を安全だと胸を張って勧めることなどできなくなるだろうに。

しかし、こういう「よくわからないときは、より厳しい基準に」教の熱心な信者の方々は、そんなこともお構いなしに、今でも

・「東北のものは全く食べていません(キリッ!!」

だとか、

・「魚は絶対に食べていません(キリッ!!」

だとか、

・「野菜は九州から、直接ネットで買っています(キリッ!!」

などの、「福島・東北差別自慢」にいそしんでいるわけだ。頭が痛い。

 

というわけで、竹田の、「よくわからないときは、より厳しい基準に」教の崇高な教祖になりたがっているぶり(笑)は、以下の記述からもよーく読み取れる。

 

>暫定的に引いただけであり、それより高いから危険とも、それより低いから安全とも言えない代物である。仮に今後口に入る飲食物が、全て暫定規制値ぎりぎりの線量だったとする。口にするあらゆる食物と飲料が全て暫定基準値ぎりぎりの線量だったらどうなるか。それが安全である保証はどこにもない。

 

やはり、この人は、原発事故などなくても、人間は自然放射線を、平均して常時体内に7000ベクレルほど(体重60㎏で)保持している現状が、全く頭に入っていないらしい。

体重60㎏ですでに7000ベクレルも体内に入っている我々が、暫定規制値ギリギリの食物や飲料を大量に飲食しても、この「7000ベクレルのベース」から見れば実に微々たるものである。だから、暫定規制値レベルを多少超えた食品を摂取しようとも、全く問題ないレベルだと私が胸を張って言えるわけだ。

 

ところが、竹田は、そういう「現状」が全く目に見えない、あるいは意図的に無視したまま、

 

・「安全であるという保証はない!(キリッ!!」

 

などという、使い古された「煽り」を続ける。

 

次に竹田は、懲りもせずに「被爆者数×被曝線量」という概念を前著と同様に引き合いに出すが、この点は当ブログでも以前の記事で批判したので割愛しよう。

(追記)

あら。リンクを張ろうと思って検索したら見つからない。もしかしたらまだ書いていなかったかも知れない。簡単に言えばこうである。

もし閾値がなければ、「一人あたりの被曝線量」と「被曝人数」をかけ算しても意味がある数字となるが、閾値があれば、この二つをかけ算しても全く意味がない。例えば、閾値未満の3マイクロシーベルトの被曝をした人間が100万人いようが1000万人いようが、閾値未満なのだからなんの危険もない。しかし、これをかけ算すると、

3マイクロシーベルト×100万人=3000ミリシーベルト・人=3シーベルト・人

となり、3人が一人一人、1シーベルトずつ被曝したのと同じ危険度、ということになる。どんなかけ算だよ(笑)。

(追記ここまで)

 

 

その次に竹田がやっていることは「ICRP下げ、ECRR上げ」である。

 

>ICRPは最も原子力産業に近い立場をとる機関で、日本政府をはじめ日本の原子力産業はICRPの評価をもとに安全基準などを定めている。確かに、日本原子力産業会議が毎年発行している『原子力ポケットブック』にも放射線防護の項目に必ずICRPの勧告が掲載されている。原発推進派が最も好んで用いるのがこのICRPの評価である。

>しかし、国連やICRPは自ら提示したリスクモデルを守るために、チェルノブイリの被害を認めようとせず、被害を度外視した評価を続けていたが、これに対してチェルノブイリの被害を加味した新しいリスク評価を提示すべきであるということで、ICRPのリスクモデルを批判するために立ち上がったのが、ECRRだった。

 

>ICRPのリスクモデルを批判するために立ち上がったのが、ECRRだった。

(笑)ここで竹田は、「立ち上がった」という言葉を使うことで、

・ICRP=悪、

・ECRR=善、

という「善悪二元論モデル」を使い、「ECRRこそが『正義』の集団なのだ!」と、二昔前のヒーローモノも真っ青な「正義のストーリー」を展開しようとする。

 

・・・

 

・・・・・・

 

あらかじめ決めた「結論」のために、平気でデータをねじ曲げるバンダジェフスキーやトンデルの論文を「学術的論文」として臆面もなく採用している集団のどこが、「正義の集団」なんかねえ???

 

そしてその後に、また閾値の話に戻ってくる。

 

>問題は、閾値である。閾値のない項目は、被曝によって健康リスクが確実に高まるもので、閾値のある項目は、一定の被曝量を超えて初めて健康リスクが生じるものである。図表15が示すように、ICRPはいくつかの項目について閾値を認めているが、ECRRは閾値を認めていない。現在、世界の放射線医学会では、ここに示したICRPとECRRのリスクモデルのいずれが妥当であるかを真剣に議論している。

と、「議論中である」ことを認めながら、その直後に

>ただし、近年は低線量被曝の疫学調査のデータが充実し、すでに閾値なしモデルが証明されたと考えて良い。今後は、ますます閾値なしを補強する論文が発表されると思われる。疫学調査は積み上げれば積み上げるほど真理に近づくのである。

 

ちなみに図表15はこれ。

 

 

・・・

 

・・・・・・

 

>すでに閾値なしモデルが証明されたと考えて良い。 

いや全然良くないですよ竹田君(笑)。この人のここまでの説明で、インチキ論文の代表であるバンダジェフスキーやトンデルをいくらドヤ顔で紹介しても、低線量被曝に関し、閾値なしモデルの方が妥当であるなどということは全く証明されていない。

 

前述したように、原発事故などなくても、自然放射線で、一般人は常に、体内に7000ベクレル程度は保持している。閾値が本当にないのであれば、この「7000ベクレルの体内の放射性物質による健康被害」がまず証明されるはずである。あるいは、自然放射線と人工放射線に、健康被害をもたらすかどうかについて、質的な違いが存在するという証明が必要である。ところが、竹田は、この著書で、そのどちらも、全く行っていないのである。こんな体たらくで、

 

>すでに閾値なしモデルが証明されたと考えて良い。

や、

>疫学調査は積み上げれば積み上げるほど真理に近づくのである。

 

とは、オウム真理教も真っ青な、カルト宗教の教祖にただなりたいだけなんでしょ?と言うぐらいしか、論評のしようがないのである。

 

 

 

 

 

 

 

結局、この人から見ると、読者や日本国民一人一人の存在は、

・一人一人で丁寧に考え、その一人一人が、ロジカルに納得できる範囲で丁寧に納得する存在

ではなく、

・いい加減に煽っておいて、その煽りに乗ったら「運動員」として動員し、「数の力」で政策目標を達成する存在

という、きわめて文化大革命的な「大衆」として認識されているとしか言いようがない。だから、「きわめて左翼的」という言葉をタイトルに入れているのだ。

 

 

保守や右翼は違う。基本的に「従来の価値観を一般的には大切にする」という「大きなガイドライン」はあれども、個々の主張に違いがあっても、その論理がロジカルである限りは、最大限にその多様性が尊重されている。だって、日本は「八百万の神の国」なんだもの。

その証拠に、当ブログでは、儀式における日の丸・君が代に関しては、「外形的な問題」と明確に述べている。内心で君が代クソッタレなどと思っている教員が何万人いようが、そんなことは知ったことではないと。しかし、公立学校教員であるならば、その内心とは別次元に、「教育」として、「儀式」をつつがなく「成立」させる「義務」があるでしょ?と主張し続けているだけである。

 

この私の主張に対し、別の「自称保守」の方が「内心まで入るんだ!恥を知れ!」などと罵倒してきたこともあるのだが(笑)、「どうやったらその内心がそうなっていると担保できるんですか?」と聞き返したら、さすがに理解したようである。その後は絡むことがなくなった。

このように、「丁寧に考える」プロセスが、サヨクや左翼、そしてネトサヨ勢力にも厳然と存在するのかと思っていたのだが、このブログに絡んでくるさまざまな「サヨク」的な方々の論法を丁寧に見ていくうちに、

「あ、この人たちにとっては、『ロジック』は単なる方便なんだ。」

と思うに至ったわけである。

 

その足跡を、意識してかせずしてか、竹田恒泰はまさに「王道」のように勘違いして、ノッシノッシ歩いている。しかもこんなのが、あの明治天皇の玄孫であられる。

 

やはり、一刻も早く皇族に復籍していただいて、一切の政治的発言をやめていただく方が、日本の将来のためにはいいかも知れないね(笑)。

 

 

ここまでを、その3とする。まだ続く。今度は、彼が原発の代わりの発電方法として挙げている「ガスコンバインド発電」について書く予定。

 

その4

 



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